光へ、と時を辿って

サトウ・レン

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事故に遭った場所で、過去の村瀬と。

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 過去に戻ってきてから、きょうが三日目だ。
 ほんのすこし心配していることがある。いまの状況を夢ではない、と僕自身は信じている。だけどその一方で、一日過ぎると、この過去への旅は夢か何かだったかのように、四十過ぎのフリーターの、ぱっとしない生活を送る現在地へと戻っているのではないだろうか、と考える自分もいた。

 別に戻りたくないわけではないし、いつかは戻りたい、とは思っている。ただ、きっと僕がここに来たことには、何か意味があって、その意味を知らないままには帰れない。そんな気持ちにもなっていた。僕はまだ帰るべきじゃない、という使命感にも似た感覚だ。

 僕は過去に来てから一度も食事を取っていない。お腹が空くことはなく、食べたい、という欲求も抱かなかった。僕は僕自身に触れることができるので、実体があるようにも感じてしまうが、物に触るとすり抜けてしまうので、やはり実体はないのだろう。実体のない身体に食欲は必要ないのかもしれない。魂が物を食べたりしないように。本当に魂が何も食べないかどうかなんて、僕は知らないけれど。

 たぶん同様の理屈だと思うのだが、どうもここに来てからの僕は睡魔も感じなくなったみたいだ。実は初日は野宿することにして、僕は街灯もない場所の、真っ暗な夜の中で一日を過ごしたのだが、眠くなることは最後までなかった。

 二日目は田中少年の部屋で、田中少年と一緒に過ごした。

 かつての僕、と最初は彼のことを心のうちでそう呼んでいたが、いまの自分について考える時と過去の自分について考える時にややこしい感じがして、田中少年、といういまの呼び方に落ち着いた。

 田中少年と一緒の部屋で、僕はその夜を過ごしたわけだけれど、部屋にふたりいる、と知っているのは僕のほうだけだ。田中少年はいつも通り自分ひとりが部屋にいる、と信じて疑いもしていない様子だった。僕にとっても慣れ親しんだ部屋で、友達がうさん臭い場所で手に入れたものを買い取り、家族にばれないように隠した場所も知っている。いわゆる当時はビニ本なんて言われていたものだ。こっそり取り出して、自慰行為でもはじめたら、どうしようか、なんて思ったけれど、そんなことはしなかった。絶対に見たくはなかったので、ほっとした。

 田中少年の様子にもそれは表れているが、空野光への、人生初めての告白をした田中少年の精神は勉強だったりエッチなことだったり、そんな他のことに意識を向けられるような状況ではなくなっていたのだろう。実際、僕の横でひとり溜め息を吐いていたのだから、隣に僕がいることも知らずに。

 それにしても……、
 本当に一切、田中少年は僕の存在に気付かなかったのだろうか。例えば何かちいさな違和感でもいい、もしかしたら近くに幽霊がいるかもしれない、というかすかな不安でもいい。何も感じ取られないほうが好都合なのは分かっているが、同じ部屋で一晩を過ごしたのに、ここまで反応がない、とそれはそれで寂しくなる。

 そんな一日目と二日目を終え、迎えた三日目。

 僕はかなり早く、朝から、あの待ち合わせの公園へ行き、ソウを、そして田中少年を待つことにしたのだが、待っているうちに何かが間違っているような気がしてきた。

 僕が本当に見るべき過去は、ここで待ち人が来ることもなく、うなだれる田中少年の姿なのだろうか。僕はその過去を知っているので、見るべき過去のようには思えない。田中少年がこの場所を訪れるのは、まだまだ先の話だが、ソウがやってくる気配もない。そもそもソウと待ち合わせる時間も決めていないので、いつ来るかもさっぱり分からない。スマホがあるような時代でもない……、というか、そもそもスマホがあっても、いまの僕はそれが使える状況ではなかった。手に持つことができないのだから。

 ソウが来たら申し訳ないけれど、僕はこの場所から離れることにした。
 そして僕が目指したのは、光が交通事故に遭った場所だ。
 あまり行きたくない場所ではあるのだけれど……。

 交通事故によって、大きくひしゃげてしまうことになるガードレールは、まだ綺麗なままだ。
 彼女が死んだ後、僕は一度だけその道を通っている。思い出せばつらくなり、意識的に避けていたのだが、気にしないようにすればするほど気になってしまうもので、僕は彼女が死んだ後、すこし経った頃に、そこへ向かったことがある。そのガードレールの近くに彼女のために捧げられた花束がいくつか置かれているのが目に入り、思わず目を背けたのを覚えている。

