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週末だけのキッチン
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別れると決めたのに、今日もあなたとカレーを煮込んでいる。
段ボールに囲まれたキッチンで、最後の週末が、いつもと同じ匂いをしている。
***
金曜の夜、最寄り駅からの道は、いつもより少し蒸し暑かった。
マンションのエントランスでオートロックを開けると、エレベーターの鏡に映った自分が、思ったより疲れた顔をしていて、思わず目をそらす。
「おつかれさまです、三浦さん」
昼間、会社の受付で言われるような、他人行儀な言葉が頭に浮かんで苦笑する。総務の仕事は、今日も細かい雑務で埋め尽くされた。誰かのための備品、誰かのための会議室、誰かのためのコーヒー。私は「誰か」のために動くのは得意だけど、自分のために何かを選ぶのは、昔から少し苦手だ。
そんな私が、三年付き合った恋人と別れることを決めたのは、先月のことだ。
玄関のドアを開けると、ふわりとカレーの匂いがした。
「あ、帰ってきた?」
キッチンから顔を出した悠真が、いつものように言う。グレーのTシャツに、私が買ったネイビーのエプロン。髪は少し伸びて、前よりも大人っぽく見える。
「ただいま」
条件反射でそう言ってから、「もうすぐここは、私の“ただいま”じゃなくなるんだ」と遅れて気づく。
リビングには、段ボールが積まれていた。印刷された「MOVER」のロゴが、やたらと目につく。テーブルの上には、契約書のコピーと、私が書きかけの退去届。
「ごめん、先に作り始めちゃった。今日、同じ時間くらいかなって思って」
「ううん、助かる。残業なかったの?」
「今日は早く上がれた。月末前だし、来週は地獄だから」
そう言って笑う顔は、三年前、飲み会で初めて話したときとあまり変わらない。落ち着いていて、何でもそつなくこなす「ちゃんとした大人」の顔。
その顔で、「結婚にこだわらなくてもよくない?」と言ったのも、彼だった。
「野菜、まだ切ってないから。お願いしてもいい?」
「うん」
靴を脱いで、カバンをソファの端に置く。ソファの横にも、段ボールが二つ。マジックで「本」「冬服」と書いてある。ここに来たばかりの頃、二人で組み立てたテレビ台は、もうネジを外されて、壁際に寄せられていた。
キッチンに入ると、ステンレスの作業台に、玉ねぎと人参とじゃがいもが並んでいる。いつもと同じ、四人分くらいの量。二人暮らしなのに、つい多めに作ってしまうのは、お互いの実家がそうだったからだ。
「玉ねぎ、薄めでいい?」
「うん。今日、ちょっと煮込む時間ありそうだから、飴色まではいかなくていいけど、気持ち薄めで」
「了解」
まな板の上で、包丁の音がリズムを刻む。トントントン。休日の昼間にも、仕事帰りの夜にも、何度も聞いた音。これが「最後の週末」だなんて、現実感がない。
「今日さ、会社の子が結婚報告してきて」
沈黙を埋めるように、私は言った。
「総務の子?」
「うん。二つ下の子。来年の春に式挙げるんだって。式場のパンフ見せてもらった」
「へえ。最近、結婚ラッシュだね」
「そうだね」
玉ねぎを切りながら、目が少し痛くなる。玉ねぎのせいだけじゃないと分かっているから、なるべく顔を上げない。
「式、行くの?」
「うん。呼んでくれたから。『三浦さん、絶対泣きますよね』って言われた」
「泣きそう」
「でしょ」
笑い合って、少しだけ空気が軽くなる。
結婚の話題は、ここ数ヶ月、私たちの間で一番重たいものだった。触れればすぐに沈む地雷みたいで、なるべく避けてきた。でも、避け続けた先にあったのが、この段ボールの山だ。
「沙耶はさ」
悠真が、鍋に油をひきながら、ぽつりと言う。
「結婚、そんなにしたかった?」
包丁の動きが、少しだけ止まる。
「……『そんなに』って言われると、難しい」
「うん」
「別に、ウエディングドレスに憧れてたわけじゃないし、『早く結婚しなきゃ』って焦ってたわけでもないよ。ただ……」
言葉を探しながら、じゃがいもを切る。
「三年一緒に暮らしてて、この先も一緒にいるんだろうなって思ってたから。なんか、その……名前とか、家族の書類とか、そういうのも、いつか揃うのかなって、勝手に想像してた」
「勝手に、って言わなくていいよ」
悠真が、フライパンでひき肉をほぐしながら言う。
「それは、普通の想像だと思う」
「普通とか、もうよく分かんないよ」
笑うつもりが、少し声が震れた。
あの日。休日の午後、ソファに並んで見ていたバラエティ番組で、芸人が公開プロポーズをしていた。観客の歓声。画面の中の涙。私は、何気ない風に聞いた。
「ねえ、私たちが結婚するのって、いつ頃だと思う?」
