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好きって言えない私たちのコンビニ前
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残業帰り、会社の最寄りのコンビニ前でだけ、私は少しだけ本音に近づける。
「好き」とは言えない私と、言えなさそうな彼の、一週間分の立ち話。
月曜の夜、コンビニの自動ドアが開く音が、今日も「何も変わらなかった」一日を締めくくる合図になっている。
終電に間に合うギリギリの時間。
蛍光灯の白い光と、レジ横のホットスナックの匂い。
どこにでもある風景の中で、私はいつものように、サラダチキンとヨーグルトをかごに入れる。
「健康的だね、今日も」
後ろからかけられた声に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
振り向くと、スーツのジャケットを腕にかけた彼が、エナジードリンクとおにぎりを片手に立っていた。ネクタイは少しゆるんでいて、前髪が汗で額にはりついている。
「……またエナドリ?」
「うん。これ飲まないと、明日まで持たないから」
軽く笑って、彼は自分のかごを持ち上げて見せる。
誰とでも話せて、営業部の飲み会ではいつも中心にいる、キラキラした人。同期の、佐伯くん。
「また残業?」
「まあ、ちょっとだけ。そっちは?」
「こっちも、ちょっとだけ」
本当は「今日も、特に誰にも必要とされないまま、なんとなく残ってただけ」と言いかけて、飲み込む。
レジで会計を済ませ、コンビニの外に出ると、夜風がむっとした室内の熱をさらっていった。
店の前の、小さなベンチと灰皿。私たちは自然と、そこに並んで立つ。
「最近どう?」
缶コーヒーのプルタブを開けながら、佐伯くんが何気なく聞いてくる。
「最近……?」
本当は、いろいろある。
誰でもできる事務仕事しかしていない気がするとか。
同期がどんどん営業成績を上げていく中で、私だけ「裏方」のまま取り残されている気がするとか。
恋愛の話になったとき、笑ってごまかしてばかりで、本当は寂しいとか。
でも、口から出てきたのは、いつもと同じ言葉だった。
「うん、まあまあかな。相変わらず、って感じ」
自分でも驚くくらい無難な笑顔を作ると、胸のあたりが少しきゅっとなる。
「そっか。まあ、変わらないのが一番平和かもね」
佐伯くんは、そう言って笑う。
その笑顔が、どこか疲れているように見えたのは、気のせいだろうか。
五分ほどの、他愛ない立ち話。
コンビニ前で缶コーヒー片手に交わすそれが、私の一日の中でいちばん心が動く時間だなんて、誰にも言えない。
家に帰る電車の中で、窓に映る自分の顔を見ながら思う。
「好き」と言えない私は、今日も「まあまあかな」で自分をごまかした。
***
火曜の午後、小さなミスをした。
請求書の数字を一桁打ち間違えて、先方に訂正のメールを送ることになった。
大問題になる前に気づけたから、先輩は「気をつけてね」と柔らかく言ってくれたけれど、そのあとに続いた一言が、胸に刺さる。
「○○ちゃん(私の名前)、慎重な子だから大丈夫だと思ってたんだけどな」
「すみません」と頭を下げながら、心の中では何度も自分をなじる。
慎重なはずなのに、ミスをする。
誰にでもできる事務なのに、それすら完璧にできない。
定時を過ぎて、修正作業と明日の準備をしていたら、また「ちょっとだけ」の残業になっていた。
パソコンをシャットダウンして、会社を出る。
足は自然と、コンビニへ向かっていた。
自動ドアが開くと、冷房の冷たい風と一緒に、見慣れた後ろ姿が目に入る。
雑誌コーナーの前でスマホを見ている佐伯くん……ではなく、その姿は店の外のベンチにあった。
缶コーヒーを二本と、いつものサラダチキンを買って外に出ると、彼はベンチに座ったまま、暗い画面をぼんやりと見つめていた。
「……おつかれ」
声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げる。
「あ、○○。おつかれ。今日も健康セット?」
「うん。そっちは、コーヒーだけ?」
「うん。腹減ってるけど、食欲あんまりなくてさ」
冗談めかして笑うけれど、目の下のクマが昨日より濃い気がする。
「座る?」
彼がベンチの端をぽんぽんと叩く。
私は少し迷ってから、その隣に腰を下ろした。距離は、拳ひとつ分くらい。
「今日さ、部長に数字のことで詰められてさ」
缶コーヒーを開けて、一口飲んでから、彼がぽつりとこぼす。
「今月、ノルマ届きそうにないっぽいんだよね。まあ、いつものことなんだけど」
「そう、なんだ……」
営業の数字のことなんて、正直よくわからない。
