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46.見えぬ糸(2)
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二人を乗せた馬車は坂道を登り始める。そして、「もうすぐソルズ城に到着します」という馭者の声が聞こえてきた。
「……私が幼い頃に、母は亡くなりました。だから、その記憶はとてもおぼろげで……」
ミーアがそう口にすると、老紳士はぐいっと涙を拭った。
「そう……でしたね。すまない、変なことを聞いて……」
「でも、私の記憶の中にいる母は、いつも優しく笑っている人です。一緒に過ごした時間は短かったけれど、母は私にたくさんの愛を注いでくれました。……それだけは、わかるんです」
ミーアが言い切ると、彼は一瞬目を見開き、そしてまた滂沱の涙を流す。彼の震える手をミーアはそっと両手で包み込み、亡き母のことを想った。
愛する人とともに生きるために、家族を置いて遠く離れた地へ赴いた母は、どんな思いでミーアを見つめていたのだろう。きっと家族を恋しく思う日もあっただろうに、母はそんな素振りを一切見せず、ただ穏やかに笑っていた。
「人を、愛するって……難しいことなのですね」
「……そう、思うかい?」
「はい。だってお母様は、こんなにも自分を大切に想ってくれる家族がいるのに、愛する人と二人だけで生きていく道を選んだのでしょう? きっと、私には、そんな辛い選択はできません」
目を伏せるミーアに、老紳士は指先で涙を拭いながら微笑んだ。
「今、君は誰のことを思い浮かべているのかな?」
「えっ……」
「君は、瞼の裏に思い浮かべたその誰かと、お父さんを天秤にかけているんじゃないかい? そのうえで、お父さんを切り捨ててまで愛する人と結ばれるなんてことはできない、と考えている……違うかな?」
淡々とした口調で問われ、ミーアは返事に窮する。
なかなか答えを出せないミーアに彼はふっと笑うと、優しく諭すように語りかけた。
「大切なものを天秤にかけるなんて、本当はあってはならないんだ。イリヤにそんな辛い選択をさせてしまったのは、私たち家族の責任なんだよ。片方を切り捨てることなんてせずとも、両方を手に入れて幸せになるのが一番良いに決まっているだろう?」
押し黙るミーアに向かって、彼はさらに言葉を続けた。
「そういえば、この馬車に乗り込んだとき、君は『ソルズ城へ戻らないと』と言ったね。それはなぜだ?」
「え……で、ですから、トガミさんがリオン殿下を裏切っているのだと伝えるために……」
「どうして? 話を聞く限り、真っ先に命を狙われているのは君だろう。ソルズ城へ戻れば、トガミは必ずやまた君を襲う。奴らの知り得ない場所へ逃げる方が、ずっと安全だったのに」
「あ……」
そこで初めて、ミーアは自分の身の安全よりも、リオンにトガミの謀反を伝えることしか考えていなかったことに気付く。
あのまま父とともに王都を出ていれば、トガミに居場所を知られることもなく自由な生活を手にすることができたのに、ミーアは何の迷いもなくソルズ城へ向かう道を選んだ。それは、なぜか。
「私としては、君にはどうか自分の命を最優先してほしいところだが……それを忘れてしまうほど、守りたいものがあったのだろう?」
守りたいもの。
その言葉を聞いて、ミーアはずっと気づかないふりをしてきた己の本心にやっと向き合う。
――私は、リオン殿下を守りたい。
トガミの手によって彼が弑されることを、何としてでも避けたかった。危険が迫っているのだと、一刻も早く彼に伝えたかった。
この気持ちが愛と呼べるのかは、ミーアにはまだわからない。それでも、とにかくリオンに会いたいと心から願っていることだけは確かだ。
「――もう、城門に着く。行ってきなさい。あとは城の護衛たちに任せるよ」
「……はい。ありがとう、ございました」
城門の前で馬車は止まる。扉が開き、地面に降り立つ前に、ミーアは老紳士を振り返った。
「あの……また、お会いできますか?」
「ああ、もちろん。君が望むのなら」
優しく微笑む彼の瞳は、ミーアと同じ澄んだ空の色をしていた。その瞳を見つめながら、ミーアは亡き母のことを想った。
「今度は、ゆっくりお話を聞かせてください。……おじいさま」
遠慮がちにそう呼ぶと、老紳士はまたも目を見開いて、嬉しそうに何度も頷く。そして、ミーアの姿が見えなくなるまでずっとそこに佇んでいた。
リオンのいる場所へ向かって走りつつ、ミーアは胸の前でぐっと拳を握り締める。静かに決意を固めると、ずっと揺れていた心が不思議と落ち着くような気がした。
「……私が幼い頃に、母は亡くなりました。だから、その記憶はとてもおぼろげで……」
ミーアがそう口にすると、老紳士はぐいっと涙を拭った。
「そう……でしたね。すまない、変なことを聞いて……」
「でも、私の記憶の中にいる母は、いつも優しく笑っている人です。一緒に過ごした時間は短かったけれど、母は私にたくさんの愛を注いでくれました。……それだけは、わかるんです」
ミーアが言い切ると、彼は一瞬目を見開き、そしてまた滂沱の涙を流す。彼の震える手をミーアはそっと両手で包み込み、亡き母のことを想った。
愛する人とともに生きるために、家族を置いて遠く離れた地へ赴いた母は、どんな思いでミーアを見つめていたのだろう。きっと家族を恋しく思う日もあっただろうに、母はそんな素振りを一切見せず、ただ穏やかに笑っていた。
「人を、愛するって……難しいことなのですね」
「……そう、思うかい?」
「はい。だってお母様は、こんなにも自分を大切に想ってくれる家族がいるのに、愛する人と二人だけで生きていく道を選んだのでしょう? きっと、私には、そんな辛い選択はできません」
目を伏せるミーアに、老紳士は指先で涙を拭いながら微笑んだ。
「今、君は誰のことを思い浮かべているのかな?」
「えっ……」
「君は、瞼の裏に思い浮かべたその誰かと、お父さんを天秤にかけているんじゃないかい? そのうえで、お父さんを切り捨ててまで愛する人と結ばれるなんてことはできない、と考えている……違うかな?」
淡々とした口調で問われ、ミーアは返事に窮する。
なかなか答えを出せないミーアに彼はふっと笑うと、優しく諭すように語りかけた。
「大切なものを天秤にかけるなんて、本当はあってはならないんだ。イリヤにそんな辛い選択をさせてしまったのは、私たち家族の責任なんだよ。片方を切り捨てることなんてせずとも、両方を手に入れて幸せになるのが一番良いに決まっているだろう?」
押し黙るミーアに向かって、彼はさらに言葉を続けた。
「そういえば、この馬車に乗り込んだとき、君は『ソルズ城へ戻らないと』と言ったね。それはなぜだ?」
「え……で、ですから、トガミさんがリオン殿下を裏切っているのだと伝えるために……」
「どうして? 話を聞く限り、真っ先に命を狙われているのは君だろう。ソルズ城へ戻れば、トガミは必ずやまた君を襲う。奴らの知り得ない場所へ逃げる方が、ずっと安全だったのに」
「あ……」
そこで初めて、ミーアは自分の身の安全よりも、リオンにトガミの謀反を伝えることしか考えていなかったことに気付く。
あのまま父とともに王都を出ていれば、トガミに居場所を知られることもなく自由な生活を手にすることができたのに、ミーアは何の迷いもなくソルズ城へ向かう道を選んだ。それは、なぜか。
「私としては、君にはどうか自分の命を最優先してほしいところだが……それを忘れてしまうほど、守りたいものがあったのだろう?」
守りたいもの。
その言葉を聞いて、ミーアはずっと気づかないふりをしてきた己の本心にやっと向き合う。
――私は、リオン殿下を守りたい。
トガミの手によって彼が弑されることを、何としてでも避けたかった。危険が迫っているのだと、一刻も早く彼に伝えたかった。
この気持ちが愛と呼べるのかは、ミーアにはまだわからない。それでも、とにかくリオンに会いたいと心から願っていることだけは確かだ。
「――もう、城門に着く。行ってきなさい。あとは城の護衛たちに任せるよ」
「……はい。ありがとう、ございました」
城門の前で馬車は止まる。扉が開き、地面に降り立つ前に、ミーアは老紳士を振り返った。
「あの……また、お会いできますか?」
「ああ、もちろん。君が望むのなら」
優しく微笑む彼の瞳は、ミーアと同じ澄んだ空の色をしていた。その瞳を見つめながら、ミーアは亡き母のことを想った。
「今度は、ゆっくりお話を聞かせてください。……おじいさま」
遠慮がちにそう呼ぶと、老紳士はまたも目を見開いて、嬉しそうに何度も頷く。そして、ミーアの姿が見えなくなるまでずっとそこに佇んでいた。
リオンのいる場所へ向かって走りつつ、ミーアは胸の前でぐっと拳を握り締める。静かに決意を固めると、ずっと揺れていた心が不思議と落ち着くような気がした。
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