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第31話 仮面の笑顔の練習
しおりを挟む誰かの心を守るための笑顔ほど、自分の心を削るものはない。
それを前世で嫌というほど知っているのに、私はまた、王宮で同じ笑い方をしようとしていた。
◇◇◇
春季祝典まで、あと二日。
午前中、私は王妃陛下付きの小広間に呼ばれていた。
そこは大広間よりずっとこぢんまりとしていて、鏡張りの壁と淡い色合いの絨毯が印象的な部屋だ。
「ミサ、来てくれてありがとう」
王妃陛下は、窓際の椅子に腰掛けていた。
その隣にはレオン、向かいにはフェルナー侯爵令嬢――リリアナが座っている。
「今日は、“笑顔”のレッスンをお願いしたくてね」
「笑顔、でございますか」
思わず聞き返すと、王妃陛下は少しだけ困ったように笑った。
「祝典の最中、殿下と候補のご令嬢方は、たくさんの人から視線を浴びるわ。
そのたびに、いちいち本音で一喜一憂していたら、身が持たないでしょう?」
(……ですよね)
前世の「営業スマイル」が頭をよぎる。
お客様に向ける形だけの笑顔。
上司に向ける、疲れを隠す笑顔。
「“心からの笑顔”と、“礼儀としての微笑み”。
それを上手に使い分ける術を、あなたなら教えられると思って」
「……承知いたしました」
できるだけ平静を装って頭を下げる。
(教えられる。教えられるけれど――
できれば、レオンには“仮面の笑顔”ばかり覚えてほしくなかった)
そんなわがままは、胸の奥に押し込めた。
◇◇◇
小広間の中央、姿見の前に三人で立つ。
「本日のテーマは、“仮面の笑顔と、本音の笑顔”です」
黒板の代わりに、小さな手帳を開いて見せる。
「まずは、お二人の“いつもの笑顔”を見せていただけますか」
レオンは素直に頷き、鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
少年らしい無邪気さと、王太子としての品の良さが同居した笑顔。
何度も見てきた、大好きな顔だ。
リリアナも、きちんと形の整った微笑みを浮かべる。
優雅で、完璧で、どこにも隙のない「侯爵令嬢の笑顔」。
「お二人とも、とても素敵です」
それは本心だった。
「ただ、今日お教えしたいのは、“もう一段階外側の笑顔”です」
「もう一段階、外側?」
レオンが首をかしげる。
「はい。
心の中ではまったく笑っていなくても、
相手を不安にさせないために浮かべる笑顔。
“今、ここで感情を見せてしまったら、
誰かが傷つくかもしれない”と感じたときに使う、
ごく薄い仮面のような笑みです」
リリアナが、ほんのわずか目を伏せた。
「……それは、必要なものだと思います」
その声には、どこか諦めに似た響きがあった。
(ああ、この人はきっと、もうとっくに身につけているんだ)
侯爵令嬢としての義務。
家の顔としての笑顔。
それを、私よりずっと長く練習してきたに違いない。
「では、まず私が例をお見せしますね」
鏡の前に一歩出る。
前世の自分を思い出す。
――深夜残業明け、クレーム対応の電話を取る前。
――結婚報告をしてきた同僚に、「おめでとう」と言うとき。
心の中で、そっと何かに蓋をする。
口角だけを少し上げて、
目元の笑い皺は増やさない。
声のトーンを半歩だけ高くする。
「いらっしゃいませ。本日はお越しいただきありがとうございます」
前世の台詞が、自然に出てしまった。
レオンとリリアナが、静かにこちらを見つめている。
「……今のが、“仮面の笑顔”です」
笑みを解いて、息を吐く。
「心の中ではまったく笑っていなくても、
“ここで感情を出してはいけない”ときに使う笑顔。
便利ですが、使いすぎると自分の心が擦り減ってしまいます」
「ミサは、前の人生でそれをずっと使っていたんですか」
レオンの問いに、少しだけ苦笑した。
「そうですね。
気がついたら、それで一日が終わっている日もありました」
「……嫌じゃなかったんですか」
「嫌でしたよ。
でも、あのときの私は、
“それが仕事だから仕方ない”と思っていました」
(今思えば、かなり危険な働き方だった)
「だからこそ、殿下には伝えておきたいのです。
“仮面の笑顔”は必要な場面でだけ使ってください。
それ以外のときは、なるべく素直な表情でいてください」
レオンは、鏡の中の自分を見つめながら、小さく頷いた。
「……ミサが、僕の前で“仮面の笑顔”を使っていることはありますか」
不意打ちの質問だった。
「え?」
「さっきの、目だけ笑っていない笑顔。
僕はあれを、何度か見たことがある気がします」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
(見られていた。やっぱり)
「殿下の前では、
なるべく本音で笑うようにしているつもりですが――」
言いながら、自分の言葉に引っかかりを覚えた。
“つもり”。
「……きっと、使ってしまっていたのでしょうね」
認めるしかなかった。
「殿下の将来のことを考えるとき。
“教育係として見守らなければならない”と自分に言い聞かせるとき。
私は、どこかで“ミサ”ではなく“教育係様”の顔をしていたのだと思います」
レオンは、少しだけ目を伏せた。
「僕は、嫌でした」
「……ごめんなさい」
「いえ。
でも、今日ちゃんと名前をつけてもらえたので、
少しだけ安心しました」
「名前?」
「“仮面の笑顔”という名前です。
これからもしミサが、僕の前でその笑顔を使ったら――
“ああ、今は教育係としての距離を守ろうとしているんだな”って分かります」
そう言って、彼は鏡の中で自分に向かって薄く笑ってみせた。
