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水編/水に沈む過去
47.翼ある貴婦人
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シャドウはソウさんのターゲットで、力だって未知数。視矢くんが一方的にピリピリ肌を刺すような殺気を向けているだけ。ここはなんとか逃げて、ソウさんに任せた方がいい。
「視矢くん、駄目だよ! やめて!」
二人の前に飛び出して止めたかったのに、私を守る結界が外へ出ることを許してくれない。必死に訴えても視矢くんはまったく耳を貸さず、既に戦闘態勢でビヤを召喚しようとする。それを見て、シャドウが愉快そうに笑った。
「残念だけどさ、あんたのしもべは今、俺の友達と遊んでる。呼んでも来ないよ」
「何を……っ」
シャドウの言葉が嘘でないのはすぐ証明された。視矢くんが召喚呪文を唱えても、ビヤは現れなかった。驚いたのは視矢くんだけでなく、私も同じ。
初めからやり合う気で、ビヤがこちらに来れないよう手を回したことになる。
「シャドウ! どうしてこんなことするの!」
「ただの挨拶だよ。命まで取らないって」
睨み付ける私に、シャドウは肩を竦めて見せた。
冗談っぽい仕草なのに、放つ邪気は空気を震わせ、圧倒的な力量差は私にも感じ取れる程。ビヤがいない以上、到底勝ち目はない。それでも視矢くんは怯まなかった。
「てめえ……、そのナメた口、絶対後悔させてやる」
「あんたじゃ、無理じゃない?」
「やってみなきゃ、分かんねえ!」
風を巻き起こすように、木刀を振り下ろす。シャドウが後方へ跳んで避けると、視矢くんは手首を回して間を置かず木刀を横に薙いだ。剣道はやっていないと自分で言っていたけど、きっとそれは嘘だ。
木刀はシャドウの腹を掠め、気を纏う刃が肉を切る。呻きを漏らし、シャドウは忌々し気に顔を歪めた。
「せっかく、手加減してやろうと思ったのにさ」
暗い瞳で呟き、視矢くんに向けて水平に両腕を伸ばす。禍々しい気配に、背筋がぞくりとした。
シャドウが伸ばした腕に、見る間に水蒸気の塊が絡みついていく。水の粒を纏わせながら、酷薄な従者は口の端を上げて笑った。
「水蒸気爆発って、知ってる?」
言い終わらないうちに、凄まじい爆音と衝撃波に見舞われた。何がどうなったのか分からない。
結界に守られていてさえ叩き付ける熱風に、私はたまらず顔を伏せる。もし結界がなかったら、体がばらばらに吹き飛ばされていたかもしれない。
もうもうと立ち込める水蒸気と舞い落ちる砂塵に、しばらくは息も吐けなかった。ようやく大気が落ち着いた頃、周囲を見回して、その爪痕の大きさに驚愕する。
こそぎ取られた石畳、損壊した賽銭箱。まるで竜巻が直撃したかのように、木々や柱は薙ぎ倒されていた。
境内の一角は散々な有様ながら、他の場所は木の枝一本も折れていない。爆発は二人を中心に起こり、被害が広範囲に及ばないよう結界が張られていたらしい。
(視矢くんは……)
よろける足を叱咤し、私は彼の姿を探した。
視矢くんもシャドウもどこにも見当たらず、ただ石畳のあちこちに血痕が飛び散っている。私は呆然として地面にできた赤黒い染みに目を落とした。視矢くんの身に何かあったことは疑いようもない。
(まさか、そんな……)
シャドウは逃げ去った後として、視矢くんはどうなったのか。血の痕だけが残され、恐ろしい不安がじわじわと胸に広がっていった。
足から力が抜け、無意識に地に両膝を付く。頭が真っ白になり、何をどうすべきなのか考える余裕などなかった。
その時上空でバサリ、と鳥の羽ばたきが聞こえた。
反射的に顔を上げた私の目に、大きな羽を広げた人間の影が映り込む。周囲が暗い為、顔は判別できないが、月を背にしたそのシルエットは人間の女性に似ていた。
(……ビヤ?)
