2 / 66
第一章 慈 雨
慈 雨 (ニ)
しおりを挟む
信長様のご息女徳姫さまと兄との婚儀が整ったとき、わたしはどんな心持ちでその報せを受け止めただろうか。
いまだにはっきりとは思い出せずにいる。
嫉妬に似た感情が湧かなかったといえば、嘘になる。けれど、むしろ兄の前途洋々たるさまに称揚の声を挙げたことだけは記憶に新しい。
(……ようやく兄にも、陽のあたる登り坂を歩む機会が訪れた……)
そのことを我が身のごとく慶び、はしゃいだはずである。
ちなみに兄は、九歳で元服し、信長様から〈信〉の一字を与えられていた。父家康の〈康〉字を併せ〈信康〉と名乗るようになっていた。
どうやらこの新たな名は、兄はそれほど好きにはなれなかったようだ。その心根が痛いほど察せられただけに、わたしはずっと〈三郎〉の幼名を口にしてきた。
『……お亀は、いまもおれのことを三郎とよんでくれる。それが、何よりも嬉しいずら。余の者にはわからないだろうが……。ああそう言えば、おまえの〈亀〉という名は、そもそも、父上の初恋の相手だったというぞ!』
……その噂は、わたしも耳にしている。
母の妹の亀姫さまのほうを父は好いていたという。
わたしを亀と名付けたのは、妻に対する当てつけだ、という者もいた。
父と母との間に横たわる越すに越されない大河のようなものだ、と指摘する者もいた。
名門今川家の血をひく母が、その今川家を滅ぼした父への恨みを捨てきれないために、父が母を叱咤する気持ちで、あえて亀の字を選んだに違いない、ともっともらしく講釈する侍女さえいる……。
真相というものは誰にも判らないだろう。
人の興味を引く噂話というものは、当時者の思惑をはずれて、周囲のさまざまな好悪の感情が入り混じり、膨らんでいくものだから。
『……名など無くてもいい。亀であろうが、なかろうが、三郎兄さまのたった一人の妹というだけで充分……』
そんなことを告げたはずである。
菅生川の川面から照り返す光を浴びて、兄の双眸はきらきらと輝いて見えた。
ふいに兄は羽織を脱ぎ捨てた。
褌一枚になって、ドボンと川に飛び込んだ。
『ほどよく冷たいのん。お亀もおいでん。川にはいりん!』
三河言葉まる出しの兄には、無邪気な一面もある。けれど、はい、と頷けるはずもなかった。無造作に脱ぎ捨てられた衣服を拾い、すばやくたたんだ。
初夏の蒸せるような若草のにおいを嗅いだような気がした。鼻腔を刺激するそれは霞のようにとらえどころがなかった。
『衣を着せておくれん』
川から這いあがってきた兄の体躯を見て、アッと息を呑んだ。背中から右太股にかけて皮膚が縮み膨れたような跡が刻まれていた。
『……火傷の跡だ。このこと、ここだけの秘密だぞ!』
あまりの語気の強さに驚かされた。
と、すぐに兄は舌を出して、クスッと笑った。いつもの含蓄の笑みだ。
兄は照れるとそんな表情になる。兄によれば、その火傷を負ったのは、元服前のことであったらしい。
沸騰した湯釜に向かって、母が突然灰を投げ入れたとき、兄は熱湯を浴びた……そうだ。慌てて介抱しようと侍女が水で冷やそうとしたが、あまりの痛さに兄は土間に転げ落ちた。土間の隅に積まれていた薪に当たった振動で灰のほこりが舞い上がってからだにかぶさり、膿んで皮膚が爛れた痕らしい。
それにしても、なぜ母は湯釜に灰を投げ入れたのだろう……。
『……いまなら、わかる。側妾を置いた父上が、母上の閨を訪れなくなって、嫉妬と悋気にお苦しみだったのであろうよ……お亀、このこと、二人だけの内緒だにぃ』
黙ったままこくりと頷き、そっと火傷のあとを撫でた。目にたまった涙が、兄の肌を濡らした。緊張のせいか、自分の鼓動の高鳴りが風になって漏れ飛んでいくような気がした。
いまだにはっきりとは思い出せずにいる。
嫉妬に似た感情が湧かなかったといえば、嘘になる。けれど、むしろ兄の前途洋々たるさまに称揚の声を挙げたことだけは記憶に新しい。
(……ようやく兄にも、陽のあたる登り坂を歩む機会が訪れた……)
そのことを我が身のごとく慶び、はしゃいだはずである。
ちなみに兄は、九歳で元服し、信長様から〈信〉の一字を与えられていた。父家康の〈康〉字を併せ〈信康〉と名乗るようになっていた。
どうやらこの新たな名は、兄はそれほど好きにはなれなかったようだ。その心根が痛いほど察せられただけに、わたしはずっと〈三郎〉の幼名を口にしてきた。