でも、「ノルマ」という言葉の重さは、なんとなく想像できた。
「なんかさ、向いてないのかもって思うんだよね、営業」
いつもの軽い調子のままなのに、その一言だけは、妙に重く響いた。
「佐伯くんが? 向いてない、って……」
驚いて顔を見ると、彼は苦笑いを浮かべている。
「俺、プレッシャー弱いんだよ。見ての通りメンタル豆腐だからさ。数字とか、目標とか、追いかけられるとすぐ胃が痛くなる」
「でも、いつも楽しそうに話してるし、お客さんとも仲良さそうだし……」
「それは、なんとかやってるだけ。家帰ると、どっと疲れて、ソファで固まってる」
へらっと笑うけれど、目は笑っていない。
「……そんなふうに見えなかった」
ぽろっと本音が漏れる。
「見せないようにしてるからね。営業だし。暗い顔してても、誰も買ってくれないしさ」
風が吹いて、コンビニのビニール袋がカサカサと鳴った。
何か言いたいのに、言葉がうまくまとまらない。
「そんなことないよ」と、簡単な励ましを言うのは、なんだか薄っぺらく感じてしまう。
代わりに、私の口から出てきたのは、少し違う言葉だった。
「……いつも、ちゃんとお願いしてくれるから、助かってる人、多いと思うよ」
「え?」
「資料、これこれこういうの欲しいって、具体的に言ってくれるじゃない? あれ、すごくやりやすい。何が必要か分かってる人だなって思うし。
私、佐伯くんの案件の資料作るの、実はちょっと好き」
言いながら、顔が熱くなるのがわかる。
「好き」という単語を出してしまったことに、自分で勝手にドキドキしている。
「マジで?」
彼は目を丸くして、少しだけ笑った。
「いや、嬉しい。そういうの、あんまり言われないからさ。裏で支えてもらってるのは分かってるんだけど、ちゃんとありがとうって言えてなかったなって、今思った」
「い、いや、別に……」
視線を落として、缶のふたを指でなぞる。
ほんの少しでも、誰かの役に立てているのかもしれない。
そう思った瞬間、今日のミスで沈んでいた心が、すこしだけ浮かんだ気がした。
***
木曜の昼、上司に呼ばれた。
「○○さん、ちょっといい?」
会議室に入ると、上司はプリントアウトした資料を手にしていた。
「来週の社内説明会で、この新システムの使い方、みんなの前で説明してもらえないかな」
「えっ、私が、ですか?」
思わず声が裏返る。
「一番詳しいの、○○さんでしょ。マニュアルも作ってくれたし。十五分くらいでいいからさ」
「でも、私、人前で話すの苦手で……」
「大丈夫大丈夫。資料もあるし、リハーサルも付き合うから。頼むよ」
笑顔で押し切られて、「はい」としか言えなかった。
断る勇気よりも、「期待を裏切りたくない」という気持ちの方が強い。
席に戻ってからも、資料を開いては閉じ、説明の流れを考えては消す。
頭の中で「失敗したらどうしよう」というイメージばかりが膨らんでいく。
その日の残業は、資料の修正と、説明のシミュレーションであっという間に時間が過ぎた。
頭がぐったりして、いつものようにコンビニへ向かう。
……けれど、その日、コンビニの前のベンチは空っぽだった。
自動ドアを出入りする人たちの間に、佐伯くんの姿はない。
店内を一周してみても、エナジードリンク売り場にも、雑誌コーナーにもいなかった。
「そりゃ、毎日いるわけじゃないよね」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、サラダチキンとおにぎりをかごに入れる。
いつもより、少しだけ重く感じる。
レジに並んでいると、前の方から聞き慣れた部署名が聞こえてきた。
「佐伯、今月やばいらしいよな」「部長にめっちゃ詰められてたって」
同じ会社の営業の先輩たちが、雑誌をめくりながら話している。
「でもあいつ、顔広いし、なんだかんだ最後に帳尻合わせてくるからさ。今回もギリいけんじゃね?」
「どうだろなー。さすがに今月は厳しそうって噂だけど」
ビニール袋を手に店を出ると、夜風がさっきより冷たく感じた。
私だけが不安を抱えているわけじゃない。
彼も、彼の場所で追い詰められている。
そう思ったら、胸の奥のどこかが、きゅっと近づいた気がした。
***
金曜の朝、出社してすぐにパソコンを立ち上げる。
デスクトップの隅に貼った付箋には、「説明会 来週」と書かれている。
資料を開いて、フォントを整え、図の位置を微調整する。
内容そのものは、もう何度も確認した。
問題は、これを「人前で話す」ということだ。
「ここで一回、デモ画面に切り替えて……」
小さな声でつぶやきながら、頭の中でシミュレーションを繰り返す。
隣の席の先輩に聞こえないように、口の中でだけ言葉を転がす。
そんなとき、パソコンの右下に小さな通知が出た。
社内チャットからのメッセージ。
――今日、帰りコンビニ寄る?
