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君とひとくちシェア
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終電を一本逃しても、誰も困らない。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ、空っぽになった。
「佐伯さん、今日も残業? えら~い」
通りすがりに投げられた同僚の声に、私はパソコンの画面から目を離さず、愛想笑いだけ返した。
えらくなんて、ない。ただ、頼まれた仕事を断れなかっただけだ。
時計は、二十一時を少し回っている。
営業フロアの明かりはほとんど落ちていて、残っているのは私の島と、コピー機の青いランプくらい。
「……よし」
最後のメールを送信して、深く息を吐く。
印刷した資料をトレーに並べ、机の上をざっと片づけると、ようやく椅子から立ち上がった。
「佐伯さーん! 終わった?」
背後から声が飛んできて振り向くと、同じチームの先輩、由香さんがバッグを肩にかけながら近づいてきた。
「はい、さっき。由香さんもお疲れさまです」
「おつかれ~。ねえ、このあとさ、駅前で飲まない? 今日、マジで上司ムカついたんだけど。聞いてほしい」
由香さんの後ろには、営業の面々が数人。みんなもうスーツのジャケットを脱いで、半分オフモードだ。
「えっと……今日は、ちょっと」
口が勝手に、いつもの断り文句を選ぶ。
「明日の朝イチで資料チェックあるじゃないですか。あれ、不安で……」
「あー、まじめ~。じゃあ今度ね。ちゃんと誘うから!」
由香さんは悪びれもなく笑って、他のメンバーと連れ立ってエレベーターに向かった。
「今度」がいつ来るのかは、誰も知らない。
私も、別に強く望んでいるわけじゃない。……はずだ。
静かになったフロアに一人残されて、ぐう、とお腹が鳴った。
「……そうだ、ごはん」
昼はコンビニおにぎりをデスクでかき込んだだけだ。
冷蔵庫には、いつ買ったか覚えていない豆腐と、しなびたネギが一本。
今から帰って、料理をする気力はない。
私はパソコンをシャットダウンしながら、頭の中で選択肢を並べた。
コンビニで済ませるか。駅ナカのパン屋で何か買うか。
それとも——
ふと、窓の外に視線をやる。
ビルの隙間から見える通りに、黄色い看板がぼんやりと浮かんでいた。
オフィスから徒歩五分。二十四時間営業のチェーン系ファミレス。
残業帰りの人や学生で、いつもほどよく賑わっている。
「……たまには、いいか」
ひとりで外食なんて、なんとなく気が引けて避けてきたけれど。
今日は、少しだけ自分を甘やかしてもいい気がした。
◇
初夏の夜風は、昼間の熱を少しだけ残していて、湿った空気がスーツの隙間に入り込んでくる。
信号待ちの横断歩道で立ち止まり、スマホを取り出して時間を確認した。二十一時二十分。
終電までは、まだ余裕がある。
ファミレスの自動ドアが開くと、油とソースと、甘いデザートの匂いが混ざった空気がふわっと押し寄せてきた。
「いらっしゃいませー。おひとり様ですか?」
「はい」
店員の女の子は、店内をぐるりと見渡して、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ただいまほぼ満席でして……相席でもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。大丈夫です」
反射的に、そう答えていた。
「ちょっと嫌なんですけど」とは、言えない。
胸のあたりがかすかにきゅっとなる。
学生時代の飲み会で、テーブルの端っこに追いやられて、気づけば料理のお皿が全部空っぽになっていた夜を、ふと思い出した。
——また、ああいう感じだったらどうしよう。
そんな不安を飲み込んでいると、店員は私を奥の方へ案内した。
「こちらのお席、失礼します。……あの、お客様、相席でよろしいでしょうか?」
店員が声をかけた先に座っていたのは——見慣れた横顔だった。
「……あれ」
「……佐伯さん?」
同じタイミングで目が合って、私は思わず立ち止まる。
少し長めの前髪に、無表情気味な目元。
営業部に最近異動してきたばかりの、成瀬さん。
「お、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
私たちは同時に頭を下げ、同時に黙り込んだ。
「こちら、お連れ様ではないので相席になりますが……」
「大丈夫です」
「はい」
また、ハモった。店員が「ありがとうございます」と笑って去っていく。
……よりによって、なんでこの人。
席につきながら、心の中で小さく頭を抱える。
部署は同じになったけれど、席が近いだけで、ほとんど話したことはない。
仕事中はいつも淡々としていて、雑談にもあまり参加しない。
