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第1章 クビになった夜
しおりを挟むもしあの夜、素直に謝って頭を下げていたら、俺はまだあの会社にしがみついていたんだろうか。
――それとも、もっと早く壊れていたんだろうか。
蛍光灯の白い光が、やけに寒々しく感じられた。
会議室の長机の向こう、スーツ姿の課長と部長が、揃ってため息をついている。テーブルの上には、問題になった案件の資料と、俺の名前が書かれた評価シート。
「……というわけでだな、篠原くん」
課長が、書類を指先でとん、と叩いた。
「今回のシステム障害は、君の確認不足によるものと判断せざるを得ない。クライアントにも多大な損失が出ている。うちとしても、黙っているわけにはいかないんだよ」
「ですが、設計の変更指示は――」
言いかけた言葉は、部長のひと睨みで喉に貼り付く。
「その話は、もうしただろう?」
部長の声は低く、淡々としていた。
「誰が指示したかではなく、“結果としてどうなったか”が重要なんだ。君がもっと慎重にチェックしていれば防げたはずだ。その責任は、どう考えても君にある」
違う、と言いたかった。
実際には、仕様変更は課長の独断だったし、スケジュールを詰めたのも上層部だ。
だけど、そんなことを言ったって、この場で覆るわけじゃない。
前にも同じようなことがあって、そのとき俺は、全部自分のせいにして頭を下げた。その結果どうなったか。負の実績として積み上がり、「トラブルメーカー」のレッテルが貼られただけだった。
喉の奥が、苦く熱くなる。
それでも口から出てきたのは、いつもの言葉だった。
「……申し訳ありませんでした」
会議室の空気が、わずかに緩む。
課長は満足げにうなずき、椅子に背をあずけた。
「謝る気持ちがあるならいいんだ、うん。だが、もうここまで来てしまった以上な……。会社としても、これ以上は君を――」
その先の言葉は、妙にはっきりと耳に残っている。
「戦力として見なすことはできない、という結論になった。今月末での退職を、お願いしたい」
クビ、という二文字が、頭の中でひどく間抜けなフォントになって跳ね回る。
冗談だろう、と笑えたらよかったのに、口は動かなかった。
「……了解しました」
聞き慣れたビジネス用語が、やけに遠くで聞こえる。
それが、二十七年間生きてきた俺の、終わりの宣告みたいだった。
◇ ◇ ◇
会議室を出ると、オフィスはもうほとんど人がいなかった。
フロアに並ぶデスクの青いパーティションも、いつもより色褪せて見える。
自分の席に戻り、無意識のうちにPCの電源を落とす。
机の引き出しから、私物をまとめた小さな箱を取り出した。マグカップ、景品でもらったUSBメモリ、いつか読むつもりで買った技術書。
どれも、今となってはやけに軽い。
俺がここで過ごした時間の重さは、どこにも残っていないみたいだ。
「篠原、お疲れ」
隣の席の先輩が、気まずそうに声を掛けてきた。
「……その、なんだ。いろいろ大変だったな」
「いえ。こちらこそ、ご迷惑をおかけしました」
条件反射みたいに頭を下げると、先輩は困ったように笑った。
「真面目だよな、お前。……新しいところ、すぐ見つかるさ。腕は悪くないんだからさ」
「そうだと、いいんですけどね」
言葉だけの慰めだって分かっている。
それでも、何も言わずにいられるよりは、ずっとマシだった。
タイムカードを押し、ビルを出る。
夜風が、やけに冷たい。街路樹の葉が擦れ合う音が、耳に刺さるように響いた。
スマホの画面を見ると、時刻は二十三時を回っていた。
終電までは、まだ少し余裕がある。
(親には、なんて言おうかな)
大学を出てからずっとこの会社一筋で、特別すごい実績があるわけでもない。
資格だって、仕事に直結しないようなものを少し持っているだけだ。
「クビになった」なんて言ったら、きっと心配をかける。
だからといって、黙っているのも、後ろめたい。
考えれば考えるほど、胸の奥がじわじわと重くなる。
アスファルトの上を歩く足音だけが、やけに大きい。
(俺って、結局なんだったんだろうな)
誰かの希望を叶えたわけでもない。
代わりはいくらでもいる、と言われて終わった人生。
それでも――。
「……誰かの愚痴を聞くくらいなら、得意なんだけどな」
ふと、ぽつりと口からこぼれた言葉に、自分で苦笑する。
同僚の相談に乗ったり、クライアントの怒りをなだめたり。
そういう場面では、不思議と上手く振る舞えた気がしていた。
けれど、それは評価の対象にはならなかった。
数字にならないものは、会社にとって価値がないらしい。
信号が赤に変わり、横断歩道の前で立ち止まる。
向こう側には、コンビニの明かりが見えた。温かい弁当のポスターが、やけに眩しい。
(最後くらい、好きなもんでも食って帰るか)
財布の中身を思い浮かべて、苦笑する。
退職金が出るとはいえ、次の仕事が決まるまでの生活を考えると、そんな贅沢もしていられない。
信号が青に変わる。
一歩、足を踏み出した――その瞬間だった。
耳をつんざくようなクラクションの音。
眩しい光が、視界いっぱいに広がる。
反射的に顔を上げたとき、巨大なトラックのフロントが、目の前に迫っていた。
(あ、やば――)