テレビから目を離さずに、悠真は言った。
「え、結婚? ……うーん。なんか、結婚にこだわらなくてもよくない?」
その一言で、胸の中の何かが、静かに折れた。
「じゃがいも、これくらいでいい?」
話題を戻すように、私は訊く。
「うん、いい感じ」
ひき肉の上に、玉ねぎが投入される。じゅっと音がして、甘い匂いが立ち上る。私たちの会話みたいに、熱で少しずつ柔らかくなっていく。
***
カレーを煮込んでいる間、私は洗濯機の前にしゃがみ込んだ。
「これ、どっちの?」
洗濯機の横に置かれた、洗剤と柔軟剤。どちらも、私が選んだものだ。
「洗剤は沙耶の。柔軟剤は、俺が勝手に買い足したやつ」
「そっか。柔軟剤、持ってく?」
「うーん……沙耶、使うなら持ってっていいよ」
「次の部屋、まだ決めてないからなあ」
そう言いながら、洗濯機から出てきたTシャツをぱんぱんと伸ばす。二人分の洗濯物は、まだ「私たち」の匂いがしている。これも、あと数日で別々になる。
「次の部屋、見に行ったりしてる?」
キッチンから、悠真の声がする。
「うん。何件か」
「どうだった?」
「駅から近いけど、キッチンが狭いところとか、キッチンは広いけど駅から遠いところとか」
「悩むやつだ」
「でしょ」
私はベランダに出て、洗濯物をハンガーにかける。夜風が、湿気を含んでいる。マンションの隙間から見える空は、うっすらと曇っていた。
「今度は、自分の好きなキッチンを選ぶんだ」
ベランダの柵にタオルを干しながら、ぽつりと口からこぼれた言葉に、自分で少し驚く。
「え?」
「なんかさ。ここって、ほとんど悠真が選んだじゃん。駅近で、築浅で、オートロックで」
「うん。沙耶は、キッチンが広いのがいいって言ってた」
「そう。だから、キッチンだけは譲らなかったけど。シンクの高さとか、作業台の広さとか、コンロが二口以上とか。細かいところは、結局、『まあいっか』って思ってた」
「……」
「でも、次は『まあいっか』じゃなくて、『ここがいい』って自分で決めたいなって。コンロ、一口でもいいから、好きな色のタイルがあるとか、窓があるとか。そういうの」
ベランダから振り返ると、キッチンの入り口に立った悠真が、少し驚いたような顔で私を見ていた。
「いいじゃん、それ」
「そうかな」
「うん。沙耶、そういうこと、もっと言えばよかったのに」
「言ったよ。キッチン広いのがいいって」
「そうじゃなくて」
悠真は、少し笑って、首をかしげる。
「『ここがいい』『これがいい』って。もっと、具体的に」
「……言ってもよかった?」
「言ってほしかった」
その言葉が、胸の奥のどこかに、静かに落ちる。
私は、今までどれくらい「まあいっか」でやり過ごしてきたんだろう。
休日の過ごし方。家具の配置。友達と会う頻度。将来の話。結婚の話。
「本当は、もっと一緒に決めたかったんだよね」
気づいたら、そう口にしていた。
「一緒に?」
「うん。ソファの位置とか、カーテンの色とか、旅行の行き先とか。結婚するかどうかも、そうだけど」
洗濯物を干し終えて、ベランダのサンダルを脱ぐ。リビングに戻ると、段ボールの山が、いつもより高く見えた。
「悠真って、決めるの早いじゃん。合理的っていうか。だから、私が『どうしようかな』って考えてる間に、だいたい答え出してくれちゃうから、『まあいっか、それで』ってなってた」
「それ、悪いことした?」
「悪いっていうか……」
ソファの端に腰を下ろして、クッションを抱きしめる。
「楽だった。すごく」
「そっか」
「でも、楽な分、自分が何を望んでるのか、だんだん分かんなくなってきてたんだと思う。結婚のことも、多分そう」
カレーの煮える音が、かすかに聞こえる。コトコトという音が、私の言葉の隙間を埋めていく。
「結婚、したかった?」
改めて問われて、私は少し考える。
「したかった、と思う。『しなきゃ』じゃなくて、『できたらいいな』くらいの温度で。でも、悠真が『こだわらなくてもよくない?』って言ったとき、『あ、私の『できたらいいな』は、ここでは邪魔なんだな』って思っちゃって」
「邪魔なんて」
「そう思ったの。勝手にね」
勝手に、という言葉が、また口から出る。本当は、それをやめたいのに。
「俺さ」
悠真が、キッチンの方に視線を戻しながら言う。
「結婚っていう形にすると、沙耶に負担かけるんじゃないかって、勝手に思ってた」
「負担?」
「ほら、名字変えたりとかさ。仕事と家のことのバランスとか。俺の実家、ちょっとめんどくさいし」
「めんどくさいのは、知ってるけど」
「だから、『結婚』って言葉を出すのが、怖かったんだと思う。俺が言ったら、その瞬間から、沙耶がいろいろ我慢し始めるんじゃないかって」
「……」
「沙耶、俺のために、いろいろ我慢するでしょ」
図星をさされて、何も言えなくなる。
