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第3章 最弱の一歩
しおりを挟む足が震えているのは、怖いからだ。
――それでも前に出たいと思ったのは、きっと俺のわがままだ。
◇ ◇ ◇
魔物は、思った以上に大きかった。
人の二倍はあろうかという背丈に、ねじれた角と、墨をぶちまけたみたいな黒い身体。輪郭がところどころ揺らぎ、煙の塊みたいに見える。
(……生き物、っていうより、なにかの“塊”だ)
目を凝らすと、魔物の中心部にだけ、濁った光の球のようなものが見えた。
その周りから、どす黒い霧があふれ出している。
「下がって!」
リアナが、子どもを庇うように前に躍り出た。
彼女の手のひらに、赤い魔法陣が浮かび上がる。空気が一瞬で熱を帯び、髪がふわりと揺れた。
「――〈フレイム・ランス〉!」
放たれた炎の槍が、一直線に魔物へと突き刺さる。
黒い身体が焼け、周囲に灰が散った。
だが、致命傷にはならなかったらしく、魔物は鈍い唸り声を上げると、さらに暴れ出した。
「きゃっ!」
近くの店の看板が弾き飛ばされ、路地にいた少女の足元に落ちる。
少女の頭上で、〈恐怖〉の数字が一気に跳ね上がった。
〈恐怖:35 → 78〉
膝が折れ、その場にへたり込んでしまう。
少女の視界の先には、じりじりとにじり寄る魔物の影。
(やばい……あれ、逃げられない)
頭の中に、少女の感情が流れ込んでくるような感覚がした。
冷たい水を頭からかぶせられたみたいに、身体の芯が震える。
「……こっちだ!」
気づけば、叫んでいた。
俺は少女と魔物の間に滑り込み、手を差し出す。
「立てる? 大丈夫、大丈夫だから。――怖いよな。でも、ちゃんと助けるから」
自分でも驚くくらい、勝手に言葉が口をついて出た。
少女の目が、不安そうに揺れる。
その頭上で、数字が少しだけ動いた。
〈恐怖:78 → 68〉
〈共感:25 → 30〉
(下がった……?)
不安はまだ消えていない。
それでも、「ひとりじゃない」と感じてくれたのか、かすかに恐怖の値が下がっている。
「こ、怖い……」
「怖いよな。でも、あそこ見て」
俺は、炎を纏ったリアナの背中を指さした。
魔物の前で、一歩も引かずに立ちはだかっている赤い影。
「あのお姉さん、めちゃくちゃ強い。さっきも一発で魔物、吹っ飛ばしてたろ? ああいう人を“頼っていい”世界なんだって、さっき聞いた気がする」
本当は聞いていない。勝手に捏造した設定だ。
それでも少女は、その言葉に少しだけ表情を和らげた。
「……ほんとに?」
「ほんと。だから今は、俺の手を握って。逃げるの、手伝って」
差し出した手に、小さな手が縋りつく。
その瞬間、少女の〈勇気〉の数字が、ほんのわずかに上がった。
〈勇気:20 → 24〉
「よし。いける。――こっちだ!」
俺は少女の手を引き、人混みの切れ目を縫うように走った。
途中、腰を抜かしていた老人にも声を掛ける。
「腕、貸します。ゆっくりでいいから、あっちの角まで行きましょう」
声を掛けるたび、数字が少しずつ動く。
恐怖が下がり、勇気と共感が、ほんの数値だけ上がっていく。
(……これは、偶然じゃない)
誰かの怯えが、こっちに伝わる。
どう声を掛ければ少しでも楽になるか、直感的に分かる。
それに応えると、目の前の数字が変わる。
共感値98。
老人が言っていた「特性」が、こういう形で出ているのだと、ぼんやり理解した。
「おい、新入り!」
背後から怒鳴り声が飛んだ。
振り返ると、ガルドが魔物とリアナの間を横切りながらこちらを睨んでいる。
「前に出てくんじゃねえ! 避難誘導はありがてえが、死んじまったら意味ねえだろ!」
「すみません!」
俺は頭を下げつつも、心のどこかで嬉しくなっていた。
役に立っている、と言われた気がしたからだ。
◇ ◇ ◇
戦場の中心では、リアナが魔物と対峙していた。
炎が地面を走り、黒い身体を焼く。
だが、魔物は倒れない。焼き払われた部分から、また新たな黒い霧が溢れ出してくる。
「ちっ……しつこい」
リアナの額に汗が滲む。
頭上の数字が、目まぐるしく変化していた。
〈勇気:82 → 85〉
〈恐怖:15 → 23〉
〈怒り:45 → 55〉
彼女も、怖いのだ。
それでも前に出続けるから、“勇気”が上がっている。
(……怖いよな)
胸の奥が、不意に痛んだ。
彼女の恐怖が、俺にも伝わってくる。
きっとリアナは「強くなければならない」と思っている。
だからこそ、恐怖を顔に出すことも出来ない。
その不器用さが、どこか昔の自分と重なる。
気づけば、俺は叫んでいた。
「リアナさん!」
炎が爆ぜる轟音の中で、彼女がちらりとこちらを見る。
その一瞬だけ、彼女の〈恐怖〉の数字が跳ね上がった。
〈恐怖:23 → 30〉
(まずい、余計なことしたか!?)
