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第33話 幕が上がる、その前に
しおりを挟む王太子としての彼の一日が始まる前に、教育係としての私の一日はもう半分くらい終わっている。
――それでも今日だけは、彼の一歩目に自分の気持ちを間に合わせたくて、いつもより早く目を覚ました。
◇◇◇
春季祝典当日の朝。
まだ日の光が柔らかい時間帯だというのに、王宮の廊下はすでに慌ただしい空気に満ちていた。
絹の裾が擦れる音、銀器の触れ合う澄んだ響き、香油のほのかな匂い。
私は、与えられた控え室の鏡の前で、自分の襟元を整えていた。
いつもの地味な仕事着ではなく、今日は王宮付き教育係としての正式なドレス。
落ち着いた藍色の生地に、控えめな銀糸の刺繍。
“主役にはならないけれど、舞台の色としては必要な濃さ”――そんな色合いだ。
(うん、目立たない。いい意味で)
自分で自分にそう言い聞かせる。
扉がノックされ、侍女のリーナが顔を覗かせた。
「ミサ様、ご準備はいかがですか」
「襟の乱れさえなければ、どうにか」
冗談めかして返すと、リーナはいつものようにくすりと笑った。
「とてもお似合いです。
殿下も、きっと安心なさいます」
「安心、ですか?」
「はい。“いつもの教育係様だ”と」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
(そうだ。今日は、“特別な誰か”ではなく、“いつもの教育係”でいればいい)
「殿下は?」
「ただいま、王太子としての正装に着替え中です。
……少し緊張なさっているご様子でした」
「そうでしょうね」
何しろ今日は、午前中は公的な式典、昼は社交の場、
そして夕刻には、私たちが中心となる“劇”が控えている。
(朝から晩まで、感情を揺らさずにいる方が難しい)
「では、殿下のお部屋へ寄ってから大広間へ向かいます」
そう告げて、私は立ち上がった。
◇◇◇
王太子の私室の扉をノックすると、
中から「どうぞ」という低い声が聞こえた。
「失礼いたします、殿下」
扉を開けた瞬間、
思わず息を飲む。
いつもの少年らしさを残した制服ではなく、
今日は白と深い青を基調にした王太子の礼装。
胸元には王家の紋章、肩には金糸の飾り紐。
いつもより少しだけ高い襟が、彼の顔立ちの大人びた輪郭を強調していた。
「……よくお似合いです」
素直に出た言葉だった。
「ありがとう、教育係様」
意識して、公的な呼び方を選んでいるのが分かる。
それでも、瞳の奥の色は、
昨日までと変わらない“レオン”のものだった。
「緊張なさっていますか?」
「ええ、少し」
彼は苦笑した。
「王太子としての式典は慣れてきたつもりですが、
今日は“劇”がありますからね。
――間違えたら、ミサに笑われると思うと」
最後だけ、わざと小さな声で付け足す。
「笑いませんよ。
……本番の最中は」
「最中は、ですか」
くすっと笑いがこぼれる。
緊張で固くなりかけていた雰囲気が、少しだけ和らいだ。
「殿下」
「はい」
「本日は、一日の中で何度も“仮面の笑顔”を使うことになると思います」
私が言うと、レオンは真剣な顔で頷いた。
「ええ。
さっきも鏡の前で、少し練習していました」
「使いすぎて、心が疲れ切ってしまわないように――」
言いかけて、ふと言葉を変える。
「もし途中で、どうしようもなく苦しくなったら」
「なったら?」
「私の方を見てください」
レオンの瞳が、わずかに大きくなる。
「仮面なしの、いつもの顔で」
「……それは、式典の最中でも?」
「ええ。
たとえ周りに何人の貴族がいようと、
殿下が一瞬だけでも“レオン”に戻る場所として、
私は“背中側の席”にいます」
それは、私自身への言い聞かせでもあった。
「そして、終わったあとで。
“今日は何回仮面をつけましたか”って、