正直、ちょっと怖い人だと思っていた。
目の前のテーブルには、飲みかけのアイスコーヒーと、開かれたメニュー表。
どうやら、今来たばかりらしい。
「……残業、ですか?」
沈黙に耐えきれず、私はメニューを開きながら口を開いた。
「はい。佐伯さんも?」
「ですね。明日の資料が、ちょっと」
「ああ……あの山のやつ」
成瀬さんが、少しだけ口元を緩める。
「あれ、全部やってたんですか?」
「全部じゃないですよ。半分くらいです」
「半分……」
その「半分」がどれだけ多いか知っているから、思わず苦笑いが漏れた。
「お疲れさまです」
「成瀬さんこそ。いつも遅いですよね」
「まあ、営業なので」
それきり会話は途切れ、私たちはそれぞれメニューに視線を落とした。
ページをめくるたびに、写真の中の料理が、次々と目に飛び込んでくる。
ジューシーなハンバーグ、チーズがとろけるドリア、山盛りのポテト。
——お腹、空いたな。
胃がきゅう、と主張する。
今日くらい、ガッツリ食べてもいい。むしろ、その方が明日のためになる。
そう思うのに、口から出かけた言葉は、別のものだった。
「……パスタにしようかな」
「パスタ、ですか」
「はい。なんか、軽そうだし」
メニューの端に載っていた、彩り野菜のペペロンチーノを指さす。
本当は、隣のページのハンバーグプレートに心が惹かれているのに。
「女の子らしく見えるやつ、選んじゃうんですよね」
冗談めかして笑ってみせると、胸の内側が少しだけチクリとした。
誰に見せるわけでもないのに。
私の「女の子らしさ」は、いつも誰かの想像の中の「無難」に縛られている。
「そうなんですか」
成瀬さんは、メニューから目を上げて私を一度見てから、また視線を戻した。
「俺は……ハンバーグと、ポテトと……」
迷いのない声で、次々と注文候補を口にしていく。
「あと、デザートどうしようかな」
「デザートも、いくんですか?」
驚いて聞き返すと、成瀬さんはあっさり頷いた。
「せっかく来たんで。ここのプリン、意外とおいしいですよ」
プリン。
メニューの最後の方に載っていた、ちょっと固めそうなカスタードプリンの写真が頭に浮かぶ。
——いいな。
そんなことを思った自分を、すぐに打ち消す。
この時間にデザートなんて、太るし。明日、顔がむくむかもしれないし。
「お決まりでしょうか?」
タイミングよく店員がやってきて、私たちはそれぞれ注文を伝えた。
「彩り野菜のペペロンチーノと、セットドリンクでアイスティーを」
「デミグラスハンバーグプレートと、山盛りポテト、あとプリンで。ドリンクはホットコーヒー」
店員が去っていくと、テーブルの上には、また静けさが戻った。
「よく食べますね」
つい口をついて出た言葉に、自分で苦笑する。
「すみません、なんか……」
「いえ。よく言われます」
成瀬さんは、少しだけ肩をすくめた。
「でも、食べたいときに食べないと、後悔するんで」
「後悔、ですか」
「はい。明日も頑張るための燃料みたいなものなので」
ストイックな人だと思っていたのに、意外とシンプルな理屈だ。
「佐伯さんは、あんまり食べないんですか?」
「いや、そんなことは……」
本当は、むしろよく食べる方だ。
でも、飲み会や女子会では、周りの様子をうかがっているうちに、いつもタイミングを逃してしまう。
「こういうとき、あんまりガツガツ食べるの、ちょっと恥ずかしくて」
自嘲気味に笑うと、成瀬さんは「ふうん」と小さく頷いた。
「誰かに見られてる気がするんですよね。『あの子、よく食べるな』って思われてるんじゃないかとか」
「思われて、どうなんですか?」
「え?」
「『よく食べるな』って思われたら、困ります?」
予想外の返しに、言葉が詰まる。
困るかどうか、と聞かれると……
困るほどのことでもない気がする。でも、なんとなく、恥ずかしい。
「……なんとなく、ですけど」
「なんとなく、か」
成瀬さんは、少しだけ笑った。
「食べたいもの食べた方が、明日も頑張れません?」
さっきと同じ言葉。でも今度は、私に向けられている。
「……そうかもしれないですね」
曖昧に返事をしながら、心のどこかがざわつくのを感じた。
本当はハンバーグが食べたかった。
デザートのプリンだって、本当は頼んでみたかった。
でも、それを口に出す勇気は、まだなかった。
◇
料理が運ばれてくると、テーブルの上は一気に色づいた。
私の前には、オリーブオイルとニンニクの香りが立ち上るペペロンチーノ。
成瀬さんの前には、鉄板の上でじゅうじゅう音を立てるハンバーグと、山盛りのポテト。
「うわ、いい匂い……」
思わず本音が漏れると、成瀬さんが「ですよね」と笑った。
「いただきます」
二人で小さく手を合わせ、それぞれの皿にフォークを伸ばす。
パスタは、思ったよりもしっかりニンニクが効いていて、悪くない。
