前世アラサー独身、異世界では王太子の教育係として「恋愛感情」を教えています

cotonoha garden

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第29話 噂の火と守りたい距離

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 自分の気持ちに火がついたのが先か、宮廷の噂に火がついたのが先かなんて、もう誰にも分からない。 
 ひとつだけ確かなのは、燃えて困るのはいつだって“女の側”だという、前世でも今世でも変わらない理不尽さだった。 
 
 ◇◇◇ 
 
 春季祝典まで、あと五日。 
 
 朝の回廊は、いつもより人の足が早かった。 
 飾り付けの確認に行く侍女、献立の調整に向かう料理長、事前の打ち合わせに走る文官たち。 
 
 そんな中を通り抜けていると、柱の陰からひそひそ声が聞こえてきた。 
 
 「ねえ聞いた? 王太子殿下の“恋愛教育”のこと」 
 「教育係様が殿下のご趣味を決めておられるんですって」 
 「まあ、趣味って……。でも殿下、あの方には特別な信頼をお寄せですものね」 
 「春季祝典の劇なんて、まるで“お別れごっこ”だって話よ。 
 ああやって殿下の未練をうまく断ち切って、 
 今度はご令嬢方に“本気になってくださいませ”っていう台本なんだとか」 
 
 (……誰の脚本よ、それ) 
 
 心の中でだけ、思わず突っ込む。 
 
 「でも、教育係様の方もしたたかだわ。 
 殿下のすぐ後ろの席を陛下から与えられるなんて」 
 「そうよね。 
 “背中側にいる女”って、一番忘れられないものよ」 
 
 そこまで聞いて、足を止めるのをやめた。 
 立ち止まれば、余計に“聞いている”ことが伝わってしまう。 
 
 (知ってる。宮廷の噂は、だいたい事実と妄想の盛り合わせ) 
 
 前世の職場の給湯室と、あまり構造が変わらないことに、苦笑したくなる。 
 
 ――ただ。 
 
 「“殿下の未練を断ち切るための台本”」なんて言葉を聞かされると、 
 心臓のどこか柔らかい部分が、ぎゅっとつねられたみたいに痛んだ。 
 
 (私の役目は、 
 殿下の恋愛感情の“練習相手”であっても、 
 “未練”になるつもりは、最初からない) 
 
 だからこそ、 
 きちんと距離を守らなければならない。 
 
 ◇◇◇ 
 
 その日のレッスン準備に、私は少しだけ時間をかけた。 
 
 黒板の上部には、いつものように大きくテーマを書く。 
 
 “LESSON:距離の取り方と噂への対処” 
 
 レオンが教室に入ってくる前に、 
 私は自分の胸の中で何度も深呼吸をした。 
 
 (今日は、“教育係様”に振り切る。 
 私情は、一旦全部ノートの中に閉じ込めておく) 
 