送信者は、佐伯くんだった。
思わず背筋が伸びる。
こんなふうに、彼から直接メッセージが来るのは、あまりない。
すぐに返事を打とうとして、指が止まる。
「行く」とだけ返すのは、なんだか素っ気ない気がして。
でも、余計なことを書いて変に思われるのも怖い。
結局、数秒迷ってから、こう打った。
――寄るよ。今日、ちょっと話したいことあるし
送信してから、「話したいこと」という言葉の重さに、自分で驚く。
説明会のことを相談したいだけなのに、それ以上の意味を含んでいるように見えないだろうか。
モニターに映る自分の顔は、少し赤くなっていた。
「……よし、今日は早めに片づけよう」
小さく呟いて、マウスを握り直す。
誰かとの約束があるだけで、いつもの仕事が少しだけ前向きに感じられた。
***
金曜の夜。コンビニの自動ドアが開くと、見慣れた後ろ姿が、外のベンチに見えた。
「おつかれ」
声をかける前に、彼の方からそう言われる。
手には、缶コーヒーが二本。
「これ、ブラックでよかったっけ?」
「うん。ありがとう」
受け取ると、缶の冷たさが手のひらに染みる。
彼は少し髪をかき上げて、深く息を吐いた。
「今週、長かったなぁ……」
「営業、忙しかったんでしょ?」
「うん。まあ、いろいろね」
曖昧に笑ってから、彼は缶を見つめる。
「今月の数字、やっぱり全然足りなくてさ。部長にも結構言われた。『同期はもっとやれてるぞ』とか」
「……そうなんだ」
「自分でも分かってるんだけどね。要領悪いのに、変に見栄張っちゃったりしてさ。
家帰っても、一人で『なんであそこでこう言えなかったんだろ』とか、ぐるぐる考えちゃう」
ぽつりぽつりと出てくる言葉は、いつもの軽口とは違っていた。
「家、帰りたくなくてさ。だから、ついコンビニで時間潰しちゃうんだよね」
「……そうだったんだ」
私も、缶コーヒーを一口飲む。
苦味が、思ったよりもやわらかく感じた。
「○○は? なんか、話したいことあるって言ってたじゃん」
「あ、うん……」
ここで「やっぱりいいや」と笑ってごまかすこともできる。
いつもの私なら、そうしていたかもしれない。
でも、今週の彼の顔や、自分の付箋に書かれた「説明会」の文字を思い出したら、喉の奥に引っかかっていたものが、するりとほどけていく気がした。
「来週、社内の説明会で、新システムの使い方を説明することになって……」
「え、すごいじゃん。プレゼンデビュー?」
「や、やめて、その言い方……。十五分くらいなんだけど、人前で話すの、すごく苦手で。
みんなの前で噛んだり、真っ白になったりしたらどうしようって、そればっかり考えちゃって」
自分の情けないところを話すのは、勇気がいる。
でも、話し始めると、止まらなくなった。
「なんか、私の仕事って、誰でもできる事務だなって思ってて。
営業みたいに目に見える結果がないし、私がいなくても、きっと誰かがやれるんだろうなって。
佐伯くんから見たら、私なんて地味な事務でしかないんだろうなって、勝手に思ってて」
言ってから、「言いすぎたかも」と不安になる。
でも、彼はすぐには何も言わず、少しだけ目を見開いて、私を見ていた。
「……マジで、そう思ってたの?」
「うん……」
「俺、逆にいつも助けられてるって思ってたけど」
「え?」
「資料とか、段取りとか。○○がちゃんとしてくれてるから、俺ら、前でしゃべれるんだよ。
この前もさ、俺がざっくりしか伝えてなかったのに、ちゃんと分かりやすい資料にしてくれたじゃん。あれ、商談でめっちゃ使った」
少し照れくさそうに笑って、彼は続ける。
「正直、俺一人だったら絶対回ってない。
表でペラペラしゃべってるだけの人って思われがちだけど、その裏でちゃんと支えてくれてる人がいるから、なんとか形になってるんだよ」
「でも、私は前に出てないし……」
「前に出るだけが、すごいことじゃないでしょ。
俺、前に出るのは慣れてるけど、その分、裏のことが全然できないし。
○○の仕事、俺にとっては『前に立つ勇気』を支えてもらってる感じなんだけどな」