でも、視界の端で、肉汁を滴らせるハンバーグが、やけに存在感を放っている。
——おいしそう。
そんな視線を送ってしまっているのかもしれない。
成瀬さんがふと、私の皿を見て言った。
「そのパスタ、気になってたんですよ」
「え?」
「新メニューって書いてあったから。……ひとくち、もらってもいいですか?」
フォークを持つ手が止まる。
「えっと……」
「代わりに、ハンバーグどうぞ」
そう言って、成瀬さんは自分の皿の端の方を、フォークで軽く示した。
「もし嫌じゃなければ」
断る理由を探そうとして、何も見つからない。
むしろ、内心では「ぜひお願いします」と叫びたいくらいだ。
「……じゃあ、ひとくちだけ」
自分でも驚くほど小さな声で、私は頷いた。
成瀬さんは「ありがとうございます」と言って、私のパスタを一口分すくい、自分の皿の端にそっと乗せる。
代わりに、ハンバーグをナイフで切り分け、私の皿の空いたスペースに移した。
「どうぞ」
「いただきます……」
フォークでハンバーグを刺し、口に運ぶ。
肉汁とソースの甘さと酸味が一気に広がって、思わず目を閉じた。
「……おいしい」
「でしょう?」
成瀬さんの声が、少しだけ誇らしげに聞こえる。
「パスタも、ニンニク効いててうまいです」
「よかったです」
なんだろう。
たった一口の交換なのに、テーブルの上の空気が少し柔らかくなった気がした。
「こういうの、久しぶりです」
ぽつりと漏らすと、成瀬さんが首をかしげる。
「こういうの?」
「誰かと、ひとくちシェアとか」
「そうなんですか?」
「はい。なんか、タイミング分からなくて。遠慮しちゃうというか」
「遠慮」
「昔、飲み会で、なんにも食べられなかったことがあって」
自分でも意外なくらい、するりと言葉が出てきた。
「大皿の料理がどんどん減っていくのを見てるだけで、手を伸ばせなくて。気づいたらお腹ぺこぺこで帰ってて、なんか虚しくなっちゃって」
笑い話にしようとして、声が少しだけ震う。
「それ以来、シェアとか、あんまり得意じゃなくて。『食べていい?』って聞くのも、『どうぞ』って言うのも、ちょっと構えちゃうんです」
成瀬さんは、フォークを持ったまま、静かに私の話を聞いていた。
「……それ、しんどかったですね」
「そんな大した話じゃないですよ」
「本人にとっては、大したことですよ」
淡々とした口調なのに、その言葉は妙にまっすぐに届いた。
「じゃあ今日は、佐伯さん優先の日ってことで」
「え?」
「食べたいものを優先する日」
そう言って、テーブルの端に置かれていたデザートメニューを、私の方に押しやった。
「さっき、プリン見てましたよね」
「み、見てました?」
「ページ開いたまま、しばらく止まってたので」
そんなところまで見られていたのかと、顔が熱くなる。
「……でも、やめました。こんな時間に甘いものは」
「こんな時間だから、です」
成瀬さんは、さらりと言う。
「疲れたときの甘いものって、正義じゃないですか」
「正義、ですか」
「はい。罪悪感より、ちゃんと効きますよ」
メニューの写真を見つめる。
プリンだけじゃなくて、チーズケーキやチョコパフェも並んでいる。
——チョコパフェ。
昔から、パフェにはちょっとした憧れがある。
でも、誰かと一緒だと、なんとなく頼みづらい。
「……迷ってる顔してますね」
「え」
「さっきから眉間にシワ寄ってます」
慌てて指で触れると、本当に少し寄っていた。
「どれです?」
成瀬さんが、メニューを指でとん、と軽く叩く。
「食べたいの、どれですか」
その視線は、急かすでもなく、ただ穏やかに待っている。
喉の奥に引っかかっている言葉を、どうにか押し出す。
「……チョコパフェ」
「はい」
成瀬さんは、迷いなく手を挙げて店員を呼んだ。
「すみません、チョコパフェを二つ」
「えっ、二つ?」
思わず聞き返すと、成瀬さんは当然のように頷いた。
「佐伯さんの分と、俺の分です」
「ひとつをシェアとかじゃなくて?」
「それだと、また遠慮するでしょ」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
「……するかもしれないです」
「だったら、最初から一人一個の方が平和です」
「平和」
「はい。『ひとくちちょうだい』は、そのあとで」
そんなふうに言われたのは初めてで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
◇
やがて運ばれてきたチョコパフェは、思っていたよりも背が高かった。
グラスの中に、ソフトクリームとチョコアイス、ブラウニーとコーンフレークが層になっていて、その上にチョコソースがとろりとかかっている。
「……すご」
「写真と違ってたらどうしようかと思いましたけど、ちゃんとチョコパフェですね」
「ちゃんとチョコパフェですね」
二人で同じことを言って、笑ってしまう。