考えるよりも早く、身体が動こうとした。
けれど、残業続きで鈍った足は、思うように前へ出てくれない。
時間が、ゆっくりになる。
冷たい風の感触、街路樹の影、遠くで誰かが叫ぶ声。
全部が、どこか現実味を失っていく。
(こんな終わり方、ありかよ)
最後に浮かんだのは、そんな小さな不満だけだった。
◇ ◇ ◇
……静かだ。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、世界から音が消えている。
目を開けると、そこには真っ白な空間が広がっていた。
「は?」
思わず情けない声が漏れる。
さっきまで夜の街を歩いていたはずなのに、視界にあるのは、天井も床もよく分からない白だけ。
身体を起こすと、足元には柔らかい何かがあった。
床みたいに硬くはないが、雲というにはしっかりしている。不思議な感触だ。
「……生きてる、のか?」
自分の手のひらを見つめる。
血も傷もない。スーツは会社を出たときのまま。
ポケットには、いつものスマホが入っている感触まである。
だけど、あのトラックの距離からして、無傷で済むとは到底思えない。
むしろ、あの瞬間に人生が終わったと考える方が自然だ。
「ふむ。意識ははっきりしているようじゃな」
どこからともなく、声が降ってきた。
低く、よく通る声。どこか芝居がかった響きがある。
「誰ですか!?」
反射的にあたりを見回すと、いつの間にか目の前に老人が立っていた。
長い白髭、ゆったりとしたローブ。典型的な「ファンタジーの賢者」みたいな格好だ。
「ここはどこで、あなたは誰で……え、俺、死んだんですか?」
口から言葉が溢れ出る。
老人は「落ち着け、落ち着け」と手を振ってから、愉快そうに笑った。
「順を追って説明してやろう。まずここは、そうじゃな……お主の世界と、これから行く世界の“あわい”とでも言っておこうか」
「あわい……?」
「端的に言えば、転生と召喚の乗り換え駅じゃ。お主はつい先ほど、元いた世界で命を落とした。だが、そこで終わりというわけでもない」
老人は、すっと指を鳴らした。
すると、俺の目の前に半透明の板のようなものが現れた。
ゲームのステータス画面のように、数字や文字が並んでいる。
「な、なにこれ」
「お主の“感情ステータス”じゃよ」
画面には、いくつかの項目があった。
〈勇気〉〈恐怖〉〈喜び〉〈怒り〉〈共感〉〈憎悪〉……その横に、それぞれ数値が表示されている。
俺は思わず息を呑んだ。
ほとんどの項目が「50」前後の平凡な数値を示す中、ひとつだけ、桁違いの数字があった。
〈共感〉:98
「……なにこれ」
「お主は、人の気持ちを汲み取りすぎるタイプであったろう?」
老人は、楽しそうに目を細めた。
「同僚の愚痴を聞き、客先の怒りに胃を痛め、上司の機嫌をうかがい続けた。自分の感情よりも他人の感情を優先してしまう。それは、お主の“弱さ”でもあり、“強さ”でもある」
図星すぎて、言葉に詰まる。
「しかし、その特性は、お主のいた世界では評価されなかった。数字にならぬからのう」
老人は肩をすくめた。
「だが、これから行く世界――アルステリアでは違う。そこでは、感情そのものがステータスとして可視化され、力となる」
「感情が……ステータス?」
「そうじゃ。勇気ある者は剣をとり、憎悪に満ちた者は破壊の魔法を振るう。その中で、お主のように“共感”の値だけが突出した者は、極めて稀じゃ」
老人は、杖の先で空間を突いた。
白い世界の一角に、別の景色が映し出される。
石畳の街路、賑やかな露店、頭上には見慣れない紋章の旗。人々の頭上には、淡い色の数字が浮かんでいる。
「……ゲームみたいだな」
「そう思っておればよい。だが、そこに生きる者たちにとっては、紛れもない現実じゃ。感情が数値で測られる世界で、人々はしばしば、自分の価値を数字だけで決めてしまう」
それは、どこか俺のいた世界にも似ている気がした。
売上、評価、成果。数字で測れるものが、すべてだった会社。
「どうじゃ、篠原悠斗。――感情がステータスとなる世界で、もう一度生きてみる気はないか?」
老人の問いかけに、胸の奥がわずかに疼く。
あの会社には、もう戻れない。
戻りたくもない。
だけど、それでも俺は――。
「俺なんかに、何ができるんですかね」
情けない言葉が口から出る。
老人は、ふっと口元を緩めた。
「それを決めるのは、わしでも会社でもない。お主自身じゃよ」
静かな声だった。
だけど、その言葉は、妙に胸の奥に重く響いた。
自分の価値を決めるのは、自分。
そんな当たり前のことを、俺はいつの間にか忘れていたのかもしれない。
白い世界の景色が、ゆっくりと揺らぎ始める。
足元の感触が遠のき、代わりに、ひんやりとした石の感触が近づいてくる。
「さあ、行きなさい。共感のステータスに振りすぎた、少し不器用な若者よ」
老人の声が、遠くで聞こえる。
「今度は、“誰かのため”だけではなく、“自分のため”に選ぶのじゃ」
意識が、白に飲み込まれていく。
――もし、もう一度やり直せるのなら。
今度こそ、自分の感情をごまかさずに、生きてみたい。
そう思った瞬間、眩しい光が視界を覆い尽くした。
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