「前に立つ、勇気……」
その言葉が、胸の中にじんわりと広がっていく。
自分の仕事が、誰かの「勇気」を支えている。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「……なんか、かっこいい言い方しちゃったな」
彼は頭をかきながら、照れ笑いをした。
「でも、本当にそう思ってるよ。だから、来週の説明会もさ。
○○なら、ちゃんとできると思う。だって、一番詳しいんでしょ?」
「詳しいのは、まあ……そうかも」
「じゃあ、それをそのまま話せばいいじゃん。噛んだっていいよ。
もし噛んだら、俺が一番前の席で笑わせてあげるから」
「それ、余計緊張するんだけど」
思わず笑ってしまう。
さっきまで胸の中で膨らんでいた不安が、少しだけ形を変えた気がした。
ふと、会話が途切れる。
コンビニの自動ドアの開閉音と、遠くを走る電車の音だけが聞こえる。
「……私、来週の説明会、ちゃんとやってみる」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「失敗するかもしれないけど。噛んだり、手が震えたりするかもしれないけど、それでも、ちゃんとやってみたい」
彼が、少し目を丸くしてから、ゆっくりと笑う。
「うん。その方が、○○らしい気がする」
「らしいって、どういう意味」
「完璧じゃないけど、ちゃんとやろうとするとこ。俺、結構好きだけど」
「……」
「ごめん。変な意味じゃなくて」
「変な意味に聞こえるんだけど」
二人で、少しだけ笑う。
「好き」という言葉が、冗談と本音のあいだでふわふわと漂っている。
別れ際、駅へ向かう信号の前で、私は振り返った。
「今週、話聞いてくれて、ありがとう」
いつもより少しだけ、彼の目を見て言う。
「俺も。○○がいるから、なんとかやれてるとこあるし」
彼は、照れくさそうに視線をそらしながら言った。
「来週、終わったらさ。またここで報告してよ。成功したってドヤ顔しに来ていいから」
「ドヤ顔はしないけど……報告は、する」
信号が青に変わる。
背中に視線を感じながら、私は歩き出した。
心の中で、「好き」と言いかけて、飲み込む。
まだ言葉にはできないけれど、その気持ちは「不安」だけじゃなくて、「これからも頑張りたい」という小さな原動力になっていた。
***
翌週の朝。
鏡の前で、私はスーツのジャケットの襟を整える。
手のひらには、まだ少し汗がにじんでいる。
心臓は落ち着きなく動いていて、喉は乾いている。
それでも、鏡の中の自分に向かって、小さくうなずいた。
「どうせ私なんて」じゃなくて、「ちょっとだけ、やってみようかな」
そう言い聞かせながら、スマホのカレンダーに表示された「説明会」の予定を確認する。
コンビニ前の五分間で、私の世界はほんの少しだけ広がった。
あとは、その一歩を、自分で踏み出すだけだ。
「好き」とは言えない私と、言えなさそうな彼の、一週間分の立ち話。
月曜の夜、コンビニの自動ドアが開く音が、今日も「何も変わらなかった」一日を締めくくる合図になっている。
終電に間に合うギリギリの時間。
蛍光灯の白い光と、レジ横のホットスナックの匂い。
どこにでもある風景の中で、私はいつものように、サラダチキンとヨーグルトをかごに入れる。
「健康的だね、今日も」
後ろからかけられた声に、心臓が一瞬だけ跳ねた。
振り向くと、スーツのジャケットを腕にかけた彼が、エナジードリンクとおにぎりを片手に立っていた。ネクタイは少しゆるんでいて、前髪が汗で額にはりついている。
「……またエナドリ?」
「うん。これ飲まないと、明日まで持たないから」
軽く笑って、彼は自分のかごを持ち上げて見せる。
誰とでも話せて、営業部の飲み会ではいつも中心にいる、キラキラした人。同期の、佐伯くん。
「また残業?」
「まあ、ちょっとだけ。そっちは?」
「こっちも、ちょっとだけ」
本当は「今日も、特に誰にも必要とされないまま、なんとなく残ってただけ」と言いかけて、飲み込む。
