夏夜と死の怪談会

サトウ・レン

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新倉薫

切り取られた恋心 後編

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 佐藤さんは、真実、って信じますか。
 私はあまり信じていないんです。真実を信じない、っておかしな表現だな、とも思うのですが。厳密に言えば、誰もが共通認識として持つ真実を信じない、でしょうか。私にとっては、私は男であり、彼にそれを事実として伝えたのが、真実です。だけど彼にとっては、違う。彼にとって、私は女性なんです。自分の心の中にある物語を、真実にしてしまったんです。

 佐藤さんは、共感できないですか。
 そうですか……。
 私はそうでもないんです。彼の気持ちを理解することはできますし、共感もできるんです。だからこそ私たちはお互いに想いを寄せ合ったのでしょうし。ただ、とはいえ、ですよ。このままでいくと私たちの関係は歪なまま進んで、あまり良い方向には進まない、とも感じていましたから。

「私たちは離れたほうがいい」
 言葉をすくなめにして、私ははっきりと伝えました。

「なんで。もしかして他に好きな男でも」
 もちろん違うわけですが、私は否定しませんでした。

 私の中の真実が、彼の中の真実と重ならないのならば、わざわざ本当のことを伝える必要もありません。たとえ誤解であっても、納得してもらうことのほうが重要でしたから。

 でも、こうしたほうがいいかな、って判断を、私はいつも間違えてしまうんです。彼のことになる、と。いまも思い出すと、泣きそうになるんです。佐藤さん、私の手、握ってくれませんか。ほら、震えてるでしょ。……好きだったんです。いまも佐藤さん、あなたに伊藤くんの面影を見ています。

 佐藤さん、私と付き合って、って言ったら困りますか?
 ごめんなさい、冗談ですよ。
 そんなに困った顔しないでください。

 よくSFで過去の自分をやり直す物語、ってあるじゃないですが、結局そういう物語は主人公にとって都合の良くない方向に進んでいくものですが、仮にそうであっても、過去の自分を、彼と出会う直前からの私を、もう一度やり直せないかなぁ、って感傷的なのは分かってるんですが、どうしても考えちゃいます。

 またちょっと本筋から逸れちゃいましたね。

 彼と別れてから、いや正しくは私が彼と別れた、と判断してから、でしょうか。彼と別れた、と判断してから、一週間が経ったくらいでしょうか。事件が起きたんです。これから起こることと比較すれば、そこまで大きな事件ではありません。でも最初に聞いた時は、衝撃的な事件でした。

 彼が、私の大学の知り合いを殴ったんです。

 一年生の時から知っている、男性の友人です。私が男性、ということも、彼は知っていて、同性の中では一番仲の良い友人でした。彼らが元々知り合いだった、というわけでもありません。いえ、もしかしたら私の知らないところで、彼らが繋がっていた、そんな可能性がない、とは言い切れませんが、可能性は薄いでしょう。

 その友人も、「知らないやつに、いきなり殴られた」と言っていましたから。
 当然、伊藤くんが暴力を振るった原因は私でしょう。

 彼に会うべきか悩みました。いきなり無関係の他人を殴れる精神状態の彼とコンタクトを取るのは、やっぱり怖いですよ。どうしよう、と不安な感情を抱きながらも、何もできないまま、不穏な時間だけが過ぎていきました。時間が解決してくれないかな、なんて甘い期待もありましたけど、ね。そんなわけにはいきませんね、やっぱり。

 最初は、手紙でした。

 郵便ポストに入っていたそれには住所も名前も何も書いていなくて、彼が自分の手で直接入れた、というのが分かるものでした。中身を開くと、つたなく、だけど見覚えのある筆跡で、
『本当のことを言え。好きな男ができたんだろ。あいつか。あいつだろ』
 と、そんな内容でした。

 あいつ、というのは、殴られた友人のことだ、と思います。誓って言いますが、私と彼が恋愛関係にあったことは一度もありません。どちらかがどちらかに想いを寄せていた、なんてことも、おそらくはありません。おそらく、なんて曖昧な言葉に聞こえるかもしれませんが、彼の心は彼自身にしか分かりませんから。

 私は彼に連絡を取ることにしました。

 私のことで周囲の人間が被害を受けるのは、やっぱり嫌ですから。
 電話を掛けてみましたが反応はひとつもありませんでした。メールを送ってみても、返信はありませんでした。もちろん気付いていない、なんてことはないでしょう。気付いたうえで、敢えて無視しているわけです。なんかやけにそれが不気味で、すごく不安になったのを覚えています。

