逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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水編/水に沈む過去

52.ささやかなお茶会

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 ノルウェーのケーキ、クランセカーケは本来の18段もないとはいえ、とても私一人で食べきれる大きさじゃない。ソウさんは、日持ちするので好きな時に食べればいい、と家に持ち帰らせてくれた。

 翌日の日曜、私はクランセカーケを持って事務所を訪れた。ソウさんと会ったことを報告するつもりだったので、手土産ができてちょうど良かった。
 来さんたちには、トレーニングの件で相談があってソウさんの家に行った、と少しだけ嘘を吐いた。本当のことを話せば、きっとまた心配されてしまう。

 決してスイーツで機嫌を取ろうとしたわけじゃないけど、軽いお叱りだけで済ませてもらえたのは、やはり手土産の力が大きかったかもしれない。

「小夜、マーマレードまだあるでしょ、一緒に持ってきて」

 事務所メンバーは、私も含め皆甘党。中でも、度を越して甘い物好きが一人いる。
 ここしばらく表に現れなかったナイが、ケーキと聞いた途端、来さんと入れ替わっていた。最近引き籠っていたのは何か事情があってのことではなく、忙しいこの現状で仕事に駆り出されるのが嫌だったらしい。

「こういう時は、ちゃっかり出てくるんだから」

 私は呆れつつ、小皿とオレンジのジャムをテーブルまで運んだ。
 星の位置が変わったせいか、数日前より来さんの調子はよくなっている。ナイも星辰の影響を受けたに違いないが、来さんほど顕著ではなさそうだ。
 漆戸良公園の事態は切迫していて、こうやって事務所でのんびりしていられるのは今日くらい。

「てめえで全部食うなよ。取り分けるからな」
「なんだ、シヤも食べるの? ソウのこと嫌ってるくせに」
「それはそれ、これはこれ。ケーキに罪はねえ」

 ナイの冷やかしをさらりと流し、視矢くんが器用にケーキを等分する。まだ包帯を巻いていても、一昨日より自然に両腕を動かしていた。
 治りが桁違いに早く、もう松葉杖なしで歩いている。

「そら、小夜の分」
「私はいいよ。昨日ごちそうになったもん」
「もともとお前んだろ。一緒に食お」

 断ろうとした私の手に小皿が押し付けられた。
 すかさずマーマレードをてんこもりにしてケーキに食らいつくナイを見て、視矢くんは嫌そうに顔をしかめる。

「相変わらず、とんでもねえ食い方してんな」
「ケチつけないでよ。死にたくないなら」

 いつもの光景と馴染んだやり取りにほっとする反面、違和感もあった。穏やかな日常は、まさに嵐の前の静けさに似ている。

「明日から、来と外回り再開すっからさ。事務所の留守番頼むな、小夜」
「明日って……、早過ぎない?」

 平然と告げられ、私は驚いてしまう。ようやく歩けるようになったばかりで、仕事に復帰するなんて、普通は考えられない。

「TFCも急かしてくるし、鬼門が山場」

 視矢くんは肩を竦め、ひらひらと手を振った。
 じき漆戸良公園の瘴気の流出は臨界に達する。鬼門の件が片付くまで、破魔の力のトレーニングも一旦中断となった。本当はもっと体を休めてもらいたいけど、私が口出ししていいことじゃない。

「ま、今日は家でじっとしとく。小夜を送ってやってくれっか、ナイ」
「頼まれなくても、そのつもり」

 ナイに言いながら、視矢くんはこちらに目をやり、左の小指を立てる仕草をした。困ったことになったら必ず話す、と指切りして約束してくれた。約束は違えない。そんな無言の合図を受け取り、ぎゅっと胸が締め付けられる。

「降らねえといいけど」

 腕をさすって視矢くんは窓の外を眺めた。
 早くも外は薄暗く、雨粒を落としそうな灰色の雲が空を覆っている。ただでさえ雨が苦手なのに、水の邪気をふんだんに含む湿気は体を苛むに違いない。

「てるてる坊主、ぶら下げておくね」
「小夜のなら、ご利益ありそうだ」

 窓枠を指差した私に、視矢くんはよろしく、と笑った。
 鬼門から湧き出す瘴気は大気に溶け、雨に混じって落ちる。私には、これ以上彼が傷付かないよう祈るしかできなかった。

 ナイと一緒にマンションを出る頃にはすっかり夜。帰る前に、即席で作ったてるてる坊主を事務所の窓辺に吊るしておいた。
 日が落ちてしまえばはっきり天候は見分けられない。それでも、大気は湿度を上げ、雨雲が空を覆っているのを肌で感じる。

「ナイはもう大丈夫なの、体?」
「ボクは、ね。星辰のこと、ソウから聞いたでしょ」

 来さんと入れ替わらないのは、まだ来さんの方は具合が悪いのかもしれない。
 ナイは人の考えが読める。多分私が前日にソウさんに連絡を取ったことも気付いていたはず。来さんたちにはおばけ公園でシャドウと遭遇した件は話さなかったものの、どうせナイには見抜かれている。

「色々重なって、間が悪かったんだ」

 星の出ていない夜空を仰ぎ、大袈裟に溜息を吐いた。ナイも私に事情を隠そうとはしていない。
 ナイアーラトテップは土の神性で、ビヤは風の神性。異なる神性が一緒にいれば、互いの力は多かれ少なかれ削られる。

「邪神も万能じゃないんだね」
「万能だったら、そもそも幽閉なんてされてないよ」

 元邪神が言うからこそ、説得力があった。

「この先、嵐が来るって、ソウさんが言ってた」
「うん。全面戦争になりそうだから」
「全面戦争って……邪神と人間の?」
「まさか。邪神同士のだよ」

 平然と答えられ、私は一瞬言葉が出なかった。人間が邪神に対抗するなど無理な話、来るべき嵐は邪神同士の争い。ナイが告げたのは、そういうことだ。

 ナイとソウさんは何らかの意図をもって独自に行動している。それが何かは、来さんにも分からない。当然私にも。ナイは邪神寄りの立ち位置にいて、ソウさんとつながっている。
 だとしても、二人の目的がどうであれ、決して人間の敵に回ったりしない。

(信じよう。大丈夫、きっと)

 不安を追い払い、服の上からペンダントを握った。未来を恐れてもどうにもならない。私は私のできることをしないと。

「セレナのペンダント、ちゃんと持ってるんだ」
「うん、お守りだもの」

 私は首から下げた平らな褐色の石をナイの目の前に掲げた。
 ペンダントに触れると、セレナの聖なる気が流れ込んでくる気がした。シモンを護ろうとする強い願いがタリスマンに込められ、今も宿っている。

「セレナが守ってくれるよ。ナイや来さんのことも」
「……そうかな」

 ナイはペンダントを眩しそうに一瞥して、曖昧に返事をした。セレナの命を奪ったのは、前身であるナイアーラトテップ。現在の自分と違う存在であろうと、起こった事実は変わらない。おそらく、元邪神は心のどこかに背徳感を抱えているんだろう。
 消え入りそうな儚さをナイに見たのは、この時が初めてだった。
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