 あの頃の記憶がふいによみがえる。

 彼女が死んだ後、なんで来てしまったのだろう、と後悔の溜め息をついたそこで、
『田中』
 という声が聞こえて、その声のほうに顔を向けると、村瀬の姿があった。花束を持つ彼女は、僕を睨むように見て、僕よりも深い溜め息をついた。

『花を添えに来たの?』

 思い返しても、なんてひどい言葉だ、と思う。その姿からそれ以外に連想できるものなんて、何もない。光と仲の良かった彼女が、花を持ってこの場所を訪れるのは自然な話だ。だけど、なんと言っていいかも分からず、当時の僕は言葉を返すだけでいっぱいだったのだ。

『……田中がいるなら、別の日にすれば良かった』
『なんで、だよ』
『だって……』
『だって?』

 村瀬がもう一度、溜め息をつき、そして睨むような眼差しはさらに鋭くなった。

『あなたのせいで、光は死んだのよ!』

 時間が経って、冷静に考えることができるようになると、その言葉は理不尽でしかない、と思えるのだが、かつての僕には深く心に突き刺さる言葉だった。

 だってそれは彼女の事故以降、僕自身が心のうちで、ずっと思っていたことでもあるからだ。
 あの日、光が交通事故に遭ったのは、僕との待ち合わせの時間よりすこし前、おそらく僕に会いに行く途中の出来事だったからだ。

 僕は、光が事故のせいで、病院に救急車で運ばれているなんて知りもせず、ただ馬鹿みたいに、遅いなぁ、といつまで経っても来ない待ち人を待ち続けていた。例えば、僕が待ち合わせの日を変えていたら、村瀬の『光は田中のこと好きじゃないよ』という言葉を鵜呑みにして待ち合わせ自体を無かったことにしていたら、そもそも僕が光に告白していなかったら……、光が死んだ、と知ってからの僕は、そんなことばかり考えていた。

 でも、もしもは、結局、もしも、でしかない。
 僕がいなければ、光は生きていたのではないか……?
 それは僕が光を殺したのと、何が違うのだろうか……?

 僕に叫んだ村瀬は、はっとしたように、ごめん、と言って、そして泣いていた。
 泣きながらまた、ごめん、と言う。
 僕はそんな村瀬に何かを言おうとしたのだけれど、実際に言葉となって僕の口から外に出ることはなかった。僕がその何かを口にする前に、彼女は僕に背を向けて、走り去ってしまったからだ。僕は彼女にかけたかった言葉が何かを、自分でも理解できていなかったので、彼女がいなくなってくれて良かったのかもしれない。もしかしたら勢いに任せて、彼女を深く傷つける言葉を投げ付けていた可能性だってあるからだ。

 いまはまだガードレールは綺麗なままで、その道路に数日後から置かれるようになる花束ももちろんない。この数時間後に、ここで悲劇が起こるなんて誰も想像していなかっただろう。ドライバーの不注意だったのか、光のほうに飛び出しがあったのか。実のところ、僕は事故がどういうものだったのか、詳しく知らない。知りたいとも思わない。知ったところで、光の死の事実が変わるわけでもない。その当時も、たぶんいまもそう思っているし、だから事故についての話を耳にすること自体はあったような気がするけれど、そう言った話は右から左へと流れていったのだろう。

『いつもと道を変えてもいい?』

 光とそれなりに親交を深めるようになってからわずかの間、それは本当に短い期間でしかないし、数も決して多くはないけれど、ふたりで一緒に帰っていた時期があった。歩道に横に並んで、僕は自転車を押しながら、彼女の歩調に合わせながらゆっくりと歩いた。僕と彼女の家は近いわけではなく、どちらかと言えば反対の方向にあり、ここまで無理して付いて来なくていいよ、と言う彼女の言葉に対して、無理やり彼女が気を遣わない理由を作っては、僕は光の家まで一緒に行く。その僕の行動に対する光の内心は分からないけれど、嫌がっていたわけではない、と僕は思っているし、本当に嫌なら光は、嫌だ、と僕に言っていたはずだ。

 光は自己主張の強い性格ではなかったけれど、僕の見てきた彼女は、自分の言いたいことをはっきりと言える性格だった。流されるように生きてきた僕には、それが眩しく映ったからこそ、彼女に惹かれたのかもしれない。そう思うこともある。

