社畜をクビになった俺、感情がステータスの異世界で最弱と言われたけど、共感スキルで仲間と世界を救う

cotonoha garden

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第10章 数字の見えない影の記録

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 数字が見えないって、こんなに気持ち悪いんだな。
 ――3日経っても、あの路地の影のことを思い出すたび、背中のどこかがざわついたままだった。

◇ ◇ ◇

「感情値が“ゼロ”だったわけではないんですね?」

 感情監理局の会議室。
 エリナが机の上に自分の記録板を並べながら、改めて確認してくる。

「ゼロって感じじゃなかったです。なんていうか……」

 言葉を探しながら、俺は宙を見上げた。

「数字の“枠の外”にある感じ、って言えばいいんですかね。
 あそこだけ、俺の視界がすべっていくっていうか」

「視界がすべる……」

 エリナが、すぐさまその表現をメモに書き込む。
 真面目な顔で、しっかり「視界がすべる」と殴り書きしているのがなんだか面白くて、ちょっと笑いそうになる。

「ちなみに、そのときのご自身の感情値は覚えていますか?」
 今度はリュカが口を開いた。

「え、自分の、ですか?」

「はい。強い違和感を覚えたとき、あなたの〈恐怖〉や〈共感〉がどう動くかも、重要な情報です」

「あー……」

 そう言われて、あの瞬間を思い出す。
 夕暮れの路地。
 路地裏の影に立つ、フードの人物。
 数字がない空白。

「〈恐怖〉は、たぶん跳ね上がりました。けど、それ以上に――」

 自分でも意外だった感覚を、そのまま言葉にする。

「“怒り”に近かったかもしれません」

「怒り?」

「はい。
 俺の“仕事道具”を、いきなり取り上げられたみたいで。
 勝手に数字を隠してくるの、なんかずるいなって」

 言いながら、我ながら理屈になってないなと思う。
 けれどリュカは、じっとこちらを見てから、小さく頷いた。

「……興味深い反応ですね」

「そうなんですか?」

「恐怖だけなら、“逃げろ”という信号で終わります。
 怒りが混ざるということは、“踏み込みたい”という欲求も同時に生じているということです」

 なるほど、と納得しかけて――すぐに首を振る。

「いやいや、踏み込みたくはないですよ? 怖いですよ? あれ」

「怖いけれど、放っておきたくはない。
 そういう種類の怒りを、あなたはよく抱いているように見えます」

 リュカの灰色の瞳が、わずかに和らいだ。
 頭上の〈分析〉の数字が30→31に増える。こんな微妙な変化、普通は誰も気づかないんだろうけど。

「少なくとも、“影”はあなたを見ていたのでしょうね」

「……やっぱ、そうですよね」

 視線を感じたあの感覚は、気のせいではなかったらしい。

「感情が読めない存在が、本当に“何も感じていない”なら、こちらにも何も残しません。違和感すら残らないはずです」

 セレスが、静かに言葉を継いだ。

「あなたの共感が空ぶった感覚を覚えたということは、そこに“何か”があった。けれど、今の私たちの指標では捉えられないだけ」

 数字の枠の外。
 世界の感情地図に、まだ用意されていない“色”。

「つまり、あれは“バグ”か“仕様外”ってことですよね」

「バグ?」

「この世界のステータス表示のプログラムにとって、想定外のデータっていうか……」

 つい前の世界の用語で考えてしまう。
 リュカは一瞬きょとんとし、それからゆっくりと頷いた。

「あなたの世界の言葉でいう“バグ”が、こちらでいう“歪みの核”に近いものだとしたら――」

 彼は、机の上の水晶板を指先でなぞる。
 感情地図の端に、小さな黒い点がいくつか浮かび上がった。

「ここ数ヶ月、“数字が乱れる地点”の記録がいくつかあります。
 第三下層区画であなたが見たものと、関係があるかもしれません」

「乱れる地点?」

「感情値の記録が、突然途切れる場所です。
 そこでは、人々の感情が極端に読みにくくなる」

 セレスの表情が、わずかに曇る。

「私は“世界全体の流れ”を見ていますが……その点だけは、どうしても霞んでしまうのです」

「それ、今まで誰も現場で確認しに行かなかったんですか?」

 口に出してから、「ちょっと言い方きつかったかな」と反省する。