真っ先に思い浮かんだ存在がそれだった。巨大な有翼生物で、風の神性ハスターの眷属。
以前私がビヤを呼んだ時も、目を閉じた数秒の間に助けられ、姿を見てはいなかった。
空を覆った黒い影は瞬く間に消えてしまい、目にしたものが真実だったのか自分でも確信し難い。誰かに見間違いだと諭されれば、頷いたかもしれない。
けれどあれがビヤだとしたら、視矢くんを助けて連れて行くはず。行く先はマンション・クラフト、私たちの事務所だ。
祈る気持ちで事務所に連絡を入れると、来さんがすぐ電話に出た。
予想した通り、ビヤによって視矢くんは事務所へ運ばれていて、命に別状はないと言う。その言葉に少しほっとしたとはいえ、このままアパートに戻るという選択肢は私にはなかった。
今いる場所は普段の行動範囲なので、ここからなら道は大体分かる。神社の鳥居の前に停められたバイクに目を留め、乗っていこうかという無茶な考えが一瞬よぎるも、生憎免許はない。
どうにか震えが収まった脚を頼みに、私は事務所へ急いだ。
いまだ思考はまとまらず、気持ちが落ち着かない。ついさっきまで幸せな時間だったのに、なぜこんな事になってしまったんだろう。
「……来さん! 視矢くんは!?」
玄関のドアに鍵は掛かっていなかった。いきなり入って来た私に来さんは驚いて目を見張る。
「部屋で寝かせている。まだ、意識が戻っていない」
視矢くんの私室を指し示し、来さんは腕を軽く回して肩をほぐした。ソファの上には、使われた形跡のない救急箱が置きっ放しになっている。
「怪我、ひどいの? 病院は……」
「必要ない」
そう短く告げられ、私は何も言えなくなってしまう。視線を反らし、明らかに問い詰めて欲しくない様子だったから。
爆発の直撃を食らった視矢くんがどんな状態か分からないまでも、境内の惨状を目にした限りでは無事だという方が不思議な気がする。
意識を失う程の大怪我にも関わらず、来さんもやはり視矢くんを病院へ運ぼうとしない。
以前、水場の近くで歩けなくなった視矢くんを病院へ連れて行こうとしたことがあり、その時も頑なに拒否された。
あまりにも頑固なので、病院が怖いのか、と冗談めかして尋ねた私に、視矢くんは苦笑して頷いていた。
でも本当は、病院に行けない事情があるのだとしたら。
たとえば、普通の人間の体でなかったなら――。
「視矢くんの部屋、入っちゃ駄目かな」
「今日は無理だ。ビヤが傍にいる」
疑念を追い払い再度訴えれば、来さんは難しい面持ちで閉ざされた視矢くんの部屋のドアを一瞥した。
ドア一枚隔てた向こう側に邪神ハスターの眷属がいる。異様な気配は感じていたけれど、邪気を放っていないせいか、怖いという感覚はなかった。
ビヤが視矢くんに施している治癒は、ハスターとの契約に基づいて行われる秘術。邪神はそれぞれ、水、風、炎、土の属性を持ち、各々の神性は相容れない。部外者が覗くことは許されず、それゆえ来さんでさえ、部屋に入ることができずにいる。
「ビヤって……、女の人にもなれる?」
「人型を取るとは聞いていない。なぜ、そんな質問を?」
「……ちょっと、聞いてみただけ」
逆に問い返され、答えに困って私は首を横に振る。
ハスターの眷属は巨大なサソリに似た形態で、人間体にはならない。これまで視矢くんとずっと一緒にいる来さんはそう認識している。
なら、神社にいたあれは何だったのか。考えたところで分かるわけはなく、色々起こりすぎてすっかり頭が麻痺していた。
「飲んで」
俯いた手の上に、不意に温かいマグカップが置かれた。カップからホットミルクの優しい香りが漂い、いつもより少し甘めにした、と穏やかな声が落ちて来る。
(……美味しい)
甘いホットミルクは、次第に心を落ち着かせてくれた。私の表情が幾分和らいだのを見て、来さんが机に座りパソコンを立ち上げた。
「小夜、現場の状況を教えて欲しい。概算を出しておく」
