ねるまえ短編集

cotonoha garden

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週末だけのキッチン

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別れると決めたのに、今日もあなたとカレーを煮込んでいる。  
段ボールに囲まれたキッチンで、最後の週末が、いつもと同じ匂いをしている。

***

金曜の夜、最寄り駅からの道は、いつもより少し蒸し暑かった。

マンションのエントランスでオートロックを開けると、エレベーターの鏡に映った自分が、思ったより疲れた顔をしていて、思わず目をそらす。

「おつかれさまです、三浦さん」

昼間、会社の受付で言われるような、他人行儀な言葉が頭に浮かんで苦笑する。総務の仕事は、今日も細かい雑務で埋め尽くされた。誰かのための備品、誰かのための会議室、誰かのためのコーヒー。私は「誰か」のために動くのは得意だけど、自分のために何かを選ぶのは、昔から少し苦手だ。

そんな私が、三年付き合った恋人と別れることを決めたのは、先月のことだ。

玄関のドアを開けると、ふわりとカレーの匂いがした。

「あ、帰ってきた?」

キッチンから顔を出した悠真が、いつものように言う。グレーのTシャツに、私が買ったネイビーのエプロン。髪は少し伸びて、前よりも大人っぽく見える。

「ただいま」

条件反射でそう言ってから、「もうすぐここは、私の“ただいま”じゃなくなるんだ」と遅れて気づく。

リビングには、段ボールが積まれていた。印刷された「MOVER」のロゴが、やたらと目につく。テーブルの上には、契約書のコピーと、私が書きかけの退去届。

「ごめん、先に作り始めちゃった。今日、同じ時間くらいかなって思って」

「ううん、助かる。残業なかったの?」

「今日は早く上がれた。月末前だし、来週は地獄だから」

そう言って笑う顔は、三年前、飲み会で初めて話したときとあまり変わらない。落ち着いていて、何でもそつなくこなす「ちゃんとした大人」の顔。

その顔で、「結婚にこだわらなくてもよくない?」と言ったのも、彼だった。

「野菜、まだ切ってないから。お願いしてもいい?」

「うん」

靴を脱いで、カバンをソファの端に置く。ソファの横にも、段ボールが二つ。マジックで「本」「冬服」と書いてある。ここに来たばかりの頃、二人で組み立てたテレビ台は、もうネジを外されて、壁際に寄せられていた。

キッチンに入ると、ステンレスの作業台に、玉ねぎと人参とじゃがいもが並んでいる。いつもと同じ、四人分くらいの量。二人暮らしなのに、つい多めに作ってしまうのは、お互いの実家がそうだったからだ。

「玉ねぎ、薄めでいい?」

「うん。今日、ちょっと煮込む時間ありそうだから、飴色まではいかなくていいけど、気持ち薄めで」

「了解」

まな板の上で、包丁の音がリズムを刻む。トントントン。休日の昼間にも、仕事帰りの夜にも、何度も聞いた音。これが「最後の週末」だなんて、現実感がない。

「今日さ、会社の子が結婚報告してきて」

沈黙を埋めるように、私は言った。

「総務の子?」

「うん。二つ下の子。来年の春に式挙げるんだって。式場のパンフ見せてもらった」

「へえ。最近、結婚ラッシュだね」

「そうだね」

玉ねぎを切りながら、目が少し痛くなる。玉ねぎのせいだけじゃないと分かっているから、なるべく顔を上げない。

「式、行くの?」

「うん。呼んでくれたから。『三浦さん、絶対泣きますよね』って言われた」

「泣きそう」

「でしょ」

笑い合って、少しだけ空気が軽くなる。

結婚の話題は、ここ数ヶ月、私たちの間で一番重たいものだった。触れればすぐに沈む地雷みたいで、なるべく避けてきた。でも、避け続けた先にあったのが、この段ボールの山だ。