 彼の住所も知っていますから、家に行くことも考えました。
 でも面と向かって会う勇気はまだ無くて。

 結局彼からのアプローチを待つほかにありませんでした。一応何があるか分からない、と思って、普段の友人たちと関わるのは控え目にしました。これで誰かが死ぬ、みたいなことになったら、それこそ夜も眠れなくなりますから。

 がさがさ、と夜、馴染みのない音を部屋で聞いたのは、手紙から一週間くらい経った頃でしょうか。最初は虫の羽音か何かを想像しました。いや厳密に言えば、虫にしては違和感のあるような音でしたが、そう思い込もうとした、のほうが正しいのかもしれませんね。私の部屋はさっき小野寺さんが話してくれたゴミ屋敷ほど汚いわけではありませんし、どこかに虫が大量発生することだって……と。もちろんそれも嫌なんですけど、人間が隠れている、なんて状況よりはずっと良いでしょう。

 えぇ、そうです。私があの時感じていた気配は、人間、です。そしてもし人間が隠れているとしたら、伊藤くん以外には考えられません。

 私がおそるおそる電気を付けた瞬間、駆ける音と、玄関のドアを開閉する音が聞こえて、私は相手の背中を見ることもできず、足が竦んで、そこに立ち尽くしているだけでした。

 私と伊藤くんはまったくの他人ではありません。嘘まじりのものだったとしても、恋人だった時期だってあるのです。なのに、なんで正々堂々と話そうとしないのか。じわりじわりとにじり寄ってくる恐怖に、頭がおかしくなりそうでした。

 でも、もしかしたら、と。
 ちょっとした想像もあったんです。

 彼は、私が女性である確証が欲しかったんじゃないでしょうか。でも、ですよ。もういっそ、はっきり言ってくれればいいのに、なんて気持ちもあるんですよ。裸になれ、と言われれば、彼の前なら、私は裸にだってなりますよ。そしたら私が男性である象徴を見ることができるでしょ。

 正々堂々と来いよ、チキン野郎、なんて思っていたくらいです。
 でもこんなことを思うもんじゃないですね。

「怪我は、もう大丈夫だよ」
 とあれは確か彼に殴られた、と知ってからは、意識的に距離を取っていた友人と久し振りに話した日でした。さっきも言ったように、周囲の人間とあまり関わらないようにしていましたから。だけど笑う友人にほっとしたのと、不法侵入の件以降、すこしの間、何もなかったこともあって、安心感で気持ちが緩んでいたのかもしれません。

 お風呂に入っている時や眠る時でさえ、近くに護身用にハサミをそばに置いたりする程度のことはしていたんですが、二週間近く何もなくて、きょうは大丈夫だろう、と考えていた日でした。いつもお風呂場まで持っていっていたハサミはベッドの横に置いたままにして、そうですね……ちょっと鼻歌まで歌ってしまうくらい、のんびりと浴槽につかっていました。

 いえ分かってますよ。さすがに気を抜き過ぎだ、ってのは。でも人間、ってやっぱりずっと気を張りつめた状態で生きていられる生き物とも思えないんです。

 いきなり裸の私のいる、私だけしかいない風呂場に、
 が、が、が、って、
 耳をつんざくようなドアを開ける音がして、心臓がいまにも止まってしまいそうでしたよ。

 伊藤くん、でした。

 私はとっさに近くにあった洗面器を投げて、それと滑りやすくなった足もともあって、彼が転びました。私は逃げるようにお風呂から出ました。身体から滴る水がカーペットを濡らしていきましたが、そんなことを気にしている余裕なんてひとつもありませんでした。

 たぶんベストな判断は玄関から外に出て、大声で助けを求めることだったんじゃないかな、と思います。
 でもこういうとっさの判断で、つねにベストな行動なんて取れないですよね。いつも後悔ばかりです。ただあの時ほど後悔した日はないですね。あぁ私、死んだな、ってそんなふうに思いながら。理想とは反対の方向に走っていました。

 ベッドのあるリビングで、私は窓を背にして、彼と対峙しました。
「覚悟はしていたけどね」自嘲するような笑みをちいさく浮かべて、彼が言いました。「うん。覚悟はしていた。でもやっぱり実際に見ると、ね」

