逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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水編/水に沈む過去

48.見えない真実

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 翌朝事務所に出勤した私は、瞬きすら忘れて目を見張った。
 昨夜は視矢くんの意識が戻らず、不安な気持ちのままアパートに戻った。神社に残った血の痕は、彼の怪我が決して軽くはないと告げていたし、当然まだベッドに横たわっているものと思っていたのに。

「起きていいいの? 傷は……」
「平気平気。俺、治り早いんだって」

 驚いたことに、視矢くんはソファに浅く腰掛け、平然と新聞を読んでいた。頭と顔半分そして手首に白い包帯が巻かれているものの、意識もあり、ちゃんと話ができる。
 一晩でここまで回復するなんて奇跡に近い。いくら傷の治りが早くとも、普通ではあり得ない。

(よかった……)

 何であれ、生きていてくれただけでいい。私は神様に感謝したい気持ちで、ぎゅっと胸に手を当てた。
 元気そうに見せているとはいえ、無理を押しているに違いなく、ちょっとした動作をする際、ふと痛そうに顔をしかめたりする。視矢くんの傍に立てかけてあるのは、木刀ではなく松葉杖。あの爆発を食らえば、当然だろう。

 来さんの方はデスクに座り、パソコンのキーボードを叩いていた。昨日神社で起きたことを伝えてから、私はタクシーでアパートへ帰された。その後も来さんは一人で事後処理をしていたのかもしれない。
 カタカタとキーボードを打つ手だけが動き、虚ろな瞳がパソコン画面を映している。

「来さんは、大丈夫?」
「私? どうして」

 いつにもまして生気のない様子に、思わず尋ねてしまった。顔色も悪く、なんだか憔悴しているように見える。きっと来さんも、昨夜はあまり寝ていない。にしても、今朝は相当なやつれ方だ。本人は無自覚だけれど。 

「昼には戻る。悪いが、小夜は視矢の世話を頼む」

 開いていたノートパソコンを閉じ、来さんはTFCへ出向くためコートを羽織った。さすがに視矢くんは仕事復帰には至らず、部屋で療養を言い渡されていた。

「昨夜、コンタクトを落とした」

 来さんは目元を押さえ、そう呟いた。私は流れが掴めず、きょとんとして次の言葉を待つ。

「探そうとしたら、眼鏡が見つからなかった」
「え、じゃあ、今見えてないの?」
「コンタクトはあった。眼鏡がない」

 弱々しい声は、出会ったばかりの頃のようにまるで感情がなかった。
 頻繁にコンタクトを落とすので、眼鏡はなくてはならない必需品。眼鏡を探していて、仕事がはかどらなかったと話すが、不調の原因は他にある気がする。

「……俺の部屋にあったぞ。ほら」
「そうか、ありがとう」

 松葉杖を突きながら、視矢くんが眼鏡を差し出す。来さんは眼鏡を受け取ると、ポケットに仕舞い、覚束ない足取りで事務所を出て行った。

「どうしたんだ、あいつ」
「……うん」

 視矢くんは閉まったドアに目をやり、訝しげに眉を寄せた。同居人の視矢くんにも分からないなら、こちらも曖昧に相槌を打つしかない。

 不慣れに松葉杖を使う視矢くんに肩を貸し、私はその隣に座った。立ったり座ったりするのは特に辛いようで、小さく呻きを漏らすのを心配して見つめる。

「んな顔すんな。この程度の怪我なんて、よくあるし」
「……うん」

 さっきから、頷く以外の言葉が出て来なかった。事務所のこれまでの仕事について、私が知っているのは書類上だけ。『この程度』と言ってしまえるぐらい、大怪我も珍しくはないということ。それはこの先も続き、二人を手伝える範囲なんてほんのわずかだ。

「そういや、神社で倒れた俺を事務所に運んだのって、ビヤだろ。……姿、見たのか?」

 視矢くんが不意に話題を変えた。なんとなく歯切れの悪い言い方に、首を傾げる。
 あの時、神社の上空で、大きな羽のある女性のシルエットが一瞬見えた。私は思い切って、胸の中に燻っていた疑問を口にした。

