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女医ですが、ペストマスクと遭遇しました
しおりを挟む『独りには、慣れた?』
窓ガラスに映った自分が意地悪く訊ねる。
当直明けで疲れた顔。最低限の化粧。一つに結んだ黒髪。着なれた白衣。
忙しいけど、一人暮らしには慣れた。
最初の頃は、電子レンジで卵を爆発させたり、土がついたジャガイモを洗濯機で洗ったりしたけど。
今はちゃんと出来ている……はず。
「はぁ」
それにしても、朝から暑い。外は夏真っ盛りで、強い日差しが当直明けの目に刺さる。
逃げるように足を動かすと、看護師たちの声がした。
「ねぇ、聞いてよ。昨日、彼氏と喧嘩してさぁ」
「喧嘩できる彼氏がいるだけ、いいじゃない。職場だと、まず出会いがないんだから」
「そうだけどさぁ。いたら、いたで面倒なのよ」
(あー、うん。なんとなく分かる)
勝手に理想を押し付けられて、最後は違う、と捨てられる。それなら、最初から独りのほうがいい。
唯一の家族だった祖父母も、もういないし。
「いつかは、別れるんだから」
私のぼやきを消すように、処置室から呻き声が這いよる。今は聞きたくなかった声に、耳をふさいだ。
「今日の仕事は終わり。帰って寝るのよ……」
と自分に言い聞かせつつも、ついつい処置室を覗いてしまう。
そこには顔を歪めて点滴をしている患者。
ため息をこぼし、近くの看護師に声をかけた。
「ちょっと、いい? この人は?」
「あ、ゆずりん先生。この患者は、熱中症と脱水疑いで、先ほど救急搬送されてきました」
私はニッコリと微笑みながら、パソコンで患者の採血データを確認。
うん。典型的な脱水ね。なら、問題はこの点滴。
それと。
「私の名前は、白霧柚鈴。ゆりだから。それと、点滴を止めて。新しい点滴の指示を出すわ」
「ですが、ゆずりん先生は小児科……」
「な・ま・え」
笑顔で黙らせる。その間に、パソコンに新しい点滴の指示を入力っと。
「それ、維持液系の点滴よ。細胞外液系の点滴をしないと、患者は楽にならないから。林先生も脱水だから点滴、で適当に指示を出さないでほしいわ。うん。これで、よし」
「は、はい」
「よし、帰ろう」
帰る! 帰って、ベッドで寝る! 足を伸ばして、寝るんだから!
RRRR……
無情な緊急コール。
「はぁぁ……」
嘆きながらも、手は携帯のコールボタンを押し、足は病棟の方へ。
「もしもし? どうしたの?」
『白霧先生! 灯里ちゃんが、また痙攣を……』
「痙攣時の指示の薬を投与して。すぐ病室に行くわ」
運悪くエレベーターは最上階。一階に来るまでの待つ時間も惜しい。
私は廊下を抜け、階段を駆け上がった。切れる息を整え、小児病棟の病室へ。
そこは一人部屋で、十歳の少女が寝ていた。
少女の側にいた看護師が素早く報告する。
「痙攣は二分ほど。注射をして、すぐに治まりました」
「ありがとう。あとで追加の指示を出すわ」
「はい」
看護師が退室する。私は枕元に腰を下ろし、少女と視線を合わせた。
「灯里ちゃん、痛みとか痺れはない?」
「お薬を注射したら、治ったよ」
「ごめんね、なかなか病気を治せなくて」
顔色も良く、意識もしっかりしている。
私は安堵しながら、肩まで伸びた灯里の髪を撫でた。そこで、灯里が首を大きく横に振る。
「ううん! 先生は、わたしの話を聞いて、病気を見つけてくれたもん。他の先生は、気のせいとか、嘘だ、とか言って、信じてくれなかったけど、先生は違ったから。だから、先生なら治せるよ!」
「そうね。秋には、もう少し良くなって、遠足に行けるようになろうね」
「遠足!? 行けるの!?」
灯里の目が太陽のように輝く。
小学生にとって、遠足は重要な行事の一つ。できれば参加させてあげたい。
「秋はバス遠足だったよね? 長い時間、動くことがなければ大丈夫だから。学校の先生と相談してみるわ」
「やった! 約束ね!」
「えぇ」
小指を絡めて約束をする。この笑顔を消したくない。なんとかしたい。
指を離しても、灯里が見つめている。
「どうしたの?」
「あの、ね……さっき痙攣が起きたこと、パパとママに言わないで。言ったらお仕事で忙しいのに、心配して病院に来ちゃう」
「言わないわけには、いかないから……痙攣はあったけど、お薬ですぐに良くなったから、心配しないでくださいって伝えるわ」
「うん……」
「灯里ちゃんは優しいね」
頭を撫でようと手を伸ばす。だが、灯里は避けるように布団に潜り込んだ。泣くのをこらえるような、微かに震えた声がする。
「だって、わたしが悪いんだもん。こんな病気になったから……だから、我慢しないといけないんだもん」
「そんなことない! 灯里ちゃんは悪くないんだよ。悪いのは病気なんだから」
「でも、私が悪い子だから、病気になったんでしょ?」
「そうじゃないの。灯里ちゃんは何も悪くないのよ」
「じゃあ、どうして……」
私はなにも答えられなかった。
十歳といえば、遊びたい盛り。甘えたい時もある。
そんな子どもが、親に心配をかけないよう、一人で病気と闘っている。病気を自分のせいにして……
それなのに、私はなにをしているのか。治療法も見つけられず、言葉もかけられず……
私は布団の上から灯里を一撫でして立ち上がった。
「……また、来るね」
自分の無力さに打ちひしがれ、逃げるように病室を出る。
足が重い。廊下が長い。消毒の臭いが鼻につく。蝉の声がうるさい。
パァン!