 扉が開き、 
 レオンがいつものように真っ直ぐこちらへ歩いてきた。 
 
 「おはようございます、ミサ」 
 
 「おはようございます、殿下」 
 
 意識して、 
 少しだけ距離を空けた挨拶をする。 
 
 レオンの眉が、ほんの少しだけ動いた。 
 
 「本日のテーマは?」 
 
 「“距離の取り方と、噂への対処”です」 
 
 そう言って黒板を指さすと、 
 レオンは「なるほど」と頷いた。 
 
 「祝典が近づけば、 
 殿下の一挙手一投足が注目されます。 
 
 どのご令嬢とどのくらい話したか。 
 誰のドレスの色に目を留めたか。 
 
 そして、殿下が“誰とどの距離に立っていたか”。」 
 
 私は、いつものレッスンよりも少しだけ早口になっているのを自覚していた。 
 
 「今日は、 
 その“距離”について、 
 意識的に考えていただきたいのです」 
 
 「噂の火種を、最初から少しずつ潰しておくために、ですね」 
 
 レオンは、あっさりと核心に触れてくる。 
 
 「……はい」 
 
 否定できない。 
 
 「殿下は王太子として、“選ばれる側”であると同時に、 
 “選ぶ側”でもあります。 
 
 でも、噂の中で勝手に“選んだことにされる”場面も多いでしょう」 
 
 「例えば、“殿下はフェルナー令嬢に夢中だ”といった具合に」 
 
 前世の週刊誌のような見出しを、 
 さらりと言うのはやめてほしい。 
 
 「そのような噂が立ったとしても、 
 そこに巻き込まれる人たちがいることを、 
 忘れないでいただきたいのです」 
 
 「巻き込まれる人」 
 
 レオンは、黒板に視線を向けたまま呟く。 
 
 「たとえば、噂の相手にされる令嬢。 
 そのご家族。 
 
 そして、“殿下の心を操っている”と見なされる人間」 
 
 最後の一言に、 
 自分で自分の胸がちくりと痛んだ。 
 
 「ミサ」 
 
 レオンが、ゆっくりとこちらを向く。 
 
 「宮廷の噂は、すでに耳に入っているんですね」 
 
 (ですよね。ごまかせるはずがない) 
 
 「“恋愛教育係が殿下の趣味を決めている”とか、 
 “春季祝典は未練を断ち切る茶番劇だ”とか、 
 その程度のものは」 
 
 軽く肩をすくめて見せる。 
 
 「前世の会社でも、 
 似たような噂は山ほど聞きましたので」 
 
 「会社?」 
 
 「あ、いえ。前の人生の話です」 
 
 さらりと流すと、 
 レオンは少しだけ苦笑した。 
 
 「僕は、ミサのことを“操られている”なんて一度も思ったことはありません」 
 
 「そうであれば、何よりです」 
 
 「でも、周囲がそう思う可能性があることは、 
 僕もようやく想像できるようになってきました」 
 
 (“ようやく”というところに、成長を感じる) 
 
 ◇◇◇ 
 
 その日のレッスンは、 
 祝典当日の一部を想定した“会話シミュレーション”になった。 
 
 「では、フェルナー令嬢が殿下の右隣に座っていらっしゃるとして――」 
 
 私は椅子を二脚並べ、 
 自分が仮のフェルナー令嬢役となって座る。 
 
 「殿下は、最初にどのような言葉をかけますか」 
 
 「“本日はお越しいただきありがとうございます”」 
 
 「良い切り出しですね。 
 では、そのまま続けてください」 
 
 レオンは、真面目な顔で言葉を紡いでいく。 
 
 「以前から、フェルナー家の慈善活動について伺っていました。 
 孤児院への支援や学舎への寄付、素晴らしいと感じています」 
 
 (さすが、事前に台本を頭に入れている) 
 
 「フェルナー令嬢が、 
 “殿下のご教育係であるミサ様の授業が気になっております”と仰ったとしたら?」 
 
 「……それは、実際にありそうですね」 
 
 レオンが少し眉を上げる。 
 
 「その場合はこう答えます。 
 
 “彼女は、僕に世界の見方を教えてくれた人です。 
 ですが今は、王国の多くの子どもたちに、 
 同じ視点を伝えようとしてくれています”」 
 
 「“僕に”ではなく、“多くの子どもたちに”と、対象を広げるわけですね」 
 
 「ええ。 
 
 ミサを“王太子のためだけの特別な存在”にしてしまうと、 
 噂の火種が増えますから」 
 
 その言い方は、 
 どこか私への気遣いにも聞こえた。 
 
 「でも、事実として。 
 ミサは僕にとって特別な人です」 
 
 「殿下」 
 
 空気が、少しだけ詰まる。 
 
 「“特別”の中身を整理してください」 
 
 私は、あくまで授業の一環として言い返した。 
 
 「尊敬なのか、信頼なのか、感謝なのか。 
 あるいは、恋なのか」 
 
 最後の単語を口にするまでに、 
 わずかに間が空いた。 
 
 「全部が混ざったまま“特別”と呼ぶと、 
 噂は勝手な形を取ります。 
 
 でも、殿下自身が内側で言葉を整理できていれば、 
 たとえ噂がどう形を変えても、 
 揺らぎにくくなります」 
 
 (そして何より、私が混ざったままの“特別”に飲み込まれずにすむ) 
 
