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第21話 報告書が、国を少しだけ動かした朝
しおりを挟む——あの夜書いた報告書が、後日“国の予算を動かした紙”と呼ばれることになるなんて、そのときの私はこれっぽっちも思っていなかった。
ただ、血と汗と後悔の匂いの中で、「ここまで守る」と決めた線を書き残しただけだ。
◇◇◇
「おい、元聖女さん」
夜明けの砦の中庭で、背中から声をかけられた。
振り向くと、片腕を吊った若い兵が立っている。
昨夜、最初に医務室へ運び込まれた一人だ。顔色こそ悪いが、目ははっきりしている。
「昨日は……その、ありがとな」
「いえ。
まだ“互助の三割”しか守れてませんから」
思わず、数字のことが口から出る。
兵は苦笑し、首を振った。
「三割でもな。
“全部家の金で払え”って言われてたら、うちの女房、確実に倒れてた。
……三割も、“互助”ってやつに払わせて悪いくらいだ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
「互助は、“誰かの三割を引き受けるための箱”です。
払ってくれた皆さんの掛け金のおかげですよ」
「じゃあ、今度休暇出たら、ちゃんと掛け金も払っとくわ」
兵は照れ隠しのように頭を掻き、片腕で敬礼して去っていった。
(……最初の“守れた人”)
そんな大層なものじゃないのに、喉の奥がほんの少し熱くなる。
◇◇◇
「見送りはこれくらいにしろ。
馬車が出ちまう」
砦の門の前で、ヘルマン隊長が腕を組んで待っていた。
「今回は世話になった。
“互助三割・砦二割・国庫五割”——あの線引き、俺は悪くねえと思ってる」
「“兵の命を節約しない”って約束を守れる線なら、よかったです」
「ただし」
ヘルマンの目が、じろりと細くなる。
「“次の襲撃”があっても、今日決めた線に甘えて怪我人増やすような真似はしねえ。
それだけは、互助と関係なく、この砦の誓いだ」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「礼なんざいらねえ。
どうせお前ら、また来るんだろ?」
「制度が続くかぎりは」
思わず笑うと、ヘルマンも口の端だけ上げた。
「じゃあ、その時まで、“守られた分”働いて待ってるさ」
◇◇◇
砦を離れる馬車の中で、私は座席にもたれかかってぐったりしていた。
「……眠いです」
「寝ろ」
向かいで帳簿を広げているユリウスが、顔を上げもせずに言う。
「でも今寝ると、王都着くころ絶対頭が回らないやつです……」
「今起きていても、頭は回っていないように見えるが」
「辛辣!」
抗議しながらも、まぶたが重い。
昨夜、報告書を書き上げたのは夜明け前。
仮眠を取ろうとしたところで、ヘルマンに呼ばれて“口頭報告”をもう一度やらされ、そのまま準備して砦を出たのだ。
「その報告書、そんなにすぐ必要なんですか?」
「必要だ」
ユリウスが紙束を持ち上げる。
「“辺境砦第一次襲撃における医療互助制度適用記録”——
これは、そのまま“国庫から戦時特別金を引き出すための申請書”になる」
「タイトルもうちょっとかっこよくできません?」
「内容がかっこよければ十分だ」
さらりと言われて、返す言葉に詰まる。
「……ところで、最後の一行は何だ」
ユリウスが、紙の隅を指で叩いた。
『——これは、守れなかった約束を書き残すための報告書でもある』
「勢いで書いたんです」
「勢いで大臣にぶつけるつもりか」
「えっ、そこまで行きます?」
思わず身を乗り出す。
「ラドクリフ顧問官が“上に回す”と言っていた。
“数字の羅列だけより、現場の息がかかっているほうがいい”そうだ」
つまり、この一行も丸ごと王宮に行く、ということだ。
(……恥ずかしさで死ねる)
顔から火が出そうになっていると、ユリウスが少しだけ柔らかい声で続けた。
「だが、悪くない」
「え」
「“守れた数”しか書かない報告は、机の上で腐る」
彼は、窓の外の景色に目をやりながら言った。
「“守れなかった数”を書き残すからこそ、次の予算がつく。
数字も、祈りも、その点では同じだ」
その言葉に、胸の奥がすこし軽くなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言う相手は、砦で死んだ兵士たちだろう」
静かな言葉が、馬車の中に落ちた。
私は、小さく頷いて目を閉じる。
揺れる車輪の音に紛れて、意識がやっと闇に沈んでいった。
◇◇◇
王都に戻ると、空気はいつものように騒がしく、どこかのんきだった。
ギルドに顔を出すと、マリナが両手を広げて出迎えてくれる。
「おかえり。
こっちはこっちで、“最初の苦情その2・その3”って感じだったけどね」
「増えてる!?」
「でも、“待機期間”と“緊急支援箱”の説明したら、案外ちゃんと聞いてくれたわよ。
“砦での事例”も一緒に話したからかな」
マリナは、ニヤリと笑った。
「“お前らの三割が、辺境の兵の命を繋いだんだぞ”って」
「煽り方が上手すぎません?」
「事実でしょ?」
そうサラッと言われると、何も言い返せない。
「リゼルさん!」
カウンターの奥から、ミラが飛び出してきた。
「砦での話、もっと聞かせてください!