「俺、それが嬉しくて、同時に怖かった」
「嬉しくて、怖い?」
「うん。嬉しいけど、いつか限界が来て、『こんなはずじゃなかった』って言われるんじゃないかって。だったら、最初から形にしない方が、自由でいられるかなって」
「自由って、誰の?」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「俺……かな」
「だよね」
ちくりとした痛みと一緒に、なぜか少し笑えてしまう。
「でもさ、それって、私のこと守ってるようで、自分守ってるだけだよね」
「うん。そうだと思う」
悠真は、あっさり認めた。
「だから、別れようって言ったときも、俺の中では『これ以上、沙耶に我慢させたくない』っていう、ある意味、正義感みたいなものがあったんだけど」
「うん」
「今思うと、単に、ちゃんと向き合うのが怖かっただけかもしれない」
カレーの匂いが、少し濃くなる。タイマーがピピッと鳴って、悠真が火を弱める。
「……私も、ちゃんと向き合えばよかったんだろうな」
ぽつりと、天井を見上げながら言う。
「『結婚したい』って、一回くらい、ちゃんと言えばよかった」
「言ってたじゃん、何回か」
「『いつ頃だと思う?』とか、『もし結婚したら』とか、そういうぼやっとしたやつでしょ」
「うん」
「そうじゃなくて、『私は、あなたと結婚したいです』って。はっきり言ったことは、一度もない」
その言葉を口にしてみて、少しだけ胸が軽くなる。過去形だけど、確かにそこにあった気持ちだった。
「今、聞いた」
悠真が、キッチンからこちらを見ている。
「遅いよ」
「うん。遅いね」
二人とも、少し笑った。
***
食卓に、「最後のカレー」が並ぶ。
いつもの白い皿。いつもの福神漬け。いつもの、少し多めのご飯。
スプーンを入れると、とろりとしたルーの中から、柔らかく煮えたじゃがいもが顔を出す。
「いただきます」
同時に手を合わせて、口に運ぶ。
一口目で、少しだけ驚いた。
「……なんか、いつもよりスパイス効いてない?」
「分かる?」
「うん。ちょっと辛い。でも、嫌な辛さじゃない」
「この前、スーパーで見つけたガラムマサラ、入れてみた」
悠真が、少し誇らしげに言う。
「沙耶、前に言ってたじゃん。『もうちょっと辛い方が好き』って」
「あ」
忘れていた。あれも、多分、私の「本当は」のひとつだったのに。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ。沙耶、辛いのそんな得意じゃないけど、カレーだけは、ちょっとスパイスきいてる方が好き」
「……うん。好き」
スプーンをもう一度口に運ぶ。確かに、いつもより少しだけ、舌の上が熱い。けれど、その熱さが、なんだか心地いい。
「次のキッチンでさ」
悠真が、水を一口飲んでから言う。
「沙耶、カレー作る?」
「作ると思う」
「どんなカレー?」
「うーん……」
少し考えて、笑う。
「まだ分かんない。ルー使うかもしれないし、スパイスから挑戦してみるかもしれないし。具も、変えてみようかな」
「ナスとか?」
「ナスいいね。あと、ひき肉じゃなくて、鶏肉とか」
「絶対うまい」
「失敗するかもよ」
「それも、いいんじゃない?」
悠真は、少し真面目な顔をして、私を見た。
「失敗しても、『これじゃないな』って分かるじゃん。次、変えればいいし」
「……そうだね」
私は、スプーンを握りしめたまま、うつむく。
「私、多分、失敗するのが怖かったんだと思う」
「うん」
「自分から『これがいい』って言って、それが間違ってたら、責任取らなきゃいけない気がして。でも、誰かが決めたことなら、『まあ、こういうもんか』って、諦められるから」
「それ、分かる」
悠真が、少しだけ自嘲気味に笑う。
「俺も、『結婚しない』って決めたら、その責任取らなきゃいけない気がしてた。だから、『こだわらなくてもよくない?』って、曖昧にした」
「似た者同士?」
「かもね」
スプーンの音が、皿の上でカチリと鳴る。
「でもさ」
悠真が、真っ直ぐに私を見る。
「沙耶は、もっとわがままでいいと思う」
「……今さら」
「今さらだけど。言っときたかった」
少しの沈黙のあと、彼は続ける。
「俺、沙耶の『これがいい』って顔、結構好きだったから」
「そんな顔、してた?」
「してたよ。ニトリで、このマグカップ見つけたときとか」
テーブルの端に置かれた、青いマグカップを指さす。丸くて、少しだけ重たいお気に入り。
「あと、このカレーに、隠し味で醤油入れるって決めたときも」
「あー……」
「そういうの、もっと見たかったなって思う」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「じゃあ、次のキッチンでは、もうちょっとわがまま言ってみる」
