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第9章 怒れない街角
しおりを挟む怒りって、本当は悪い感情じゃないのかもしれない。
――少なくとも、「怒る元気すらない街」は、俺にはすごく危なく見えた。
◇ ◇ ◇
「では、最初の観測対象は、王都第三下層区画とします」
感情監理局の会議室。
長い机の上に、数枚の板状の水晶が並べられていた。どれも薄く光っていて、内部に細かい数字や線が浮かんでいる。
「第三下層区画……?」
聞き慣れない単語に首をかしげると、リアナが小声で説明してくれた。
「城壁の内側でも、下層に位置する居住区です。職人や日雇いの人たちが多い場所ですね」
「ああ……庶民街ってやつですか」
「言い方」
控えめにつっこまれる。
そのやり取りを横目に、リュカが一枚の水晶板を指でなぞった。
「ここ数ヶ月、この区画で“妙な揺らぎ”が観測されています」
水晶板の中で、細い路地をなぞるように、赤と灰色の線が複雑に交差していた。
「怒りの数値そのものは低い。暴動や争いの兆候もない。だが――」
リュカが指先で、ある数字を拡大する。
見慣れない項目が浮かび上がった。
〈抑圧:72〉
「……“抑圧”?」
思わず聞き返してしまう。
「はい。最近になって追加された補助指標です」
セレスが補足する。
「感じた感情を、自分で“なかったこと”にしようとするほど、この数値が上がります」
前の会社での自分の姿が、頭をよぎる。
理不尽な指示を飲み込み、「まあ仕方ないか」と笑っていたあの日々。
「怒りも悲しみも、表面上は低い。……けれど、抑圧だけが高い」
リュカは、水晶板から視線を上げる。
「この状態が続けば、どこかで一気に爆発する可能性があります。
暴動としてか、あるいは――大規模な魔物としてか」
黒い塊の魔物が脳裏に浮かぶ。
あれが、街ひとつぶんの感情から生まれたらどうなるのか。想像しただけで背筋が寒くなった。
「だからこそ、あなたの目で“何が起きているのか”を見てきてほしい」
リュカが、まっすぐこちらを見る。
「数字の裏側で、人々が何を飲み込んでいるのかを」
「了解です」
俺はうなずいた。
隣でリアナも一歩前に出る。
「私も同行します。第三下層区画は、治安が良いとは言えませんから」
「お願いします」
短くそう答えると、リュカの頭上で〈安心〉がほんのわずか揺れた。
彼も彼なりに、誰かを危険に送り出すことには慣れていないのかもしれない。
◇ ◇ ◇
第三下層区画は、王城の白い石とは対照的な場所だった。
石畳はところどころ欠け、道端には修理途中の荷車が転がっている。
屋台からは香辛料の匂いが漂い、洗濯物が狭い路地の上を渡っていた。
「表面だけ見れば、にぎやかそうですけどね」
ミナが周囲を見渡しながら呟く。
今回の同行メンバーは、リアナとミナ、それに局からひとり付けられた担当官だった。
「感情監理局・現地調査部のエリナです。よろしくお願いします」
肩までの髪をひとつに束ねた女性が、丁寧に頭を下げる。
白衣に近い淡い灰色の制服を着ていて、腰には短い杖のようなものが下がっていた。
頭上の数字は、なかなか見事だった。
〈分析:82〉
〈冷静:78〉
〈共感:22〉
〈抑圧:35〉
(……典型的なお役所タイプって感じだな)
そんなことを思っていると、彼女がこちらに視線を向ける。
「篠原悠斗さんですね。あなたの共感値の高さについては、事前に資料で拝見しています」
「あ、はい」
「本日の調査では、主に“定性的情報”の取得をお願いできればと。数値情報は、私のほうで記録しますので」
「定性的、って要するに?」
「言葉にならない違和感や、数字からは読み取りづらい人々の背景です」
エリナは、さらりと言った。
「私は数字を見るのは得意ですが、あなたほど“空気を読む”のは得意ではありませんから」
自分の不得意をあっさり認めるあたり、意外と柔軟なのかもしれない。
その頭上の〈抑圧〉が、ほんの少しだけ下がった。
「じゃあ、俺はいつも通り人の顔色見てればいいってことですね」
「はい。いつも通りで構いません」
その言い方が妙にツボにはまり、思わず笑ってしまう。
リアナも、少しだけ口元を緩めていた。
◇ ◇ ◇
路地を歩くたびに、数字が目に入る。
荷物を運ぶ男の頭上に浮かぶのは――
〈疲労:70〉
〈怒り:15〉
〈抑圧:65〉
魚を並べる女将さんは、
〈喜び:22〉
