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紙婚リコチャン その1
しおりを挟むごきげんよう。
リゼット・コンスタンス・ベンフォードでございます。
リゼット・コンスタンス・ルイゾンから二文字増加してから一年あまり、田舎育ちの基礎体力を遺憾なく発揮し元気に過ごしておりましたが、初めて寝込みました。
私室付女官のお仕事もお休みを頂いております。後輩ちゃん達に封蝋の仕事を指導しておいて本当に良かった。思えば一人で仕事を抱えているなんて職務怠慢も良いところでしたね。
あれは本当に何の前触れもない突然のことでした。ある日いつも通りに出勤しいつも通りにシーリングワックスを温めいつも通りにホワンと立ち上るワックスの香りを感じるや否や何だかムカッときましてね。
それ以来どうもシーリングワックスの匂いがダメで仕事にならず、その日は敢え無く早退しました。
事情を聞いたマリアンは
「お腹の風邪が流行っているらしいけれどそれですかしらね?」
と首を捻りました。そう言えばウィルきゅんもポンポンいたいになって、吐くやらピーピーやらで大変だったと聞きました。なるほど、王城在住のウィルきゅんが罹患するのですから王城勤務の私が感染するのも頷けます。
ミロと一緒に一日ゴロゴロしていたらまぁまぁ回復したような気がします。食欲は無いけれど吐き気もないしピーピーでもないので出勤してみました。そしてまた、シーリングワックスにやられて早退しました。
昨日同様ミロと一緒にゴロゴロしていたら回復してきました。吐き気もないしピーピーでもないのも同様です。となれば出勤してみる私は立派なワーカーホリックですかね。
そしてまたまたシーリングワックスにやられました。
三日も続くとさすがの私ももしかして、と閃きました。それで青い顔の私を心配する妃殿下には申し訳無いけれど思い切って打ち明けてみたんです。私、出勤拒否症かも知れないって。
「え………………?」
と呟くなり妃殿下が言葉を失ったのは無理もありません。前世のコネで採用してやったのに出勤拒否だなんて、失礼極まりない話ですものね。
ですが長い沈黙のあと大きな瞬きを繰り返した妃殿下は、訝しげな顔をなさいました。
「一昨日まで変わり無く生き生き働いているようにしか見えなかったけど?」
言われてみればその通りでした。あー仕事行くの嫌だなぁが口癖だった前世とは違い、やり甲斐のあるお仕事をさせて頂いておりまして、ホントに結婚するんだと自覚してから僅か数日で挙式だったとはいえ、結婚退職しようなんて思いつきもしませんでしたもの。ストレス皆無、無自覚な出勤拒否すらありえません。
「もしかしてあなた、おめでたじゃないの?」
声を潜めてそんな事を言われましたが私は首を振りました。シーリングワックスにはやられるけれどそれだけです。大体悪阻って『最近何となく胃の調子が悪いのよね~』みたいに徐々に始まるものですよね?私の不調は三日前にいきなりスタートしたんですけど?
妃殿下だってそうです。何となく胃の調子が……から始まり熱っぽいし風邪かしらね、なんて言っていたら洗面所に駆け込み出した……という経過は、未経験の私から見てもどうやらご懐妊ですなと思った次第でしたから。
しかもその事象、つい二ヶ月ほど前にもございまして妃殿下は絶賛第二子ご懐妊中。私の記憶はまだまだ生々しいのであります。
それでも妃殿下は遅れていないか?と食い下がってきました。遅れていないかと聞かれたら遅れている気もするけれど、別に何週間も遅れてます!ってわけじゃないし、数日の誤差はあるじゃありませんか。というよりもですね……
「ねぇ、もしかして前回の生理が何時だったかはっきり覚えていないとか言わないわよね?」
鋭い視線を投げかけつつ尋ねられ返事に詰まるわたくし。いつもいつもメモしようと思いながらうっかり忘れちゃって、私の『最終』は記憶の彼方でぼんやりしています。多分そろそろ来るんじゃないですかねぇ?としか答えられないけれどそんな事を言ったら絶対にシメられる!
固く口を閉ざしたら逆に悟られたらしく妃殿下はげんなりしました。
「今日は帰って休みなさい」
「はい……」
「それと、きちんとお医者様を呼んで診て頂くのよ?」
「はぁ……」
「じゃあ馬車を手配させるから待ってて」
「え?」
私はきょとんと目を見張りました。
「なんで馬車?」
「なんでって妊婦を馬になんか乗せられないでしょう?」
女官長をちょいちょいと手招きしながら妃殿下はそう言うけれど、私は今朝もチャリで出勤しましたし何の不都合もありませんでしたよ?
