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第十三章 奪 還
奪 還 (五)
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精一杯の虚勢を張って、わたしは怒鳴ってみせた。一度、相手に怒りを感情をぶつけることで、半蔵さまとの交渉のきっかけをつくりたかったのだ。
すぐさま半蔵さまの耳元で、わたしの想いのありったけをぶちまけた。
……これは計略でも謀略でもなんでもない。わたしの想い、兄信康への想いなのだ。そうしてまた、母の想いでもあったはずである。この目でみた母の最期の様子を淡々と語り、そうして、母が遺した文を半蔵さまに渡した。
理屈や方便や言訳は必要ない。
母が遺した最期の肉声のようなものを半蔵さまに伝えることしか、わたしにはできないのだ。
「どうか、三郎兄さまに会わせておくれん」
呟くように云うと、半蔵さまは黙したまま、座敷牢まで導いてくれた。
あかしがわたしの手を強く握って離さなかったので、一緒に伴った。
あかしなりに、わたしのなかの異変をすばやく感じ取っていたのかもしれない。巣鴨には、警護のために外で待つように伝えておいた。
座敷牢といっても見張り番も置かず、格子の木も腐ちかかっていて、錠をするまでもなく脱出するのは容易なことのようにおもわれた。この情況も、考えればおかしなことだ。
にもかかわらず、板敷の上に敷かれた茣蓙の上に泰然と座している兄信康の姿は、わたしの意表を衝いた。
ちょうど丸三年ぶりに見る兄の姿を、とうてい正視することができなかった。
数々の疑心が暗鬼を取り憑かせてしまったのだろうか、目の前の兄は、とうてい二十一歳の若者にはみえなかった。
双眸には光もなく、かつて《摩利支天にも似たり》とまで評された面影は微塵も残ってはいなかった。
兄はちらりとわたしたちのほうを向いたが、そのまま視線を壁に投じた。わたしに気づかないのはもっともで、顔を炭で汚し、しかも、袴と陣羽織の男装であったからだ。わたしの後ろですすり泣く嗚咽の声が聴こえた。
熊蔵と彦左だった。
二人は目を伏せたまま、体を震わせていた。
半蔵さまは格子越しに正座をしている。兵太郎と休賀斎の老公が、それを真似て、半蔵さまの隣に正座した。
わたしとあかしは、三人の後ろに座った。
半蔵さまは、兄信康に、〈向後は、陰にて生きるように〉と、諭していた。
「……名をひた匿し、この世の変転を、死人として眺めるのもまたよし」
そのようなことを説いている。おそらく、これまでも同じようなことを兄は熊蔵から告げられていたのかもしれない。
半蔵さまは殊の外饒舌であった。
「……若殿。あなたさまが、これからこの世に存在するということは、家康の殿さんはもとより、家中の誰一人として知ることはございませぬ。また、この半蔵めは、決して、余人には口外はいたしませぬ。それに、二度と、あなた様にお目にかかることもございますまい。よしんば、奇しき縁があり、再び、あいまみえる機会が訪れたとしても、拙者は、あなたさまのことを三郎信康君とは、断じて認めませぬ。このこと、いま、しっかと、ご承知おき下さりますかどうか……」
半蔵さまは、ゆったりとした口調で念を押す。突き出た喉仏が、ほんの少し左右に揺れたのが見えた。生真面目なまでの緊張感からなのだろうか。それを察したとき、わたしはハッとたじろいた。
半蔵さまは、兄信康の返答如何によっては、父から命じられたとおりに、処刑するつもりなのかもしれない。……瞬時にそのことを察した。
動揺を隠しながら、ちらりと兄の容貌をさぐったが、当人は意外にも屈託のない笑顔を半蔵さまに向けていた。
「半蔵!おまえまでもが、切腹を命じられたこのオレを生かしおく、というのか!しかも、おのれのみの判断にて、父上にまで内密にすると?そこにひかえおる熊蔵からも、それが、お亀の願いだと聴いたぞ。お亀は、父上に叛逆たてまつらんとするのか!」
言葉はそこで途切れた。
「叛逆、ではござらぬよ!」
そう叫んだのは、休賀斎の老公であった。
「叛逆ではなく、他愛なき童のごとき悪戯心かと存ずる」
「なにぃ、悪戯ごころとな!」
兄は怒り声をあげたが、声の主が老公だと知って驚いたようである。