レジで会計を済ませ、コンビニの外に出ると、夜風がむっとした室内の熱をさらっていった。
店の前の、小さなベンチと灰皿。私たちは自然と、そこに並んで立つ。
「最近どう?」
缶コーヒーのプルタブを開けながら、佐伯くんが何気なく聞いてくる。
「最近……?」
本当は、いろいろある。
誰でもできる事務仕事しかしていない気がするとか。
同期がどんどん営業成績を上げていく中で、私だけ「裏方」のまま取り残されている気がするとか。
恋愛の話になったとき、笑ってごまかしてばかりで、本当は寂しいとか。
でも、口から出てきたのは、いつもと同じ言葉だった。
「うん、まあまあかな。相変わらず、って感じ」
自分でも驚くくらい無難な笑顔を作ると、胸のあたりが少しきゅっとなる。
「そっか。まあ、変わらないのが一番平和かもね」
佐伯くんは、そう言って笑う。
その笑顔が、どこか疲れているように見えたのは、気のせいだろうか。
五分ほどの、他愛ない立ち話。
コンビニ前で缶コーヒー片手に交わすそれが、私の一日の中でいちばん心が動く時間だなんて、誰にも言えない。
家に帰る電車の中で、窓に映る自分の顔を見ながら思う。
「好き」と言えない私は、今日も「まあまあかな」で自分をごまかした。
***
火曜の午後、小さなミスをした。
請求書の数字を一桁打ち間違えて、先方に訂正のメールを送ることになった。
大問題になる前に気づけたから、先輩は「気をつけてね」と柔らかく言ってくれたけれど、そのあとに続いた一言が、胸に刺さる。
「○○ちゃん(私の名前)、慎重な子だから大丈夫だと思ってたんだけどな」
「すみません」と頭を下げながら、心の中では何度も自分をなじる。
慎重なはずなのに、ミスをする。
誰にでもできる事務なのに、それすら完璧にできない。
定時を過ぎて、修正作業と明日の準備をしていたら、また「ちょっとだけ」の残業になっていた。
パソコンをシャットダウンして、会社を出る。
足は自然と、コンビニへ向かっていた。
自動ドアが開くと、冷房の冷たい風と一緒に、見慣れた後ろ姿が目に入る。
雑誌コーナーの前でスマホを見ている佐伯くん……ではなく、その姿は店の外のベンチにあった。
缶コーヒーを二本と、いつものサラダチキンを買って外に出ると、彼はベンチに座ったまま、暗い画面をぼんやりと見つめていた。
「……おつかれ」
声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げる。
「あ、○○。おつかれ。今日も健康セット?」
「うん。そっちは、コーヒーだけ?」
「うん。腹減ってるけど、食欲あんまりなくてさ」
冗談めかして笑うけれど、目の下のクマが昨日より濃い気がする。
「座る?」
彼がベンチの端をぽんぽんと叩く。
私は少し迷ってから、その隣に腰を下ろした。距離は、拳ひとつ分くらい。
「今日さ、部長に数字のことで詰められてさ」
缶コーヒーを開けて、一口飲んでから、彼がぽつりとこぼす。
「今月、ノルマ届きそうにないっぽいんだよね。まあ、いつものことなんだけど」
「そう、なんだ……」
営業の数字のことなんて、正直よくわからない。
でも、「ノルマ」という言葉の重さは、なんとなく想像できた。
「なんかさ、向いてないのかもって思うんだよね、営業」
いつもの軽い調子のままなのに、その一言だけは、妙に重く響いた。
「佐伯くんが? 向いてない、って……」
驚いて顔を見ると、彼は苦笑いを浮かべている。
「俺、プレッシャー弱いんだよ。見ての通りメンタル豆腐だからさ。数字とか、目標とか、追いかけられるとすぐ胃が痛くなる」
「でも、いつも楽しそうに話してるし、お客さんとも仲良さそうだし……」
「それは、なんとかやってるだけ。家帰ると、どっと疲れて、ソファで固まってる」
へらっと笑うけれど、目は笑っていない。
「……そんなふうに見えなかった」
ぽろっと本音が漏れる。
「見せないようにしてるからね。営業だし。暗い顔してても、誰も買ってくれないしさ」