報告書の写し、ラドクリフ様から少しだけ見せてもらったんですけど……」
「あっちこっちに回ってるんですね、あの報告書……」
耳まで赤くなりながら、私は額を押さえた。
◇◇◇
その日の午後。
私は、財務省新館の一室——“医療互助制度調整室(仮)”と書かれた仰々しい札のかかった部屋にいた。
ラドクリフ顧問官が、例の報告書を机に広げている。
「いやあ、良い意味で予想を裏切られましたよ」
「どのへんがですか?」
「数字の整理の仕方が、思ったよりも冷静だ」
ラドクリフは、楽しそうにペン先で紙を叩いた。
「互助三割・砦二割・戦時特別金五割。
“どこまでが日常で、どこからが戦争か”をきちんと切り分けている。
普通なら、“全部互助で賄いたいけど足りませんでした”で終わらせがちなのに」
「それは……ユリウスさんの教育のおかげですね」
視線を横にやると、当の本人は無表情で別の書類を読んでいる。
「そして何より、この一行だ」
ラドクリフは、最後の一行を指さした。
『——これは、守れなかった約束を書き残すための報告書でもある』
「財務大臣が、ここでしばらく手を止めましてね」
「うわあああああ」
思わず机に突っ伏したくなる。
「“守れた約束だけを並べる報告なら、うちの官僚でも書ける。
だが、この一行は現場でしか書けない”と」
ラドクリフの口調は、少しだけ真面目だった。
「おかげで、“辺境砦での特例”は、大臣レベルまで一気に話が進みました」
「……ということは?」
「今から、その“大臣レベルの話し合い”に行ってきます」
ラドクリフは立ち上がり、外套を羽織る。
「財務大臣と軍務大臣、それに王宮の側近たち。
そこに、うちの財務官殿も同席する」
と、ユリウスを見る。
「私は、廊下で待ってますか?」
そう尋ねると、ラドクリフが首を振った。
「許されるなら、あなたにも同席してほしいくらいですが……
残念ながら、“元聖女兼現場担当”は、まだ会議室の外側の立場だ」
「ですよね……」
「でも、君がこの部屋にいてくれればそれでいい」
ラドクリフは、にやりと笑う。
「“ここに戻る場所がある”と思えれば、我々も無茶をしやすいので」
「無茶前提で行かないでください!?」
◇◇◇
ユリウスとラドクリフが部屋を出て行き、私はぽつんと残された。
窓の外には、王宮の尖塔が見える。
そのどこかの部屋で、今から“この制度を国としてどう扱うか”が話し合われるのだ。
(……怖いな)
砦の襲撃の夜より、少しだけ違う種類の怖さ。
あっちは、目の前で血が流れていた。
こっちは、目に見えないところで数字が動く。
どちらも、誰かの生活と命を左右する。
机の上には、砦の報告書と、街外れの礼拝堂から届いた支部報告。
そして、ミラが書いた“ギルドでの苦情対応メモ”が重なっている。
私は、それらを一枚ずつ手に取り、ゆっくりと読み返した。
——こうして紙にしてしまうと、“生活の匂い”が薄くなる。
それでも、紙がなければ、王宮の部屋まで届くこともない。
(祈りを数字にするって、本当にめんどくさい)
心の中でそう愚痴りながら、私はペンを握った。
会議室から戻ってくる彼らに渡す、“現場からの追加メモ”を書くために。
◇◇◇
日が傾き始めたころ、扉が開いた。
「ただいま戻りました」
ラドクリフが、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。
その後ろで、ユリウスが少しだけ肩を落としているように見えた。
「ど、どうでした?」
思わず立ち上がると、ラドクリフが両手を広げて見せた。
「半分成功、半分宿題、といったところですね」
「具体的に言ってください」
「まず、“辺境砦での特例措置”——互助三割・砦二割・戦時特別金五割。
これは正式に承認されました」
胸が、どくんと大きく脈打つ。
「さらに、“医療互助制度調整室(仮)”は、三年間の試験期間付きで“正式な室”に昇格です」
ラドクリフが、壁の札を指さした。
「“仮”が取れる日が来るとは」
「正式名称は長くて覚えなくていいです。
実務上は、“癒やし互助室”と呼ばれることになりそうですが」
なんだか少し、くすぐったい名前だ。