「こ、これは奥山の爺! じ、爺までも、かかる企てに賛同なされるといわれるか! それが、父上のご内意とでもいわれるのか?」
「さにあらず。これは、亀党の総意でござるわい」
「かめ党とは、なんぞや」
「立場、齢を超えた者が集まる、領地も城もなき徒党にてござ候」
「爺!な、なにをほざいておる!」
「ほざくもなにも、事実でござるわい。若よ、たしかに若の側にも誤解を招くなにがしかの因の素があったかもしれませぬ。じゃが一方的に切腹を命じるとは、これまた、ものの道理がとおらぬわい! 信長と対決する機会も与えられず、二十一の若さで逝くのは、あまりにも無念とはおもわれませぬのかっ」
それからしばらくは、兄と老公のやりとりが続いたけれど、そのうち兄は貝のように口を閉ざし、ぷいと老公の視線を避けて横を向いた。頬骨が突き出ているようにみえたのは、わたしの感傷のなせるわざだけではないとおもう。
おそらく兄はこれまで食を断とうとしていたのではないか。ふと、そんな気がした。ふたたび兄が喋り出した。
「……かりに、命をながらえたとしても、これよりのち、岡崎の信康として生きることは許されないということだな」
「しかと、さようにござりまする」
休賀斎の老公は、平伏した。
「爺よ、父上には、なんと報告するのだ」
「三郎信康君は、本日、腹を十文字にかっさばき、あっぱれな最期でございました、と」
「それで、通用すると思うのか! 父上はともかく、あの信長が、それを信じるとでもおもうてかっ」
兄は、自分に死を命じた信長様を敬称をつけず呼び捨てた。わたしは、ホッと息を吐いた。別の人間として生きようとする決意に近づきつつあることを感じた。すかさず半蔵さまが、代わって答えた。
「……信じるも何もございますまい。ご遺体は家康の殿さんがご検分されるでありましょう……また、必要ならば、織田殿のもとにお送りする所存。いや、この半蔵めが、織田殿のもとへお届けしてごらんにいれまする」
兄は、半蔵さまの口調から、その行為自体が信長様に対する痛烈な当てつけになるということを察し得たようであった。
「遺体をとな?」
「はい、さようにございます」と、半蔵さまは答えながら、兵太郎のほうに顔を向け、「この者が……」と、兄にいった。
「……あなた様のご遺体を携え、ここまで、運んできてくれました。背も肉付きもほぼ同じ。また、背中から右太腿にかけて火傷のあとのある屍体でございます」
「火傷?」
と、云いかけた兄は、ハッと一つの遠い来し方のある出来事に思い至ったようだ。
「な、なぜ、知っておるのだ! や、火傷のことは、誰も知らぬことだぞ!」
半蔵さまが俯いたのをみて、わたしは立ち上がった。
「三郎兄さま……やっとかめだにぃ」
「やっとかめ?……久しぶり……あっ、お亀か?」
「そうずらよ。亀の願いを、聴き届けておくれん」
兄はわたしを視た。上から下まで見てから互いの視線を合わせた。
「な、なぜ、ここに、お亀が……」
「なんとなれば……」
兄の疑問に応じたのは、休賀斎の老公だった。
「そは、われらが亀党の当主なればなり」
「お亀が、当主であると……」
兄は驚いていた。
わたしをみて、瞼を閉じ、また開けた。その緩慢な動作が、さまざまな思念が錯綜する兄の複雑な内側を物語っていた。
「お亀までもが、死人となって生きよ、と申すのか……だが、こんなことをして、母上はどうなるのだ!」
「母さまは……ははさまは、すでにご自害あそばされました。すべての攻めを一身に負い、信康を救ってくれよ、と書き置きを遺されて……」
「母上が! すでに、逝ってしまわれたと!」
「三郎兄さまをお救いするは、母さまの御遺志だにぃ……」
「馬鹿な! 母上だけを自害せしめて、のうのうとおれだけが生きていけるものか!」
かばっと兄は立ち上がり、苛つくように歩き回り、またもとの位置に座り直した。
「だからこそ……」と、老公が続けた。
「……いったん死人となりて、別な道を歩むのでござる。築山殿と同じように、若もまた、若として死するのでござる」
返辞はなかった。けれどそれを諾とみた老公が、半蔵さまに目配せして、中に入ると兄の手をとった。駄々をこねる赤子のごとき兄を連れ出すことは、この老公にしか為せ得なかった芸当であったろう。
「半蔵さま、ご足労をおかけしました」