いつものノートに一緒に書きましょう」
レオンは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……それなら、数が多くても耐えられそうです」
「数が多くなるようなら、途中で休憩を挟むよう王妃陛下に進言します」
「そこまでしてくれる教育係様は、
きっと世界広しといえどミサだけだと思います」
(それを、さらっと口にするのはやめてほしい)
胸の奥が、さっそく忙しくなるのを感じながら、
私は一歩下がって頭を下げた。
「では、そろそろ参りましょうか。王太子殿下」
「はい。教育係様」
彼は、ほんの一瞬だけ私に視線を寄越し、
それから扉の向こう、王宮の喧騒へと足を踏み出した。
◇◇◇
午前中の式典は、滞りなく進んだ。
王の演説、各国からの使節の紹介、
祝辞と献上品の披露。
私は、王家の背後、
“教育係”として控えるべき位置に立ち、
必要なときだけ静かにメモを取る。
レオンは――といえば。
(仮面、上手くなったなあ)
感心するしかなかった。
客人に向ける礼儀正しい笑顔。
時おり、幼い子どもに向ける柔らかな眼差し。
そして、王や王妃陛下と視線を交わすときの、少年らしい素の表情。
その切り替えが、
驚くほど自然になっている。
ふと、彼の視線が一瞬だけ後ろをかすめた。
(大丈夫、ちゃんとここにいますよ)
口には出さず、
ほんの少しだけ顎を引いて頷く。
それだけで、
彼の肩の力がわずかに抜けたように見えた。
◇◇◇
昼の社交の時間。
大広間は、今度は食器と話し声の音で満たされていた。
王太子の隣には、
座席図どおりにリリアナが座り、
向かいには別の名門家の令嬢。
私は、その一段後ろ――
王家席の背後で、
“いつでも視線が届く距離”に座っていた。
「……本当に、この位置なんですね」
斜め前から、低い声がする。
リリアナが、グラスを口元に運ぶふりをしながら、
さりげなくこちらを振り返っていた。
「はい。
殿下の背中側で、
転びそうになったらすぐ支えられる距離です」
冗談めかして言うと、
彼女の口元が少しだけ緩んだ。
「転びそうなときに支えられる人が、
背中側にいるのは良いことですね」
「足元だけでなく、心の方も、ですね」
「ええ」
リリアナは、視線を前に戻した。
レオンが、
別の令嬢に向かって何かを話している。
「……緊張なさっていますね」
「そう見えますか?」
「ええ。
仮面の笑顔が、少しだけ固いです」
その指摘に、
私も思わず苦笑した。
(やっぱり分かる人には分かるんだ)
「でも、さすがですね」
リリアナは静かに続けた。
「ときどき、背中側をちらりと見て、
それから少しだけ表情を柔らかくしていらっしゃる」
「気づいていらしたんですね」
「ええ。
……少し、うらやましいです」
唐突な言葉だった。
「うらやましい?」
「王太子妃候補としての私よりも、
教育係としてのミサ様の方が“素の殿下”を知っているのだと、
今日、改めて実感しましたから」
胸の奥が、ちくりと痛む。
「それは――」
“ごめんなさい”と言うのも違う。
“そんなことありません”と言うのも、嘘になる。
言葉を探していると、
リリアナはかぶりを振った。
「責めているわけではありません」
彼女は、静かに微笑んだ。
「むしろ、感謝しています。
殿下があれほど自然に人と向き合えるようになったのは、
きっとミサ様のレッスンのおかげなのでしょうから」
「……光栄です」
心からそう答えると、
リリアナはグラスを置き、
ほんの少しだけ声を落とした。
「だからこそ。
たとえ私が殿下の“隣の席”を得たとしても――
“背中側の席”まで奪うようなことは、絶対にしたくありません」
その言葉に、
思わず息を呑んだ。
(こんなにも、まっすぐに言われるとは思わなかった)
「リリアナ様」
「殿下の人生にとって、
“恋”は大事な要素です。
でも、“恋”だけがすべてではありません。