 でも、エリナは真剣に首を振った。

「行けなかった、というべきでしょうか」

「行けなかった?」

「“乱れ”に近づこうとした観測官たちは、皆一様に体調を崩してしまって。
 吐き気や頭痛、ひどい者は、感情値のバランスを崩して寝込むこともありました」

 エリナの〈恐怖〉が、ほんの少し上がる。
 その上がり方が、他人事じゃない証拠だ。

「……要するに、“近づくだけでしんどい場所”なんですね」

「ええ。なので我々は、遠くから数字だけを観測することしか出来ずにいた」

 リュカが、わずかに悔しそうに眉を寄せる。

「そこに、“現場で違和感を覚えてなお歩けた”あなたの報告が加わった。
 これは、突破口になり得ます」

「……嫌な意味で買いかぶられてる気がするんですけど」

 弱音がこぼれる。
 だが、ここで黙ってしまう自分もまた、嘘くさい。

「正直に言うと、またあいつと会いたいかって言われたら、会いたくないです。
 でも――」

 言いながら、自分の胸の奥を探る。
 そこには、少し前の自分なら信じなかった種類の感情があった。

「“あいつのせいで、誰かが理不尽にすり減る”のは見たくないなって思ったのは、本当です」

 第三下層区画の少年。
 祭りを奪われた街の人たち。
 怒ることも悲しむことも、自分で止めてしまう人たち。

「数字の外側にいるやつが、この先も“数字の中にいる人”を踏みつけるのは、見てられないので」

 それが、怒りと呼ばれるものなら。
 俺はきっと、こういうときにこそ使うべきなんだろう。

 リュカの頭上で、〈敬意〉の数字がまた少し上がる。
 セレスの〈祈り〉のような項目が、静かに揺れた。

「……了解しました」

 リュカは姿勢を正した。

「しばらくは、第三下層区画周辺の“乱れ”の位置を詳細に特定します。
 あなたには、ギルドで通常の依頼をこなしながら、体調を整えておいてもらいたい」

「体調、ですか」

「ええ。共感値が高い者ほど、“歪み”の影響を受けやすい。
 あなたの心がすり減りきっている状態で近づけば、それこそ危険です」

 前の世界で、「メンタルケア」という名目だけで何も変わらなかった部署の顔が浮かぶ。
 けれど、リュカの言葉には、少なくとも“数字ではなく、人”を見ている実感があった。

「休むことも、任務の一部だと考えてください」

「前の会社で、それ言ってほしかったですね……」

 こぼれた愚痴に、リアナがふっと笑う。
 エリナも、少しだけ表情を和らげた。

◇ ◇ ◇

 ギルドに戻る途中、リアナがぽつりと聞いてきた。

「怖く、ないんですか」

「何がです?」

「数字の外側にいる何かに、“踏み込もう”としていることです」

 彼女の頭上の〈不安〉が、いつもより少し高い。
 自分のこと以上に、人のことを心配しているときの揺れ方だ。

「怖いですよ」

 即答すると、リアナが目を瞬かせた。

「俺、元々ビビりですから。
 魔物も怖いし、“影”なんて二度と会いたくないですよ、本音を言えば」

「では、どうして――」

「それでも行くって言ったか、ですか」

 自分でも面倒くさいと思うほどに、答えはシンプルだった。

「……多分、俺は“気にしい”なんですよ」

「気にしい?」

「見ちゃったものを、忘れられないタイプ。
 見ないふりしても、どうせ夜になってから思い出して、『あのときなんで』って考えちゃうやつです」

 リアナが、ふっと笑う。
 その笑いには、呆れ半分、共感半分の色が混じっていた。

「リアナさんも、似たようなとこありません?」

「どうでしょう」

 とぼけるように言いながらも、彼女の〈共感〉が静かに揺れた。

「全部を救えないのは分かっています。
 数字の外側の何かにまで手を伸ばすのが、正しいのかも分からない」

 彼女は、ギルドの方角を見やった。

「それでも――目の前で泣いている誰かを、見なかったことにはしたくない。
 そんなわがままを、私は“騎士”として選びました」

「だったら俺も、“世界の機嫌取り”として同じことを選んでるだけです」

 自分でつけたふざけた肩書きが、少しだけ胸の奥で重みを持つ。
 前の世界では、そんな役割を自分に許す余裕すらなかった。

「大丈夫です」

 リアナが、まっすぐに言った。

「あなたが“怖い”って言ったら、私が前に出ます。
 あなたが“しんどい”って言ったら、セレスさんが止めてくれます。
 エリナさんは、数字の面から止めてくれるでしょう」