「ただし」
ラドクリフの表情が少しだけ真剣になる。
「“全国一斉導入”は、まだです」
「……やっぱり、そう簡単にはいきませんか」
「戦争は、辺境だけの話ではない。
“他の砦や都市でも同じことが起きたらどうするのか”——
そこに対する答えを、我々はまだ持っていない」
ユリウスが、静かに続けた。
「三年間。
そのあいだに、“この制度が本当に国を支えうるか”を、実例で示せと言われた」
「実例……」
街外れの礼拝堂。
ギルド。
辺境砦。
そして、まだ見ぬ別の街や村。
頭の中に、点のように光る場所が浮かぶ。
「三年後、“互助をやめる理由より、続ける理由のほうが多い”と思わせなければならない」
ユリウスの言葉は厳しいが、どこか挑むようでもあった。
「できますか?」
ラドクリフが、笑っていない目で私を見る。
喉が、ひとつ鳴った。
「……やります」
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
「“全国一斉導入”なんて大きなことは、まだ想像できません。
でも、“目の前の人が、治療費のせいで祈る余裕を奪われない世界”は、想像できます」
私は、胸の奥にある光の糸を握りしめるような気持ちで続けた。
「それを三年間、ひとつずつ増やしていきます。
もし途中で“これは違う”って思ったら、そのときは……」
「机を蹴飛ばして帰るか?」
ユリウスが、わざとらしくため息をついた。
「その前に、机の上の数字を書き換えに行きます」
そう言って笑うと、ラドクリフが声を立てて笑った。
「いやあ、本当に厄介な現場担当を手に入れてしまいましたね、我々は」
「今さら返却不可ですから」
私も、ようやく笑えた。
◇◇◇
その日の帰り道。
夕焼けに染まる王都の街並みを歩きながら、私はふと隣の男に声をかけた。
「ユリウスさん」
「なんだ」
「……もし、三年後に“失敗でした”ってなったら、どうします?」
自分で口にして、胸が少し痛くなる。
ユリウスはしばらく黙って歩き、やがて淡々と答えた。
「別の形で続けるだろうな」
「え?」
「国の事業としては終わるかもしれない。
だが、“祈りを諦めない仕組み”は、国の看板がなくてもどこかで必要とされる」
彼は、空を見上げた。
「街外れの礼拝堂かもしれないし、辺境砦かもしれない。
あるいは、まったく別の場所かもしれない。
そのときは——国ではなく、“君と私と、現場にいる誰か”の事業として続ければいい」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……それ、かなり面倒くさいですよ?」
「今さらか」
ユリウスは、目だけで私を見た。
「“面倒くさい祈り方”を始めたのは君だ。
最後まで付き合ってもらう」
「道連れ宣言しないでください」
笑いながらも、心のどこかで、ほっと息をつく。
——たとえ三年後に、国が背を向けたとしても。
この男は、きっと机を抱えてでも現場に降りてくる。
その確信が、足元を少しだけ軽くした。
◇◇◇
街外れの空は、王都の塔ほど高くはないけれど、広かった。
礼拝堂の屋根に登って、ひとり空を見上げる。
砦で死んだ兵士たちの数。
守れた命の数。
数字になりきれない祈りの数。
それらが、ぼんやりと空に浮かんでいくような気がする。
「……祈りの形は、神殿の決めたとおりじゃなくていい」
小さく呟く。
「“守りたい誰か”の数だけ、増えていけばいい」
それが、きっと“信仰心が足りない聖女”なりの、神様との付き合い方だ。
私は胸の前でそっと指を組み、深く息を吸った。
——三年あれば、きっともっとたくさんの線を引ける。
守れなかった約束も抱えたまま、それでも「ここまで守る」と言える線を。
そしていつか、振り返ったとき。
「この世界で、“治療費のせいで祈りを諦めた人”が、少しでも減っていたなら——
そのときはきっと、この面倒くさい祈り方も、間違いじゃなかったって笑える」
そう信じたくて、私はもう一度だけ空に向かって目を閉じた。
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