「いただきます」
スプーンを入れると、アイスの冷たさとチョコの甘さが一度にやってきて、頭の中まで一瞬しびれる。
「……おいしい」
「ですね」
こんな時間にパフェなんて、ってさっきまで思っていたのに。
今はただ、この甘さがありがたい。
「こんな時間にパフェなんて」
つい口にすると、成瀬さんが「言いましたね」と笑った。
「でも、うまいでしょ」
「はい。めちゃくちゃ」
「それで十分です」
テーブルの上には、空になりかけた皿と、半分くらいになったパフェ。
仕事の話から、好きな映画の話、前の部署での失敗談まで、話題は思った以上に広がっていった。
「前の部署、きつかったんですか?」
「きつくは……まあ、慣れなかったですね」
成瀬さんは、パフェの上のブラウニーを崩しながら言う。
「数字と人間関係、両方追いかけるのが苦手で。だから、営業に戻ってこられて、ちょっとほっとしてます」
「営業の方が大変そうですけど」
「俺は、こっちの方が楽です。数字は裏切らないので」
「かっこいいですね、それ」
「かっこよく言ってみました」
そう言って、少しだけ照れたように視線をそらす。
無口で怖い人だと思っていたけれど。
こうして話してみると、意外と不器用で、真面目で、食べることが好きな人なんだと分かる。
「佐伯さんは、なんで今の仕事選んだんですか?」
「え?」
「出版社の事務」
「……なんとなく、です」
自分でも、情けない答えだと思う。
「文房具とか書類とか、そういうのを扱う仕事が向いてるかなって。あと、本が好きだから、出版社ならいいかなって」
「いいと思いますけど」
「でも、営業さんみたいに『これがやりたい』って決めて入ったわけじゃないし。いつも、無難な方を選んじゃってる気がして」
パフェのグラスの底をスプーンでつつきながら、ぽつりと本音がこぼれた。
「仕事も、恋も」
「恋も?」
「……はい」
自分で言っておいて、急に恥ずかしくなる。
「なんか、告白とかも、されたら断れなくて。『嫌われたくない』が先に立っちゃって、自分がどうしたいか後回しで」
「それで、しんどくなったり?」
「まあ、そうですね。別れてから、『あれ、私、何してたんだろう』ってなるというか」
笑いながら話しているのに、胸の奥が少しだけ痛む。
「だから、最近はもう、恋愛とかいいかなって思ってて。仕事も、ほどほどにやって、ほどほどに生きていけたらいいかなって」
「ほどほど」
成瀬さんは、グラスの底のアイスをすくいながら、静かに繰り返した。
「無難って、悪くないと思いますけどね」
「そうですか?」
「はい。無難に仕事して、無難に人と関われる人って、意外と少ないですし」
「それ、褒めてます?」
「褒めてます」
あっさりと言い切られて、少しだけ肩の力が抜けた。
「でも」
成瀬さんは、スプーンをテーブルに置いて、私を見た。
「たまには、パフェくらい選んでもいいんじゃないですか」
「パフェくらい」
「はい。食べたいものとか、会いたい人とか。全部じゃなくていいから、たまにだけでも、自分で選んだらいいと思います」
その「会いたい人」という言葉が、妙に胸に引っかかった。
私、誰に会いたいんだろう。
ふと、目の前でパフェを食べ終えた成瀬さんの横顔を見て、心臓が小さく跳ねた。
——今、ちょっとだけ、この時間が終わるのが惜しいと思っている。
そのことに気づいて、スプーンを持つ手が止まる。
◇
会計を済ませようとレジに向かうと、成瀬さんが財布を取り出しながら言った。
「俺の分は別で」
「いえ、一緒で大丈夫です。割り勘にしましょう」
「じゃあ……パフェ代だけ、俺に払わせてもらえます?」
「え?」
レジの前で立ち止まる。
「今日、佐伯さんが『食べたい』ってちゃんと言った記念に」
冗談めかした口調なのに、耳まで熱くなる。
「でも、それは……」
「じゃあ、今度ランチ行くとき、コーヒー奢ってください」
「ランチ」
「はい。昼のメニュー、夜より多いらしいんで」
さらりと差し出された未来の約束に、胸がきゅっとなる。
「……分かりました。じゃあ、コーヒーは任せてください」
「楽しみにしてます」
レジの音が鳴り、領収書が印刷される。
パフェ代が引かれた金額を見て、なんだか少し、得をしたような、むずがゆいような気持ちになった。
◇
店を出ると、夜風が肌に心地よかった。
「思ったより、涼しいですね」
「ですね」
ビルの隙間から見える空は、街の明かりで少し白んでいる。
さっきまでいた店内のざわめきが、遠くなっていく。
駅へ向かう道を、二人で並んで歩く。
歩幅を合わせることに意識を向けている自分に気づいて、少しおかしくなった。
「……あの」
信号待ちで立ち止まったとき、私は口を開いた。
「さっきの、ランチって」
「はい」
「他の人も、誘いますか?」
いつもの癖で、ついそう言いかけて、言葉が喉で止まる。
——本当は、どうしたい?