『……お亀は、いまもおれのことを三郎とよんでくれる。それが、何よりも嬉しいずら。余の者にはわからないだろうが……。ああそう言えば、おまえの〈亀〉という名は、そもそも、父上の初恋の相手だったというぞ!』
……その噂は、わたしも耳にしている。
母の妹の亀姫さまのほうを父は好いていたという。
わたしを亀と名付けたのは、妻に対する当てつけだ、という者もいた。
父と母との間に横たわる越すに越されない大河のようなものだ、と指摘する者もいた。
名門今川家の血をひく母が、その今川家を滅ぼした父への恨みを捨てきれないために、父が母を叱咤する気持ちで、あえて亀の字を選んだに違いない、ともっともらしく講釈する侍女さえいる……。
真相というものは誰にも判らないだろう。
人の興味を引く噂話というものは、当時者の思惑をはずれて、周囲のさまざまな好悪の感情が入り混じり、膨らんでいくものだから。
『……名など無くてもいい。亀であろうが、なかろうが、三郎兄さまのたった一人の妹というだけで充分……』
そんなことを告げたはずである。
菅生川の川面から照り返す光を浴びて、兄の双眸はきらきらと輝いて見えた。
ふいに兄は羽織を脱ぎ捨てた。
褌一枚になって、ドボンと川に飛び込んだ。
『ほどよく冷たいのん。お亀もおいでん。川にはいりん!』
三河言葉まる出しの兄には、無邪気な一面もある。けれど、はい、と頷けるはずもなかった。無造作に脱ぎ捨てられた衣服を拾い、すばやくたたんだ。
初夏の蒸せるような若草のにおいを嗅いだような気がした。鼻腔を刺激するそれは霞のようにとらえどころがなかった。
『衣を着せておくれん』
川から這いあがってきた兄の体躯を見て、アッと息を呑んだ。背中から右太股にかけて皮膚が縮み膨れたような跡が刻まれていた。
『……火傷の跡だ。このこと、ここだけの秘密だぞ!』
あまりの語気の強さに驚かされた。
と、すぐに兄は舌を出して、クスッと笑った。いつもの含蓄の笑みだ。
兄は照れるとそんな表情になる。兄によれば、その火傷を負ったのは、元服前のことであったらしい。
沸騰した湯釜に向かって、母が突然灰を投げ入れたとき、兄は熱湯を浴びた……そうだ。慌てて介抱しようと侍女が水で冷やそうとしたが、あまりの痛さに兄は土間に転げ落ちた。土間の隅に積まれていた薪に当たった振動で灰のほこりが舞い上がってからだにかぶさり、膿んで皮膚が爛れた痕らしい。
それにしても、なぜ母は湯釜に灰を投げ入れたのだろう……。
『……いまなら、わかる。側妾を置いた父上が、母上の閨を訪れなくなって、嫉妬と悋気にお苦しみだったのであろうよ……お亀、このこと、二人だけの内緒だにぃ』
黙ったままこくりと頷き、そっと火傷のあとを撫でた。目にたまった涙が、兄の肌を濡らした。緊張のせいか、自分の鼓動の高鳴りが風になって漏れ飛んでいくような気がした。
0
あなたにおすすめの小説
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~
古道 庵
歴史・時代
「母を、自由を、そして名前すらも奪われた。それでも俺は――」
天正十年、第六天魔王・織田信長は本能寺と共に炎の中へと消えた――
信長とその嫡男・信忠がこの世を去り、残されたのはまだ三歳の童、三法師。
清須会議の場で、豊臣秀吉によって織田家の後継とされ、後に名を「秀信」と改められる。
母と引き裂かれ、笑顔の裏に冷たい眼を光らせる秀吉に怯えながらも、少年は岐阜城主として時代の奔流に投げ込まれていく。
自身の存在に疑問を抱き、葛藤に苦悶する日々。
友と呼べる存在との出会い。
己だけが見える、祖父・信長の亡霊。
名すらも奪われた絶望。
そして太閤秀吉の死去。
日ノ本が二つに割れる戦国の世の終焉。天下分け目の関ヶ原。
織田秀信は二十一歳という若さで、歴史の節目の大舞台に立つ。
関ヶ原の戦いの前日譚とも言える「岐阜城の戦い」
福島正則、池田照政(輝政)、井伊直政、本田忠勝、細川忠興、山内一豊、藤堂高虎、京極高知、黒田長政……名だたる猛将・名将の大軍勢を前に、織田秀信はたったの一国一城のみで相対する。
「魔王」の血を受け継ぐ青年は何を望み、何を得るのか。
血に、時代に、翻弄され続けた織田秀信の、静かなる戦いの物語。
※史実をベースにしておりますが、この物語は創作です。
※時代考証については正確ではないので齟齬が生じている部分も含みます。また、口調についても現代に寄せておりますのでご了承ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる