初恋の泥沼

エイ

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夫の初恋

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 誰かの名前を呼んで走り寄る夫の姿は、とてもドラマチックだった。

 呼びかけられ、驚いた表情で振り向く彼女。
 自分を呼ぶ男の顔を見て、ぱあっと花咲くような笑顔になる。
 それを見た夫は、あやうく抱きしめそうになるのをすんでのところで思いとどまっていた。
 偶然の再会を喜び合う二人は、美男美女でとても絵になる。

 菜緒はその光景に絶望しつつ、夫のとろけるような笑顔を横目で見ていた。


 ***


 その日、菜緒は夫と共に新しくできた店へと足を運んでいた。
 
 都内で有名な洋菓子店で、地方初出店ということで地元では話題になっていた。

 普段は妻の買い物なんかには絶対についてきてくれない夫だったが、義母からその店の商品を送ってくれと夫のほうへ連絡があったため、その買い物のために一緒に来てくれたのだった。
 久しぶりに夫とのおでかけに、菜緒の気持ちは浮き立っていた。
 せっかくだから美味しいフレンチの店でランチしていこうという菜緒の提案にも頷いてくれたので、ちょっと綺麗目のワンピースを着て、化粧もいつもより濃い目に仕上げたので、道すがら窓に映る自分と夫の姿を何度も眺めて、年上の彼に釣り合う落ち着いた装いになっているのを確認する。

(大丈夫、夫の隣に立っていてもおかしくないわ)

 まだ二十三歳の菜緒は、夫の紘一とは十歳歳が離れている。義両親からあまり子供っぽい恰好をして紘一に恥をかかせてはいけないと注意されたことがあるため、派手過ぎず上品な服装を心掛けていた。
 月に一度のペースで美容院に行き手入れをしてもらっている長い髪が、風に吹かれてサラサラと流れる。
 髪が奇麗だと結婚前に夫が褒めてくれたから、それ以来ずっと大事に伸ばして念入りにケアしている。

 少し贅沢をして、夫の行きつけのフレンチレストランでランチを食べた。
 普段夫はあまり外食を好まないので、菜緒がここに来るのも久しぶりだから気持ちが浮き立っていた。
 結婚してからは同じ家に帰るのだからわざわざ外でデートなんてする必要がないと夫がいうから、二人で出かけることはほとんどなかった。だからただの食事だとしても久しぶりに二人で出かけられたことに浮かれていた。
 
 菜緒にとって今日は最高の休日だった。
 店を出て、おずおずと夫の腕に手を添えてみても振り払われなかったから、恋人のような距離で並んで歩く。
 このあとは、新しくできた洋菓子店へと行こうと約束していた。
 そこは雑誌やテレビで有名な店が出した二号店らしく、オープンする情報を知った義母から焼き菓子を買ってきて欲しいと頼まれていたのだ。
 ランチはその買い物のついでに過ぎないが、夫のほうから頼まれ物と別にケーキを自宅用に買って味見してみようと言ってくれたのがなにより嬉しかった。
 

『Patisserie  espoir』

 店の看板が見えて、菜緒はその外観にしばし見惚れた。
 レンガ調のクラシックな外壁に、明るい木目の扉もオールド感が出ていて、まるで絵本の世界に出てきそうな佇まい。
 扱う商品は正統派フランス菓子と謡っているので、外観からもオーナーのこだわりを感じる。
 店の前で写真を撮る女の子たちもいて、ちょっとしたフォトスポットにもなっているようだ。素敵な外観で自分も写真を撮りたいと思ったが、夫はなんでも写真を撮るのはみっともないと言う人なので、菜緒は何も言わずに店の中に入った。


 店内は女性ばかりでごった返していた。
 見た目にも綺麗なスイーツがショーケースに並んでいて、菜緒はどれにしようかとガラスの向こうの艶やかなケーキをじっくりと眺める。
 隣のショーケースはフレーバーチョコが並んでいて、そっちも美味しそうだ。味見のためにこれも買って行かないか訊ねるために夫のほうを仰ぎ見た。

 隣に立つ夫は、ショーケースに目を遣ることなく店の奥を見つめたまま棒立ちになっていた。

「紘一さん? どうし……」

「ほのか! ほのかだよな?」

 夫は突然誰かの名を呼んだ。その声を受けて、商品を並べていた店員が驚いたように振り向いた。

「えっ……あ、香坂くん? わあ、びっくりした。あっ、じゃなくて、いらっしゃいませ!」

 高坂くんと夫に呼びかけた女性は、コックスーツを着ていて、どうやらパティシエのようだ。
 女性は、髪をきっちりとまとめて化粧もほとんどしていないが、それでも人目を惹くきりっとした美人だった。

 彼女が返事をすると、夫は菜緒の腕を振り払って、そちらへと駆けて行った。

「うわ、久しぶりだな。お前こっち帰ってきてたのか?知らなかったよ」
「うん、色々あってね。ここのオーナーに、ちょうど地元で新店舗出すからってスカウトされて……。ていうかびっくりしたよ。ウチの店来てくれたんだねーありがとう」