わたしが礼を述べると、半蔵さまは、
「ご冥福をお祈りいたし申す」
と、軽く頭を下げた。
……それは母への手向けのことばか、それとも兄信康への新たな旅立ちへの激励であったろう。
そう信じられそうな気がした。
すぐさま半蔵さまの耳元で、わたしの想いのありったけをぶちまけた。
……これは計略でも謀略でもなんでもない。わたしの想い、兄信康への想いなのだ。そうしてまた、母の想いでもあったはずである。この目でみた母の最期の様子を淡々と語り、そうして、母が遺した文を半蔵さまに渡した。
理屈や方便や言訳は必要ない。
母が遺した最期の肉声のようなものを半蔵さまに伝えることしか、わたしにはできないのだ。
「どうか、三郎兄さまに会わせておくれん」
呟くように云うと、半蔵さまは黙したまま、座敷牢まで導いてくれた。
あかしがわたしの手を強く握って離さなかったので、一緒に伴った。
あかしなりに、わたしのなかの異変をすばやく感じ取っていたのかもしれない。巣鴨には、警護のために外で待つように伝えておいた。
座敷牢といっても見張り番も置かず、格子の木も腐ちかかっていて、錠をするまでもなく脱出するのは容易なことのようにおもわれた。この情況も、考えればおかしなことだ。
にもかかわらず、板敷の上に敷かれた茣蓙の上に泰然と座している兄信康の姿は、わたしの意表を衝いた。
ちょうど丸三年ぶりに見る兄の姿を、とうてい正視することができなかった。
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双眸には光もなく、かつて《摩利支天にも似たり》とまで評された面影は微塵も残ってはいなかった。
兄はちらりとわたしたちのほうを向いたが、そのまま視線を壁に投じた。わたしに気づかないのはもっともで、顔を炭で汚し、しかも、袴と陣羽織の男装であったからだ。わたしの後ろですすり泣く嗚咽の声が聴こえた。
熊蔵と彦左だった。
二人は目を伏せたまま、体を震わせていた。
半蔵さまは格子越しに正座をしている。兵太郎と休賀斎の老公が、それを真似て、半蔵さまの隣に正座した。
わたしとあかしは、三人の後ろに座った。
半蔵さまは、兄信康に、〈向後は、陰にて生きるように〉と、諭していた。
「……名をひた匿し、この世の変転を、死人として眺めるのもまたよし」
そのようなことを説いている。おそらく、これまでも同じようなことを兄は熊蔵から告げられていたのかもしれない。
半蔵さまは殊の外饒舌であった。
「……若殿。あなたさまが、これからこの世に存在するということは、家康の殿さんはもとより、家中の誰一人として知ることはございませぬ。また、この半蔵めは、決して、余人には口外はいたしませぬ。それに、二度と、あなた様にお目にかかることもございますまい。よしんば、奇しき縁があり、再び、あいまみえる機会が訪れたとしても、拙者は、あなたさまのことを三郎信康君とは、断じて認めませぬ。このこと、いま、しっかと、ご承知おき下さりますかどうか……」
半蔵さまは、ゆったりとした口調で念を押す。突き出た喉仏が、ほんの少し左右に揺れたのが見えた。生真面目なまでの緊張感からなのだろうか。それを察したとき、わたしはハッとたじろいた。
半蔵さまは、兄信康の返答如何によっては、父から命じられたとおりに、処刑するつもりなのかもしれない。……瞬時にそのことを察した。
動揺を隠しながら、ちらりと兄の容貌をさぐったが、当人は意外にも屈託のない笑顔を半蔵さまに向けていた。
「半蔵!おまえまでもが、切腹を命じられたこのオレを生かしおく、というのか!しかも、おのれのみの判断にて、父上にまで内密にすると?そこにひかえおる熊蔵からも、それが、お亀の願いだと聴いたぞ。お亀は、父上に叛逆たてまつらんとするのか!」
言葉はそこで途切れた。
「叛逆、ではござらぬよ!」
そう叫んだのは、休賀斎の老公であった。
「叛逆ではなく、他愛なき童のごとき悪戯心かと存ずる」
「なにぃ、悪戯ごころとな!」
兄は怒り声をあげたが、声の主が老公だと知って驚いたようである。
「こ、これは奥山の爺! じ、爺までも、かかる企てに賛同なされるといわれるか! それが、父上のご内意とでもいわれるのか?」
「さにあらず。これは、亀党の総意でござるわい」
「かめ党とは、なんぞや」