慌てかけたが、その次に起きた変化を見て、目を疑った。
〈共感:28 → 32〉
〈炎素親和:90 → 92〉
肌を撫でる空気の熱が、さらに強くなる。
リアナの炎が、一段と鮮やかに揺らめいた。
「ここから、届きますよね!」
俺は自分でも何を言っているのか分からないまま、続ける。
「みんな、あなたが守ってくれてるって信じてます! 怖いのは、あなただけじゃないから――だから、ひとりで背負わないでください!」
叫びながら、自分でもこっ恥ずかしくなる。
だが、その言葉に反応したのは、リアナだけではなかった。
避難の途中で立ち止まっていた人々の〈共感〉の数字が、一斉に揺れたのだ。
〈共感:20 → 30〉
〈勇気:10 → 18〉
誰かが耳を傾けてくれる。
その感覚が、リアナに伝播していく。
「……っ、余計なお世話です!」
リアナは怒鳴り返した。
が、目は笑っていた。
頭上で、勇気の数字がさらに跳ね上がる。
〈勇気:85 → 90〉
「――でも、嫌いじゃないです!」
彼女は剣を振りかざし、炎をまとわせる。
燃え盛る刃が、夜空を切り裂いた。
「終わらせます! 〈フレイム・バースト〉!」
眩い閃光とともに、巨大な炎の柱が魔物を呑み込む。
黒い身体が、一気に焼き尽くされていく。
さっきまで散らばっていた黒い霧が、溶けるように消えていった。
炎が収まったあとに残ったのは、さっき見えた濁った光の球。
それも、ひび割れたガラスみたいに砕けて、静かに消滅した。
途端に、街を覆っていた重苦しい空気が、ふっと軽くなる。
人々の頭上の〈恐怖〉が下がり、代わりに〈安堵〉とでも呼びたくなるような感情が広がっていった。
(……終わった)
力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
しかし、すぐに少女が俺の袖を引いた。
「お兄ちゃん、すごかった……!」
「いや、俺は何もしてないよ。すごかったのは、あのお姉さんで――」
言いかけて、口をつぐむ。
本当に「何もしてない」のか?
避難誘導、声掛け。
リアナへの声援。
それだけのことかもしれない。
でも、その「だけ」が、世界のどこかを少しだけ変えたような気がしていた。
◇ ◇ ◇
ギルドに戻ると、広間はさっきとは違う熱気に包まれていた。
「よくやった!」「さすがリアナだ!」と、あちこちで歓声が上がる。
「ふん……当然です」
リアナはそっけなく答えながらも、どこか照れくさそうに視線をそらしていた。
その横で、ガルドとミナが俺の肩をばんばん叩いてくる。
「お前、やるじゃねえか、新入り」
「そうそう。避難誘導、完璧だったわよ。あんたのおかげで、怪我人ほとんど出てないんだから」
「そ、そうですか……?」
褒められ慣れていないせいか、どう反応していいか分からない。
顔が熱くなっていくのが、自分でも分かった。
「……篠原さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、リアナが真っ直ぐにこちらを見ていた。
頭上の数字は、もう落ち着いている。
「さっきは、助かりました」
「え?」
「あなたの声が聞こえたとき、正直、少しだけ怖くなくなりました。……迷惑でしたけど」
最後の一言を付け加えるあたりが、彼女らしい。
思わず笑ってしまった。
「迷惑かけたつもりはないんですけどね」
「人の感情を勝手に揺らすのは、ある意味、一番の迷惑ですよ」
リアナは、くすっと笑った。
その頭上で、〈共感〉の数字が、またひとつ増えた。
〈共感:32 → 34〉
「――でも、嫌いじゃないと言いましたよね?」
からかうつもりでそう言うと、リアナの〈怒り〉の数字がぴょこんと跳ねた。
「調子に乗らないでください」
そう言いながら、ほんの少しだけ視線をそらす。
頬が、うっすらと赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。
「篠原悠斗さん」
リアナは姿勢を正し、改めて俺に向き直る。
「あなたの共感値は、たしかに戦闘向きではありません。ですが――ギルドにとって、決して無駄なものではないと思います」
「え?」
「感情がステータスのこの世界で、人の気持ちを読み取り、少しだけでも変えられる。そんな人材、そうそういませんから」
リアナの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
会社では、まったく評価されなかった俺の「めんどくさい性質」が、この世界では――。
「だから」
リアナは、すっと右手を差し出した。
「ようこそ、〈暁の環〉へ。あなたがここで、どんな居場所を選ぶのか……見させてもらいます」
差し出された手を見つめる。
会議室で突きつけられた「退職願」とは違う。
これは、俺に選ばせてくれる手だ。
――今度こそ、自分で選んでいいのか。
ゆっくりと、その手を握り返す。
ほんの少し、指が震えていたけれど、リアナは何も言わなかった。
(弱さごと握り返しても、いいんだな)
その瞬間、視界の端で、自分のステータスが変化した。
〈勇気:52 → 58〉
数字は、小さな変化にすぎない。
それでも、俺にはそれが、人生をやり直すための一歩に見えた。
感情は、弱さじゃない。
誰かと分け合うことができれば――きっと、俺の「武器」にだってなれる。
そう思ったとき、ようやく俺は、この世界に来て初めて、心の底から息を吸い込めた気がした。
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