前世アラサー独身、異世界では王太子の教育係として「恋愛感情」を教えています

cotonoha garden

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第34話 舞台の上のさよなら

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 幕の向こうにいるのは観客じゃない。 
 王太子としての彼と、教育係としての私の“これまで全部”を、今から見届ける目だと思うと、足元の板がいつもよりずっと薄く感じられた。 
 
 ◇◇◇ 
 
 踏み出した瞬間、光が一気に強くなった。 
 
 舞台の照明は、客席の様子をほとんど見えなくしてしまう。 
 それでも、王家席のあたりから感じる視線の重さで、誰がどこに座っているのか、だいたい想像がついた。 
 
 王と王妃陛下。 
 両隣に高位貴族たち。 
 少し離れた位置に、フェルナー侯爵家の席――リリアナ。 
 
 そしてそのさらに後ろには、きっと噂好きな貴族たちが並んでいる。 
 
 (今日は、噂のためじゃない) 
 
 あくまで自分に言い聞かせる。 
 
 「……“師匠”」 
 
 舞台袖からあがったレオンの声が、 
 もう“殿下”ではなく、劇中の“弟子”のものになっていた。 
 
 第一幕。 
 
 幼い弟子が、ひどく拙い言葉で師に反発する場面から始まる。 
 
 「どうして、僕だけこんなに厳しくするんですか」 
 
 「あなたが、誰よりも遠くまで歩いていかなければならない人だからですよ」 
 
 台詞は、練習を重ねたはずなのに、 
 口に出すたび、胸のどこかがざわつく。 
 
 (……前にも言ったな、この言い回し) 
 
 劇中の台詞と、本当にレッスンで交わした言葉。 
 境目が、少しずつ溶け合っていく。 
 
 ◇◇◇ 
 
 第二幕は、 
 “恋”という感情を知らない弟子に、師が世界の見方を教えていく場面だ。 
 
 「“憧れ”は、遠くから見上げるもの。 
 
 “好き”は、同じ高さで見つめ合うもの」 
 
 劇中の師匠役として言いながら、 
 私は心の中で、つぶやきを足す。 
 
 (そして、“尊敬”は――) 
 
 「“尊敬”は、その人がどれだけ遠くに行っても、 
 歩いてきた背中を覚えていたいと願う気持ちです」 
 
 台本にはなかった一文を、 
 私はごく自然に差し込んだ。 
 
 レオンが、一瞬だけ目を見開く。 
 次の瞬間には、きちんと“弟子”として頷いていた。 
 
 「じゃあ師匠、僕はきっと、 
 あなたを“尊敬している”んですね」 
 
 その台詞も台本通り。 
 
 なのに、胸の奥には、 
 別の意味を含んだ矢印が刺さる。 
 
 (“だけ”じゃない、なんて言える立場じゃないけれど) 
 
 ◇◇◇ 
 
 舞台上の時間は、 
 緊張しているときほど早く進む。 
 
 あっという間に、 
 別れの場面を残すばかりになっていた。 
 
 舞台袖では、 
 文官と楽士たちが静かに見守っている。 
 
 (大丈夫。稽古通りにやればいい) 
 
 そう何度も自分に言い聞かせながら、 
 私は舞台中央へ歩み出た。 
 
 薄く流れる音楽が、 
 “終幕”を示している。 
 
 「……師匠」 
 
 “弟子”のレオンが、 
 わずかに震える声で呼んだ。 
 
 「ここで、お別れなんですね」 
 
 客席から、 
 ほんの小さな息を呑む気配が伝わる。 
 
 「お別れではありません」 
 
 私は、事前に考えていた言い換えを選んだ。 
 
 「ここで一度、 
 “手を離す”だけです。 
 
 あなたが、 
 自分の足で歩いていけるかどうか、確かめるために」 
 
 (王妃陛下、勝手に台詞を変えてすみません) 
 
 心の中でこっそり謝る。 
 
 それでも、 
  “終わり”ではなく“変化”の言葉にしておきたかった。 
 
 レオンの瞳が、 
 舞台の光を受けてきらりと揺れる。 
 
 「僕は、ちゃんと歩いていけますか」 
 
 「きっと転びますよ」 
 
 場内に、わずかな笑いが広がる。 
 
 「でも、転び方と起き上がり方は、 
 もう何度も練習したでしょう?」 
 
 「……ええ。師匠が教えてくれました」 
 
 ああ、まずい。 
 
 (これ、完全に“ミサとレオン”だ) 
 