「止める人、多くないですか」

「共感98の暴走は、世界規模の迷惑ですから」

 さらっと辛辣なことを言われて、思わず吹き出した。

「……じゃあ、“暴走しない範囲で”わがまま言っていきます」

「はい。それがいいと思います」

 リアナの笑顔は、夕方の街灯に照らされて、少しだけ柔らかく見えた。

◇ ◇ ◇

 その夜。
 ギルドの簡素な部屋で横になっていると、セレスがノックしてきた。

「入っても?」

「どうぞ」

 扉の隙間から、ろうそくの柔らかな光が差し込む。
 セレスは小さなランプを手に、部屋に入ってきた。

「眠れなさそうだったので」

「バレてました?」

「共感98は、人の眠れなさまで拾うんですね」

 冗談めかして笑いながら、セレスはベッド脇の椅子に腰を下ろした。
 ろうそくの炎が、彼女の横顔を照らす。

「……怖いですか、“影”が」

「はい。正直に言うと、めちゃくちゃ怖いです」

 開き直って、素直に言う。
 セレスは、意外そうに目を丸くした。

「意外ですね」

「意外なんですか?」

「もっと、『怖いけど行きます!』みたいな勇ましい感じで来るのかと思っていました」

「それ、俺のキャラじゃないですよ」

 即座に否定すると、セレスが声を出して笑った。

「そうですね。
 ……でも、“怖い”と言える人のほうが、長く戦えます」

 彼女の声は、炎の揺れと同じくらい穏やかだ。

「私たち神官は、いつも“祈り”の数字を見ています。
 恐怖と共に祈られた願いは、長く続きません。
 けれど、怖いと知りながら、それでも誰かのためにと願う祈りは、しぶとく世界に残る」

「しぶとい祈り、ですか」

「はい。
 あなたの“わがまま”も、きっとその類だと思います」

 しぶとい祈り。
 世界の機嫌を少しだけマシにしたいという、面倒くさい願い。

「……世界は、“機嫌が悪いまま”でも回っていくじゃないですか」

 ふと、口が勝手に動く。

「前の世界も、この世界も。
 誰かが泣いてても、誰かが怒ってても、仕事は回るし、国も回る。
 そういうの、散々見てきました」

 セレスは、黙って聞いている。

「でも、“機嫌がマシな世界”のほうが、ちょっとだけ生きやすいじゃないですか。
 怒ることも、泣くことも、笑うことも、ちゃんと許されてる世界のほうが」

 それは、たぶん俺自身が一番欲しかった世界だ。

「自分が欲しかった場所を、今いる世界で少しでも増やせたら――
 それは、悪くない仕事かなって」

 言葉にしてみると、意外とすっきりした。
 セレスは、柔らかな目でこちらを見る。

「とても、いい“わがまま”ですね」

「わがまま、なんですかね」

「ええ。
 他の誰もそんなこと気にしていなくても、あなたひとりが気にしてしまう。
 だから、それは立派な“わがまま”です」

 ろうそくの炎が、ふっと揺れる。
 その光に照らされて、セレスの頭上の〈祈り〉の数字が静かに増えた。

「どうか、そのわがままを大事にしてください。
 数字の外側にいる何かと向き合うとき、
 あなたを支えてくれるのは、“世界より先に、自分を救いたかった気持ち”ですから」

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「……そんな大事なこと、今さら言われたら、引き返しづらくなるじゃないですか」

「それが狙いです」

 セレスは、いたずらっぽく笑った。

「大丈夫。
 あなたが“しぶとい祈り”を抱えている限り、世界は簡単には折りませんよ」

 その言葉と、炎の揺れを見つめているうちに、まぶたが重くなっていく。
 眠りに落ちる直前、ぼんやりと思った。

 ――世界の機嫌が悪くて、誰も笑えない夜があったとしても。

 せめて、自分ぐらいは、「明日はちょっとマシになるかもしれない」と信じて眠りたい。

 そのささやかなわがままこそが、この異世界で俺が選び直した、“生き方”なんだろう。
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