殿下の背中を支える“土台”は、
できれば一人ではなく、
何人もの人間で支えたい。
その中に、ミサ様がいてくださったら――
私は、きっと心強い」
“王太子妃候補のライバル”というより、
同じ方向を見ている“同僚”のような言葉だった。
「……ありがとうございます」
震えそうになる声を抑えながら、
私は答えた。
「そのお気持ちに応えられるよう、
これからも“背中側”でできることを探してみます」
◇◇◇
やがて昼の社交が終わり、
客人たちは一旦控えの間へと移動していく。
大広間を片付ける侍女たちの間を縫うようにして、
私は舞台袖へと向かった。
「ミサ」
舞台裏に入ったところで、
レオンが待っていた。
「殿下。
お疲れではありませんか?」
「少しだけ。
でも、“仮面の笑顔の回数”はあとで数えられそうです」
彼は、冗談めかして微笑んだ。
「社交の場の殿下、とても立派でしたよ。
フェルナー令嬢とのご挨拶も」
「ミサが、ちゃんと見ていてくれたなら安心です」
その一言で、
午前中からの緊張が、少し報われた気がした。
「……噂も、相変わらずですね」
レオンが、舞台の幕の隙間から客席をちらりと覗きながら言う。
「“王太子はどの令嬢に特別な視線を向けているのか”とか、
“教育係様の背中側の席は象徴的だ”とか」
(そこまで細かく言われているのか……)
「噂の中身は、あまり気にしないようにしてください」
「気にしないようにするために、ミサと話しています」
その答えに、思わず笑ってしまった。
「では、そのまま本番まで話していましょうか」
「さすがに、それは怒られますね」
互いに、わざと軽口を交わす。
それでも、
舞台の向こう側から伝わってくるざわめきは、
少しずつ高まっていた。
◇◇◇
最終確認を終え、
幕の前に立つ。
いよいよ、“師と弟子の別れ”の劇の本番だ。
客席には、王と王妃陛下をはじめ、
主要貴族たちが並んでいる。
「ミサ」
レオンが、小さな声で呼んだ。
「……はい」
「さっき、“仮面の笑顔が苦しくなったらミサを見る”と言いましたが」
「ええ」
「この劇の最中だけは、
僕のことを“レオン”として見ていてもらえますか」
「……どういう意味ですか」
「王太子でも、弟子でもなく。
“レオン”が、
“ミサ”に教えてもらったことを全部使って、
舞台の上に立っている――そう思ってもらえたら、
きっと僕は最後までやり遂げられる気がします」
そのお願いは、
ずるいくらいまっすぐだった。
(教師としての距離を守るには、危険なお願い)
でも同時に、
この瞬間にしか言えない、
大切な頼み事でもある気がした。
「……分かりました」
私は、静かに頷いた。
「今日だけは。
“殿下”でも“弟子”でもなく、
“レオン”として舞台に立つあなたを、
ちゃんと目に焼きつけます」
レオンの表情が、少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます。ミサ」
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥が熱くなる。
(これは、仮面なしの顔だ)
次の瞬間。
「開幕!」
舞台監督の声とともに、
緞帳が静かに上がっていく。
客席からのざわめきが、一気にこちら側へ押し寄せてきた。
――これは、芝居。
――これは、レッスンの集大成。
そしてきっと、
前世では一度もなかった“誰かの手を取り、
自分からも手を離せるようになるための、
最初で最後の舞台”でもある。
私は深く息を吸い込み、
舞台の光の中へ一歩踏み出した。
その一歩が、
“選ばれなかった女”だった私の物語を、
確かに次の場面へと進めてくれる――
そんな予感だけは、不思議と揺らがなかった。
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