「うん。言って」
「『今日のカレーは辛すぎる』とか」
「それは、加減して」
二人で笑う。笑いながら、私は気づく。
この笑いは、もう「恋人」としてのものじゃないのかもしれない。でも、確かにここにあった時間を、全部なかったことにはしたくない。
「ねえ」
食後、マグカップにお茶を注ぎながら、私は口を開いた。
「今まで、ありがとう」
「急にどうした」
「言っとこうと思って。言ってなかったから」
「こっちこそ」
悠真は、少し照れたように笑う。
「三年も一緒にいてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
マグカップの縁に、唇をつける。温かいお茶が喉を通っていく。
「もしさ」
私は、少しだけ意地悪な質問をしてみたくなる。
「もし、あのとき私が、『私はあなたと結婚したいです』って、はっきり言ってたら、どうしてた?」
悠真は、少し考えてから答えた。
「多分、めちゃくちゃ悩んだと思う」
「だよね」
「でも、多分……ちゃんと向き合おうとはしたと思う」
「そっか」
「だから、『あのとき、こう言えたらよかったね』って、今言えるのは、悪くないなって思う」
「うん。悪くない」
それは、やり直しの約束じゃない。過去を少しだけ、優しく撫で直すための言葉。
それで、十分だと思えた。
***
翌朝、早起きして、最後の荷造りをした。
キッチンの棚は、ほとんど空っぽだ。鍋やフライパンは段ボールの中。調味料も、最低限だけ残してある。
「これ、持ってく?」
悠真が、シンクの下から、使い込んだフライパンを取り出す。
「うーん……それは、悠真が使いなよ。私、新しいの買う」
「そっか」
「次は、軽くて、洗いやすくて、持ち手が木のやつにする」
「具体的」
「そういうの、ちゃんと選ぶ練習する」
「いいね、それ」
キッチンの床を、最後にもう一度拭き掃除する。水滴の跡も、油の飛び散りも、なるべくきれいに消していく。
引っ越し業者が来て、段ボールが次々と運び出される。リビングの真ん中が、ぽっかりと空いた。
「じゃあ、俺、荷物と一緒に下行くから」
玄関で、悠真が言う。
「うん」
「鍵、ポストに入れておいてくれたらいいから」
「分かった」
靴を履きながら、彼が少しだけ振り返る。
「新しいキッチン、見つかったら、写真送ってよ」
「え?」
「いや、無理にじゃなくて。もし、気が向いたらでいいから」
「……気が向いたらね」
そう答えると、悠真は安心したように笑って、ドアの向こうに消えた。
静かになった部屋に、私ひとりが残される。
キッチンに立つ。空になった棚。何も置かれていないカウンター。シンクの中も、きれいに乾いている。
ガスの元栓を確認して、最後に蛇口をひねる。水が一瞬だけ流れて、すぐに止まる。
「……ありがとう」
誰にともなく、でも確かにここにいた「私たち」に向けて、小さく呟く。
玄関のドアを閉めるとき、少しだけ躊躇した。でも、ちゃんと手を離す。
***
数日後。
新しい部屋の、小さなキッチンに立つ。
駅から少し遠いけれど、窓があって、朝日が差し込む。シンクは前より狭いけれど、コンロは二口。壁の白いタイルが、少しだけレトロで気に入っている。
今日は、一人分のカレーを作る。
玉ねぎを切って、じゃがいもを切って、鶏肉を一口大に切る。スーパーで見つけたガラムマサラも、そっと横に置いておく。
「どれくらい入れようかな」
スプーンに少しだけすくって、指でつまむ。指先に残った香りを嗅いでみる。少しスパイシーで、少し懐かしい匂い。
鍋に入れる量を、ほんの少しだけ増やしてみる。
カレーが煮える間、私はスマホを手に取った。
メッセージアプリを開いて、悠真の名前を探す。まだ、ブロックも削除もしていない。
『新しいキッチン、こんな感じ』
そう打って、キッチンの写真を添付する。送信ボタンの上で、指が止まる。
迷って、迷って、それでも。
「……えい」
小さく呟いて、指を押した。
送信済みの表示が出る。すぐに既読はつかない。でも、それでいい。
鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に、スパイスの匂いが立ち上る。味見をしてみると、少しだけ、辛さが勝っていた。
「……ちょっと、辛いかも」
でも、嫌じゃない。
次は、もう少しだけ控えめにしよう。じゃがいもを増やしてみよう。ナスも入れてみたい。
何度でも、調整すればいい。
一人分のカレーを皿によそって、テーブルに運ぶ。窓から差し込む夕方の光が、カレーの表面に反射して、きらりと光った。
スプーンを口に運ぶ。
まだ、味は決まっていない。でも、その曖昧さが、少しだけ愛おしい。
「これから、いくらでも変えられるから」
そう呟いて、もう一口すくう。
