ねるまえ短編集

cotonoha garden

文字の大きさ
19 / 29

君とひとくちシェア

しおりを挟む
終電を一本逃しても、誰も困らない。  
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ、空っぽになった。

「佐伯さん、今日も残業? えら~い」

通りすがりに投げられた同僚の声に、私はパソコンの画面から目を離さず、愛想笑いだけ返した。

えらくなんて、ない。ただ、頼まれた仕事を断れなかっただけだ。

時計は、二十一時を少し回っている。  
営業フロアの明かりはほとんど落ちていて、残っているのは私の島と、コピー機の青いランプくらい。

「……よし」

最後のメールを送信して、深く息を吐く。  
印刷した資料をトレーに並べ、机の上をざっと片づけると、ようやく椅子から立ち上がった。

「佐伯さーん! 終わった?」

背後から声が飛んできて振り向くと、同じチームの先輩、由香さんがバッグを肩にかけながら近づいてきた。

「はい、さっき。由香さんもお疲れさまです」

「おつかれ~。ねえ、このあとさ、駅前で飲まない? 今日、マジで上司ムカついたんだけど。聞いてほしい」

由香さんの後ろには、営業の面々が数人。みんなもうスーツのジャケットを脱いで、半分オフモードだ。

「えっと……今日は、ちょっと」

口が勝手に、いつもの断り文句を選ぶ。

「明日の朝イチで資料チェックあるじゃないですか。あれ、不安で……」

「あー、まじめ~。じゃあ今度ね。ちゃんと誘うから!」

由香さんは悪びれもなく笑って、他のメンバーと連れ立ってエレベーターに向かった。

「今度」がいつ来るのかは、誰も知らない。  
私も、別に強く望んでいるわけじゃない。……はずだ。

静かになったフロアに一人残されて、ぐう、とお腹が鳴った。

「……そうだ、ごはん」

昼はコンビニおにぎりをデスクでかき込んだだけだ。  
冷蔵庫には、いつ買ったか覚えていない豆腐と、しなびたネギが一本。

今から帰って、料理をする気力はない。

私はパソコンをシャットダウンしながら、頭の中で選択肢を並べた。

コンビニで済ませるか。駅ナカのパン屋で何か買うか。  
それとも——

ふと、窓の外に視線をやる。  
ビルの隙間から見える通りに、黄色い看板がぼんやりと浮かんでいた。

オフィスから徒歩五分。二十四時間営業のチェーン系ファミレス。  
残業帰りの人や学生で、いつもほどよく賑わっている。

「……たまには、いいか」

ひとりで外食なんて、なんとなく気が引けて避けてきたけれど。  
今日は、少しだけ自分を甘やかしてもいい気がした。



初夏の夜風は、昼間の熱を少しだけ残していて、湿った空気がスーツの隙間に入り込んでくる。

信号待ちの横断歩道で立ち止まり、スマホを取り出して時間を確認した。二十一時二十分。  
終電までは、まだ余裕がある。

ファミレスの自動ドアが開くと、油とソースと、甘いデザートの匂いが混ざった空気がふわっと押し寄せてきた。

「いらっしゃいませー。おひとり様ですか?」

「はい」

店員の女の子は、店内をぐるりと見渡して、申し訳なさそうに眉を下げる。

「ただいまほぼ満席でして……相席でもよろしいでしょうか?」

「あ、はい。大丈夫です」

反射的に、そう答えていた。  
「ちょっと嫌なんですけど」とは、言えない。

胸のあたりがかすかにきゅっとなる。  
学生時代の飲み会で、テーブルの端っこに追いやられて、気づけば料理のお皿が全部空っぽになっていた夜を、ふと思い出した。

——また、ああいう感じだったらどうしよう。

そんな不安を飲み込んでいると、店員は私を奥の方へ案内した。

「こちらのお席、失礼します。……あの、お客様、相席でよろしいでしょうか?」

店員が声をかけた先に座っていたのは——見慣れた横顔だった。

「……あれ」

「……佐伯さん?」

同じタイミングで目が合って、私は思わず立ち止まる。

少し長めの前髪に、無表情気味な目元。  
営業部に最近異動してきたばかりの、成瀬さん。

「お、お疲れさまです」

「お疲れさまです」

私たちは同時に頭を下げ、同時に黙り込んだ。

「こちら、お連れ様ではないので相席になりますが……」

「大丈夫です」

「はい」

また、ハモった。店員が「ありがとうございます」と笑って去っていく。

……よりによって、なんでこの人。

席につきながら、心の中で小さく頭を抱える。  
部署は同じになったけれど、席が近いだけで、ほとんど話したことはない。

仕事中はいつも淡々としていて、雑談にもあまり参加しない。  
正直、ちょっと怖い人だと思っていた。

目の前のテーブルには、飲みかけのアイスコーヒーと、開かれたメニュー表。  
どうやら、今来たばかりらしい。

「……残業、ですか?」

沈黙に耐えきれず、私はメニューを開きながら口を開いた。

「はい。佐伯さんも?」

「ですね。明日の資料が、ちょっと」

「ああ……あの山のやつ」

成瀬さんが、少しだけ口元を緩める。

「あれ、全部やってたんですか?」

「全部じゃないですよ。半分くらいです」

「半分……」

その「半分」がどれだけ多いか知っているから、思わず苦笑いが漏れた。

「お疲れさまです」

「成瀬さんこそ。いつも遅いですよね」

「まあ、営業なので」

それきり会話は途切れ、私たちはそれぞれメニューに視線を落とした。

ページをめくるたびに、写真の中の料理が、次々と目に飛び込んでくる。  
ジューシーなハンバーグ、チーズがとろけるドリア、山盛りのポテト。

——お腹、空いたな。

胃がきゅう、と主張する。  
今日くらい、ガッツリ食べてもいい。むしろ、その方が明日のためになる。

そう思うのに、口から出かけた言葉は、別のものだった。

「……パスタにしようかな」

「パスタ、ですか」

「はい。なんか、軽そうだし」

メニューの端に載っていた、彩り野菜のペペロンチーノを指さす。  
本当は、隣のページのハンバーグプレートに心が惹かれているのに。

「女の子らしく見えるやつ、選んじゃうんですよね」

冗談めかして笑ってみせると、胸の内側が少しだけチクリとした。

誰に見せるわけでもないのに。  
私の「女の子らしさ」は、いつも誰かの想像の中の「無難」に縛られている。

「そうなんですか」

成瀬さんは、メニューから目を上げて私を一度見てから、また視線を戻した。

「俺は……ハンバーグと、ポテトと……」

迷いのない声で、次々と注文候補を口にしていく。

「あと、デザートどうしようかな」

「デザートも、いくんですか?」

驚いて聞き返すと、成瀬さんはあっさり頷いた。

「せっかく来たんで。ここのプリン、意外とおいしいですよ」

プリン。  
メニューの最後の方に載っていた、ちょっと固めそうなカスタードプリンの写真が頭に浮かぶ。

——いいな。

そんなことを思った自分を、すぐに打ち消す。  
この時間にデザートなんて、太るし。明日、顔がむくむかもしれないし。

「お決まりでしょうか?」

