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第32話 手を離す練習
しおりを挟む王太子の手を離す練習をする日が来るなんて、さすがに前世の私は想像していなかった。
それが舞台の上での話でも、本番が近づくほど、胸の中では危険なくらい現実に近づいていく。
◇◇◇
春季祝典まで、あと一日。
大広間の舞台は、ほぼ本番通りに整えられていた。
緞帳は新しい金糸のものに掛け替えられ、客席には高位貴族たちの家紋入りクッションまでセットされている。
「本日は最終通し稽古とします」
舞台監督役の文官が声を張り上げる。
「王陛下と王妃陛下も、途中からご覧になります」
その言葉に、舞台袖で聞いていたレオンの背筋が、ほんの少しだけ伸びた。
「ミサ」
「はい、殿下」
「今日の稽古で、もし何か修正が必要なら、遠慮なく言ってください」
「もちろんです」
(むしろ、こちらが遠慮したいくらいなんだけど)
そんな心の声は、喉の奥で飲み込んだ。
「……ああ、そうだ」
通し稽古の前に、王妃陛下からひとつだけ追加の指示が出ていたことを思い出す。
「終幕の“手を取る場面”、覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。弟子が師の手を取って、“ありがとうございました”と言うところですよね」
レオンは、あの台詞を全部覚えているはずだ。
「そこを、少し変えます」
「変える?」
「弟子が“ありがとうございました”と言ったあと、
師の方から先に、手を離してください」
レオンの表情が、目に見えて固まった。
「師の方から、ですか」
「はい。
“感謝を受け取ったうえで、自分から手を離し、
弟子の背中を見送る”――
そういう形に、演出を変えたいと思います」
それは、王妃陛下からの提案だった。
『ミサ。
あなたにとっても、殿下にとっても、きっと大事な“練習”になると思うの』
そう柔らかく微笑みながら、王妃陛下は言っていた。
(“大事な練習”。
分かっています。いずれ、嫌でも必要になるもの)
王太子が本当に誰かを選んだとき。
教育係の私は、“仕事”として、きちんと手を離さなければならない。
「……分かりました」
レオンが、小さくうなずく。
「師の方から、手を離すんですね」
その声には、受け入れたというより、
“覚悟を切り取られた”ような硬さがあった。
◇◇◇
通し稽古が始まった。
第一幕、少年時代の出会い。
第二幕、師の言葉に反発しながらも少しずつ成長していく弟子。
舞台の上で交わされる台詞の多くは、
私とレオンがこれまで本当に交わしてきた言葉を、
少しだけ脚色したものだ。
「“好き”と“憧れ”は違うんですか」
「違います。
憧れは遠くから見上げるもの。
“好き”は、同じ高さで見つめ合うものです」
レオンの演技が、
演技であるはずなのに、
ときどき、舞台の上と下の境目を曖昧にしてくる。
(それを望んだのは、私の方なんだけど)
恋愛レッスンを、物語と現実の間でふらふらと揺らし続けてきたのは、
紛れもなく私だ。
第三幕、別れの場面。
いよいよ、問題のシーンだ。
師役の私と、弟子役のレオンが、舞台の中央に向かい合って立つ。
「ここからは、変更後の動きでお願いします」
舞台袖から文官が声をかけてくる。
「了解しました」
私は、心の中で数を数えた。
(五歩進んで、立ち止まって、顔を上げる)
台詞は、もう身体に染み込んでいる。
「……ここで、お別れですね」
弟子役のレオンが、わざと少しだけ震えた声を出す。
「私がいなくても、
あなたならきっと、大丈夫ですよ」
師役の私は、
自分の口から出ていくその言葉に、
少しだけ自分で傷ついていた。
レオンが、一歩近づいてくる。
台本通りなら、このあと弟子が師の手を取る。
「ありがとうございました」
伸ばされた手を、私は受け取った。
舞台用の灯りの下で、
彼の手は、いつもより少しだけ汗ばんでいる。
(ここから、変更後の動き)
弟子が手を握ったまま、
ほんの少しだけ目を伏せる。
「……先生」
レオンの声が、
台本にない色を含んだ気がした。
「本当は、ずっと――」
「――ここまでです」
私は、台詞の続きを遮るように、
そっと彼の手から自分の手をほどいた。
舞台用の段取りとしては、そこで一拍置いてから、
弟子が客席の方へ背を向けて進む。
けれどレオンは、その一拍の間、
まるで本当に誰かに置いて行かれた少年のような顔をして、
私の手を見下ろしていた。
(これは芝居。これは芝居)
心の中で何度繰り返しても、
手のひらに残る温度がなかなか消えない。
「殿下、次の動きへ」
袖から小さく指示が飛ぶ。
レオンは、短く息を吸ってから、
ゆっくりと背を向けた。
「ありがとうございました」
台詞は、少しだけ低く、でもはっきりと響いた。
彼の背中を見送りながら、
私は“師として”微笑む。
(この背中を、いつか私は、本当に見送る日が来る)
そう思った瞬間、
胸のどこかが、きゅっと縮んだ。
◇◇◇
通し稽古が終わると、
王と王妃陛下が軽く拍手を送ってくださった。
「よくできていた」
王の短い言葉に、
レオンは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
王妃陛下は、
私の方に視線を向けて微笑んだ。
「ミサ。
“手を離すタイミング”が、とても自然でした」
「身に余るお言葉です」
自然――だったのだろうか。
自分の中では、
あの一瞬が、何倍にも引き延ばされた時間のように感じられた。
「本番でも、
どうか“師として”その手を離してあげてくださいね」
