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【第二部ダイジェスト】王太子視点

29 黒死の魔女の政策 (幕間)

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 クァイツはジャンや市参事会の会計係たちと合流した。
 明日の昼までになんとかして聖堂参事会の帳簿から不正を暴けと言われて、彼らは目を丸くした。

「明日、一気に暴露します。それで司教座の参事会を解散に持っていく。選挙は中止になるでしょうから、そこですかさず大司教を王宮から指名します。市民代表の、あなたがたの中から大司教を出すんです」

 自分が大司教になれるかもしれないと夢見た彼らは、かなりのやる気を見せてくれた。

「ジャン・ル・ブーシュ」

 クァイツが声をかけても、彼は押し黙ったままだった。
 肉屋から成り上がった商人頭は、思いつめた顔で帳簿を握っていた。目は帳面を見ておらず、魂の内側からくる呼び声に耳を傾けている。

 ジャンはシャンパーニュの商人たちの元締めだ。
 その立場からランスの司教座に目をつけられて、商取引の不正のほとんどを引き受けさせられている。
 傾きかけたシャンパーニュの大市の再興と、不正の一掃に賭けて、クァイツに出資してくれている。

 市参事会員たちもそのことはなんとなく知っているのだろう。
 注目がジャンに集まった。

「……あなたの助けが必要なんです」

 彼が握っている商取引の不正の情報があれば、天地がひっくり返る騒ぎになるだろう。
 それは同時に、彼の商人生命を断ち切ることでもあった。
 司教たちを断罪したその刃で同じように切られてしまうのだから。
 下手をすれば、彼が大司教に就くことはなく、裁きにかけられる可能性だってある。

「……魔女さんは、いい方だと思います」

 ジャンはぽつりと言った。

「あの人がランスに来てから、街が活気づくようになりました。べらぼうな金額になってた生活必需品や粉挽きの関税を全部取っ払ってくれたおかげで、少なくともパンが高すぎて買えなくなることはなくなりました。聖務のサボりに厳罰を食らわせてくれたおかげで、死にかけの赤子にも洗礼が行き届くようになって……」

 最高とは言わないまでも、政治家としてのサフィージャはまずまず優秀だった。

 彼女が聖堂に来て真っ先にしたのは、領民が結成した陳情団を招き入れて、徹底的にランスの現状を吐き出させることだった。
 まずは流通が減ってしまった大市に人を呼び戻すことを考えて、ふくれあがる一方だった通行税を全額免除し、金銀や毛皮などの奢侈品はともかく、最低でも毎日の食事が取れるようにと、聖堂参事会員たちの猛反対を押し切って、塩や小麦粉などの限定的な部分で無税化を行った。水売りを保護して、パン屋たちに協定価格の引き下げを強引に行わせた。

 一時しのぎの策とはいえ、突然パンの値段がもとに戻ったのを目の当たりにした市民たちは、劇的に暮らしがよくなったと感じただろう。

 市民の中には彼女の熱心な信奉者も生まれつつある。
 最悪の状況から、少しまずい程度にまで暮らし向きをよくしてくれたのだから、彼らの目には女神とも救世主とも映ったのだろう。

「でも、一番は、あの異常な裁判を止めてくれたことが大きいと思います。毎日のように罪のない市民が異端審問にかけられていたのに、あの人は裁判官をまとめて逮捕して、あっという間に止めてくれましたでしょう。誰かがやらなきゃいけないことだったのに、みんな司教座の報復を恐れて手を出せなかった。それを魔女さんはなんのためらいもなく実行してくれた……」

 ジャンの言葉は、そのまま市参事会員たちも感じていたことのようで、彼らも考え込んでしまった。

「……魔女さんが捕まっちまったのは、きっとそのせいなんでしょう。……あの人は、私たちの代わりに犠牲になったんです。すごい人ですよ。高潔で、強い、格好いい女性だと思います」

 高潔で、格好いい……?
 ふだんのサフィージャをよく知るクァイツは、首をかしげそうになった。

 彼女がまじめに仕事をしたことに関しては論をまたない。
 味方がほとんどいない敵地で、思う通りの政策をごり押しできる手腕も褒められるべきだろう。
 報復を一切恐れずに公正さを追求する馬鹿正直な姿勢も、短期的に見たら長所といえなくもない。

 ……そうか、とクァイツは思った。
 それはつまり、高潔で格好いいということなのだ。

 人となりを知らない外野からはそういう風に見えるのか、と、クァイツはちょっと感心してしまった。

「……やりましょう。私はこれでも商人頭ですから、ひと声かければ商人たちがあらゆる不正の証拠を持って集まってきます。それで私が司教座から報復を受けたとしても、悔いはありませんや」

 ジャンはみずからが泥をかぶることを、もうためらわないようだった。

「魔女さんを助けてあげたいです。殿下、指揮をよろしくお願いします」

 こちらから頼み込むつもりだったクァイツは、逆にお願いをされてしまって、複雑な気分を味わった。
 彼女はやはり人から慕われる資質を持っているのだな、と思う。

 あの子にはどこか押しつけがましくない自然体のやさしさがある。
 目の前に困っている人がいたら助けるし、多少人から嫌な目にあわされたくらいでは恨んだりしない。何事にも誠実に向き合う性質で、怒ったり嘆き悲しんだりは人並みにしても、最後には相手の事情を尊重して一歩引いてあげるような寛大さも持っている。

 どんなに悪い魔女を気取っていても、根っこのところの性格はにじみ出てしまうものだ。
 口が悪くて冷たいように見えても、本当はかなりのところで他人に譲ってあげるほど親切な女性である。

 もしも明日、不正の暴露がうまく転がらずに失敗した場合のことを思うと、胃が痛くなった。

 失敗したときは、いよいよ最後の手段に出るしかなくなる。
 そのとき、ジャンは彼女をどう思うだろう。エルドランは、あの羊飼いの少年は――

 想像するだに頭の痛いことだったので、そこで考えを打ち切った。

 とにかく、不正の暴露でロベルテたちを断罪しきってしまえば勝ちだ。
 さしあたってはそこに力を入れるとしよう。
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