タイミングよく店員がやってきて、私たちはそれぞれ注文を伝えた。

「彩り野菜のペペロンチーノと、セットドリンクでアイスティーを」

「デミグラスハンバーグプレートと、山盛りポテト、あとプリンで。ドリンクはホットコーヒー」

店員が去っていくと、テーブルの上には、また静けさが戻った。

「よく食べますね」

つい口をついて出た言葉に、自分で苦笑する。

「すみません、なんか……」

「いえ。よく言われます」

成瀬さんは、少しだけ肩をすくめた。

「でも、食べたいときに食べないと、後悔するんで」

「後悔、ですか」

「はい。明日も頑張るための燃料みたいなものなので」

ストイックな人だと思っていたのに、意外とシンプルな理屈だ。

「佐伯さんは、あんまり食べないんですか?」

「いや、そんなことは……」

本当は、むしろよく食べる方だ。  
でも、飲み会や女子会では、周りの様子をうかがっているうちに、いつもタイミングを逃してしまう。

「こういうとき、あんまりガツガツ食べるの、ちょっと恥ずかしくて」

自嘲気味に笑うと、成瀬さんは「ふうん」と小さく頷いた。

「誰かに見られてる気がするんですよね。『あの子、よく食べるな』って思われてるんじゃないかとか」

「思われて、どうなんですか?」

「え?」

「『よく食べるな』って思われたら、困ります?」

予想外の返しに、言葉が詰まる。

困るかどうか、と聞かれると……  
困るほどのことでもない気がする。でも、なんとなく、恥ずかしい。

「……なんとなく、ですけど」

「なんとなく、か」

成瀬さんは、少しだけ笑った。

「食べたいもの食べた方が、明日も頑張れません?」

さっきと同じ言葉。でも今度は、私に向けられている。

「……そうかもしれないですね」

曖昧に返事をしながら、心のどこかがざわつくのを感じた。

本当はハンバーグが食べたかった。  
デザートのプリンだって、本当は頼んでみたかった。

でも、それを口に出す勇気は、まだなかった。



料理が運ばれてくると、テーブルの上は一気に色づいた。

私の前には、オリーブオイルとニンニクの香りが立ち上るペペロンチーノ。  
成瀬さんの前には、鉄板の上でじゅうじゅう音を立てるハンバーグと、山盛りのポテト。

「うわ、いい匂い……」

思わず本音が漏れると、成瀬さんが「ですよね」と笑った。

「いただきます」

二人で小さく手を合わせ、それぞれの皿にフォークを伸ばす。

パスタは、思ったよりもしっかりニンニクが効いていて、悪くない。  
でも、視界の端で、肉汁を滴らせるハンバーグが、やけに存在感を放っている。

——おいしそう。

そんな視線を送ってしまっているのかもしれない。  
成瀬さんがふと、私の皿を見て言った。

「そのパスタ、気になってたんですよ」

「え?」

「新メニューって書いてあったから。……ひとくち、もらってもいいですか?」

フォークを持つ手が止まる。

「えっと……」

「代わりに、ハンバーグどうぞ」

そう言って、成瀬さんは自分の皿の端の方を、フォークで軽く示した。

「もし嫌じゃなければ」

断る理由を探そうとして、何も見つからない。  
むしろ、内心では「ぜひお願いします」と叫びたいくらいだ。

「……じゃあ、ひとくちだけ」

自分でも驚くほど小さな声で、私は頷いた。

成瀬さんは「ありがとうございます」と言って、私のパスタを一口分すくい、自分の皿の端にそっと乗せる。  
代わりに、ハンバーグをナイフで切り分け、私の皿の空いたスペースに移した。

