逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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炎編/因果の鎖

17.すれ違い迷い路

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 明け方、九流から解放されマンションに戻った俺は、激しい疲労で前後不覚。自室のベッドに辿り着くや、泥のように眠った。日が随分高くなった時分に、来に叩き起こされるまでは。

「昨夜のうちに戻れたのか。まだ、掛かるかと思っていた」
「おかげさまで」

 俺はむすりとして、来の手からホットミルクのマグカップをひったくる。
 昨夜の電話での会話に加え、無理矢理起こされたことも手伝って、俺の機嫌は最悪だった。

「まったく、バカでマヌケだよね、シヤって」

 暴言を浴びせる主は、確認するまでもなくナイ。面白そうに笑うナイを尻目に、ホットミルクを啜った。言い返したとして、毒舌の元邪神に反論して勝てたためしは一度もない。

「朝帰りなんて、やるじゃない」
「ヤってねえ!」

 飲み干したマグカップを、俺は勢いよくテーブルに置いた。観月におかしなことを吹き込む可能性が高いのが、こいつだ。
 誘惑を跳ねのけ、やましい行為はしていないという絶対的自負はあるものの、今回の件は彼女の耳には入れたくなかった。

「観月には話すなよ。本当に、九流とは何もねえ。ただ……」

 俺の掌に唇を付けた艶かしい表情を思い出し、言い淀む。何をどう言われようと、起こった事実は報告せねばならない。

「ただ、俺の血を取り込まれた」
「炎の信者だよね、その子」

 苦渋の告白にナイは表情を険しくし、叱責を込めてこちらを睨んだ。先程よりも棘のある視線が全身に突き刺さる。

 特殊な俺の血は、普通の人間に少しばかり力を与える。信者といえど、人間が邪神の眷属を召喚するのは並大抵のことではない。しかし黄金の蜂蜜酒を飲んでハスターの眷属ビヤーキーを召喚できるように、俺の血を飲んだ人間はビヤーキーを呼べる。
 もっとも風の神性の眷属が炎の信者の呼び出しに応じるわけはなく、九流の狙いもビヤではないのは明らか。あの女が欲しいのは炎の精だろう。

「粗忽者の社員のおかげで、監視する対象が一つ増えたな」
「粗忽者の俺が、責任持って監視するって」

 いつの間にか入れ替わっていた来にも苦言を呈され、もうどうとでも言ってくれという気分だった。
 従者と違い、たとえ危険思想を持っていても信者に直接手は下せない。監視に留めるしかないのが現在の法治社会だ。

 重い瞼を叱咤して時計を見れば、早くも観月を迎えに行く時間になっていた。
 掌でぱちんと両頬を打ち、上着を引っかけて木刀に手を伸ばす。まだ何か言いたそうな来に手を振り、事務所をさっさと後にした。身体は疲れていても観月に会えると思えば、嫌な気持ちも幾分晴れていく。

 観月のバイト先はテナントビルの中にあるため、いつも建物から少し離れた場所で彼女を待つことにしている。一日顔を見なかっただけなのに、なんだか懐かしい。ビルから出てこちらの姿を認め笑顔で駆け寄ってきた彼女の姿に、俺は言い知れぬ安堵を覚えた。

「視矢くん、来てくれたんだ」
「昨日は悪かった。来の奴、ちゃんと買い物付き合ったか?」
「荷物持ちしてくれたよ」

 明るく話す様子に、そりゃよかった、と頷きつつも、内心あまり喜べる心境ではなかった。そんな俺の顔を観月は気遣わしげに覗き込む。

「顔色悪いんじゃない? 疲れてるみたい」
「平気平気。ちょっと寝不足なだけ」

 俺は木刀を肩に担ぎ、欠伸をかみ殺した。児童公園の従者のことやら九流のことやら悩みは尽きないながら、観月の傍では心身共に癒される。
 もっともそれは俺に限ったことじゃない。観月自身は無意識に、前世に由来する強い神気を発している。周囲の人間にとって彼女はいわば歩くパワースポットだ。その神気は地球本来の神々である旧神に属するもので、旧支配者の邪気とは相容れない。

「高神さん」

 突然聞き覚えのある声で呼び掛けられ、ぎくりとして振り返る。
 ささやかな幸せの時間は早々と終わりを告げた。路肩に運転手付きの黒い車が停まり、清楚な仮面をかぶった九流弥生が慎ましやかに降りてくる。

「お仕事中に、ごめんなさい」

 昨夜さんざん俺を振り回した女はあくまでも慇懃に会釈した。素の姿を知っている俺はげんなりと肩を落とす。しばらくは解放されると思っていたのに、半日でまた対面するとは。

「これを届けたかったの。昨夜ホテルのバスルームに置き忘れたでしょう」
「は? 俺のじゃねえぞ。第一、俺シャワー使ってねえし」

 覚えのないロレックスの腕時計を手渡され、即座に突き返した。俺の給料では手の出ない高価な品だと知った上での冗談なら、相当タチが悪い。文句を言ってやろうとして、傍らの観月に思い至りはっとした。
 重要なのは腕時計が誰のものか、ではない。一連の会話は、俺と九流が一緒にホテルにいた事実を露呈する。白々しく小首を傾げた九流は、紛れもなく確信犯だった。

「あ、いや! 誤解すんなよ。昨日は、その……」

 慌てて弁解しかけたが、昨日迎えに行けなかったのは九流に軟禁されていたから、とは到底言えない。焦る俺と真逆に、観月は落ち着いた口調で九流と社交辞令を交わしている。

「視矢くん。私、ここまでで大丈夫だから。送ってくれてありがとう」
「え。おい、観月!」

 最後通牒のように言い置いて走り去る観月を、俺は引き止められなかった。いつの間にか九流に片腕をホールドされているせいで、後を追い掛けることができない。
 観月のアパートは程近い直線距離にあり、辛うじて目で追えたのがせめてもの救い。

「過保護ね。そんなに心配しなくても、公園にいる子はまだ腑抜けよ」

 俺を揶揄して、九流が気になることを口にする。

「あんた、あの従者と知り合いか? つーか、どういうつもりだ!」

 乱暴に腕を振り払い、澄ました顔の女を睨み付けた。わざと観月に誤解させ俺から遠ざけるよう仕向けたのは、観月の神気を感じ取ったためかもしれない。邪神の信者にしてみれば、旧神側の人間は疎ましい存在になるのだから。
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