🟧叛雨に濡れる朝(あした)に🟧  【敵は信長か? それとも父・家康なのか!  乱世の不条理に敢然と立ち向かえ!】

海善紙葉

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第一章  慈 雨

慈 雨 

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 兄の凛々りりしい姿が忽然こつぜんと夢の中に浮かんだ翌朝は、たいてい雨になった。

 すぐにむ夕立のような雨のときもあったし、じめじめと降ることもある。たとえ降らずとも、ひたひたと忍び来る湿り気を含んだ雨足のけだるい気配だけが、いつまでもどこまでも、頭裡とうりに焼き付いて離れない。

 摩利支天まりしてんにも似たり……などと、父たちは兄のことを評していたけれど、記憶の奥底に息づいている兄は、この乱世には珍しく、はにかんだみがよく似合うやさしい風貌かおのままであった。

、おまえ、もう女になったのか?』

 そんなことばが、兄の口から飛び出たのは、いつのことだったろうか。
 最初、何を言われているのか、まったくわからなかった。たしか馬上であった。
 供奉ぐぶの者らを振り切り、兄の背にしがみついていたときであったはずである。
 ひずめの音が風に消され、耳朶じだに何かがねっとりとまとわりついたような気がした。

 このように供奉衆ともの目を逃れ、二人きりで城の外へ逃れることは幾度もあった。厳重なまでの警護を極度に嫌う兄の悪戯心いたずらごころのようなものだった。周囲を驚かせてやろうという茶目っ気たっぷりの言動は、ときに傲岸不遜ごうがんふそんに映った者もいたに違いない。
 そんな兄の挙措きょそには、なにかと誤解を招くことも多かったけれど、それは心の深奥しんおう吐露とろできない日々の緊張の裏返しのようなものであったろうか。

『お亀は、もう、とつぎのわざを教わったかか?』

 兄より一つ年下のわたしは、十三を過ぎて初潮を迎え、殿方とのがたとのねやごとの手順というものを、繰り返し侍女たちから教え込まれていた。

〈とつぎのわざ〉とは、交合まぐわいのことで、これが転じて〈嫁ぐ〉という意味にでもなったのだろうか。
 それだけでなく、親元を離れ、嫁として敵陣に乗り込む覚悟というものを、何度も何度も伝え聴かされた。
 たとえば、嫁いだのちも、わが目と耳で得た情報は、逐一、ふみにてしらせるべし、といったようなことで、そのおりのことばの選び方、密偵みっていとのの方法も事細かく教えられた。

 ひとかどの武家のもとに産まれた女人には当然のことで、兄嫁もまた、のために、はるばる尾張おわりの織田家から岡崎の城へやってきたのだ。
 兄嫁とは、かの織田信長様のご息女だ……。

         ○

 わたしたち兄妹の父は、徳川家康である。

 今川家で人質生活を過ごし、駿府すんぷ元服げんぷくした父は、当時、松平元康と呼ばれていた。
 今川家の縁戚にあたる関口義広さまの姫、瀬名せなめとった。今川義元いまがわよしもと公の姪にあたる瀬名姫こそ、わたしたちの母である。
 もっともいまは母は、築山殿つきやまどのと呼ばれている。岡崎城内に土を盛って造られた庭園に築いた屋敷で暮らしているからだ。
 兄、三郎は永禄二年に産まれた。翌年に産まれたわたしは、〈亀〉と名付けられた。

 わたしが産まれた永禄三年は、天変地異とでも形容すべき事変が起こった年として後世に記憶されることになるだろう。
 五月、桶狭間の地で、今川義元公が信長様の奇襲にい、斬殺されてしまったのだ。
 このとき父は、わたしたちが暮らしていた駿府には戻って来なかった。そのまま父祖伝来の地、岡崎城へ入ったのだ。
 父が十九歳のときである。

 戦国の世のならわしでは、その行為は敵前逃亡であり、軍規違反であり、今川家に対する裏切りに他ならない。
 そうして、わたしたちへの訣別けつべつを意味している……。
 駿府に残されたわたしたちは、即時処刑されたとしても仕方なかったのだから。
 けれど父は、わたしたちをてることを迷うことなく決断したのだ。もっとも、のちに双方の人質交換によって、母とわたしたち三人は救出されたのだけれど、物心ついてこの一連の経緯いきさつを知ったとき、涙がとめどなくあふれた。
 耳の奥底で、おそろしいむしどもが暴れ、うごめき、息巻いているようにも思われてきて、数日の間、激しい耳鳴りと頭痛にさいなまれた。

(……父は、わたしたちを、見殺しにする道を選んだのだ……)

 父のことを恨むとか、おそれるといった単純なことばで表現できるものではない。むしろ、兄の胸裡に渦巻いているかもしれない黒いほのおを想像するにつけ、居たたまれない歯痒はがゆさにかられた。
 黒い焔のことは、ただのわたしのなかの妄想かもしれない。
 けれど嫡男ちゃくなんとして産まれた兄は、過去のこのような経緯をどのように見つめ、どのように処理してきたのだろうか。
 そのことを想像するたびに、兄のこころの奥底深く刻まれたにちがいない亀裂の大きさというものに思いをせずにはいられなかった。
 このような共通の体験が、兄の存在を、より特別で、そうして、より複雑なものにさせていたのかもしれない。


 今川家からの独立を果たした父は、信長様と盟約した。
 永禄九年十二月、従五位下じゅごいのげ徳川三河守みかわのかみの叙任を受けた父は、二十五歳になっていた。

      
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