胸の奥で、小さな声が問いかける。
私は一度、深呼吸をした。
「……二人で、ですか?」
成瀬さんが、少しだけ目を見開く。
「二人が嫌なら、もちろん他の人も——」
「嫌じゃないです」
慌てて言葉をかぶせると、今度は私が驚く番だった。
「むしろ、その方が、いいです」
「……よかった」
成瀬さんは、照れくさそうに視線をそらした。
「じゃあ、二人で。よかったら」
「行きたいです」
今度は、はっきりと言えた。
自分の中で、「遠慮した方がいいかも」という声よりも、「そうしたい」が少しだけ大きくなった瞬間だった。
信号が青に変わり、私たちは歩き出す。
駅の改札前で「お疲れさまでした」と別れ、私はいつもの電車に乗り込んだ。
揺れる車内で、スマホを取り出す。
メモアプリを開いて、新しいメモをひとつ作った。
『今度は最初からパフェ頼む』
文字を打ち込んで保存すると、窓ガラスに映る自分の顔が、ほんの少しだけ明るく見えた。
無難な夜の中に、小さなひとくち分の勇気を、私はたしかに選び取ったのだと思う。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ、空っぽになった。
「佐伯さん、今日も残業? えら~い」
通りすがりに投げられた同僚の声に、私はパソコンの画面から目を離さず、愛想笑いだけ返した。
えらくなんて、ない。ただ、頼まれた仕事を断れなかっただけだ。
時計は、二十一時を少し回っている。
営業フロアの明かりはほとんど落ちていて、残っているのは私の島と、コピー機の青いランプくらい。
「……よし」
最後のメールを送信して、深く息を吐く。
印刷した資料をトレーに並べ、机の上をざっと片づけると、ようやく椅子から立ち上がった。
「佐伯さーん! 終わった?」
背後から声が飛んできて振り向くと、同じチームの先輩、由香さんがバッグを肩にかけながら近づいてきた。
「はい、さっき。由香さんもお疲れさまです」
「おつかれ~。ねえ、このあとさ、駅前で飲まない? 今日、マジで上司ムカついたんだけど。聞いてほしい」
由香さんの後ろには、営業の面々が数人。みんなもうスーツのジャケットを脱いで、半分オフモードだ。
「えっと……今日は、ちょっと」
口が勝手に、いつもの断り文句を選ぶ。
「明日の朝イチで資料チェックあるじゃないですか。あれ、不安で……」
「あー、まじめ~。じゃあ今度ね。ちゃんと誘うから!」
由香さんは悪びれもなく笑って、他のメンバーと連れ立ってエレベーターに向かった。
「今度」がいつ来るのかは、誰も知らない。
私も、別に強く望んでいるわけじゃない。……はずだ。
静かになったフロアに一人残されて、ぐう、とお腹が鳴った。
「……そうだ、ごはん」
昼はコンビニおにぎりをデスクでかき込んだだけだ。
冷蔵庫には、いつ買ったか覚えていない豆腐と、しなびたネギが一本。
今から帰って、料理をする気力はない。
私はパソコンをシャットダウンしながら、頭の中で選択肢を並べた。
コンビニで済ませるか。駅ナカのパン屋で何か買うか。
それとも——
ふと、窓の外に視線をやる。
ビルの隙間から見える通りに、黄色い看板がぼんやりと浮かんでいた。
オフィスから徒歩五分。二十四時間営業のチェーン系ファミレス。
残業帰りの人や学生で、いつもほどよく賑わっている。
「……たまには、いいか」
ひとりで外食なんて、なんとなく気が引けて避けてきたけれど。
今日は、少しだけ自分を甘やかしてもいい気がした。
◇
初夏の夜風は、昼間の熱を少しだけ残していて、湿った空気がスーツの隙間に入り込んでくる。
信号待ちの横断歩道で立ち止まり、スマホを取り出して時間を確認した。二十一時二十分。
終電までは、まだ余裕がある。
ファミレスの自動ドアが開くと、油とソースと、甘いデザートの匂いが混ざった空気がふわっと押し寄せてきた。
「いらっしゃいませー。おひとり様ですか?」
「はい」
店員の女の子は、店内をぐるりと見渡して、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ただいまほぼ満席でして……相席でもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。大丈夫です」
反射的に、そう答えていた。
「ちょっと嫌なんですけど」とは、言えない。
胸のあたりがかすかにきゅっとなる。
学生時代の飲み会で、テーブルの端っこに追いやられて、気づけば料理のお皿が全部空っぽになっていた夜を、ふと思い出した。
——また、ああいう感じだったらどうしよう。
そんな不安を飲み込んでいると、店員は私を奥の方へ案内した。
「こちらのお席、失礼します。……あの、お客様、相席でよろしいでしょうか?」
店員が声をかけた先に座っていたのは——見慣れた横顔だった。
「……あれ」
「……佐伯さん?」
同じタイミングで目が合って、私は思わず立ち止まる。
少し長めの前髪に、無表情気味な目元。
営業部に最近異動してきたばかりの、成瀬さん。
「お、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
私たちは同時に頭を下げ、同時に黙り込んだ。
「こちら、お連れ様ではないので相席になりますが……」
「大丈夫です」
「はい」