 ニコニコと応対する彼女を見て、夫はとろけるような笑顔を浮かべる。

 なんて優しい目で彼女を見るんだろう。菜緒は夫があんなふうに笑う顔を見たことがなかった。いつも冷静で、大笑いすることも激怒することもない、常に落ち着いた人だという印象しかなかった。
 その夫が、まるで少年のように頬を上気させ、熱のこもった目で彼女を見つめている。嬉しくてたまらない、といった様子に、菜緒は自分がざあっと青ざめていくのを感じた。

「連絡してくれればよかったのに。水臭いなあ。今実家に戻ってるのか? それとも……」
「えっと、仕事中だからあんまり話せないんだ。ごめんね、また今度ね」

 夫の熱量に対し、女性はあっさりと会話を切り上げ、後ろにいた菜緒にペコっと頭を下げて店裏に戻って行ってしまった。その後姿を名残惜しそうに見つめたまま動こうとしない夫に、菜緒は恐る恐る声をかける。

「ねえ、お知り合いの方? このお店のパティシエさんなんだね」

 話しかけられて、今初めて菜緒の存在を思い出したかのように、夫はハッとして振り返った。自分の服の裾をひっぱる妻を見て、さきほどまで緩み切っていた表情を一気に曇らせた。

「昔の同級生だよ。そうやってなんでもいちいち詮索するなよ。お前の悪い癖だぞ」

 それより買うものはなんだっけ? と話題を逸らして、夫はさりげなく妻の手をほどいて商品を物色し始めた。買うものを選んでいる最中も、ちらりちらりとガラス張りになっている厨房のほうを気にしていて、終始さっきの彼女を目で追っていた。

 菜緒はさっきまで浮き立っていた気持ちが、今ではすっかりと冷えて落ち込んでいた。店に入る前は、自宅用に何を買おうかと考えてウキウキしていたのに、そんな気分ではなくなってしまったので、義母に頼まれたものだけを買い、さっさと店を出て家路についた。

 隣を歩く夫の横顔をチラリと見て、菜緒は聞こえないように小さくため息をついた。
 彼女が誰なのか、本当はもっとちゃんと教えてほしい。でも夫に訊いても多分教えてはくれないだろう。

 だが菜緒には彼女について心当たりがあった。

 夫には昔、大恋愛した彼女がいたと、結婚前に義母がこそっと耳打ちしてきたことがあった。
 紘一の初恋。初めての恋人。事情があって別れてしまったが、夫はその彼女を長く想っていたせいで、ずっと結婚を嫌がっていたんだ、だからこんなにいい息子なのに結婚が遅くなってしまったんだと言い訳のような話を聞かせてきた。
 その後、結婚祝いで顔を合わせた夫の友人たちが雑談しているのを横から聞いて、色々つなぎ合わせた話から考えると、どうやら夫と彼女を別れさせたのは義両親らしいと分かった。
 片親だからとか、家柄がとか……そういった理由だったようだ。体面を一番大事にしている義両親ならやりそうだな、と菜緒は納得してしまった。

 夫は菜緒よりも十歳も年上なのだから、過去に恋人がいるのは当然だと思っていたが、気持ちを残したまま別れた相手だったなら、恋心が再燃してもおかしくない。

 今日会ったあの人が、その昔の彼女なのか分からないが、初めて恋をした少年のような夫の姿を思い出すと、間違いないように思える。
 嬉しそうに色々話しかける夫に対し、彼女は申し訳なさそうに『仕事中だからごめんね、また今度』とあっさり会話を切り上げて店舗の中に戻って行った。
 その後姿をしばらく見送っていた夫だったが、袖を引いて声をかけると驚いて振り返って、菜緒を見ると嫌そうに顔をしかめた。

「学生時代の友人だ。地元に戻ってきたらしい」
「そう」

 訊ねる前に釘を刺すように言われ、それ以降は質問を拒むように目線を合わせないまま帰るぞと促された。
 店を出る時、大きなガラスに映る自分の姿が目に入る。
 明るすぎない茶色のロングヘアをゆるい巻き髪して、派手過ぎないがきっちりと化粧を施している。上品なワンピースにパンプスという姿は、若奥さんとして恥ずかしくない装いとして紘一の母からも及第点をもらっている。

(……醜くはない、はずなのに)

 こういう恰好が紘一の趣味だと義母から教えられた。ズボンなんてもってのほか。すっぴんを夫に見せるのは恥ずかしいこと。その言いつけ通り、いつも身だしなみに気をつけているのに、今の自分がひどくみっともなく思えた。
 没個性の雑誌の見本みたいな姿で、景色の一部みたいだ。
 コックコートを着た彼女は、化粧っけもなくひっつめの髪をしていても輝いて見えた。

 心ここにあらずな様子の夫の横顔を盗み見て、菜緒は聞こえないように小さくため息をついた。

 ***

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