婚約破棄された伯爵令嬢は、無愛想な辺境伯の仮妻になって静かな幸せを見つける

cotonoha garden

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番外編3 奥方就任、一日目の大騒動

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 正式な婚姻書類に王城の印が押された翌日。 
 “ラドクリフの奥方としての初仕事の日”は──、 
 思っていた以上に、怖がる暇もない一日だった。
 
 ◇ ◇ ◇ 
 
 「……これは、何の一覧ですの?」
 
 朝食の席で、ハロルドから手渡された紙を見て、思わず固まる。
 
 「本日の“奥方様のご予定”でございます」
 
 きっぱりと言われ、視線を紙に落とす。
 
 『午前── 
 ・村の代表者たちへの挨拶回り 
 ・倉庫の在庫確認(新しい管理方法の説明を含む) 
 ・冬祭り後の用水路補修計画の相談 
 
 午後── 
 ・隣領からの来客対応 
 ・台所と使用人組の面談 
 ・エリス様の勉学時間の見守り ほか』
 
 「“ほか”が、怖いですわね」
 
 紙の端に書かれたさりげない二文字が、いちばん重く見える。
 
 「奥方様として“正式に”お名前が記された以上、 
 本日以降は“だれに頼めばよいか分からぬ案件”が、 
 すべてここに集まってまいります」
 
 「その言い方はやめてくださいませ」
 
 頭を抱えたくなる。
 
 「……大丈夫です」
 
 向かいでスープを飲んでいたエドガー様が、淡々と言った。
 
 「“怖がりながら考える係”は、“怖がったままやる係”でもある」
 
 「励ましているような、突き放しているような」
 
 「励ましている」
 
 さりげなく言い切られてしまう。
 
 「俺も合間を見て顔を出す。 
 どうしても無理な案件は、その場で“明日にする”と宣言してしまえばいい」
 
 「そんな大雑把な奥方で、よろしいので?」
 
 「ラドクリフでは、“明日にする”のも立派な仕事だ」
 
 倉庫で、夜明けまで震えながら帳簿を見ていた冬を思い出す。 
 あのときハロルドが言った。
 
 “今日の怖さと、明日の怖さを入れ替える勇気も必要です”と。
 
 「……分かりました」
 
 スープを飲み込んで、息を整える。
 
 「“怖がりながら考える奥方、一日目”。やってみます」
 
 ◇ ◇ ◇ 
 
 午前の部は、まだ良かった。
 
 村の代表者たちへの挨拶回りでは、 
 「これからもよろしく頼みます」「冬を越してくれてありがとうございます」と、 
 あたたかい言葉をたくさんもらった。
 
 倉庫では、新しい帳簿のつけ方を説明しながら、 
 「“怖がり線”は今年もこの位置に」「いや、去年より少し余裕が見込めます」と、 
 皆で真剣に線の位置を相談した。
 
 用水路の補修相談では、 
 「ここは今年こそ石を増やした方が」とか、 
 「この村は去年“凍えそうランキング一位”でしたから」とか、 
 少し笑いながらも真面目な話し合いになった。
 
 問題は、午後だった。
 
 「奥方様──!」
 
 昼食を終えてお茶を一口飲んだところに、 
 勢いよく扉が開いた。
 
 「隣領から予定より早く使者が到着されました! 
 会見の準備を──」
 
 「分かりました。応接室にご案内を」
 
 立ち上がろうとしたそのとき、別の使用人が駆け込んでくる。
 
 「奥方様、たいへんです! 
 台所の薪が、予想より早く減っておりまして……」
 
 「薪の在庫は倉庫の右側、奥から二列目です。 
 倉庫係に手伝ってもらってください。あとで確認に行きます」
 
 それを言い終わらないうちに、今度は細い悲鳴。
 
 「奥方様──っ!」
 
 廊下から、メイドの半泣きの声が聞こえた。
 
 「エリス様が、ドレスの裾を階段で……!」
 
 「……ハロルド」
 
 わたしは、わずかに震える声で呼んだ。
 
 「はい、奥方様」
 
 「隣領の使者の方には、わたしが五分だけ遅れるとお伝えを。 
 台所には、“薪の前にエリスが階段から落ちないように”とお伝えください」
 
 「承知いたしました」
 
 ハロルドが、ほとんど慣れた調子で頷き、走り去る。
 
 (奥方就任、一日目からこんな騒ぎになるとは思いませんでした)
 