また、ハモった。店員が「ありがとうございます」と笑って去っていく。
……よりによって、なんでこの人。
席につきながら、心の中で小さく頭を抱える。
部署は同じになったけれど、席が近いだけで、ほとんど話したことはない。
仕事中はいつも淡々としていて、雑談にもあまり参加しない。
正直、ちょっと怖い人だと思っていた。
目の前のテーブルには、飲みかけのアイスコーヒーと、開かれたメニュー表。
どうやら、今来たばかりらしい。
「……残業、ですか?」
沈黙に耐えきれず、私はメニューを開きながら口を開いた。
「はい。佐伯さんも?」
「ですね。明日の資料が、ちょっと」
「ああ……あの山のやつ」
成瀬さんが、少しだけ口元を緩める。
「あれ、全部やってたんですか?」
「全部じゃないですよ。半分くらいです」
「半分……」
その「半分」がどれだけ多いか知っているから、思わず苦笑いが漏れた。
「お疲れさまです」
「成瀬さんこそ。いつも遅いですよね」
「まあ、営業なので」
それきり会話は途切れ、私たちはそれぞれメニューに視線を落とした。
ページをめくるたびに、写真の中の料理が、次々と目に飛び込んでくる。
ジューシーなハンバーグ、チーズがとろけるドリア、山盛りのポテト。
——お腹、空いたな。
胃がきゅう、と主張する。
今日くらい、ガッツリ食べてもいい。むしろ、その方が明日のためになる。
そう思うのに、口から出かけた言葉は、別のものだった。
「……パスタにしようかな」
「パスタ、ですか」
「はい。なんか、軽そうだし」
メニューの端に載っていた、彩り野菜のペペロンチーノを指さす。
本当は、隣のページのハンバーグプレートに心が惹かれているのに。
「女の子らしく見えるやつ、選んじゃうんですよね」
冗談めかして笑ってみせると、胸の内側が少しだけチクリとした。
誰に見せるわけでもないのに。
私の「女の子らしさ」は、いつも誰かの想像の中の「無難」に縛られている。
「そうなんですか」
成瀬さんは、メニューから目を上げて私を一度見てから、また視線を戻した。
「俺は……ハンバーグと、ポテトと……」
迷いのない声で、次々と注文候補を口にしていく。
「あと、デザートどうしようかな」
「デザートも、いくんですか?」
驚いて聞き返すと、成瀬さんはあっさり頷いた。
「せっかく来たんで。ここのプリン、意外とおいしいですよ」
プリン。
メニューの最後の方に載っていた、ちょっと固めそうなカスタードプリンの写真が頭に浮かぶ。
——いいな。
そんなことを思った自分を、すぐに打ち消す。
この時間にデザートなんて、太るし。明日、顔がむくむかもしれないし。
「お決まりでしょうか?」
タイミングよく店員がやってきて、私たちはそれぞれ注文を伝えた。
「彩り野菜のペペロンチーノと、セットドリンクでアイスティーを」
「デミグラスハンバーグプレートと、山盛りポテト、あとプリンで。ドリンクはホットコーヒー」
店員が去っていくと、テーブルの上には、また静けさが戻った。
「よく食べますね」
つい口をついて出た言葉に、自分で苦笑する。
「すみません、なんか……」
「いえ。よく言われます」
成瀬さんは、少しだけ肩をすくめた。
「でも、食べたいときに食べないと、後悔するんで」
「後悔、ですか」
「はい。明日も頑張るための燃料みたいなものなので」
ストイックな人だと思っていたのに、意外とシンプルな理屈だ。
「佐伯さんは、あんまり食べないんですか?」
「いや、そんなことは……」
本当は、むしろよく食べる方だ。
でも、飲み会や女子会では、周りの様子をうかがっているうちに、いつもタイミングを逃してしまう。
「こういうとき、あんまりガツガツ食べるの、ちょっと恥ずかしくて」
自嘲気味に笑うと、成瀬さんは「ふうん」と小さく頷いた。
「誰かに見られてる気がするんですよね。『あの子、よく食べるな』って思われてるんじゃないかとか」
「思われて、どうなんですか?」
「え?」
「『よく食べるな』って思われたら、困ります?」
予想外の返しに、言葉が詰まる。
困るかどうか、と聞かれると……
困るほどのことでもない気がする。でも、なんとなく、恥ずかしい。
「……なんとなく、ですけど」
「なんとなく、か」
成瀬さんは、少しだけ笑った。
「食べたいもの食べた方が、明日も頑張れません?」
さっきと同じ言葉。でも今度は、私に向けられている。
「……そうかもしれないですね」
曖昧に返事をしながら、心のどこかがざわつくのを感じた。
本当はハンバーグが食べたかった。
デザートのプリンだって、本当は頼んでみたかった。
でも、それを口に出す勇気は、まだなかった。
◇
料理が運ばれてくると、テーブルの上は一気に色づいた。
私の前には、オリーブオイルとニンニクの香りが立ち上るペペロンチーノ。
成瀬さんの前には、鉄板の上でじゅうじゅう音を立てるハンバーグと、山盛りのポテト。
「うわ、いい匂い……」
思わず本音が漏れると、成瀬さんが「ですよね」と笑った。
「いただきます」
二人で小さく手を合わせ、それぞれの皿にフォークを伸ばす。
パスタは、思ったよりもしっかりニンニクが効いていて、悪くない。
でも、視界の端で、肉汁を滴らせるハンバーグが、やけに存在感を放っている。
——おいしそう。
そんな視線を送ってしまっているのかもしれない。
成瀬さんがふと、私の皿を見て言った。
「そのパスタ、気になってたんですよ」