 彼の目は、私の男性であることを象徴する部分に注がれていました。
 こんな切羽詰まった状況ですから、恥ずかしい、なんて感覚もありませんでした。

「嘘じゃ、なかったでしょ」

 平静を装おうとした私の声は、震えていました。怖いですよ。そりゃ。
 私はそばにあったハサミを手に取りました。

「手、震えてるよ」彼が笑いました。「嘘であって欲しかったんだけど、ね。なんで真実なんて言っちゃうんだろうか。まったく。偽りの恋であったとしても、偽りのままを通せば、ね。それは真実になる。僕たちはうまくいくはずだったんだ。なんできみはそんなにも真実にこだわっちゃったんだろうね」

 彼がゆっくりと近付いてきました。
 私には絶対反撃なんかできない。そんな腹の立つ、余裕な態度でした。
 実際私の足は竦んで、彼の身体が手を伸ばせば届きそうな距離くらいにまで近付いてきても、私は何もできずにいました。
 そのまま彼は私の持っていたハサミを取り上げ、私にキスをしました。

「何を……」
「思ったんだ。それがお互いの幸せに繋がるのだとしたら、いっそ偽りこそ真実にできないかな、って」

 チョキン、チョキン、チョキン、チョキン、と。
 彼がはさみの刃先を、閉じたり、開いたり、していました。ちょっとかわいい音を付けてみましたが、実際はこんなに楽しそうな音じゃありませんでしたよ。

「男である証拠を失えば、きみは本当に女になるんじゃないかなんて、ね」
 彼は間違いなく、やる、と思った瞬間、私に突然わき上がってきたのは、強烈な怒りです。

 私は彼の股間に向かって、足を振り上げました。
 佐藤さん、そんな怯えた顔、しないでください。私も男ですから、その行動がどれだけ痛く、そして怖い行動なのか、ちゃんと分かっているつもりです。

 彼が倒れて、うめき声をあげました。

「うるさい」
 と彼のお腹を踏みつけました。滑稽ですよね。ついさっきまで、鼠を追い詰める猫みたいに迫ってきていたのに……。その情けなさにまた腹が立ってきて、私はもう一度、お腹を踏みつけました。もう一度、またもう一度、と繰り返して、ぐぇぉ、ぐぇぉ、と猫は蛙になって、気持ち悪い声を出していました。本当に情けない男です。残念ながら、この蛙は、キスしても王子様には戻ってくれません。

 私は床に落ちたハサミを手に取りました。

「ねぇ、男である証拠を失えば、私たち付き合えるの」
「えぅ」

 相槌なのかも分からない、声にもならないように声を、彼があげました。

「じゃあ、別にそれ私じゃなくてもいいよね」
 彼が、男である証拠を失うのも、また同じことです。

 恐怖と痛みが相まってでしょう。彼はまったく動くことができなくなっていました。

「たぅ、たうけて」
 チョッキン。
 と切り取ってあげました。

 どこを、って。そんなことを聞いてはいけません。

 でも、彼は本当に駄目ですね。この程度で死んじゃうなんて。まったく情けない。血みどろになった手を見ながら、私が最初に思ったのは、処理が大変だな、ってことです。

 それから、どうなったか、って?
 さぁ、どうなんでしょう。
 警察……?
 まさか。もし刑務所に入っていたら、私はこんなにも早く出てこれませんよ、きっと。一応、ひとを殺しているわけなんですから。

 本当にひとを殺したのか、って。
 さぁ、どうでしょう。私の役目は話を語ることです。その話をどう捉えるかは、聞く側の務めです。そう思いませんか。そうでなくては、面白くないじゃないですか。

 さっき小野寺さんが言ってましたよね。適度に嘘を混ぜるのが、こういう話のつねだ、って。私だってもしかしたらそうかもしれません。

 虚実、入り乱れている。
 本当に殺したのか、殺していないのか。殺したのなら、その死体はどうなったのか、警察は知っているのか。

 いえ、もっと言えば、
 佐藤さん、私、本当に男だと思いますか……?
 信じられるものは、主観だらけの私の話だけなのに。

 ふふ。

 真実なんて、そんなに簡単なものではないんです。

 あんまり怖くなかったですかね。ただストーカーに反撃するだけの話ですから。まぁでも、私の話は、ここまで、です。
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