両手で自分の頬を叩く。痛みで目が覚めた。
「灯里ちゃんだって、頑張っているんだから! 私が落ち込んでいる場合じゃないわ! 精神ケアの指示を出して、薬の内容も見直して……そういえば佳那ちゃんのカンファレンスもしないと……あ、それより先に、悠君の病状説明の資料をまとめないと。それと、彩葉ちゃんの新薬の検討会も……あぁ、文献を調べる時間がない! 一日が四十八……いや、七十二時間になるか、私が三人に増えないかしら!」
私のバカな叫びが虚しく響く。
「はあ。とりあえず、今日は帰っ……キャッ!?」
何かに蹴躓いた。足元を見ると、分厚い月刊漫画が。
「なんで、こんなところに」
斜め前にはプレイルーム。ここにあった漫画だろう。
「まったく」
私は漫画を拾い上げた。
表紙には白衣を着た若い医師の絵。キリッとした顔で、クラーク博士の銅像のような決めポーズ。漫画に興味はないけど、絵は綺麗で好感が持てる。
「へぇ。医療漫画かしら……ぁあ?」
その見出しには、頭を悩ましている病名が……
「嘘でしょ!?」
慌てて雑誌を開く。目的の漫画はすぐに見つかった。
「若い医師が奇抜な発想と、たぐいまれな技術力で治療をしていく漫画なのね。……すごい。病気について、丁寧に分かりやすく描いてある」
漫画はほとんど読んだことがない。けど、指が自然とページをめくる。先が気になって止められない。
でも……
「病院の設備とか、内部事情について、ぼかしているというか、あっさりしているというか……もう少し細かく描いてもいいのに…………って、ここで次号!? 治療法を思いついたところで!? 次! 次はどこ!?」
プレイルームの本棚を探し回るが、次号はない。もう一度、漫画を手に取り、発売日を確認する。
「昨日、発売!? でも病気について、ここまで描ける人なら、かなりの知識者なはず。それか、この漫画に助言している医師がいるのかも!」
一筋の光明が見えた気がした。漫画を持って医局へ戻り、編集部に電話をする。
「突然、失礼します。私は……」
状況を説明し、漫画の作者と話をさせてくれ、とひたすら懇願する。
最初は迷惑がられたが、本物の医師であることを証明すると、相手の態度が柔和した。とにかく、ひたすら頼み込む。
こうして、特別に作者の住所を教えてもらえた頃には、太陽が真上にきていた。
※※
私の前に庭付きの一軒家。
綺麗に切り揃えられた木々。緑の葉に色を添える鮮やかな花々。その奥に建つレンガ造りの洋館。
海外のお城のミニチュア版そのもの。
こんな洒落た家に住んでるなんて……もしかして、作者はオシャレでダンディなイケオジ!?
そんな人に、私の話を聞いてもらえるか……いや、弱気になってる場合じゃない。
私はドアの横にあるインターホンを強く押した。
『はい』
意外にも若い声。
「あ、あの、編集者の間さんより紹介していただいた、白霧です」
『あぁ』
ブツ。
乱暴に通話を切られた……気がする。
手に汗を握り、ドアが開くのを、ひたすら待つ。
大学受験の時も、医師免許の試験の時も、ここまで緊張しなかった。心臓が喉から飛び出しそう。
鍵が開き、ドアが開く。
緊張のあまり、相手の顔を見る前に頭を下げた。
「初めまして。白霧と申します。突然の訪問を受け入れていただき、ありがとうございます。実は、どうしても、相談したいことがありまして……」
相手からの反応はない。
「あのぉ……」
恐る恐る顔を上げると、そこには立派なペストマスクが。
「え……?」
驚きで固まった私に、ペストマスクが一言。
『断る!』
……コト、ワル? 断る!?
唖然とする私の前でドアが閉じていく。
「待って!」
ドアの間に素早く足を突っ込む。我ながら、良い動きをした。挟まれた足は痛かったけど。
「話を! 話だけでも……」
隙間に手を入れて、必死に訴える。
そこで突然、目の前が揺れた。
当直明けの疲労に、極度の緊張と激しく動いたことが重なり、血圧が下がったらしい。意識が薄れる。
ダメ。ここで倒れたら、せっかくの手がかりが……治療法が……
『おい』
遠くで呼ばれた気がした。倒れかけた体が何かに支えられる。が、そのまま倒れた。
全身に響いた衝撃で意識が戻る。固い地面に倒れたはずなのに、柔らかく生暖かい感触。
目を開けると、声がした。
「いてて……」
声の主は、二十歳ぐらいの青年。
散らばった艶やかな黒髪。長い睫毛に縁取られた、色素が薄い茶色の瞳。少しだけ彫りが深く、どこか日本人離れした顔立ち。
俗に言うイケメンが私の下にいた。
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