 心の中で天を仰ぎながら、エリスのところへ向かう。
 
 幸い、ドレスの裾が手すりに絡まっていただけで、 
 本人は階段の途中で座り込んでいただけだった。
 
 「おねえさん……」
 
 見上げてきた顔には、半分涙、半分しょんぼり。
 
 「“かわいいドレスだから、はやくみせたかったの”」
 
 「気持ちは分かりますが、階段で走ってはいけません」
 
 そう言いながら、裾をほどいてやる。
 
 「今日は、あなたの“勉学の時間を見守る”予定もありますのに。 
 その前に怪我をされると、わたしの仕事が増えてしまいますわ」
 
 「ごめんなさい……」
 
 エリスがしゅんとする。
 
 わたしは、ため息をひとつついてから笑った。
 
 「でも、その気持ちだけは、隣領からの使者の方に見せて差し上げましょうか」
 
 「きしゃ?」
 
 「ええ。 
 “ラドクリフの奥方と、その娘の顔を見に来た”方ですもの」
 
 エリスを連れて応接室に向かうと、 
 そこでは既に、若い騎士とその従者が待っていた。
 
 「これは……」
 
 ドレスの裾を直したばかりのエリスが、わたしの後ろから小さく一礼する。
 
 「“ラドクリフの冬祭りの噂”を聞きましてな。 
 ぜひ、辺境伯殿と奥方殿にご挨拶を、とのことで」
 
 騎士は丁寧に頭を下げた。
 
 会見自体は、思ったよりも柔らかい空気で進んだ。 
 隣領との協力体制、用水路の共有、冬の間の物資の融通。 
 話題はどれも、“冬を越すための相談”ばかりで。
 
 「“怖がりながら考える奥方”の噂も、耳にしております」
 
 「……どこから、そんな噂が」
 
 「王都からです」
 
 さらりと言われ、思わず顔を覆いたくなった。
 
 「“怖がりながら考える人”がいる土地は、 
 うちのような不器用な領にも、ありがたいものです」
 
 隣領の騎士は、そう言って笑った。
 
 (レオン兄さま……)
 
 心の中で、王都の方向に向かって少しだけ抗議する。
 
 ◇ ◇ ◇ 
 
 隣領の使者を見送り、台所に顔を出し、 
 エリスの勉学の時間を見守り── 
 
 気づけば、日が暮れかけていた。
 
 「……ふう」
 
 自室に戻って椅子に腰を下ろした途端、全身から力が抜ける。
 
 「一日で、こんなに“怖がる暇”がなくなるとは」
 
 ぽつりとこぼすと、扉がノックされた。
 
 「失礼する」
 
 入ってきたのは、もちろんエドガー様だ。
 
 「初日、お疲れさま」
 
 「見ていらしたのですか?」
 
 「ところどころ窓からな」
 
 悪びれもせずに言う。
 
 「途中で転びそうになっているひよこがいないか、確認していただけだ」
 
 「ひよこ扱いしないでくださいませ」
 
 そう言いながら、笑ってしまう。
 
 「怖かったか?」
 
 「ええ、怖かったです」
 
 素直に答える。
 
 「“奥方としての顔”をしながら隣領と話すのも、 
 エリスの階段騒ぎも、台所の薪の件も。 
 
 全部、一度に回ってきて。 
 どれかひとつでも落としたら、誰かが寒い思いをする気がして」
 
 エドガー様は、わたしの向かいの椅子に腰を下ろした。
 
 「でも、“全部を完璧にこなす奥方”など、どこにもいない」
 
 静かな声だ。
 
   「冬を越すのは、奥方ではなく、この家の全員だからな」
 
 「……そうですね」
 
 倉庫係の顔、村の代表者たち、台所の使用人たち、隣領の騎士。 
 今日一日で関わった人たちの顔を思い浮かべる。
 
 「今日は、“怖がる暇もない奥方”でした」
 
 そう言うと、エドガー様が少し笑った。
 
 「明日は?」
 
 「……“怖がりながら、少しだけ人に頼る奥方”になりたいです」
 
 彼の瞳が、穏やかに細められる。
 
 「それなら、“怖がりながら支える男”としても、出番がありそうだ」
 
 「そんな肩書き、勝手に作らないでくださいませ」
 
 言いながらも、胸の奥が少し軽くなる。
 
 (こうして、少しずつ)
 
 “奥方としての顔”と、“怖がりながら考える顔”と、“ここに居たい女の顔”。 
 全部を、同じ身体でやりくりしていくのだろう。
 
 「今日は、いい一日でしたわ」
 
 ベッドに体を預けながら、ぽつりと呟く。
 
 「怖がる暇もないくらい、ここでやることがあって。 
 それでも、“ここに居たい”と、やっぱり思える一日でした」
 
 エドガー様が、寝台のそばで小さく頷いた。
 
 「それなら、初日としては合格だな」
 
 「では、“奥方就任、一日目は無事に冬を越した”と、 
 旗の帳面に書いておいてくださいませ」
 
 「少し大げさだが、書いておこう」
 
 冗談半分にかわした会話の余韻が、 
 寝台の中でじんわりと広がっていく。
 
 ──怖がりながら考える奥方の一日目は、 
 案外悪くない“冬越し”だった。
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