相手に合わせるだけのキッチンから、自分のためのキッチンへ。
さよならを言えたから、私はやっと、自分の味を探し始められる。
段ボールに囲まれたキッチンで、最後の週末が、いつもと同じ匂いをしている。
***
金曜の夜、最寄り駅からの道は、いつもより少し蒸し暑かった。
マンションのエントランスでオートロックを開けると、エレベーターの鏡に映った自分が、思ったより疲れた顔をしていて、思わず目をそらす。
「おつかれさまです、三浦さん」
昼間、会社の受付で言われるような、他人行儀な言葉が頭に浮かんで苦笑する。総務の仕事は、今日も細かい雑務で埋め尽くされた。誰かのための備品、誰かのための会議室、誰かのためのコーヒー。私は「誰か」のために動くのは得意だけど、自分のために何かを選ぶのは、昔から少し苦手だ。
そんな私が、三年付き合った恋人と別れることを決めたのは、先月のことだ。
玄関のドアを開けると、ふわりとカレーの匂いがした。
「あ、帰ってきた?」
キッチンから顔を出した悠真が、いつものように言う。グレーのTシャツに、私が買ったネイビーのエプロン。髪は少し伸びて、前よりも大人っぽく見える。
「ただいま」
条件反射でそう言ってから、「もうすぐここは、私の“ただいま”じゃなくなるんだ」と遅れて気づく。
リビングには、段ボールが積まれていた。印刷された「MOVER」のロゴが、やたらと目につく。テーブルの上には、契約書のコピーと、私が書きかけの退去届。
「ごめん、先に作り始めちゃった。今日、同じ時間くらいかなって思って」
「ううん、助かる。残業なかったの?」
「今日は早く上がれた。月末前だし、来週は地獄だから」
そう言って笑う顔は、三年前、飲み会で初めて話したときとあまり変わらない。落ち着いていて、何でもそつなくこなす「ちゃんとした大人」の顔。
その顔で、「結婚にこだわらなくてもよくない?」と言ったのも、彼だった。
「野菜、まだ切ってないから。お願いしてもいい?」
「うん」
靴を脱いで、カバンをソファの端に置く。ソファの横にも、段ボールが二つ。マジックで「本」「冬服」と書いてある。ここに来たばかりの頃、二人で組み立てたテレビ台は、もうネジを外されて、壁際に寄せられていた。
キッチンに入ると、ステンレスの作業台に、玉ねぎと人参とじゃがいもが並んでいる。いつもと同じ、四人分くらいの量。二人暮らしなのに、つい多めに作ってしまうのは、お互いの実家がそうだったからだ。
「玉ねぎ、薄めでいい?」
「うん。今日、ちょっと煮込む時間ありそうだから、飴色まではいかなくていいけど、気持ち薄めで」
「了解」
まな板の上で、包丁の音がリズムを刻む。トントントン。休日の昼間にも、仕事帰りの夜にも、何度も聞いた音。これが「最後の週末」だなんて、現実感がない。
「今日さ、会社の子が結婚報告してきて」
沈黙を埋めるように、私は言った。
「総務の子?」
「うん。二つ下の子。来年の春に式挙げるんだって。式場のパンフ見せてもらった」
「へえ。最近、結婚ラッシュだね」
「そうだね」
玉ねぎを切りながら、目が少し痛くなる。玉ねぎのせいだけじゃないと分かっているから、なるべく顔を上げない。
「式、行くの?」
「うん。呼んでくれたから。『三浦さん、絶対泣きますよね』って言われた」
「泣きそう」
「でしょ」
笑い合って、少しだけ空気が軽くなる。
結婚の話題は、ここ数ヶ月、私たちの間で一番重たいものだった。触れればすぐに沈む地雷みたいで、なるべく避けてきた。でも、避け続けた先にあったのが、この段ボールの山だ。
「沙耶はさ」
悠真が、鍋に油をひきながら、ぽつりと言う。
「結婚、そんなにしたかった?」
包丁の動きが、少しだけ止まる。
「……『そんなに』って言われると、難しい」
「うん」
「別に、ウエディングドレスに憧れてたわけじゃないし、『早く結婚しなきゃ』って焦ってたわけでもないよ。ただ……」
言葉を探しながら、じゃがいもを切る。
「三年一緒に暮らしてて、この先も一緒にいるんだろうなって思ってたから。なんか、その……名前とか、家族の書類とか、そういうのも、いつか揃うのかなって、勝手に想像してた」
「勝手に、って言わなくていいよ」
悠真が、フライパンでひき肉をほぐしながら言う。
「それは、普通の想像だと思う」
「普通とか、もうよく分かんないよ」
笑うつもりが、少し声が震れた。
あの日。休日の午後、ソファに並んで見ていたバラエティ番組で、芸人が公開プロポーズをしていた。観客の歓声。画面の中の涙。私は、何気ない風に聞いた。
「ねえ、私たちが結婚するのって、いつ頃だと思う?」
テレビから目を離さずに、悠真は言った。
「え、結婚? ……うーん。なんか、結婚にこだわらなくてもよくない?」
その一言で、胸の中の何かが、静かに折れた。
「じゃがいも、これくらいでいい?」