「概算て、何の?」
「現場の被害額だ」
神社の損壊となれば、警察もマスコミも動く。早急にTFCに報告し、事実を表沙汰にしないよう手を打たねばならない。事務所の社長として、来さんがやるべき仕事はたくさんあった。
スポンサーにとっては、視矢くんが大怪我を負ったことより、神社の損害賠償の方が重要。そんな無情さを改めて思い知らされる。
来さんたちがTFCを嫌う理由が、私にもやっと飲み込めた。
「視矢くん、駄目だよ! やめて!」
二人の前に飛び出して止めたかったのに、私を守る結界が外へ出ることを許してくれない。必死に訴えても視矢くんはまったく耳を貸さず、既に戦闘態勢でビヤを召喚しようとする。それを見て、シャドウが愉快そうに笑った。
「残念だけどさ、あんたのしもべは今、俺の友達と遊んでる。呼んでも来ないよ」
「何を……っ」
シャドウの言葉が嘘でないのはすぐ証明された。視矢くんが召喚呪文を唱えても、ビヤは現れなかった。驚いたのは視矢くんだけでなく、私も同じ。
初めからやり合う気で、ビヤがこちらに来れないよう手を回したことになる。
「シャドウ! どうしてこんなことするの!」
「ただの挨拶だよ。命まで取らないって」
睨み付ける私に、シャドウは肩を竦めて見せた。
冗談っぽい仕草なのに、放つ邪気は空気を震わせ、圧倒的な力量差は私にも感じ取れる程。ビヤがいない以上、到底勝ち目はない。それでも視矢くんは怯まなかった。
「てめえ……、そのナメた口、絶対後悔させてやる」
「あんたじゃ、無理じゃない?」
「やってみなきゃ、分かんねえ!」
風を巻き起こすように、木刀を振り下ろす。シャドウが後方へ跳んで避けると、視矢くんは手首を回して間を置かず木刀を横に薙いだ。剣道はやっていないと自分で言っていたけど、きっとそれは嘘だ。
木刀はシャドウの腹を掠め、気を纏う刃が肉を切る。呻きを漏らし、シャドウは忌々し気に顔を歪めた。
「せっかく、手加減してやろうと思ったのにさ」
暗い瞳で呟き、視矢くんに向けて水平に両腕を伸ばす。禍々しい気配に、背筋がぞくりとした。
シャドウが伸ばした腕に、見る間に水蒸気の塊が絡みついていく。水の粒を纏わせながら、酷薄な従者は口の端を上げて笑った。
「水蒸気爆発って、知ってる?」
言い終わらないうちに、凄まじい爆音と衝撃波に見舞われた。何がどうなったのか分からない。
結界に守られていてさえ叩き付ける熱風に、私はたまらず顔を伏せる。もし結界がなかったら、体がばらばらに吹き飛ばされていたかもしれない。
もうもうと立ち込める水蒸気と舞い落ちる砂塵に、しばらくは息も吐けなかった。ようやく大気が落ち着いた頃、周囲を見回して、その爪痕の大きさに驚愕する。
こそぎ取られた石畳、損壊した賽銭箱。まるで竜巻が直撃したかのように、木々や柱は薙ぎ倒されていた。
境内の一角は散々な有様ながら、他の場所は木の枝一本も折れていない。爆発は二人を中心に起こり、被害が広範囲に及ばないよう結界が張られていたらしい。
(視矢くんは……)
よろける足を叱咤し、私は彼の姿を探した。
視矢くんもシャドウもどこにも見当たらず、ただ石畳のあちこちに血痕が飛び散っている。私は呆然として地面にできた赤黒い染みに目を落とした。視矢くんの身に何かあったことは疑いようもない。
(まさか、そんな……)
シャドウは逃げ去った後として、視矢くんはどうなったのか。血の痕だけが残され、恐ろしい不安がじわじわと胸に広がっていった。
足から力が抜け、無意識に地に両膝を付く。頭が真っ白になり、何をどうすべきなのか考える余裕などなかった。
その時上空でバサリ、と鳥の羽ばたきが聞こえた。
反射的に顔を上げた私の目に、大きな羽を広げた人間の影が映り込む。周囲が暗い為、顔は判別できないが、月を背にしたそのシルエットは人間の女性に似ていた。
(……ビヤ?)