風が吹いて、コンビニのビニール袋がカサカサと鳴った。
何か言いたいのに、言葉がうまくまとまらない。
「そんなことないよ」と、簡単な励ましを言うのは、なんだか薄っぺらく感じてしまう。
代わりに、私の口から出てきたのは、少し違う言葉だった。
「……いつも、ちゃんとお願いしてくれるから、助かってる人、多いと思うよ」
「え?」
「資料、これこれこういうの欲しいって、具体的に言ってくれるじゃない? あれ、すごくやりやすい。何が必要か分かってる人だなって思うし。
私、佐伯くんの案件の資料作るの、実はちょっと好き」
言いながら、顔が熱くなるのがわかる。
「好き」という単語を出してしまったことに、自分で勝手にドキドキしている。
「マジで?」
彼は目を丸くして、少しだけ笑った。
「いや、嬉しい。そういうの、あんまり言われないからさ。裏で支えてもらってるのは分かってるんだけど、ちゃんとありがとうって言えてなかったなって、今思った」
「い、いや、別に……」
視線を落として、缶のふたを指でなぞる。
ほんの少しでも、誰かの役に立てているのかもしれない。
そう思った瞬間、今日のミスで沈んでいた心が、すこしだけ浮かんだ気がした。
***
木曜の昼、上司に呼ばれた。
「○○さん、ちょっといい?」
会議室に入ると、上司はプリントアウトした資料を手にしていた。
「来週の社内説明会で、この新システムの使い方、みんなの前で説明してもらえないかな」
「えっ、私が、ですか?」
思わず声が裏返る。
「一番詳しいの、○○さんでしょ。マニュアルも作ってくれたし。十五分くらいでいいからさ」
「でも、私、人前で話すの苦手で……」
「大丈夫大丈夫。資料もあるし、リハーサルも付き合うから。頼むよ」
笑顔で押し切られて、「はい」としか言えなかった。
断る勇気よりも、「期待を裏切りたくない」という気持ちの方が強い。
席に戻ってからも、資料を開いては閉じ、説明の流れを考えては消す。
頭の中で「失敗したらどうしよう」というイメージばかりが膨らんでいく。
その日の残業は、資料の修正と、説明のシミュレーションであっという間に時間が過ぎた。
頭がぐったりして、いつものようにコンビニへ向かう。
……けれど、その日、コンビニの前のベンチは空っぽだった。
自動ドアを出入りする人たちの間に、佐伯くんの姿はない。
店内を一周してみても、エナジードリンク売り場にも、雑誌コーナーにもいなかった。
「そりゃ、毎日いるわけじゃないよね」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、サラダチキンとおにぎりをかごに入れる。
いつもより、少しだけ重く感じる。
レジに並んでいると、前の方から聞き慣れた部署名が聞こえてきた。
「佐伯、今月やばいらしいよな」「部長にめっちゃ詰められてたって」
同じ会社の営業の先輩たちが、雑誌をめくりながら話している。
「でもあいつ、顔広いし、なんだかんだ最後に帳尻合わせてくるからさ。今回もギリいけんじゃね?」
「どうだろなー。さすがに今月は厳しそうって噂だけど」
ビニール袋を手に店を出ると、夜風がさっきより冷たく感じた。
私だけが不安を抱えているわけじゃない。
彼も、彼の場所で追い詰められている。
そう思ったら、胸の奥のどこかが、きゅっと近づいた気がした。
***
金曜の朝、出社してすぐにパソコンを立ち上げる。
デスクトップの隅に貼った付箋には、「説明会 来週」と書かれている。
資料を開いて、フォントを整え、図の位置を微調整する。
内容そのものは、もう何度も確認した。
問題は、これを「人前で話す」ということだ。
「ここで一回、デモ画面に切り替えて……」
小さな声でつぶやきながら、頭の中でシミュレーションを繰り返す。
隣の席の先輩に聞こえないように、口の中でだけ言葉を転がす。
そんなとき、パソコンの右下に小さな通知が出た。
社内チャットからのメッセージ。
――今日、帰りコンビニ寄る?