話題を戻すように、私は訊く。
「うん、いい感じ」
ひき肉の上に、玉ねぎが投入される。じゅっと音がして、甘い匂いが立ち上る。私たちの会話みたいに、熱で少しずつ柔らかくなっていく。
***
カレーを煮込んでいる間、私は洗濯機の前にしゃがみ込んだ。
「これ、どっちの?」
洗濯機の横に置かれた、洗剤と柔軟剤。どちらも、私が選んだものだ。
「洗剤は沙耶の。柔軟剤は、俺が勝手に買い足したやつ」
「そっか。柔軟剤、持ってく?」
「うーん……沙耶、使うなら持ってっていいよ」
「次の部屋、まだ決めてないからなあ」
そう言いながら、洗濯機から出てきたTシャツをぱんぱんと伸ばす。二人分の洗濯物は、まだ「私たち」の匂いがしている。これも、あと数日で別々になる。
「次の部屋、見に行ったりしてる?」
キッチンから、悠真の声がする。
「うん。何件か」
「どうだった?」
「駅から近いけど、キッチンが狭いところとか、キッチンは広いけど駅から遠いところとか」
「悩むやつだ」
「でしょ」
私はベランダに出て、洗濯物をハンガーにかける。夜風が、湿気を含んでいる。マンションの隙間から見える空は、うっすらと曇っていた。
「今度は、自分の好きなキッチンを選ぶんだ」
ベランダの柵にタオルを干しながら、ぽつりと口からこぼれた言葉に、自分で少し驚く。
「え?」
「なんかさ。ここって、ほとんど悠真が選んだじゃん。駅近で、築浅で、オートロックで」
「うん。沙耶は、キッチンが広いのがいいって言ってた」
「そう。だから、キッチンだけは譲らなかったけど。シンクの高さとか、作業台の広さとか、コンロが二口以上とか。細かいところは、結局、『まあいっか』って思ってた」
「……」
「でも、次は『まあいっか』じゃなくて、『ここがいい』って自分で決めたいなって。コンロ、一口でもいいから、好きな色のタイルがあるとか、窓があるとか。そういうの」
ベランダから振り返ると、キッチンの入り口に立った悠真が、少し驚いたような顔で私を見ていた。
「いいじゃん、それ」
「そうかな」
「うん。沙耶、そういうこと、もっと言えばよかったのに」
「言ったよ。キッチン広いのがいいって」
「そうじゃなくて」
悠真は、少し笑って、首をかしげる。
「『ここがいい』『これがいい』って。もっと、具体的に」
「……言ってもよかった?」
「言ってほしかった」
その言葉が、胸の奥のどこかに、静かに落ちる。
私は、今までどれくらい「まあいっか」でやり過ごしてきたんだろう。
休日の過ごし方。家具の配置。友達と会う頻度。将来の話。結婚の話。
「本当は、もっと一緒に決めたかったんだよね」
気づいたら、そう口にしていた。
「一緒に?」
「うん。ソファの位置とか、カーテンの色とか、旅行の行き先とか。結婚するかどうかも、そうだけど」
洗濯物を干し終えて、ベランダのサンダルを脱ぐ。リビングに戻ると、段ボールの山が、いつもより高く見えた。
「悠真って、決めるの早いじゃん。合理的っていうか。だから、私が『どうしようかな』って考えてる間に、だいたい答え出してくれちゃうから、『まあいっか、それで』ってなってた」
「それ、悪いことした?」
「悪いっていうか……」
ソファの端に腰を下ろして、クッションを抱きしめる。
「楽だった。すごく」
「そっか」
「でも、楽な分、自分が何を望んでるのか、だんだん分かんなくなってきてたんだと思う。結婚のことも、多分そう」
カレーの煮える音が、かすかに聞こえる。コトコトという音が、私の言葉の隙間を埋めていく。
「結婚、したかった?」
改めて問われて、私は少し考える。
「したかった、と思う。『しなきゃ』じゃなくて、『できたらいいな』くらいの温度で。でも、悠真が『こだわらなくてもよくない?』って言ったとき、『あ、私の『できたらいいな』は、ここでは邪魔なんだな』って思っちゃって」
「邪魔なんて」
「そう思ったの。勝手にね」
勝手に、という言葉が、また口から出る。本当は、それをやめたいのに。
「俺さ」
悠真が、キッチンの方に視線を戻しながら言う。
「結婚っていう形にすると、沙耶に負担かけるんじゃないかって、勝手に思ってた」
「負担?」
「ほら、名字変えたりとかさ。仕事と家のことのバランスとか。俺の実家、ちょっとめんどくさいし」
「めんどくさいのは、知ってるけど」
「だから、『結婚』って言葉を出すのが、怖かったんだと思う。俺が言ったら、その瞬間から、沙耶がいろいろ我慢し始めるんじゃないかって」
「……」
「沙耶、俺のために、いろいろ我慢するでしょ」
図星をさされて、何も言えなくなる。
「俺、それが嬉しくて、同時に怖かった」
「嬉しくて、怖い?」
「うん。嬉しいけど、いつか限界が来て、『こんなはずじゃなかった』って言われるんじゃないかって。だったら、最初から形にしない方が、自由でいられるかなって」