「立場、齢を超えた者が集まる、領地も城もなき徒党にてござ候」
「爺!な、なにをほざいておる!」
「ほざくもなにも、事実でござるわい。若よ、たしかに若の側にも誤解を招くなにがしかの因の素があったかもしれませぬ。じゃが一方的に切腹を命じるとは、これまた、ものの道理がとおらぬわい! 信長と対決する機会も与えられず、二十一の若さで逝くのは、あまりにも無念とはおもわれませぬのかっ」
それからしばらくは、兄と老公のやりとりが続いたけれど、そのうち兄は貝のように口を閉ざし、ぷいと老公の視線を避けて横を向いた。頬骨が突き出ているようにみえたのは、わたしの感傷のなせるわざだけではないとおもう。
おそらく兄はこれまで食を断とうとしていたのではないか。ふと、そんな気がした。ふたたび兄が喋り出した。
「……かりに、命をながらえたとしても、これよりのち、岡崎の信康として生きることは許されないということだな」
「しかと、さようにござりまする」
休賀斎の老公は、平伏した。
「爺よ、父上には、なんと報告するのだ」
「三郎信康君は、本日、腹を十文字にかっさばき、あっぱれな最期でございました、と」
「それで、通用すると思うのか! 父上はともかく、あの信長が、それを信じるとでもおもうてかっ」
兄は、自分に死を命じた信長様を敬称をつけず呼び捨てた。わたしは、ホッと息を吐いた。別の人間として生きようとする決意に近づきつつあることを感じた。すかさず半蔵さまが、代わって答えた。
「……信じるも何もございますまい。ご遺体は家康の殿さんがご検分されるでありましょう……また、必要ならば、織田殿のもとにお送りする所存。いや、この半蔵めが、織田殿のもとへお届けしてごらんにいれまする」
兄は、半蔵さまの口調から、その行為自体が信長様に対する痛烈な当てつけになるということを察し得たようであった。
「遺体をとな?」
「はい、さようにございます」と、半蔵さまは答えながら、兵太郎のほうに顔を向け、「この者が……」と、兄にいった。
「……あなた様のご遺体を携え、ここまで、運んできてくれました。背も肉付きもほぼ同じ。また、背中から右太腿にかけて火傷のあとのある屍体でございます」
「火傷?」
と、云いかけた兄は、ハッと一つの遠い来し方のある出来事に思い至ったようだ。
「な、なぜ、知っておるのだ! や、火傷のことは、誰も知らぬことだぞ!」
半蔵さまが俯いたのをみて、わたしは立ち上がった。
「三郎兄さま……やっとかめだにぃ」
「やっとかめ?……久しぶり……あっ、お亀か?」
「そうずらよ。亀の願いを、聴き届けておくれん」
兄はわたしを視た。上から下まで見てから互いの視線を合わせた。
「な、なぜ、ここに、お亀が……」
「なんとなれば……」
兄の疑問に応じたのは、休賀斎の老公だった。
「そは、われらが亀党の当主なればなり」
「お亀が、当主であると……」
兄は驚いていた。
わたしをみて、瞼を閉じ、また開けた。その緩慢な動作が、さまざまな思念が錯綜する兄の複雑な内側を物語っていた。
「お亀までもが、死人となって生きよ、と申すのか……だが、こんなことをして、母上はどうなるのだ!」
「母さまは……ははさまは、すでにご自害あそばされました。すべての攻めを一身に負い、信康を救ってくれよ、と書き置きを遺されて……」
「母上が! すでに、逝ってしまわれたと!」
「三郎兄さまをお救いするは、母さまの御遺志だにぃ……」
「馬鹿な! 母上だけを自害せしめて、のうのうとおれだけが生きていけるものか!」
かばっと兄は立ち上がり、苛つくように歩き回り、またもとの位置に座り直した。
「だからこそ……」と、老公が続けた。
「……いったん死人となりて、別な道を歩むのでござる。築山殿と同じように、若もまた、若として死するのでござる」
返辞はなかった。けれどそれを諾とみた老公が、半蔵さまに目配せして、中に入ると兄の手をとった。駄々をこねる赤子のごとき兄を連れ出すことは、この老公にしか為せ得なかった芸当であったろう。
「半蔵さま、ご足労をおかけしました」
わたしが礼を述べると、半蔵さまは、
「ご冥福をお祈りいたし申す」
と、軽く頭を下げた。
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