「妊娠って確定したわけじゃないのに!」
口答えした丁度その時女官長が合流し馬車の手配の一言で全てを悟ったらしい。私は二人がかりでふざけるんじゃない、何かあったらどうするんだ?とお説教の嵐に巻き込まれました。
「私のチャリンコ……」
涙目の私を二人はギロっと睨みました。
「ホントのチャリンコだって危ないのにチャリンコなんか言語道断でしょ!」
女官長はチャリンコとホントのチャリンコ?と戸惑った顔をなさいましたが妃殿下は見向きもせずに激昂中です。だったら王室用の厩舎で預かるから文句を言うなと喚き散らされて、反論するにもできなくなりました。だって圧が物凄いんですもの。
結局私は王太子妃殿下専用の馬車に乗せられて屋敷へと追い返された上に、妃殿下の担当医入りの馬車に追走されました。医師は呆気に取られるマリアンにテキパキと指示を出しすぐさま診察を開始、記憶の彼方で霞んでいた私の『最終』を明らかにしようと奮闘し始めました。
優秀な医師の手を散々煩わせはしましたが、おかげさまでどうにか浮かび上がってきた私の『最終』により判明したのは、少なく見積もっても二十日は遅れてるって事実でございまして。
「ご懐妊でございます」
と厳かに宣言されたのでありました。
あれこれ注意をした……特に乗馬は厳禁だと釘をさした医師を見送り私の様子を見に来たマリアンは、トキメキが止まらないっ!て顔をしつつも何も尋ねませんでした。つまりバレバレってことですよね。きっと初めの報告はアレンが受けるべきだと考えて呉れたんでしょう。
けれども何時ものように寄ってきたミロを抱いてソファでゴロゴロしようとしたら、パジャマに着替えてベッドで休めと叱られました。寝惚けて転げ落ちてしたらどうするのですと目を三角にしております。むん、昨日までは好きにゴロゴロさせてくれたじゃないか!
だったら先にお風呂に入る!と超我儘発言をしてみたらそそくさと支度を整えてくれちゃって、となると従うしかありません。普段はしてもらわないお世話を当然のように始めたのにもされるがままになりました。滑らないように、転ばないようにと気を配ってくれているのがひしひしと伝わってくるのですから、放っといてなんて口が裂けても言えませんから。
ミロを膝に乗せソファに座る私の髪をマリアンがせっせと乾かしておりますと、帰宅したアレンが部屋に入ってきました。
「風呂上がり?」
この時間……ということは恐らく妃殿下命令で理由もわからず帰って来たのでしょう。何事かと戻ってみれば私は昼間っから風呂上がり。ということは単なる体調不良ってわけでもなさそうで、首を捻るのももっともです。
髪の手入れを手早く済ませ、マリアンは出ていきました。何たる気遣いでございましょう。こうなったら、アレンの次にマリアンに教えてあげるんだ!と決意する私にアレンが尋ねました。
「何故こんな時間に風呂に」
「マリアンがベッドで寝なさいっていうから、だったらお風呂に入ってからがいいなって思って」
「どうしてベッドを指定されているんだ?」
「あー、それが一昨日封蝋しようとしたら気持ち悪くなったじゃない?」
「あぁ、だがソファでゴロゴロしていたら治ったと言っていたが?」
私はそうそうと首を縦に振りました。
「昨日も封蝋しようとしたら気持ち悪くなったでしょう?」
「昨日もゴロゴロしていたら治ったと……だから今朝も仕事に行くと言っていたはずだぞ?」
「そうなのよ。でも今日もまた封蝋しようとしたら、シーリングワックスの匂いにやられちゃって」
「シーリングワックスの匂い?」
アレンはそれはもう混乱した顔で隣に腰掛け私の隣りに座りました。
「それで今は?」
「もう平気なんだけど、マリアンがちゃんとベッドで寝なさいって」
「もう平気なのに?」
「そうなの、寝惚けて転げ落ちたら危ないって言うの」
「転げ落ちる?」
目を細めたアレンは何故か考え込みました。どうしてかな?いつもいつもリコは寝相が悪いからミロとは寝ちゃダメだっていつも言うのに。
ちょっと引っかかりますが私は話を続けました。
「うん。それに妃殿下と女官長にチャリに乗っちゃダメって言われて、チャリは可哀想に王城でお預かりなの」
「なんだってそんな事を?」
「妊婦は乗馬しちゃダメだって」
「それはそうだろう」
アレンは半ば呆れたように眉毛をハの字に下げています。私だってそれはそうだろうと思うんです。ただあの時は自分が妊婦だとは思わなかったので不満だったわけでありまして。
「妊婦に無理は禁物だ。あのブリジットですら懐妊が判ってからは書類仕事しかしなかったんだからな。でもそれとリコのチャーリーに何の関係が?」
「あぁ、私妊婦なんですって」
「なるほど、リコは妊婦なの……か……………」
パチリパチリと大きく目を開け閉めしたアレンは最後に限界まで瞼を開きそのまま硬直しました。
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