真っ先に思い浮かんだ存在がそれだった。巨大な有翼生物で、風の神性ハスターの眷属。
以前私がビヤを呼んだ時も、目を閉じた数秒の間に助けられ、姿を見てはいなかった。
空を覆った黒い影は瞬く間に消えてしまい、目にしたものが真実だったのか自分でも確信し難い。誰かに見間違いだと諭されれば、頷いたかもしれない。
けれどあれがビヤだとしたら、視矢くんを助けて連れて行くはず。行く先はマンション・クラフト、私たちの事務所だ。
祈る気持ちで事務所に連絡を入れると、来さんがすぐ電話に出た。
予想した通り、ビヤによって視矢くんは事務所へ運ばれていて、命に別状はないと言う。その言葉に少しほっとしたとはいえ、このままアパートに戻るという選択肢は私にはなかった。
今いる場所は普段の行動範囲なので、ここからなら道は大体分かる。神社の鳥居の前に停められたバイクに目を留め、乗っていこうかという無茶な考えが一瞬よぎるも、生憎免許はない。
どうにか震えが収まった脚を頼みに、私は事務所へ急いだ。
いまだ思考はまとまらず、気持ちが落ち着かない。ついさっきまで幸せな時間だったのに、なぜこんな事になってしまったんだろう。
「……来さん! 視矢くんは!?」
玄関のドアに鍵は掛かっていなかった。いきなり入って来た私に来さんは驚いて目を見張る。
「部屋で寝かせている。まだ、意識が戻っていない」
視矢くんの私室を指し示し、来さんは腕を軽く回して肩をほぐした。ソファの上には、使われた形跡のない救急箱が置きっ放しになっている。
「怪我、ひどいの? 病院は……」
「必要ない」
そう短く告げられ、私は何も言えなくなってしまう。視線を反らし、明らかに問い詰めて欲しくない様子だったから。
爆発の直撃を食らった視矢くんがどんな状態か分からないまでも、境内の惨状を目にした限りでは無事だという方が不思議な気がする。
意識を失う程の大怪我にも関わらず、来さんもやはり視矢くんを病院へ運ぼうとしない。
以前、水場の近くで歩けなくなった視矢くんを病院へ連れて行こうとしたことがあり、その時も頑なに拒否された。
あまりにも頑固なので、病院が怖いのか、と冗談めかして尋ねた私に、視矢くんは苦笑して頷いていた。
でも本当は、病院に行けない事情があるのだとしたら。
たとえば、普通の人間の体でなかったなら――。
「視矢くんの部屋、入っちゃ駄目かな」
「今日は無理だ。ビヤが傍にいる」
疑念を追い払い再度訴えれば、来さんは難しい面持ちで閉ざされた視矢くんの部屋のドアを一瞥した。
ドア一枚隔てた向こう側に邪神ハスターの眷属がいる。異様な気配は感じていたけれど、邪気を放っていないせいか、怖いという感覚はなかった。
ビヤが視矢くんに施している治癒は、ハスターとの契約に基づいて行われる秘術。邪神はそれぞれ、水、風、炎、土の属性を持ち、各々の神性は相容れない。部外者が覗くことは許されず、それゆえ来さんでさえ、部屋に入ることができずにいる。
「ビヤって……、女の人にもなれる?」
「人型を取るとは聞いていない。なぜ、そんな質問を?」
「……ちょっと、聞いてみただけ」
逆に問い返され、答えに困って私は首を横に振る。
ハスターの眷属は巨大なサソリに似た形態で、人間体にはならない。これまで視矢くんとずっと一緒にいる来さんはそう認識している。
なら、神社にいたあれは何だったのか。考えたところで分かるわけはなく、色々起こりすぎてすっかり頭が麻痺していた。
「飲んで」
俯いた手の上に、不意に温かいマグカップが置かれた。カップからホットミルクの優しい香りが漂い、いつもより少し甘めにした、と穏やかな声が落ちて来る。
(……美味しい)
甘いホットミルクは、次第に心を落ち着かせてくれた。私の表情が幾分和らいだのを見て、来さんが机に座りパソコンを立ち上げた。
「小夜、現場の状況を教えて欲しい。概算を出しておく」
「概算て、何の?」
「現場の被害額だ」
神社の損壊となれば、警察もマスコミも動く。早急にTFCに報告し、事実を表沙汰にしないよう手を打たねばならない。事務所の社長として、来さんがやるべき仕事はたくさんあった。
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