「自由って、誰の?」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「俺……かな」
「だよね」
ちくりとした痛みと一緒に、なぜか少し笑えてしまう。
「でもさ、それって、私のこと守ってるようで、自分守ってるだけだよね」
「うん。そうだと思う」
悠真は、あっさり認めた。
「だから、別れようって言ったときも、俺の中では『これ以上、沙耶に我慢させたくない』っていう、ある意味、正義感みたいなものがあったんだけど」
「うん」
「今思うと、単に、ちゃんと向き合うのが怖かっただけかもしれない」
カレーの匂いが、少し濃くなる。タイマーがピピッと鳴って、悠真が火を弱める。
「……私も、ちゃんと向き合えばよかったんだろうな」
ぽつりと、天井を見上げながら言う。
「『結婚したい』って、一回くらい、ちゃんと言えばよかった」
「言ってたじゃん、何回か」
「『いつ頃だと思う?』とか、『もし結婚したら』とか、そういうぼやっとしたやつでしょ」
「うん」
「そうじゃなくて、『私は、あなたと結婚したいです』って。はっきり言ったことは、一度もない」
その言葉を口にしてみて、少しだけ胸が軽くなる。過去形だけど、確かにそこにあった気持ちだった。
「今、聞いた」
悠真が、キッチンからこちらを見ている。
「遅いよ」
「うん。遅いね」
二人とも、少し笑った。
***
食卓に、「最後のカレー」が並ぶ。
いつもの白い皿。いつもの福神漬け。いつもの、少し多めのご飯。
スプーンを入れると、とろりとしたルーの中から、柔らかく煮えたじゃがいもが顔を出す。
「いただきます」
同時に手を合わせて、口に運ぶ。
一口目で、少しだけ驚いた。
「……なんか、いつもよりスパイス効いてない?」
「分かる?」
「うん。ちょっと辛い。でも、嫌な辛さじゃない」
「この前、スーパーで見つけたガラムマサラ、入れてみた」
悠真が、少し誇らしげに言う。
「沙耶、前に言ってたじゃん。『もうちょっと辛い方が好き』って」
「あ」
忘れていた。あれも、多分、私の「本当は」のひとつだったのに。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ。沙耶、辛いのそんな得意じゃないけど、カレーだけは、ちょっとスパイスきいてる方が好き」
「……うん。好き」
スプーンをもう一度口に運ぶ。確かに、いつもより少しだけ、舌の上が熱い。けれど、その熱さが、なんだか心地いい。
「次のキッチンでさ」
悠真が、水を一口飲んでから言う。
「沙耶、カレー作る?」
「作ると思う」
「どんなカレー?」
「うーん……」
少し考えて、笑う。
「まだ分かんない。ルー使うかもしれないし、スパイスから挑戦してみるかもしれないし。具も、変えてみようかな」
「ナスとか?」
「ナスいいね。あと、ひき肉じゃなくて、鶏肉とか」
「絶対うまい」
「失敗するかもよ」
「それも、いいんじゃない?」
悠真は、少し真面目な顔をして、私を見た。
「失敗しても、『これじゃないな』って分かるじゃん。次、変えればいいし」
「……そうだね」
私は、スプーンを握りしめたまま、うつむく。
「私、多分、失敗するのが怖かったんだと思う」
「うん」
「自分から『これがいい』って言って、それが間違ってたら、責任取らなきゃいけない気がして。でも、誰かが決めたことなら、『まあ、こういうもんか』って、諦められるから」
「それ、分かる」
悠真が、少しだけ自嘲気味に笑う。
「俺も、『結婚しない』って決めたら、その責任取らなきゃいけない気がしてた。だから、『こだわらなくてもよくない?』って、曖昧にした」
「似た者同士?」
「かもね」
スプーンの音が、皿の上でカチリと鳴る。
「でもさ」
悠真が、真っ直ぐに私を見る。
「沙耶は、もっとわがままでいいと思う」
「……今さら」
「今さらだけど。言っときたかった」
少しの沈黙のあと、彼は続ける。
「俺、沙耶の『これがいい』って顔、結構好きだったから」
「そんな顔、してた?」
「してたよ。ニトリで、このマグカップ見つけたときとか」
テーブルの端に置かれた、青いマグカップを指さす。丸くて、少しだけ重たいお気に入り。
「あと、このカレーに、隠し味で醤油入れるって決めたときも」
「あー……」
「そういうの、もっと見たかったなって思う」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「じゃあ、次のキッチンでは、もうちょっとわがまま言ってみる」
「うん。言って」
「『今日のカレーは辛すぎる』とか」
「それは、加減して」
二人で笑う。笑いながら、私は気づく。
この笑いは、もう「恋人」としてのものじゃないのかもしれない。でも、確かにここにあった時間を、全部なかったことにはしたくない。