「え?」
「新メニューって書いてあったから。……ひとくち、もらってもいいですか?」
フォークを持つ手が止まる。
「えっと……」
「代わりに、ハンバーグどうぞ」
そう言って、成瀬さんは自分の皿の端の方を、フォークで軽く示した。
「もし嫌じゃなければ」
断る理由を探そうとして、何も見つからない。
むしろ、内心では「ぜひお願いします」と叫びたいくらいだ。
「……じゃあ、ひとくちだけ」
自分でも驚くほど小さな声で、私は頷いた。
成瀬さんは「ありがとうございます」と言って、私のパスタを一口分すくい、自分の皿の端にそっと乗せる。
代わりに、ハンバーグをナイフで切り分け、私の皿の空いたスペースに移した。
「どうぞ」
「いただきます……」
フォークでハンバーグを刺し、口に運ぶ。
肉汁とソースの甘さと酸味が一気に広がって、思わず目を閉じた。
「……おいしい」
「でしょう?」
成瀬さんの声が、少しだけ誇らしげに聞こえる。
「パスタも、ニンニク効いててうまいです」
「よかったです」
なんだろう。
たった一口の交換なのに、テーブルの上の空気が少し柔らかくなった気がした。
「こういうの、久しぶりです」
ぽつりと漏らすと、成瀬さんが首をかしげる。
「こういうの?」
「誰かと、ひとくちシェアとか」
「そうなんですか?」
「はい。なんか、タイミング分からなくて。遠慮しちゃうというか」
「遠慮」
「昔、飲み会で、なんにも食べられなかったことがあって」
自分でも意外なくらい、するりと言葉が出てきた。
「大皿の料理がどんどん減っていくのを見てるだけで、手を伸ばせなくて。気づいたらお腹ぺこぺこで帰ってて、なんか虚しくなっちゃって」
笑い話にしようとして、声が少しだけ震う。
「それ以来、シェアとか、あんまり得意じゃなくて。『食べていい?』って聞くのも、『どうぞ』って言うのも、ちょっと構えちゃうんです」
成瀬さんは、フォークを持ったまま、静かに私の話を聞いていた。
「……それ、しんどかったですね」
「そんな大した話じゃないですよ」
「本人にとっては、大したことですよ」
淡々とした口調なのに、その言葉は妙にまっすぐに届いた。
「じゃあ今日は、佐伯さん優先の日ってことで」
「え?」
「食べたいものを優先する日」
そう言って、テーブルの端に置かれていたデザートメニューを、私の方に押しやった。
「さっき、プリン見てましたよね」
「み、見てました?」
「ページ開いたまま、しばらく止まってたので」
そんなところまで見られていたのかと、顔が熱くなる。
「……でも、やめました。こんな時間に甘いものは」
「こんな時間だから、です」
成瀬さんは、さらりと言う。
「疲れたときの甘いものって、正義じゃないですか」
「正義、ですか」
「はい。罪悪感より、ちゃんと効きますよ」
メニューの写真を見つめる。
プリンだけじゃなくて、チーズケーキやチョコパフェも並んでいる。
——チョコパフェ。
昔から、パフェにはちょっとした憧れがある。
でも、誰かと一緒だと、なんとなく頼みづらい。
「……迷ってる顔してますね」
「え」
「さっきから眉間にシワ寄ってます」
慌てて指で触れると、本当に少し寄っていた。
「どれです?」
成瀬さんが、メニューを指でとん、と軽く叩く。
「食べたいの、どれですか」
その視線は、急かすでもなく、ただ穏やかに待っている。
喉の奥に引っかかっている言葉を、どうにか押し出す。
「……チョコパフェ」
「はい」
成瀬さんは、迷いなく手を挙げて店員を呼んだ。
「すみません、チョコパフェを二つ」
「えっ、二つ?」
思わず聞き返すと、成瀬さんは当然のように頷いた。
「佐伯さんの分と、俺の分です」
「ひとつをシェアとかじゃなくて?」
「それだと、また遠慮するでしょ」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
「……するかもしれないです」
「だったら、最初から一人一個の方が平和です」
「平和」
「はい。『ひとくちちょうだい』は、そのあとで」
そんなふうに言われたのは初めてで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
◇
やがて運ばれてきたチョコパフェは、思っていたよりも背が高かった。
グラスの中に、ソフトクリームとチョコアイス、ブラウニーとコーンフレークが層になっていて、その上にチョコソースがとろりとかかっている。
「……すご」
「写真と違ってたらどうしようかと思いましたけど、ちゃんとチョコパフェですね」
「ちゃんとチョコパフェですね」
二人で同じことを言って、笑ってしまう。
「いただきます」
スプーンを入れると、アイスの冷たさとチョコの甘さが一度にやってきて、頭の中まで一瞬しびれる。
「……おいしい」
「ですね」
こんな時間にパフェなんて、ってさっきまで思っていたのに。
今はただ、この甘さがありがたい。
「こんな時間にパフェなんて」
つい口にすると、成瀬さんが「言いましたね」と笑った。
「でも、うまいでしょ」
「はい。めちゃくちゃ」
「それで十分です」
テーブルの上には、空になりかけた皿と、半分くらいになったパフェ。
仕事の話から、好きな映画の話、前の部署での失敗談まで、話題は思った以上に広がっていった。
「前の部署、きつかったんですか?」