送信者は、佐伯くんだった。
思わず背筋が伸びる。
こんなふうに、彼から直接メッセージが来るのは、あまりない。
すぐに返事を打とうとして、指が止まる。
「行く」とだけ返すのは、なんだか素っ気ない気がして。
でも、余計なことを書いて変に思われるのも怖い。
結局、数秒迷ってから、こう打った。
――寄るよ。今日、ちょっと話したいことあるし
送信してから、「話したいこと」という言葉の重さに、自分で驚く。
説明会のことを相談したいだけなのに、それ以上の意味を含んでいるように見えないだろうか。
モニターに映る自分の顔は、少し赤くなっていた。
「……よし、今日は早めに片づけよう」
小さく呟いて、マウスを握り直す。
誰かとの約束があるだけで、いつもの仕事が少しだけ前向きに感じられた。
***
金曜の夜。コンビニの自動ドアが開くと、見慣れた後ろ姿が、外のベンチに見えた。
「おつかれ」
声をかける前に、彼の方からそう言われる。
手には、缶コーヒーが二本。
「これ、ブラックでよかったっけ?」
「うん。ありがとう」
受け取ると、缶の冷たさが手のひらに染みる。
彼は少し髪をかき上げて、深く息を吐いた。
「今週、長かったなぁ……」
「営業、忙しかったんでしょ?」
「うん。まあ、いろいろね」
曖昧に笑ってから、彼は缶を見つめる。
「今月の数字、やっぱり全然足りなくてさ。部長にも結構言われた。『同期はもっとやれてるぞ』とか」
「……そうなんだ」
「自分でも分かってるんだけどね。要領悪いのに、変に見栄張っちゃったりしてさ。
家帰っても、一人で『なんであそこでこう言えなかったんだろ』とか、ぐるぐる考えちゃう」
ぽつりぽつりと出てくる言葉は、いつもの軽口とは違っていた。
「家、帰りたくなくてさ。だから、ついコンビニで時間潰しちゃうんだよね」
「……そうだったんだ」
私も、缶コーヒーを一口飲む。
苦味が、思ったよりもやわらかく感じた。
「○○は? なんか、話したいことあるって言ってたじゃん」
「あ、うん……」
ここで「やっぱりいいや」と笑ってごまかすこともできる。
いつもの私なら、そうしていたかもしれない。
でも、今週の彼の顔や、自分の付箋に書かれた「説明会」の文字を思い出したら、喉の奥に引っかかっていたものが、するりとほどけていく気がした。
「来週、社内の説明会で、新システムの使い方を説明することになって……」
「え、すごいじゃん。プレゼンデビュー?」
「や、やめて、その言い方……。十五分くらいなんだけど、人前で話すの、すごく苦手で。
みんなの前で噛んだり、真っ白になったりしたらどうしようって、そればっかり考えちゃって」
自分の情けないところを話すのは、勇気がいる。
でも、話し始めると、止まらなくなった。
「なんか、私の仕事って、誰でもできる事務だなって思ってて。
営業みたいに目に見える結果がないし、私がいなくても、きっと誰かがやれるんだろうなって。
佐伯くんから見たら、私なんて地味な事務でしかないんだろうなって、勝手に思ってて」
言ってから、「言いすぎたかも」と不安になる。
でも、彼はすぐには何も言わず、少しだけ目を見開いて、私を見ていた。
「……マジで、そう思ってたの?」
「うん……」
「俺、逆にいつも助けられてるって思ってたけど」
「え?」
「資料とか、段取りとか。○○がちゃんとしてくれてるから、俺ら、前でしゃべれるんだよ。
この前もさ、俺がざっくりしか伝えてなかったのに、ちゃんと分かりやすい資料にしてくれたじゃん。あれ、商談でめっちゃ使った」