 レオンは、少し黙って考えたあと、 
 静かに口を開いた。 
 
 「今、すべてを言葉にすることはできません」 
 
 「……そうでしょうね」 
 
 「でも、“尊敬”と“信頼”と“感謝”があることは、 
 はっきりしています」 
 
 「それだけでも十分です」 
 
 「それ以上については――」 
 
 彼は、私から視線をそらさずに言った。 
 
 「祝典が終わって、“レオンとミサ”として話をするときに、 
 自分なりの答えを持っていられるようにしておきます」 
 
 胸の奥が、じん、と熱くなる。 
 
 (約束を、ちゃんと“宿題”みたいに扱わないでほしい) 
 
 ◇◇◇ 
 
 レッスンの終わり際。 
 
 教室の扉がノックされ、 
 侍女長のリーナが顔を覗かせた。 
 
 「失礼いたします。 
 ミサ様、少々よろしいでしょうか」 
 
 「殿下、本日のレッスンはここまでといたしましょう」 
 
 軽く会釈して、 
 私はリーナと共に廊下に出た。 
 
 「何かありましたか」 
 
 「先ほど、侯爵夫人方が“席順”についてまたひとしきり話しておりまして」 
 
 リーナは、少しだけ苦笑する。 
 
 「ミサ様の席が“殿下の背中側”であることに、 
 やはり一部から不満が出ています」 
 
 (ですよね、第二ラウンド) 
 
 「王妃様は“決定事項です”とおっしゃってくださいましたが、 
 一応お伝えしておいた方がよいかと」 
 
 「ありがとうございます」 
 
 (守られている。 
 私は今、ちゃんと“守ってもらう側”にもいるんだ) 
 
 「ただ――」 
 
 リーナが、少し言い淀んだ。 
 
 「フェルナー令嬢がお母上にこうおっしゃったそうです。 
 
 “殿下の背中側に立つ教育係様を、 
 私たち候補が讒言して追い出すような形にはしたくありません”と」 
 
 「リリアナ様が?」 
 
 意外だった。 
 
 「ええ。 
 “殿下の信頼している方を傷つけたのなら、 
 その時点で自分は王太子妃の器ではない”とも」 
 
 胸の奥が、じわりと熱くなる。 
 
 (あの人は、本当に“隣の席を争う”ためだけに来ているわけじゃないんだ) 
 
 「……ありがたいですね」 
 
 素直にそう言うと、 
 リーナは小さく微笑んだ。 
 
 「噂の火は、完全には消せません。 
 
 けれど、“火の向き”を変えてくれる人もいるのです」 
 
 その言葉は、 
 今の私には何よりの救いだった。 
 
 ◇◇◇ 
 
 夜。 
 
 ノートを開き、新しいページに書く。 
 
 “LESSON 21:噂の中で守る言葉” 
 
 “宮廷の噂は、 
 前世の給湯室と同じくらい勝手に燃える。 
 
 “殿下の趣味を決めている女” 
 “未練を断ち切る茶番劇の台本” 
 “背中側に居座る女” 
 
 きっと、これからもいろいろな名前で呼ばれるだろう。 
 
 でも、その全部が“私”ではない。 
 
 本当に私を見てくれている人たち―― 
 王妃様、リーナ、レオン、そしてフェルナー令嬢のような人――は、 
 
 噂ではなく、 
 私の“立ち位置”と“選んだ言葉”で判断してくれる。” 
 
 ペンを一度止め、 
 窓の外の夜空を見上げる。 
 
 “私は、噂に勝つ必要はない。 
 
 噂に、自分の物語を書かせないように、 
 小さな言葉と距離を、自分で選び続ければいい。” 
 
 そう書き足して、 
 ノートを閉じた。 
 
 前世では、 
 噂にどんなラベルを貼られても、 
 ただ黙ってやり過ごすしかなかった。 
 
 今世の私は、 
 少なくとも“自分で選んだ立ち位置”と、 
 “自分で選んだ約束”を持っている。 
 
 ――春季祝典の日、 
 殿下の背中側に立つ自分を想像しながら、 
 私はそっと胸の中で言葉を反芻した。 
 
 「噂で決められる女じゃなくて、 
 自分で決める女でいたい」 
 
 その小さな決意だけは、 
 どんな火の手にも簡単には焼かれないような気がしていた。
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