 ◇◇◇ 
 
 いよいよ、 
 問題の“手を取る場面”がやってくる。 
 
 音楽が少しだけ静まり、 
 舞台上の空気が、重く透明になる。 
 
 「ありがとうございました」 
 
 レオンが、一歩前に出て、 
 私の手を取った。 
 
 稽古のときよりも、 
 ずっと力がこもっている。 
 
 (ここで、離す) 
 
 師としての私が、 
 舞台で覚えた段取りを思い出す。 
 
 大丈夫。 
 これは芝居。 
 
 心の中で三つ数えてから、 
 私はそっと、彼の指をほどいた。 
 
 ――その瞬間。 
 
 レオンの方から、 
 もう一度、指先が触れてきた。 
 
 ほんの一瞬。 
 客席からはきっと分からないくらい短い時間。 
 
 けれど私には、 
 稽古のときにはなかったその“戻ってくる触れ方”が、 
 やけに鮮明に感じられた。 
 
 (今の、アドリブ……) 
 
 握り返してしまいそうになる手を、 
 ぎりぎりのところで抑える。 
 
 “師匠”は、“先生”は、 
 ここで一度手を離さなければならない。 
 
 私は深く息を吸い込んで、 
 台本にはない一言を選んだ。 
 
 「――また、見せに来なさい」 
 
 観客席のどこかで、 
 誰かが小さく息を呑んだ気配がした。 
 
 レオンの目が、大きく見開かれる。 
 
 それは、稽古で話していたあの言葉。 
 
 “弟子の方から、何度でも見せたいものを持って会いに行っていい” 
 
 あの話の“返事”を、 
 私はこの場面でようやく返したのだ。 
 
 レオンの表情に、 
 ほんの一瞬だけ“レオン”の素顔がにじんだ。 
 
 次の瞬間には、 
 きちんと“弟子”として背を向ける。 
 
 「はい。師匠」 
 
 絞り出すような声だった。 
 
 「何度でも、何度でも―― 
 胸を張って顔を上げて、 
 あなたに見せたいものを持ってきます」 
 
 彼の背が、 
 客席の方へと歩き出す。 
 
 その姿は、 
 何度も見てきた“王太子としての後ろ姿”と重なって見えた。 
 
 (ああ、本当に) 
 
 「ここで一度、手を離す」 
 
 ノートに書いた言葉が、 
 舞台の上で現実に変わっていく。 
 
 ◇◇◇ 
 
 終幕の合図とともに、 
 緞帳がゆっくりと下りていく。 
 
 パラパラとした拍手が、 
 やがて大きな波になって押し寄せてきた。 
 
 王の低い声が、 
 客席から響いてくる。 
 
 「よくやった」 
 
 その一言に、 
 舞台袖の出演者たちの肩の力が一気に抜けた。 
 
 「……ふう」 
 
 思わず、 
 深く息を吐いてしまう。 
 
 そのとき。 
 
 「ミサ」 
 
 緞帳の陰から、 
 レオンがこちらへ駆け寄ってきた。 
 
 「殿下、まだ客席から見えています」 
 
 「すみません。 
 でも、今すぐ言っておきたいことがあって」 
 
 いつもの癖で注意してから、 
 私はすぐに言葉を飲み込んだ。 
 
 彼の瞳には、 
 まだ舞台の熱が残っている。 
 
 「“また、見せに来なさい”――」 
 
 レオンは、息を整えながら言った。 
 
 「あれは、 
 劇中の師匠としての言葉ですか。 
 
 それとも、“ミサ”としての言葉ですか」 
 
 ずるい。 
 
 (答えにくいことだけ、よく覚えている) 
 