「空に女の人がいたよ。あれが、ビヤ……?」
「は、女?」

 何のことか分からないというように、視矢くんが目を丸くする。ハスターの眷属は、巨大なサソリに似た有翼生物。来さんも、そして主である視矢くんも、ビヤが人型を取るとは認識していない。

 あれを目にした瞬間、私は漠然とビヤだと感じた。襲ってくる気配はなく、シャドウの仲間とは思えなかったから。第一、仮に従者だとすれば、視矢くんや来さんが必ず気付く。

 月明かりの中、視界に入ったのは本当に一瞬だった。周囲は暗く、何より気が動転していた。二人が違うと言うなら、やはり見間違いだったのかもしれない。
 自分の記憶が怪しくなり、つい考え込んでいると、とんとんと肩を突かれた。

「来週さ、事務所でパーティーしないかって来が提案してる」
「パーティーって……」
「自分の誕生日忘れんなよ」

 大袈裟に溜息を吐き、視矢くんは片方だけ見えている眉を下げた。
 来週の金曜は、私の二十回目の誕生日。どうして知っているのかと不思議だったけど、そもそも生年月日は提出した履歴書に書いてある。
 お祝いしてくれるのはとても嬉しい。ただ、今はそんな場合じゃない。

「週末なら、ゆっくりできるだろ。部屋はあるから、何なら泊まってきゃいい」
「い、いいよ! 視矢くんだって怪我してるのに」
「三日ありゃ治る」

 軽い調子で返され、まさか、と口にし掛けて思い直す。現に昨日の今日で、怪我は驚異的な速さで治っている。

 いつかクトゥルフら神々が復活するとしたら、来さんと視矢くんはどうするんだろう。
 来さんは元邪神、視矢くんも邪神の眷属を従えて特別な力を使う。でも邪神に挑んで勝てる見込みはない。人間は抵抗さえできずに殺されるのか、あるいは生きたまま地獄を見るのか。

(考えちゃだめだ)

 私は湧き上がり掛けたネガティブな思考を強制的に脇へ追いやった。悪い結果を想像をすればするほど、かえって引き寄せてしまう。

「小夜の誕生日には、全部片付いてるはずだからさ」

 包帯が巻かれた頬を指で掻きながら、視矢くんは明るい笑みを見せた。私が不安な気持ちの時、いつもそうやって憂いを吹き飛ばしてくれる。

「鬼門を閉じる方法、見つかったの?」
「ソウに策があるんだと」

 驚く私に、忌々しいけど、と付け加えて肩を竦めた。当てにしていないと言いつつ、本音ではきっとソウさんのことを認めている。視矢くんの口調には希望が窺えた。

 漆戸良公園の瘴気の流出は、もうじき臨界。鬼門が完全に開き切ったが最後、異界のあちら側とこちら側がつながってしまう。差し迫った危機を阻止しようと皆が必死に頑張っている。視矢くんも来さんも、ソウさんやTFCの人たちも。だから大丈夫。私は信じていればいい。

 やがて肩に重みが掛かり、軽い寝息が聞こえてきた。そっと横を見ると、目を閉じた視矢くんの顔が間近にある。怪我を治すには休息が必要なのだと、身体が実力行使に出たらしい。

 心臓がドキドキとうるさく騒ぐ。肩にもたれかかる視矢くんの茶髪は柔らかく、少しくせ毛。寝顔はちょっと子供っぽい。
 耳元で規則正しい呼吸が聞こえ、生きているという実感に安堵が込み上げる。嬉しくて胸がいっぱいなのに、なぜか泣きたい気持ちにもなった。

「ゆっくり休んで」

 彼の髪を撫でて、小声で囁いた。束の間の休息を妨げたくない。
 傍らにある体温が心地良く、気持ちが安らいだせいと昨夜の睡眠不足が重なって、ソファに座ったまま私の瞼も知らず知らず下りていった。
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