〈不安:40〉
〈抑圧:68〉
どの顔も、笑っていないわけじゃない。
けれど、笑い声がどこか薄い。
「いやだな」と思っても、口に出す前に飲み込んでしまう癖が、街全体に染みついているように見えた。
「リアナさん」
「はい」
「ここ、祭りとかって、あるんですか?」
「ありますよ。季節の変わり目には、下層区画ごとに小さな祭りが開かれていました」
「“いました”? 過去形?」
リアナの頭上の〈悲しみ〉が、わずかに揺れる。
「最近は、禁止されたんです。『無用な感情の高揚は、秩序を乱す』という理由で」
「……マジですか」
思わず素の声が出た。
エリナが、気まずそうに咳払いをする。
「正式には、『一時的な制度見直し』です。第三下層区画では、過去に何度か祭りが暴動のきっかけになったことがありまして」
「だからって、全部やめさせたら、そりゃあ……」
怒る元気もなくなるに決まっている。
「楽しみ」を根こそぎ奪われたら、何に向かって頑張ればいいのか分からなくなる。
そんなことを考えていると、目の前で小さな影がふらりとよろけた。
「危ない!」
反射的に手を伸ばすと、小さな体が腕の中におさまる。
10歳くらいの少年だろうか。
手には、色の抜けた風船のようなものを握っている。
「だ、大丈夫か?」
「……うん」
少年は短く答えるが、その頭上の数字は、正直だった。
〈喜び:5〉
〈怒り:10〉
〈抑圧:74〉
「その風船、どうしたの?」
膝を折って目線を合わせると、少年は風船を見つめたまま答えた。
「昔の祭りの……残り。
捨てるなって言われたから、持ってるだけ」
「“だけ”、ね」
言い方が妙に引っかかる。
風船を指でつついてみると、かすかに中の空気が抜ける音がした。
「祭り、好きだった?」
「……」
少年の喉が、ごくりと動く。
〈抑圧〉の数字が、さらに上がりかけて――そこで、ぴたりと止まった。
「好きだった、って言ってもいいよ」
そう言うと、少年は、ようやく小さくうなずいた。
「うるさくて、においもして、人がいっぱいで……でも、兄ちゃんと一緒に歩くのが、好きだった」
「兄ちゃん?」
「もう、いないけど」
その一言で、少年の〈悲しみ〉が一瞬だけ跳ねる。
同時に、周囲の空気が微かに冷えた気がした。
(……この街、どこも“失ったもの”をなかったことにしようとしてる)
村で会った少年と、どこか重なる。
あそこでは「悲しんじゃいけない」と言われていたけれど、ここではそもそも「祭りの話をするな」と暗黙のルールが出来ているのかもしれない。
「祭り、なくなって、どう?」
あえて、雑な質問を投げてみる。
リアナとエリナが、同時にこちらを見る気配がしたが、あえて無視した。
「……楽になったよ」
少年は、感情の乗っていない声で言う。
「準備もしなくていいし。
父ちゃんも、『余計なことに時間取られなくていい』って」
頭上の〈抑圧〉が、さらに少し上がる。
〈怒り〉が、わずかに揺れた。
「――そっか。楽になったか」
俺はゆっくりと息を吸い込み、吐いた。
「でも、寂しいって言ってもいいと思うけどな」
少年の目が、初めてこちらを向く。
「祭り、なくて寂しい。兄ちゃんと歩きたかった。……そう思っても、いいと思う」
「そんなこと……言ったら」
「言ったら?」
「父ちゃんに、怒られる」
ようやく、本音がぽろりとこぼれた。
その瞬間、少年の〈怒り〉と〈悲しみ〉が、同時に跳ねる。
〈怒り:10 → 20〉
〈悲しみ:15 → 30〉
そして、〈抑圧〉がほんの少しだけ下がった。
〈抑圧:74 → 68〉
(……やっぱり、な)
誰かが怒るのを恐れて、自分の感情を黙らせる。
それを繰り返しているうちに、「怒り方」も「悲しみ方」も忘れてしまう。
「父ちゃんに怒られるの、怖いよな」
「……うん」
「でもさ。
怒られるかもしれないけど、『寂しい』って言いたいなら――そのときは俺が、一緒に怒られに行ってやるよ」
我ながら、無責任なことを言っている自覚はあった。
でも、その瞬間、少年の目に、はっきりとした揺らぎが生まれた。
「なんで?」
「“世界の機嫌取り”だから」
自虐を込めて言うと、リアナが盛大に吹き出しかけて、慌てて咳払いした。
エリナの〈困惑〉が、ぼこっと跳ねたのが見える。
「……変な人」
少年がぽつりと言った。
でも、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