「ねえ」
食後、マグカップにお茶を注ぎながら、私は口を開いた。
「今まで、ありがとう」
「急にどうした」
「言っとこうと思って。言ってなかったから」
「こっちこそ」
悠真は、少し照れたように笑う。
「三年も一緒にいてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
マグカップの縁に、唇をつける。温かいお茶が喉を通っていく。
「もしさ」
私は、少しだけ意地悪な質問をしてみたくなる。
「もし、あのとき私が、『私はあなたと結婚したいです』って、はっきり言ってたら、どうしてた?」
悠真は、少し考えてから答えた。
「多分、めちゃくちゃ悩んだと思う」
「だよね」
「でも、多分……ちゃんと向き合おうとはしたと思う」
「そっか」
「だから、『あのとき、こう言えたらよかったね』って、今言えるのは、悪くないなって思う」
「うん。悪くない」
それは、やり直しの約束じゃない。過去を少しだけ、優しく撫で直すための言葉。
それで、十分だと思えた。
***
翌朝、早起きして、最後の荷造りをした。
キッチンの棚は、ほとんど空っぽだ。鍋やフライパンは段ボールの中。調味料も、最低限だけ残してある。
「これ、持ってく?」
悠真が、シンクの下から、使い込んだフライパンを取り出す。
「うーん……それは、悠真が使いなよ。私、新しいの買う」
「そっか」
「次は、軽くて、洗いやすくて、持ち手が木のやつにする」
「具体的」
「そういうの、ちゃんと選ぶ練習する」
「いいね、それ」
キッチンの床を、最後にもう一度拭き掃除する。水滴の跡も、油の飛び散りも、なるべくきれいに消していく。
引っ越し業者が来て、段ボールが次々と運び出される。リビングの真ん中が、ぽっかりと空いた。
「じゃあ、俺、荷物と一緒に下行くから」
玄関で、悠真が言う。
「うん」
「鍵、ポストに入れておいてくれたらいいから」
「分かった」
靴を履きながら、彼が少しだけ振り返る。
「新しいキッチン、見つかったら、写真送ってよ」
「え?」
「いや、無理にじゃなくて。もし、気が向いたらでいいから」
「……気が向いたらね」
そう答えると、悠真は安心したように笑って、ドアの向こうに消えた。
静かになった部屋に、私ひとりが残される。
キッチンに立つ。空になった棚。何も置かれていないカウンター。シンクの中も、きれいに乾いている。
ガスの元栓を確認して、最後に蛇口をひねる。水が一瞬だけ流れて、すぐに止まる。
「……ありがとう」
誰にともなく、でも確かにここにいた「私たち」に向けて、小さく呟く。
玄関のドアを閉めるとき、少しだけ躊躇した。でも、ちゃんと手を離す。
***
数日後。
新しい部屋の、小さなキッチンに立つ。
駅から少し遠いけれど、窓があって、朝日が差し込む。シンクは前より狭いけれど、コンロは二口。壁の白いタイルが、少しだけレトロで気に入っている。
今日は、一人分のカレーを作る。
玉ねぎを切って、じゃがいもを切って、鶏肉を一口大に切る。スーパーで見つけたガラムマサラも、そっと横に置いておく。
「どれくらい入れようかな」
スプーンに少しだけすくって、指でつまむ。指先に残った香りを嗅いでみる。少しスパイシーで、少し懐かしい匂い。
鍋に入れる量を、ほんの少しだけ増やしてみる。
カレーが煮える間、私はスマホを手に取った。
メッセージアプリを開いて、悠真の名前を探す。まだ、ブロックも削除もしていない。
『新しいキッチン、こんな感じ』
そう打って、キッチンの写真を添付する。送信ボタンの上で、指が止まる。
迷って、迷って、それでも。
「……えい」
小さく呟いて、指を押した。
送信済みの表示が出る。すぐに既読はつかない。でも、それでいい。
鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に、スパイスの匂いが立ち上る。味見をしてみると、少しだけ、辛さが勝っていた。
「……ちょっと、辛いかも」
でも、嫌じゃない。
次は、もう少しだけ控えめにしよう。じゃがいもを増やしてみよう。ナスも入れてみたい。
何度でも、調整すればいい。
一人分のカレーを皿によそって、テーブルに運ぶ。窓から差し込む夕方の光が、カレーの表面に反射して、きらりと光った。
スプーンを口に運ぶ。
まだ、味は決まっていない。でも、その曖昧さが、少しだけ愛おしい。
「これから、いくらでも変えられるから」
そう呟いて、もう一口すくう。
相手に合わせるだけのキッチンから、自分のためのキッチンへ。
さよならを言えたから、私はやっと、自分の味を探し始められる。
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