「沙耶はさ」

悠真が、鍋に油をひきながら、ぽつりと言う。

「結婚、そんなにしたかった?」

包丁の動きが、少しだけ止まる。

「……『そんなに』って言われると、難しい」

「うん」

「別に、ウエディングドレスに憧れてたわけじゃないし、『早く結婚しなきゃ』って焦ってたわけでもないよ。ただ……」

言葉を探しながら、じゃがいもを切る。

「三年一緒に暮らしてて、この先も一緒にいるんだろうなって思ってたから。なんか、その……名前とか、家族の書類とか、そういうのも、いつか揃うのかなって、勝手に想像してた」

「勝手に、って言わなくていいよ」

悠真が、フライパンでひき肉をほぐしながら言う。

「それは、普通の想像だと思う」

「普通とか、もうよく分かんないよ」

笑うつもりが、少し声が震れた。

あの日。休日の午後、ソファに並んで見ていたバラエティ番組で、芸人が公開プロポーズをしていた。観客の歓声。画面の中の涙。私は、何気ない風に聞いた。

「ねえ、私たちが結婚するのって、いつ頃だと思う?」

テレビから目を離さずに、悠真は言った。

「え、結婚? ……うーん。なんか、結婚にこだわらなくてもよくない?」

その一言で、胸の中の何かが、静かに折れた。

「じゃがいも、これくらいでいい?」

話題を戻すように、私は訊く。

「うん、いい感じ」

ひき肉の上に、玉ねぎが投入される。じゅっと音がして、甘い匂いが立ち上る。私たちの会話みたいに、熱で少しずつ柔らかくなっていく。

***

カレーを煮込んでいる間、私は洗濯機の前にしゃがみ込んだ。

「これ、どっちの?」

洗濯機の横に置かれた、洗剤と柔軟剤。どちらも、私が選んだものだ。

「洗剤は沙耶の。柔軟剤は、俺が勝手に買い足したやつ」

「そっか。柔軟剤、持ってく?」

「うーん……沙耶、使うなら持ってっていいよ」

「次の部屋、まだ決めてないからなあ」

そう言いながら、洗濯機から出てきたTシャツをぱんぱんと伸ばす。二人分の洗濯物は、まだ「私たち」の匂いがしている。これも、あと数日で別々になる。

「次の部屋、見に行ったりしてる?」

キッチンから、悠真の声がする。

「うん。何件か」

「どうだった?」

「駅から近いけど、キッチンが狭いところとか、キッチンは広いけど駅から遠いところとか」

「悩むやつだ」

「でしょ」

私はベランダに出て、洗濯物をハンガーにかける。夜風が、湿気を含んでいる。マンションの隙間から見える空は、うっすらと曇っていた。

「今度は、自分の好きなキッチンを選ぶんだ」

ベランダの柵にタオルを干しながら、ぽつりと口からこぼれた言葉に、自分で少し驚く。

「え?」

「なんかさ。ここって、ほとんど悠真が選んだじゃん。駅近で、築浅で、オートロックで」

「うん。沙耶は、キッチンが広いのがいいって言ってた」

「そう。だから、キッチンだけは譲らなかったけど。シンクの高さとか、作業台の広さとか、コンロが二口以上とか。細かいところは、結局、『まあいっか』って思ってた」

「……」

「でも、次は『まあいっか』じゃなくて、『ここがいい』って自分で決めたいなって。コンロ、一口でもいいから、好きな色のタイルがあるとか、窓があるとか。そういうの」

ベランダから振り返ると、キッチンの入り口に立った悠真が、少し驚いたような顔で私を見ていた。

「いいじゃん、それ」

「そうかな」

「うん。沙耶、そういうこと、もっと言えばよかったのに」

「言ったよ。キッチン広いのがいいって」

「そうじゃなくて」

悠真は、少し笑って、首をかしげる。

「『ここがいい』『これがいい』って。もっと、具体的に」

「……言ってもよかった?」

「言ってほしかった」

その言葉が、胸の奥のどこかに、静かに落ちる。

私は、今までどれくらい「まあいっか」でやり過ごしてきたんだろう。

休日の過ごし方。家具の配置。友達と会う頻度。将来の話。結婚の話。

「本当は、もっと一緒に決めたかったんだよね」

気づいたら、そう口にしていた。

「一緒に?」

「うん。ソファの位置とか、カーテンの色とか、旅行の行き先とか。結婚するかどうかも、そうだけど」

洗濯物を干し終えて、ベランダのサンダルを脱ぐ。リビングに戻ると、段ボールの山が、いつもより高く見えた。

「悠真って、決めるの早いじゃん。合理的っていうか。だから、私が『どうしようかな』って考えてる間に、だいたい答え出してくれちゃうから、『まあいっか、それで』ってなってた」

「それ、悪いことした?」

「悪いっていうか……」

ソファの端に腰を下ろして、クッションを抱きしめる。

「楽だった。すごく」

「そっか」

「でも、楽な分、自分が何を望んでるのか、だんだん分かんなくなってきてたんだと思う。結婚のことも、多分そう」

カレーの煮える音が、かすかに聞こえる。コトコトという音が、私の言葉の隙間を埋めていく。

「結婚、したかった?」

改めて問われて、私は少し考える。

「したかった、と思う。『しなきゃ』じゃなくて、『できたらいいな』くらいの温度で。でも、悠真が『こだわらなくてもよくない?』って言ったとき、『あ、私の『できたらいいな』は、ここでは邪魔なんだな』って思っちゃって」