「どうぞ」

「いただきます……」

フォークでハンバーグを刺し、口に運ぶ。

肉汁とソースの甘さと酸味が一気に広がって、思わず目を閉じた。

「……おいしい」

「でしょう?」

成瀬さんの声が、少しだけ誇らしげに聞こえる。

「パスタも、ニンニク効いててうまいです」

「よかったです」

なんだろう。  
たった一口の交換なのに、テーブルの上の空気が少し柔らかくなった気がした。

「こういうの、久しぶりです」

ぽつりと漏らすと、成瀬さんが首をかしげる。

「こういうの?」

「誰かと、ひとくちシェアとか」

「そうなんですか?」

「はい。なんか、タイミング分からなくて。遠慮しちゃうというか」

「遠慮」

「昔、飲み会で、なんにも食べられなかったことがあって」

自分でも意外なくらい、するりと言葉が出てきた。

「大皿の料理がどんどん減っていくのを見てるだけで、手を伸ばせなくて。気づいたらお腹ぺこぺこで帰ってて、なんか虚しくなっちゃって」

笑い話にしようとして、声が少しだけ震う。

「それ以来、シェアとか、あんまり得意じゃなくて。『食べていい?』って聞くのも、『どうぞ』って言うのも、ちょっと構えちゃうんです」

成瀬さんは、フォークを持ったまま、静かに私の話を聞いていた。

「……それ、しんどかったですね」

「そんな大した話じゃないですよ」

「本人にとっては、大したことですよ」

淡々とした口調なのに、その言葉は妙にまっすぐに届いた。

「じゃあ今日は、佐伯さん優先の日ってことで」

「え?」

「食べたいものを優先する日」

そう言って、テーブルの端に置かれていたデザートメニューを、私の方に押しやった。

「さっき、プリン見てましたよね」

「み、見てました?」

「ページ開いたまま、しばらく止まってたので」

そんなところまで見られていたのかと、顔が熱くなる。

「……でも、やめました。こんな時間に甘いものは」

「こんな時間だから、です」

成瀬さんは、さらりと言う。

「疲れたときの甘いものって、正義じゃないですか」

「正義、ですか」

「はい。罪悪感より、ちゃんと効きますよ」

メニューの写真を見つめる。  
プリンだけじゃなくて、チーズケーキやチョコパフェも並んでいる。

——チョコパフェ。

昔から、パフェにはちょっとした憧れがある。  
でも、誰かと一緒だと、なんとなく頼みづらい。

「……迷ってる顔してますね」

「え」

「さっきから眉間にシワ寄ってます」

慌てて指で触れると、本当に少し寄っていた。

「どれです?」

成瀬さんが、メニューを指でとん、と軽く叩く。

「食べたいの、どれですか」

その視線は、急かすでもなく、ただ穏やかに待っている。

喉の奥に引っかかっている言葉を、どうにか押し出す。

「……チョコパフェ」

「はい」

成瀬さんは、迷いなく手を挙げて店員を呼んだ。

「すみません、チョコパフェを二つ」

「えっ、二つ?」

思わず聞き返すと、成瀬さんは当然のように頷いた。

「佐伯さんの分と、俺の分です」

「ひとつをシェアとかじゃなくて?」

「それだと、また遠慮するでしょ」

図星を刺されて、言葉に詰まる。

「……するかもしれないです」

「だったら、最初から一人一個の方が平和です」

「平和」

「はい。『ひとくちちょうだい』は、そのあとで」

そんなふうに言われたのは初めてで、胸の奥がじんわりと温かくなる。



やがて運ばれてきたチョコパフェは、思っていたよりも背が高かった。

グラスの中に、ソフトクリームとチョコアイス、ブラウニーとコーンフレークが層になっていて、その上にチョコソースがとろりとかかっている。

「……すご」

「写真と違ってたらどうしようかと思いましたけど、ちゃんとチョコパフェですね」

「ちゃんとチョコパフェですね」

二人で同じことを言って、笑ってしまう。

「いただきます」

スプーンを入れると、アイスの冷たさとチョコの甘さが一度にやってきて、頭の中まで一瞬しびれる。

「……おいしい」

「ですね」

こんな時間にパフェなんて、ってさっきまで思っていたのに。  
今はただ、この甘さがありがたい。

「こんな時間にパフェなんて」

つい口にすると、成瀬さんが「言いましたね」と笑った。

「でも、うまいでしょ」

「はい。めちゃくちゃ」

「それで十分です」

テーブルの上には、空になりかけた皿と、半分くらいになったパフェ。  
仕事の話から、好きな映画の話、前の部署での失敗談まで、話題は思った以上に広がっていった。

「前の部署、きつかったんですか?」

「きつくは……まあ、慣れなかったですね」

成瀬さんは、パフェの上のブラウニーを崩しながら言う。

「数字と人間関係、両方追いかけるのが苦手で。だから、営業に戻ってこられて、ちょっとほっとしてます」

「営業の方が大変そうですけど」

「俺は、こっちの方が楽です。数字は裏切らないので」

「かっこいいですね、それ」

「かっこよく言ってみました」

そう言って、少しだけ照れたように視線をそらす。

無口で怖い人だと思っていたけれど。  
こうして話してみると、意外と不器用で、真面目で、食べることが好きな人なんだと分かる。