 「半分ずつ、です」 
 
 正直に答える。 
 
 「師としては、 
 “何度でも見せに来なさい”と言える弟子を持てたことが、 
 とても誇らしいです。 
 
 ミサとしては――」 
 
 そこだけ、少しだけ間を置いた。 
 
 「前世で一度も言えなかった言葉を、 
 やっと誰かに渡せた気がしたのです」 
 
 「前世で、一度も?」 
 
 「はい。 
 
 私は、誰かに何かを“見せに来てほしい”と思ったことはあっても、 
 それを口に出す前に、 
 いつもその人たちは別の場所へ行ってしまいましたから」 
 
 同僚も、友人も、 
 恋人候補だったかもしれない誰かも。 
 
 「だから、今回は一歩だけ、 
 先に手を伸ばしてみたくなったんです」 
 
 レオンの表情に、 
 少しずつ安堵の色が混じっていく。 
 
 「……ありがとうございます」 
 
 「こちらこそ」 
 
 「じゃあ僕は、約束通り」 
 
 彼は、舞台袖の雑踏の中で、 
 声を落として言った。 
 
 「これからも何度でも、 
 “レオン”として見せたいものを探します。 
 
 王太子としてだけじゃなく、 
 一人の人間として、胸を張ってミサに見せられるものを」 
 
 その言葉は、 
 拍手の音よりも大きく、 
 私の胸に響いた。 
 
 ◇◇◇ 
 
 舞台裏は、 
 徐々に片付けモードに変わっていく。 
 
 衣装係が衣装を回収し、 
 小道具係が舞台上から道具を運び出していく。 
 
 私は、一人でしばらく緞帳の隙間から客席を覗いていた。 
 
 貴族たちは、まだあちこちで感想を交わしている。 
 
 「王太子殿下の演技、お見事だったわ」 
 「教育係様の脚本も素晴らしい。 
 あれは、“殿下の教育”そのものを象徴している」 
 「“師匠が手を離す”あの場面……。 
 殿下の今後を暗示しているようで、胸に迫るものがありましたわ」 
 
 “殿下と教育係の恋物語”としてではなく、 
 “王太子の成長”の劇として受け取ってくれている声が、 
 ちゃんと聞こえてくる。 
 
 (よかった) 
 
 心からそう思った。 
 
 噂はきっと、ゼロにはならない。 
 でも少なくとも今この瞬間は、 
 “教育係が殿下を弄んでいる”なんて言葉よりも、 
 
 “王太子の背中を支える師”という像の方が、 
 少しだけ大きく見えている。 
 
 それだけでも、 
 今日、この舞台に立った意味があった。 
 
 ◇◇◇ 
 
 夜。 
 
 自室に戻り、 
 いつものようにノートを開く。 
 
 “LESSON 25:舞台の上で手を離した日” 
 
 “前世の私は、 
 拍手の音なんて、いつも遠くの誰かのものだと思っていた。 
 
 そこに自分の名前が混じることなんて、ないと思っていた。 
 
 今日、 
 王宮の舞台で幕が下りたとき、 
 
 私の名前が呼ばれたわけではない。 
 手柄を称えられたわけでもない。 
 
 それでも―― 
 
 “教育係の脚本が良かった” 
 “師匠の手の離し方が印象的だった”と、 
 
 どこかで誰かが、 
 私の選んだ言葉と動きを見ていてくれた。 
 
 それだけで、 
 前世の“誰にも見つけられないまま終わった自分”より、 
 少しだけ報われた気がした。” 
 
 ペン先が、自然とさらに言葉を紡ぐ。 
 
 “王太子の手を離す練習は、 
 きっと今日で終わりではない。 
 
 これからも何度も、 
 握って、離して、また握り直す。 
 
 そのたびにきっと、 
 私自身の中の“選ばれなかった女”の物語も、 
 少しずつ書き換わっていくのだと思う。” 
 
 最後に、もう一行だけ足した。 
 
 “――幕が上がる前の私は、 
 また誰かに置いて行かれる気がして怖かった。 
 
 でも幕が下りたあと、 
 背中側の席から見上げる王太子の背中は、 
 
 “私が手を離したあとも、 
 ちゃんと振り返る場所を覚えていてくれる背中だ”と、 
 初めて信じてみたくなった。” 
 
 ノートを閉じる。 
 
 春季祝典の一日は、 
 まだ終わっていない。 
 
 このあときっと、 
 約束していた“二人だけの時間”がやってくる。 
 
 そこで何を話せるのか、 
 何を話してしまうのか、まだ分からない。 
 
 ただ一つだけ確かなのは―― 
 
 「前世で一度も上がらなかった幕は、 
 もうとっくに上がってしまった」 
 
 その事実から、 
 私はもう、目を逸らさないと決めていた。
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