「邪魔なんて」

「そう思ったの。勝手にね」

勝手に、という言葉が、また口から出る。本当は、それをやめたいのに。

「俺さ」

悠真が、キッチンの方に視線を戻しながら言う。

「結婚っていう形にすると、沙耶に負担かけるんじゃないかって、勝手に思ってた」

「負担?」

「ほら、名字変えたりとかさ。仕事と家のことのバランスとか。俺の実家、ちょっとめんどくさいし」

「めんどくさいのは、知ってるけど」

「だから、『結婚』って言葉を出すのが、怖かったんだと思う。俺が言ったら、その瞬間から、沙耶がいろいろ我慢し始めるんじゃないかって」

「……」

「沙耶、俺のために、いろいろ我慢するでしょ」

図星をさされて、何も言えなくなる。

「俺、それが嬉しくて、同時に怖かった」

「嬉しくて、怖い?」

「うん。嬉しいけど、いつか限界が来て、『こんなはずじゃなかった』って言われるんじゃないかって。だったら、最初から形にしない方が、自由でいられるかなって」

「自由って、誰の?」

自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。

「俺……かな」

「だよね」

ちくりとした痛みと一緒に、なぜか少し笑えてしまう。

「でもさ、それって、私のこと守ってるようで、自分守ってるだけだよね」

「うん。そうだと思う」

悠真は、あっさり認めた。

「だから、別れようって言ったときも、俺の中では『これ以上、沙耶に我慢させたくない』っていう、ある意味、正義感みたいなものがあったんだけど」

「うん」

「今思うと、単に、ちゃんと向き合うのが怖かっただけかもしれない」

カレーの匂いが、少し濃くなる。タイマーがピピッと鳴って、悠真が火を弱める。

「……私も、ちゃんと向き合えばよかったんだろうな」

ぽつりと、天井を見上げながら言う。

「『結婚したい』って、一回くらい、ちゃんと言えばよかった」

「言ってたじゃん、何回か」

「『いつ頃だと思う?』とか、『もし結婚したら』とか、そういうぼやっとしたやつでしょ」

「うん」

「そうじゃなくて、『私は、あなたと結婚したいです』って。はっきり言ったことは、一度もない」

その言葉を口にしてみて、少しだけ胸が軽くなる。過去形だけど、確かにそこにあった気持ちだった。

「今、聞いた」

悠真が、キッチンからこちらを見ている。

「遅いよ」

「うん。遅いね」

二人とも、少し笑った。

***

食卓に、「最後のカレー」が並ぶ。

いつもの白い皿。いつもの福神漬け。いつもの、少し多めのご飯。

スプーンを入れると、とろりとしたルーの中から、柔らかく煮えたじゃがいもが顔を出す。

「いただきます」

同時に手を合わせて、口に運ぶ。

一口目で、少しだけ驚いた。

「……なんか、いつもよりスパイス効いてない?」

「分かる?」

「うん。ちょっと辛い。でも、嫌な辛さじゃない」

「この前、スーパーで見つけたガラムマサラ、入れてみた」

悠真が、少し誇らしげに言う。

「沙耶、前に言ってたじゃん。『もうちょっと辛い方が好き』って」

「あ」

忘れていた。あれも、多分、私の「本当は」のひとつだったのに。

「覚えてたんだ」

「覚えてるよ。沙耶、辛いのそんな得意じゃないけど、カレーだけは、ちょっとスパイスきいてる方が好き」

「……うん。好き」

スプーンをもう一度口に運ぶ。確かに、いつもより少しだけ、舌の上が熱い。けれど、その熱さが、なんだか心地いい。

「次のキッチンでさ」

悠真が、水を一口飲んでから言う。

「沙耶、カレー作る?」

「作ると思う」

「どんなカレー?」

「うーん……」

少し考えて、笑う。

「まだ分かんない。ルー使うかもしれないし、スパイスから挑戦してみるかもしれないし。具も、変えてみようかな」

「ナスとか?」

「ナスいいね。あと、ひき肉じゃなくて、鶏肉とか」

「絶対うまい」

「失敗するかもよ」

「それも、いいんじゃない?」

悠真は、少し真面目な顔をして、私を見た。

「失敗しても、『これじゃないな』って分かるじゃん。次、変えればいいし」

「……そうだね」

私は、スプーンを握りしめたまま、うつむく。

「私、多分、失敗するのが怖かったんだと思う」

「うん」

「自分から『これがいい』って言って、それが間違ってたら、責任取らなきゃいけない気がして。でも、誰かが決めたことなら、『まあ、こういうもんか』って、諦められるから」