頭上の〈喜び〉が、5から7へと、誤差レベルで動いたのが妙に嬉しかった。
◇ ◇ ◇
「大胆ですね」
少年と別れたあと、エリナがぽつりと漏らした。
「“怒られに付き合う”なんて、普通の調査官は言いませんよ」
「普通じゃないって、よく言われます」
「自覚があるのは良いことです」
さっきリュカに言われたことを、ほぼそのまま返された気がして、ちょっと笑ってしまう。
「でも、数字は確かに動いていましたね」
エリナは、小さな水晶板を見つめながら言った。
「抑圧が少し下がり、怒りと悲しみが自然な範囲で増加。……危険な兆候ではありません」
「“怒れるようになった”ってことですよね」
「そうですね。
……怒りは、本来、変化を求めるためのエネルギーですから」
彼女の言葉に、少し驚く。
思ったよりずっと、感情に理解がある。
「エリナさん、そういう考えの人なんですね」
「局にいると、そうでもしないとやっていけませんから」
冗談めかした口調の裏で、〈抑圧〉の数字がわずかに揺れた。
彼女なりの息苦しさも、きっとあるのだろう。
「……あそこ、見てください」
ミナが、路地の角を指さした。
石壁に、誰かが描いた落書きがある。
笑っている顔と、怒っている顔と、泣いている顔。
三つの表情が、ぐるぐると円を描くようにつながっていた。
「これ、誰が描いたんでしょうね」
「子どもたちでしょう」
リアナが近づき、指で線をなぞる。
「第三下層区画では、昔から“感情の面”を描く遊びがあったんです。祭りの仮面の代わりに」
「今は、祭りそのものがないわけですけど」
「ええ。……だからこそ、こうして壁に描いているのかもしれません」
リアナの頭上の〈怒り〉が、静かに揺れた。
同時に、〈共感〉も上がる。
「感じることまで、やめさせることはできませんから」
その言葉に、妙に救われる。
どれだけ押さえつけても、感情はどこかから滲み出す。
それを完全に消すことはできない。
(だったら――)
大事なのは、「どう滲み出させるか」だ。
暴発させるんじゃなくて、誰かと分け合える形で。
◇ ◇ ◇
その日の調査を終え、第三下層区画を離れようとしたときだった。
ふと、背中に視線を感じた。
(……誰か、見てる?)
振り返ると、路地の陰に黒いマントをまとった人影が立っていた。
フードを深くかぶっていて、顔は見えない。
頭上に浮かぶはずの数字が――何も、見えない。
「……え?」
思わず、息を呑んだ。
リアナが俺の視線を追って振り返る。
「どうしました?」
「いや、今、誰か――」
言いかけたときには、もう路地の陰には誰もいなかった。
足音もしない。
そこにはただ、夕暮れの影だけが落ちている。
「見間違い、ですかね」
ミナが首をかしげる。
エリナは、眉をひそめて周囲を見回した。
「感情ステータスが“見えない”なんてことが、あるんですか?」
リアナの問いに、俺は首を振るしかなかった。
「分かりません。
でも、今のは……たぶん、“何も感じていない”って感じじゃなかった」
むしろ、逆だ。
何かが濃すぎて、数字の枠からはみ出しているような、そんな気配だった。
「リュカ局長に、報告しておきましょう」
エリナが真剣な顔で言う。
「感情が読み取れない存在なんて、前例がありませんから」
(前例がない、か)
異世界に来てから、“前例がない”ことに巻き込まれてばかりだ。
そのうち自分の項目に〈前例なし〉とか追加されそうで、少し笑えてくる。
でも――
あの“数字の見えない人影”は、笑い事ではないはずだ。
世界の感情地図さえ映し出せない何かがいるのだとしたら、それはきっと、大きな歪みの中心にいる。
(世界の機嫌取り、ね)
自分で言っておいてなんだけど。
どうやら俺が気にしなきゃいけないのは、課長の機嫌どころじゃない。
もっとでかくて、もっと面倒くさい何かだ。
それでも――
隣には、炎を握る不器用な剣士がいて。
少し後ろには、世界の涙を見ている神官と、数字に縛られながらも真面目に現場を歩く調査官がいる。
「ま、なんとかなるか」
ぽつりと呟くと、リアナが不思議そうにこちらを見た。
「何がです?」
「世界の機嫌取り班の、仕事ですよ」
「また勝手に班を作りましたね」
呆れたように言いながらも、リアナの〈喜び〉が少しだけ揺れた。
その揺らぎが、夕暮れの街角に、ほんの少しだけ温かさを足してくれた気がした。
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