王妃陛下の声には、
母としての願いと、
どこか私への気遣いが混じっていた。
「はい」
私は、頷くしかなかった。
◇◇◇
その日の夕方。
片づけも一段落して、
私は舞台袖の隅で、手袋を外して手のひらを眺めていた。
照明の熱と、緊張と、
レオンの体温と。
いろいろなものが混ざって、まだ少しだけ熱を残している気がした。
「……ミサ」
名前を呼ばれて振り向くと、
レオンが、普段よりも少しだけ疲れた顔で立っていた。
「お疲れさまです、殿下」
「ミサこそ」
彼は、しばらく何も言わず、
私の手元に視線を落としていた。
「さっきの場面」
「はい」
「手を離すタイミング、完璧でしたね」
「それはよかったです。
本番でつっかえてしまうと、劇全体の流れが淀んでしまいますから」
あくまで“演出の話”として返す。
レオンは、ゆっくりと首を振った。
「……正直に言うと、僕は、
あの場面で“完璧”でいてほしくないと思っていました」
「殿下?」
「師の方から手を離されることが、
こんなにもはっきりと“終わり”みたいに感じられるなら」
彼の声は、どこか子どもの頃に戻ったように不安定だった。
「ミサには、少しくらい迷っていてほしかった」
胸の奥が、ズキンと鳴る。
(ほんとは、十分迷っていた)
でもそれを見せてしまったら、
あの場面は“芝居”ではなくなってしまう。
「……迷っていましたよ」
正直に言う。
「ただ、師としては、
迷っている顔を弟子に見せない方が良いと思いました」
「本当のミサとしては?」
質問の矢印が、容赦なく向きを変える。
「本当のミサとして、ですか」
言い換えて問われると、逃げ道が狭くなる。
「本当の私は――」
言葉を探しながら、
私は舞台の床を見つめた。
「本当の私は、自分から手を離すのが苦手な人間です」
前世も、今世も。
「誰かの背中を押すことは得意でも、
自分から距離を取ることは、あまり上手くありません」
「……だから、前世では自分の方が置いて行かれたんですね」
レオンは、あの夜の話を覚えていた。
過労死するまで働いて、
気づいたら誰の人生の中心にもなれずに終わった、
前世の私の話を。
「置いて行かれることには慣れていましたが、
自分から“ここで終わりにします”と言うのは、
最後までできませんでした」
だからこそ、
今世では少しだけでも違う選択がしたいと思った。
「……今回の劇では、
自分から手を離す練習をしているのかもしれませんね」
自分で言って、自分で胸が痛くなる。
レオンは、しばらく黙ってから、
ゆっくりと口を開いた。
「ミサ」
「はい」
「僕は――」
そこで、彼は一度言葉を飲み込んだ。
「本番の日、あの場面でミサに手を離されても」
私の心臓が、嫌な予感と期待で同時に跳ねる。
「勝手に“終わり”だとは思いません」
「……殿下」
「別に、芝居の中でも現実でも。
ミサがいつか、僕から手を離す日が来ても――
それは“ここから別の形の関係が始まる合図”かもしれない、と」
彼は、真剣な目で言った。
「そう思えるくらいには、
ミサと積み重ねてきたものを信じたいんです」
ずるい。
“終わり”ではなく“合図”だなんて言われたら、
私の中で必死に冷やそうとしていたものが、
またじわじわと温度を取り戻してしまう。
「……それは、王太子としてですか?
それとも、“レオン”としてですか?」
気づけば、そう問い返していた。
レオンは、一瞬だけ目を丸くして、
すぐに笑った。
「それは、祝典が終わったあとにお話しする約束でしたよね」
(ちゃんと覚えてる……)
「今はただ、“弟子”として言わせてください」
彼は、少しだけ肩の力を抜いて続けた。
「師匠に手を離されても、
弟子の方から、何度でも“見せたいもの”を持って会いに行ってもいいんですよね」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「……そうですね」
やっと、それだけ答えられた。
「師匠の方だって、
“もう十分だ”と突き放す代わりに、
“またいつでも見せに来なさい”って言うこともできるんですから」
レオンのその言葉に、
私は自分の中の“終わりのイメージ”が、
少し書き換えられていくのを感じた。
◇◇◇
夜。
いつものように机の上にノートを開く。
“LESSON 24:手を離すタイミング”
“前世の私は、
最後まで自分から手を離せなかった。
仕事も、人間関係も、“ここまで”と言えなくて、
気づいたら全部が自分から離れていった。
今世の私は、
王太子の師として、
いつか自分から手を離さなければならない立場にいる。
舞台の上で先に手を離すことは、
その練習のようなものだ。”
ペン先を止め、少し考える。
“でも――
“手を離す”ことは、
“背を向ける”ことと同じではない。
相手の行く先を信じて、
少し後ろから見守る位置を選ぶことだってできる。
殿下が言ってくれたように、
それを“終わり”ではなく“新しい形の合図”だと思えるなら、
前世で一度もできなかった別れ方を、
今世の私は、少しずつ覚えていけるのかもしれない。”
最後に、もう一行だけ書き足す。
“明日、舞台の上で手を離す。
いつか本当に離す日のために――
今だけは、ちゃんと握って、ちゃんと見送れる自分でありたい。”
そう書いてノートを閉じると、
窓の外の夜の空気が、少しだけ優しく感じられた。
“終わり”が怖いままでも、
“合図”としての別れを覚えようとしている自分が、
前世より少しだけ、ましな大人に近づいている気がしたからだ。
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