「佐伯さんは、なんで今の仕事選んだんですか?」

「え?」

「出版社の事務」

「……なんとなく、です」

自分でも、情けない答えだと思う。

「文房具とか書類とか、そういうのを扱う仕事が向いてるかなって。あと、本が好きだから、出版社ならいいかなって」

「いいと思いますけど」

「でも、営業さんみたいに『これがやりたい』って決めて入ったわけじゃないし。いつも、無難な方を選んじゃってる気がして」

パフェのグラスの底をスプーンでつつきながら、ぽつりと本音がこぼれた。

「仕事も、恋も」

「恋も?」

「……はい」

自分で言っておいて、急に恥ずかしくなる。

「なんか、告白とかも、されたら断れなくて。『嫌われたくない』が先に立っちゃって、自分がどうしたいか後回しで」

「それで、しんどくなったり?」

「まあ、そうですね。別れてから、『あれ、私、何してたんだろう』ってなるというか」

笑いながら話しているのに、胸の奥が少しだけ痛む。

「だから、最近はもう、恋愛とかいいかなって思ってて。仕事も、ほどほどにやって、ほどほどに生きていけたらいいかなって」

「ほどほど」

成瀬さんは、グラスの底のアイスをすくいながら、静かに繰り返した。

「無難って、悪くないと思いますけどね」

「そうですか?」

「はい。無難に仕事して、無難に人と関われる人って、意外と少ないですし」

「それ、褒めてます?」

「褒めてます」

あっさりと言い切られて、少しだけ肩の力が抜けた。

「でも」

成瀬さんは、スプーンをテーブルに置いて、私を見た。

「たまには、パフェくらい選んでもいいんじゃないですか」

「パフェくらい」

「はい。食べたいものとか、会いたい人とか。全部じゃなくていいから、たまにだけでも、自分で選んだらいいと思います」

その「会いたい人」という言葉が、妙に胸に引っかかった。

私、誰に会いたいんだろう。

ふと、目の前でパフェを食べ終えた成瀬さんの横顔を見て、心臓が小さく跳ねた。

——今、ちょっとだけ、この時間が終わるのが惜しいと思っている。

そのことに気づいて、スプーンを持つ手が止まる。



会計を済ませようとレジに向かうと、成瀬さんが財布を取り出しながら言った。

「俺の分は別で」

「いえ、一緒で大丈夫です。割り勘にしましょう」

「じゃあ……パフェ代だけ、俺に払わせてもらえます?」

「え?」

レジの前で立ち止まる。

「今日、佐伯さんが『食べたい』ってちゃんと言った記念に」

冗談めかした口調なのに、耳まで熱くなる。

「でも、それは……」

「じゃあ、今度ランチ行くとき、コーヒー奢ってください」

「ランチ」

「はい。昼のメニュー、夜より多いらしいんで」

さらりと差し出された未来の約束に、胸がきゅっとなる。

「……分かりました。じゃあ、コーヒーは任せてください」

「楽しみにしてます」

レジの音が鳴り、領収書が印刷される。  
パフェ代が引かれた金額を見て、なんだか少し、得をしたような、むずがゆいような気持ちになった。



店を出ると、夜風が肌に心地よかった。

「思ったより、涼しいですね」

「ですね」

ビルの隙間から見える空は、街の明かりで少し白んでいる。  
さっきまでいた店内のざわめきが、遠くなっていく。

駅へ向かう道を、二人で並んで歩く。  
歩幅を合わせることに意識を向けている自分に気づいて、少しおかしくなった。

「……あの」

信号待ちで立ち止まったとき、私は口を開いた。

「さっきの、ランチって」

「はい」

「他の人も、誘いますか?」

いつもの癖で、ついそう言いかけて、言葉が喉で止まる。

——本当は、どうしたい?

胸の奥で、小さな声が問いかける。

私は一度、深呼吸をした。

「……二人で、ですか?」

成瀬さんが、少しだけ目を見開く。

「二人が嫌なら、もちろん他の人も——」

「嫌じゃないです」

慌てて言葉をかぶせると、今度は私が驚く番だった。

「むしろ、その方が、いいです」

「……よかった」

成瀬さんは、照れくさそうに視線をそらした。

「じゃあ、二人で。よかったら」

「行きたいです」

今度は、はっきりと言えた。

自分の中で、「遠慮した方がいいかも」という声よりも、「そうしたい」が少しだけ大きくなった瞬間だった。

信号が青に変わり、私たちは歩き出す。

駅の改札前で「お疲れさまでした」と別れ、私はいつもの電車に乗り込んだ。

揺れる車内で、スマホを取り出す。  
メモアプリを開いて、新しいメモをひとつ作った。

『今度は最初からパフェ頼む』

文字を打ち込んで保存すると、窓ガラスに映る自分の顔が、ほんの少しだけ明るく見えた。

無難な夜の中に、小さなひとくち分の勇気を、私はたしかに選び取ったのだと思う。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

お父さんのお嫁さんに私はなる

色部耀
恋愛
お父さんのお嫁さんになるという約束……。私は今夜それを叶える――。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

処理中です...