「きつくは……まあ、慣れなかったですね」
成瀬さんは、パフェの上のブラウニーを崩しながら言う。
「数字と人間関係、両方追いかけるのが苦手で。だから、営業に戻ってこられて、ちょっとほっとしてます」
「営業の方が大変そうですけど」
「俺は、こっちの方が楽です。数字は裏切らないので」
「かっこいいですね、それ」
「かっこよく言ってみました」
そう言って、少しだけ照れたように視線をそらす。
無口で怖い人だと思っていたけれど。
こうして話してみると、意外と不器用で、真面目で、食べることが好きな人なんだと分かる。
「佐伯さんは、なんで今の仕事選んだんですか?」
「え?」
「出版社の事務」
「……なんとなく、です」
自分でも、情けない答えだと思う。
「文房具とか書類とか、そういうのを扱う仕事が向いてるかなって。あと、本が好きだから、出版社ならいいかなって」
「いいと思いますけど」
「でも、営業さんみたいに『これがやりたい』って決めて入ったわけじゃないし。いつも、無難な方を選んじゃってる気がして」
パフェのグラスの底をスプーンでつつきながら、ぽつりと本音がこぼれた。
「仕事も、恋も」
「恋も?」
「……はい」
自分で言っておいて、急に恥ずかしくなる。
「なんか、告白とかも、されたら断れなくて。『嫌われたくない』が先に立っちゃって、自分がどうしたいか後回しで」
「それで、しんどくなったり?」
「まあ、そうですね。別れてから、『あれ、私、何してたんだろう』ってなるというか」
笑いながら話しているのに、胸の奥が少しだけ痛む。
「だから、最近はもう、恋愛とかいいかなって思ってて。仕事も、ほどほどにやって、ほどほどに生きていけたらいいかなって」
「ほどほど」
成瀬さんは、グラスの底のアイスをすくいながら、静かに繰り返した。
「無難って、悪くないと思いますけどね」
「そうですか?」
「はい。無難に仕事して、無難に人と関われる人って、意外と少ないですし」
「それ、褒めてます?」
「褒めてます」
あっさりと言い切られて、少しだけ肩の力が抜けた。
「でも」
成瀬さんは、スプーンをテーブルに置いて、私を見た。
「たまには、パフェくらい選んでもいいんじゃないですか」
「パフェくらい」
「はい。食べたいものとか、会いたい人とか。全部じゃなくていいから、たまにだけでも、自分で選んだらいいと思います」
その「会いたい人」という言葉が、妙に胸に引っかかった。
私、誰に会いたいんだろう。
ふと、目の前でパフェを食べ終えた成瀬さんの横顔を見て、心臓が小さく跳ねた。
——今、ちょっとだけ、この時間が終わるのが惜しいと思っている。
そのことに気づいて、スプーンを持つ手が止まる。
◇
会計を済ませようとレジに向かうと、成瀬さんが財布を取り出しながら言った。
「俺の分は別で」
「いえ、一緒で大丈夫です。割り勘にしましょう」
「じゃあ……パフェ代だけ、俺に払わせてもらえます?」
「え?」
レジの前で立ち止まる。
「今日、佐伯さんが『食べたい』ってちゃんと言った記念に」
冗談めかした口調なのに、耳まで熱くなる。
「でも、それは……」
「じゃあ、今度ランチ行くとき、コーヒー奢ってください」
「ランチ」
「はい。昼のメニュー、夜より多いらしいんで」
さらりと差し出された未来の約束に、胸がきゅっとなる。
「……分かりました。じゃあ、コーヒーは任せてください」
「楽しみにしてます」
レジの音が鳴り、領収書が印刷される。
パフェ代が引かれた金額を見て、なんだか少し、得をしたような、むずがゆいような気持ちになった。
◇
店を出ると、夜風が肌に心地よかった。
「思ったより、涼しいですね」
「ですね」
ビルの隙間から見える空は、街の明かりで少し白んでいる。
さっきまでいた店内のざわめきが、遠くなっていく。
駅へ向かう道を、二人で並んで歩く。
歩幅を合わせることに意識を向けている自分に気づいて、少しおかしくなった。
「……あの」
信号待ちで立ち止まったとき、私は口を開いた。
「さっきの、ランチって」
「はい」
「他の人も、誘いますか?」
いつもの癖で、ついそう言いかけて、言葉が喉で止まる。
——本当は、どうしたい?
胸の奥で、小さな声が問いかける。
私は一度、深呼吸をした。
「……二人で、ですか?」
成瀬さんが、少しだけ目を見開く。
「二人が嫌なら、もちろん他の人も——」
「嫌じゃないです」
慌てて言葉をかぶせると、今度は私が驚く番だった。
「むしろ、その方が、いいです」
「……よかった」
成瀬さんは、照れくさそうに視線をそらした。
「じゃあ、二人で。よかったら」
「行きたいです」
今度は、はっきりと言えた。
自分の中で、「遠慮した方がいいかも」という声よりも、「そうしたい」が少しだけ大きくなった瞬間だった。
信号が青に変わり、私たちは歩き出す。
駅の改札前で「お疲れさまでした」と別れ、私はいつもの電車に乗り込んだ。
揺れる車内で、スマホを取り出す。
メモアプリを開いて、新しいメモをひとつ作った。
『今度は最初からパフェ頼む』
文字を打ち込んで保存すると、窓ガラスに映る自分の顔が、ほんの少しだけ明るく見えた。
無難な夜の中に、小さなひとくち分の勇気を、私はたしかに選び取ったのだと思う。
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