「僕も、ミサの前で“仮面の笑顔”を使うことがあるかもしれません」
「殿下が、私の前で?」
「はい。
たとえば祝典の日。
たくさんのご令嬢と話しているとき、
本当はミサと話したいと思っていても――」
そこでわざと一度言葉を切り、
レオンは肩をすくめた。
「王太子として、社交を優先しなければならない場面があるでしょう」
胸のどこかが、ちくりと痛む。
「そのときに、
ミサが“仮面の笑顔”の名前を覚えていてくれたらいいなと思って」
「……“ああ、今は王太子として仮面をつけているんだな”と?」
「そうです」
レオンは鏡越しに私と目を合わせた。
「僕たちにしか分からない“合図”みたいで、少し心強くないですか」
(ずるい)
「仮面の笑顔」なんて言葉に、
そんな甘い意味を重ねるのは反則だ。
「ミサ様」
それまで静かに聞いていたリリアナが、
そっと口を開いた。
「私にも、“仮面の笑顔”の付け方を教えていただけますか」
「リリアナ様は、もうとてもお上手だと思いますが」
「いえ。
私は、仮面をつけすぎて本当の顔を忘れてしまいそうで」
リリアナは鏡から目をそらし、少しだけ寂しそうに笑った。
「殿下の隣に座る席を与えられれば、
これまで以上に“完璧な侯爵令嬢”でいなければなりません。
でも、本当はときどき、
誰かの前で仮面を外してもいいのだと知りたいのです」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
(この人もまた、“選ばれる女”としてだけそこにいるわけじゃない)
「……では、少し変わった練習をしましょうか」
私は二人を鏡の前に立たせ、自分は少し離れた位置に座った。
「今からお二人には、“仮面の笑顔”で自己紹介をしていただきます。
そのあと、仮面を外したつもりで、
もう一度だけ、誰にも言ったことのない本音を一言だけ添えてください」
「本音を?」
レオンとリリアナが、同時に聞き返す。
「はい。
たとえば“王太子としての挨拶”と、
“十七歳の一人の少年としてのぼやき”。
“侯爵家の令嬢としての言葉”と、
“年相応の娘としての小さな本音”。
誰にも聞こえないつもりで、鏡の中の自分にだけ言ってみてください」
前世の私が、
洗面台の鏡に向かって「もう帰りたい」と呟いた夜を思い出しながら、
そっと続ける。
「ここは、小広間です。
王妃陛下と私以外には、誰も聞いていません。
……そして私は、教育係としてだけでなく、
“前に同じように仮面をつけていた女”として、
その本音をちゃんと受け止めます」
王妃陛下が、そっと頷いた。
「ミサがそう言うなら、私も“母”として聞かせてもらいましょう」
◇◇◇
最初に鏡の前に立ったのは、リリアナだった。
「フェルナー侯爵家の長女、リリアナと申します」
完璧な礼と笑み。
「王家に忠誠を誓い、
家の名誉を守ることを第一といたします」
そこまでは、誰もが知っている彼女だ。
「……それから」
ほんの一瞬、まぶたが揺れた。
「本当は、もう少し寝坊してみたいと思っています」
思わず、王妃陛下と顔を見合わせる。
リリアナ自身も、少し照れたように笑った。
「私は毎朝、家の誰よりも早く起きて準備をしています。
でも、たまには――誰にも気づかれずに、
陽が高くなるまで布団の中にいたいと思うことがあるのです」
その本音は、小さくて、愛おしかった。
「素敵な本音ですね」
心からそう言うと、
リリアナはほっとしたように肩の力を抜いた。
次に、レオンが鏡の前に立つ。
「アルノルト王国の王太子、レオンハルトです」
凛とした声と、礼儀正しい笑顔。
「この国と、人々と、
そして支えてくれる者たちを守ると誓います」
そこまではいつものレオンだ。
「……それから」
鏡の中の自分をじっと見つめ、
彼はほんの少しだけ口元を緩めた。
「本当は、祝典の夜が終わったあと、
“ミサとだけ話せる時間”を、ずっと楽しみにしています」
「殿下」
思わず声が漏れた。
「それは、“誰にも聞こえないつもりの本音”です」
彼は、鏡越しに私と目を合わせた。
「僕が仮面をつけていてもいなくても、
その時間だけは、王太子でも候補でもなく、
“レオンとミサ”でいられたらいいなと思っています」
胸の奥が、熱くて痛くて、苦しくなる。
(そんなの、ずるい)
「……レッスンとしては、合格です」
なんとかそれだけ言って、
私は視線をテーブルの方へそらした。
◇◇◇
その日の夜。
自室の机にノートを広げる。
“LESSON 23:仮面の笑顔と本音の一言”
“前世の私は、
一日のほとんどを“仮面の笑顔”で過ごしていた。
「お疲れさまです」
「大丈夫ですよ」
「気にしないでください」
本当は疲れていて、
本当は大丈夫じゃなくて、
本当は気にしてほしかった日も、たくさんあったのに。
今世の私は、
王太子と侯爵令嬢に、“仮面の笑顔”の付け方を教えた。
でも同時に、
仮面の裏側で小さな本音を持っていていいことも、
知ってほしいと思った。
“本当は寝坊してみたい”
“本当はミサと話せる時間を楽しみにしている”
あの一言たちが、
仮面の内側の世界を、少しだけ柔らかくしてくれる。”
ペンを置き、窓の外を見上げる。
祝典まで、あと二日。
噂も視線も、きっと今以上に渦巻くだろう。
それでも――
「王太子と侯爵令嬢としてではなく、
一人の少年と一人の少女として漏らした本音を、
私はちゃんと覚えていたい」
そう心の中で呟いて、
ノートを閉じた。
仮面をつける術を教えながら、
いつか自分自身の仮面を外せる日が来ることを、
前世より少しだけ図々しく、私は願い始めていた。
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