「それ、分かる」

悠真が、少しだけ自嘲気味に笑う。

「俺も、『結婚しない』って決めたら、その責任取らなきゃいけない気がしてた。だから、『こだわらなくてもよくない?』って、曖昧にした」

「似た者同士?」

「かもね」

スプーンの音が、皿の上でカチリと鳴る。

「でもさ」

悠真が、真っ直ぐに私を見る。

「沙耶は、もっとわがままでいいと思う」

「……今さら」

「今さらだけど。言っときたかった」

少しの沈黙のあと、彼は続ける。

「俺、沙耶の『これがいい』って顔、結構好きだったから」

「そんな顔、してた?」

「してたよ。ニトリで、このマグカップ見つけたときとか」

テーブルの端に置かれた、青いマグカップを指さす。丸くて、少しだけ重たいお気に入り。

「あと、このカレーに、隠し味で醤油入れるって決めたときも」

「あー……」

「そういうの、もっと見たかったなって思う」

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

「じゃあ、次のキッチンでは、もうちょっとわがまま言ってみる」

「うん。言って」

「『今日のカレーは辛すぎる』とか」

「それは、加減して」

二人で笑う。笑いながら、私は気づく。

この笑いは、もう「恋人」としてのものじゃないのかもしれない。でも、確かにここにあった時間を、全部なかったことにはしたくない。

「ねえ」

食後、マグカップにお茶を注ぎながら、私は口を開いた。

「今まで、ありがとう」

「急にどうした」

「言っとこうと思って。言ってなかったから」

「こっちこそ」

悠真は、少し照れたように笑う。

「三年も一緒にいてくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

マグカップの縁に、唇をつける。温かいお茶が喉を通っていく。

「もしさ」

私は、少しだけ意地悪な質問をしてみたくなる。

「もし、あのとき私が、『私はあなたと結婚したいです』って、はっきり言ってたら、どうしてた?」

悠真は、少し考えてから答えた。

「多分、めちゃくちゃ悩んだと思う」

「だよね」

「でも、多分……ちゃんと向き合おうとはしたと思う」

「そっか」

「だから、『あのとき、こう言えたらよかったね』って、今言えるのは、悪くないなって思う」

「うん。悪くない」

それは、やり直しの約束じゃない。過去を少しだけ、優しく撫で直すための言葉。

それで、十分だと思えた。

***

翌朝、早起きして、最後の荷造りをした。

キッチンの棚は、ほとんど空っぽだ。鍋やフライパンは段ボールの中。調味料も、最低限だけ残してある。

「これ、持ってく?」

悠真が、シンクの下から、使い込んだフライパンを取り出す。

「うーん……それは、悠真が使いなよ。私、新しいの買う」

「そっか」

「次は、軽くて、洗いやすくて、持ち手が木のやつにする」

「具体的」

「そういうの、ちゃんと選ぶ練習する」

「いいね、それ」

キッチンの床を、最後にもう一度拭き掃除する。水滴の跡も、油の飛び散りも、なるべくきれいに消していく。