少し照れくさそうに笑って、彼は続ける。
「正直、俺一人だったら絶対回ってない。
表でペラペラしゃべってるだけの人って思われがちだけど、その裏でちゃんと支えてくれてる人がいるから、なんとか形になってるんだよ」
「でも、私は前に出てないし……」
「前に出るだけが、すごいことじゃないでしょ。
俺、前に出るのは慣れてるけど、その分、裏のことが全然できないし。
○○の仕事、俺にとっては『前に立つ勇気』を支えてもらってる感じなんだけどな」
「前に立つ、勇気……」
その言葉が、胸の中にじんわりと広がっていく。
自分の仕事が、誰かの「勇気」を支えている。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「……なんか、かっこいい言い方しちゃったな」
彼は頭をかきながら、照れ笑いをした。
「でも、本当にそう思ってるよ。だから、来週の説明会もさ。
○○なら、ちゃんとできると思う。だって、一番詳しいんでしょ?」
「詳しいのは、まあ……そうかも」
「じゃあ、それをそのまま話せばいいじゃん。噛んだっていいよ。
もし噛んだら、俺が一番前の席で笑わせてあげるから」
「それ、余計緊張するんだけど」
思わず笑ってしまう。
さっきまで胸の中で膨らんでいた不安が、少しだけ形を変えた気がした。
ふと、会話が途切れる。
コンビニの自動ドアの開閉音と、遠くを走る電車の音だけが聞こえる。
「……私、来週の説明会、ちゃんとやってみる」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「失敗するかもしれないけど。噛んだり、手が震えたりするかもしれないけど、それでも、ちゃんとやってみたい」
彼が、少し目を丸くしてから、ゆっくりと笑う。
「うん。その方が、○○らしい気がする」
「らしいって、どういう意味」
「完璧じゃないけど、ちゃんとやろうとするとこ。俺、結構好きだけど」
「……」
「ごめん。変な意味じゃなくて」
「変な意味に聞こえるんだけど」
二人で、少しだけ笑う。
「好き」という言葉が、冗談と本音のあいだでふわふわと漂っている。
別れ際、駅へ向かう信号の前で、私は振り返った。
「今週、話聞いてくれて、ありがとう」
いつもより少しだけ、彼の目を見て言う。
「俺も。○○がいるから、なんとかやれてるとこあるし」
彼は、照れくさそうに視線をそらしながら言った。
「来週、終わったらさ。またここで報告してよ。成功したってドヤ顔しに来ていいから」
「ドヤ顔はしないけど……報告は、する」
信号が青に変わる。
背中に視線を感じながら、私は歩き出した。
心の中で、「好き」と言いかけて、飲み込む。
まだ言葉にはできないけれど、その気持ちは「不安」だけじゃなくて、「これからも頑張りたい」という小さな原動力になっていた。
***
翌週の朝。
鏡の前で、私はスーツのジャケットの襟を整える。
手のひらには、まだ少し汗がにじんでいる。
心臓は落ち着きなく動いていて、喉は乾いている。
それでも、鏡の中の自分に向かって、小さくうなずいた。
「どうせ私なんて」じゃなくて、「ちょっとだけ、やってみようかな」
そう言い聞かせながら、スマホのカレンダーに表示された「説明会」の予定を確認する。
コンビニ前の五分間で、私の世界はほんの少しだけ広がった。
あとは、その一歩を、自分で踏み出すだけだ。
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