『うん。良いよ』
『そう言えば、田中くん、B'z、って知ってる? わりと最近デビューしたバンドなんだけど』
『知らない。……ごめん、あんまり音楽に詳しくなくて』

 もちろんB'zは当時から人気だった、と思うが、さすがに一九九〇年当時のまったく音楽に興味のない中学生の知識の片隅に置いておくには最先端過ぎたような気がする。

『ううん、私もあんまり知らないんだけど、……友達がB'zの影響でギターをはじめたみたいな話を聞いたから』
『友達……』

 無意識か意識的かは分からないが、光は僕に気を遣ってその友達の名前を避けていたのだ、と思う。
 そのギターをはじめた友達というのは、大竹だったからだ。
 会話の時点で、なんとなく気付いてはいたけれど、確信したのはその数日後、人づてに大竹が仲間内でバンドを組んだ、という話を聞いた時だ。

 当時の田舎でバンド活動をする人間に対する当時の僕のような平凡な学生達が抱くイメージ、と一般論として共有するつもりはないけれど、すくなくとも僕は、ヤンチャでどうも好かなくて、苦手意識があったし、おそらく僕のような感情を抱いていた同級生はそれなりにいたように感じる。ただそこに憧れや嫉妬のような感情がなかったか、と言えばそれも嘘になるが、認められるのはいまになっての話で、当時では無理だっただろう。

 いっそ大竹も性格の悪い奴だったなら、なんて思ったりもしたけど、残念ながら僕にとっての彼の印象は、最後まで良い奴だった。

 中学を卒業して以降、僕は大竹と会っていないので、大竹のいまの姿やどこでどうしているのかはまったく分からない。ただ地元にいれば、関わりたくなくても関わらないといけなくなってしまうのが、学生時代の同級生でもあり、地元の知り合いを通して、大竹の近況が耳に届くこともあった。

 東京の大学へ行き、そこで同じサークルの人間とバンドを組んでいたみたいで、一時はメジャーデビューも目指していた、と聞いているが、残念ながらどこかのタイミングで断念したらしく、大学を卒業してからはずっと楽器店に勤めているみたいだ。同窓会によく誘ってるんだけど断られるんだよ、と日下部がぼやいていたのを覚えている。いつも同窓会に参加している面子には理解しにくいのかもしれないが、そういう場に行くのが嫌だ、という人間は一定数いて、僕と同様、彼もそうなのではないか、とふと思った。地元にいる僕と違って、彼は遠方にいるので断りも入れやすいだろう。

 もしかしたら光のこともあって、敬遠している部分もあるのかもしれない。
 彼は僕よりも昔から光のことを知っていて、悲しみの量は僕とは比べられないほど大きい……かもしれない。かもしれない、と付けたのは、単なる願望に過ぎない。もちろん一緒にいた時間だけが、悲しみの大きさを決めるわけではないと分かっているものの、心がその理屈を受け入れてくれない。

『私は、どうもみんなと一緒に語り合ったりするのが苦手みたい。最近、ちょっと周りと距離ができている感じがして』
『距離?』
『うん。さっきの音楽の話もそうだけど、女子同士の話でも、その時はなんとなく噛み合っている感じがするんだけど、でも話が終わって冷静に考えてみると、なんか噛み合ってないように思えてきて、自分だけが周囲に置いていかれる感じがすごく怖くなるんだ』
『そんなふうには見えないけど……』
『そういうふうに見せないようにしてるの。でも、田中くん、ってマイペースだから、それもかなりの。だからすごい楽なんだ。一緒にいて』
『それは喜んでいいの』
『もちろん』

 あの日、光は僕にそう言って、ほほ笑んでいた。
 そう、僕たちはいつもの帰り道からすこし遠回りして、いつもより長くしゃべり、その途中にこのガードレールがあり、ここは僕も光もめったに通らない場所だった。

 あの当時は、そんな些細なことに気にとめる余裕もなかった。だけど大人になってからこの見慣れぬ道を歩くと、どうしても違和感が拭えない。村瀬の叫びが表しているように、交通事故が起こった時、光は僕との待ち合わせ場所を目指していた、と僕はずっと考えていた。公園へ行くにしても、登下校のためとしても、いまの僕はどうしてもこの道を選んだことに違和感を覚えてしまう。

 なんで、光はこの道に、いたのだろうか、と。
 僕が見るべきは、馬鹿みたいな顔をして公園で待ち続ける田中少年ではなく、あの日の光の行動なのかもしれない。
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