きみこえ

帝亜有花

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楽園への誘い

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 春休みでも学校に来ていた翠は一人教室で静かに筆を滑らせていた。
 静かな空間、心を落ち着け、対話でもするかの様に紙と向き合う。
 そんな中、翠の集中力を途切れさせる出来事が起きた。
    人に恐怖心を与えるガラスの割れる音、細かい破片が宙を舞い、教室の奥には硬質の野球ボールが投げ込まれた。
 幸いにも、翠の居た場所からは離れていた為破片で怪我をする事はなかったが、窓は開け放しのままになり、ガラスが散乱した教室は大惨事になっていた。

「おやおや・・・・・・、これは困りましたね」

 そして、廊下を誰かが走ってくる音が続いた。

「あーー、やっちまったなぁ」

「春野君、君がプロ野球選手顔負けのホームランを決め込んだのかな?」

「せ、先輩! すみません、よりによって部室が・・・・・・、怪我とかは!?」

 翠は溜め息を一つし立ち上がった。

「幸いなんともありません。ですが、今日の所は部活は中止ですねえ」

「ほんっとすみません!」

 その後、先生達もやって来て、陽太はこっぴどく叱られた。



「さて、暫くは部室が使えませんし、どうしたものか」

 春休み、殆どは翠一人しか部活をする事がないとは予想していた。
 むしろ、春休みで良かったと考えた。
 だが、書道部がこのままで良いのかと翠は最近悩んでいた。

「先輩、他の教室を使うとかはどうですか?」

「まあ、それもそうなんですが、折角なので何か特別な事が出来ないかと」

「特別?」

「ええ、もうすぐ新学期ですし、新入生獲得に向けて気の利いた部活紹介文も作らないといけませんし、私と夏輝が居なくなった後廃部になるのは避けたいですからね」

 ただでさえ、去年の部活勧誘は完全に失敗している。
 今年こそは新入生に入部してもらいたいと翠は意気込んでいた。

「なるほど」

「あ、そうだ! 春野君、色んな部活に顔を出していますよね。書道部に足りないものとかってありますか?」

「うーん、そうだなぁ・・・・・・」

 陽太は頭を悩ませた。
 書道部の部室にはたまに顔を出す程度で、アドバイス出来る程の事は何もしていない。
 だが、確かに、書道部は他の部活と違って何かが足りないようには感じていた。

「文化部の事は良く分からないんですけど、書道部って強化合宿とかないですよねー」

「合宿ですか?」

「俺は助っ人ばかりだから、合宿までは行ってないんですけど、他の部活はそういうのやってるみたいですよ」

「合宿、合宿ですか・・・・・・、いいですね! 丁度春休みですし! あ、でも早くしないと学校が始まってしまいます」

 翠は慌てながら頭を抱え込むと、パッと顔を明るくさせて陽太の両手を取り握った。

「という事で、明日から合宿に行きましょう!!」

「え! ええーーーー!!」

 急な事で陽太は驚いたが、翠のキラキラとした目を見たらその手を振り払う事など出来なかった。



「夏輝! という事で合宿ですよ!」

 翠はその後夏輝のアルバイト先であるコンビニを訪れた。

「はあ? 何がという事なんだ? 話が分からん」

 夏輝はあまりの突拍子もない話にモップの手を止めた。

「かくかくしかじかですよ!」

 ニコリと笑う翠に夏輝は怪訝な視線を向けたままだった。
 翠はやった事のない合宿に期待で胸がいっぱいになり、いつもよりもやや高めのテンションで夏輝に迫った。

「いきなりんな事言われてもよー。春休み中はずっとバイト入れてるんだが」

「あー、じゃ、キャンセルですね、そのバイトの方」

 翠の笑顔は変わらないまま、黒いオーラを出しつつ、夏輝の手に封筒を渡した。

「ん、何だこれ?」

「合宿で私を手伝うというアルバイトの前払い金です」

 その封筒の中には数日間アルバイトを休んだとしても十分過ぎるくらいの報酬が入っていた。

「マジかよ、そこまでするのか」

「ふふふ、あなたには断る理由なんて一ミリもありませんよね? 月島さんも参加させる予定ですし。私と月島さんの二人だけにさせる気はないでしょう?」

「分かった。荷物持ちでも何でもしてやる!」

 こうして、翠は手足となるのに調度良い人材を確保した。



【月島さん、突然だけど、明日から合宿だから】

 ほのかは自宅で本を読んでいると翠からそんなメールを受け取った。
 今まで、合宿に参加した事がなかったほのかは言葉の響にうっとりとしていた。

【行きます! 何を用意すれば?】

 ほのかは慌てて荷造りの事を考えた。
 いきなりの事で、大きめのカバンや服、生活用品等何も用意が出来ていなかった。
 クローゼットから一番大きなカバンを探そうと慌てふためいていると翠からのメールが返ってきた。

【今回は急な話でしたから、明日は身一つで駅前に集合です。必要な物はこちらで全部用意しますので】

 ほのかは頭にハテナマークを浮かべながらも翠には【分かりました】と返事をした。
 一体どんな所に行くのだろうとほのかは明日がとても楽しみになった。




「氷室君!」

「先輩?」

 翠は買い物帰りの冬真を見つけると駆け寄った。
 そして、翠は冬真の両肩を叩いて微笑んだ。

「明日から合宿なのでよろしくお願いします」

「は? いきなり何言って、何で俺まで・・・・・・」

「やはり人数は多い方がいいですからね」

「だからって」

「んー、どうせ予定もないのでしょう? 今この場に君が居る事も予定がない事も調査済みです」

 冬真は翠のまるで探偵かと思わんばかりの行動力に恐怖した。

「はあ・・・・・・、面倒事は勘弁して下さいよ。合宿って幽霊部員には必要ない・・・・・・」

「あ、そうですね、面倒をお掛けしては申し訳ないので、氷室君は特別に今から私と同行しちゃいましょう! 必要な物は全て用意するのであなたはただ息をしているだけで大丈夫です。さあ行きましょう!!」

「ちょっ! 待って!」

 その後、冬真は有無を言う暇もなく車に乗せられ、露木家へと拉致された。




 最後に、翠は時雨の家を訪れていた。

「えっと・・・・・・紅茶で良かったかな? 露木君」

「お気遣いありがとうございます」

 時雨は何故家が分かったのだろうかと不思議に思いながらも笑顔を崩す事なく紅茶をカップに注いだ。

「それで、今日はどうしたのかな?」

「実は、明日から合宿に行く計画がありまして、他の部員の保護者の方には許可を頂いているのですが、月島さんの保護者は秋本先生が代理でしていらっしゃるとお伺いしまして」

「へー、合宿かあ」

 平然を装ったが、内心は多少動揺していた。
 自分がほのかの保護者をしているのは極限られた人しか知らない事実の為、情報源は恐らく冬真からだろうと推測した。

「いいよ、許可するよ。ただ、僕もその合宿行かせてもらうのが条件かなー」

「ふふふ、流石は先生。先生に着いてきて貰えたらとても心強いです。是非お願いします」




 こうして、翠は一日にして合宿という名の旅行計画をかなり強引に進めてしまった。
 勿論、その裏では露木家の全面サポートがあってこそだった。

「ああ、明日が楽しみですねえ」

 翠はどんな思い出が作れるだろうかと想像しながら、夜空に浮かぶ月に向かって微笑んだ。
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