引っ越し業者が来て、段ボールが次々と運び出される。リビングの真ん中が、ぽっかりと空いた。

「じゃあ、俺、荷物と一緒に下行くから」

玄関で、悠真が言う。

「うん」

「鍵、ポストに入れておいてくれたらいいから」

「分かった」

靴を履きながら、彼が少しだけ振り返る。

「新しいキッチン、見つかったら、写真送ってよ」

「え?」

「いや、無理にじゃなくて。もし、気が向いたらでいいから」

「……気が向いたらね」

そう答えると、悠真は安心したように笑って、ドアの向こうに消えた。

静かになった部屋に、私ひとりが残される。

キッチンに立つ。空になった棚。何も置かれていないカウンター。シンクの中も、きれいに乾いている。

ガスの元栓を確認して、最後に蛇口をひねる。水が一瞬だけ流れて、すぐに止まる。

「……ありがとう」

誰にともなく、でも確かにここにいた「私たち」に向けて、小さく呟く。

玄関のドアを閉めるとき、少しだけ躊躇した。でも、ちゃんと手を離す。

***

数日後。

新しい部屋の、小さなキッチンに立つ。

駅から少し遠いけれど、窓があって、朝日が差し込む。シンクは前より狭いけれど、コンロは二口。壁の白いタイルが、少しだけレトロで気に入っている。

今日は、一人分のカレーを作る。

玉ねぎを切って、じゃがいもを切って、鶏肉を一口大に切る。スーパーで見つけたガラムマサラも、そっと横に置いておく。

「どれくらい入れようかな」

スプーンに少しだけすくって、指でつまむ。指先に残った香りを嗅いでみる。少しスパイシーで、少し懐かしい匂い。

鍋に入れる量を、ほんの少しだけ増やしてみる。

カレーが煮える間、私はスマホを手に取った。

メッセージアプリを開いて、悠真の名前を探す。まだ、ブロックも削除もしていない。

『新しいキッチン、こんな感じ』

そう打って、キッチンの写真を添付する。送信ボタンの上で、指が止まる。

迷って、迷って、それでも。

「……えい」

小さく呟いて、指を押した。

送信済みの表示が出る。すぐに既読はつかない。でも、それでいい。

鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に、スパイスの匂いが立ち上る。味見をしてみると、少しだけ、辛さが勝っていた。

「……ちょっと、辛いかも」

でも、嫌じゃない。

次は、もう少しだけ控えめにしよう。じゃがいもを増やしてみよう。ナスも入れてみたい。

何度でも、調整すればいい。

一人分のカレーを皿によそって、テーブルに運ぶ。窓から差し込む夕方の光が、カレーの表面に反射して、きらりと光った。

スプーンを口に運ぶ。

まだ、味は決まっていない。でも、その曖昧さが、少しだけ愛おしい。

「これから、いくらでも変えられるから」

そう呟いて、もう一口すくう。

相手に合わせるだけのキッチンから、自分のためのキッチンへ。  
さよならを言えたから、私はやっと、自分の味を探し始められる。
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