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第三章 飛王の即位

第39話 リフィアと流花

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 夕方になって、みんな思い思いに家路につく。

 だが、流花は最後まで工房に残って、花の香りの抽出を続けていた。

 今日の香りはナランハ……白い柑橘系の花の香り。

『知恵の泉』に消えた飛翔を思い、飛翔が消えて悲しむリフィアを思い、半身を失って心にぽっかりと穴が開いてしまったであろう飛王を想う。

 ぽこぽこと沸騰する水音が、誰もいなくなった部屋に響く。
 水蒸気を送り込むことで香りを抽出する水蒸気蒸留法は、時間がかかる。特に、ナランハの精油は一回に抽出できる量がとても少なく、希少価値の高い香りだった。

 これで何回めだったかしら?

 流花はふと我に返って指を折る。

 ようやく二人分できたかな。

 ナランハの香りは、リラックス効果が高い。

『天然の精神安定剤』と言われるほど心に強く働きかける香りで、落ち込んだ感情を優しく包み込んで、和らげてくれると言われている。
 だから、安眠効果の高い薫衣草ラバンジュラの精油の小瓶と共に、リフィアと飛王にプレゼントしたいと思っていたのだ。

 彰徳王が亡くなる前は、毎日のように顔を合わせていた飛王。
 大人しい流花は、自分から積極的に話しかけることはほとんどなかったけれど、飛王の率直で前向きな明るさに、いつも元気をもらっていた。
 飛王はいつでも誰でも、分け隔てなく接してくれる。
 流花にも細やかに気を配ってくれて、流花が自分から言えない一言を代弁してくれたりする。だからついつい頼り切ってしまっていた。

 こんな時くらい、何かお礼がしたい。

 励ましてあげたい……でも、私にできるのは、香りをプレゼントするくらいしかないわね。

 流花はほぅーっと軽くため息をつくと、抽出したばかりのナランハの精油を小瓶に詰め始めた。

 香りと共に、感謝の心と、胸に秘めた想いを込めて……


 そんな流花の様子を、部屋の入り口からそっとリフィアは見つめていた。
 夕暮れ時の茜色の光に照らされて、少し紫がかった流花の髪が、さらに赤みを帯びて見える。

「スッゴく落ち着く香りね。いい香り」
「リフィア!」
 驚いたように流花がリフィアに顔を向けた。

「ごめんね。気づかなかったわ」
「うふふ、こぼしたら困るでしょう。だから終わるまでじっと待っていたのよ」
「ありがとう」
 流花も緊張を解くように、ふわっと笑った。

 蓋を閉め終わると、小瓶の片方を持ってリフィアの元へ向かう。
「はい。できたてほやほやのナランハの香り。落ち着くと思うから使ってみてね」
「いつもありがとう」
 リフィアは嬉しそうに受け取った。

「飛翔……大丈夫よ。絶対」
「うん」
 流花の一言に、リフィアも頷く。

「リフィアには、蒸留水のほうもあげるわ。しっとりするし、肌に良い物がいっぱい入っているのよ。いつ飛翔が帰って来てもいいように綺麗でいなくちゃね」

 大人しい流花も、リフィアとだけは打ち解けて、なんでも言い合える。
 とは言え、普段から言いなれない軽口は勇気がいるようだ。
 でも、少しでもリフィアの気持ちが明るくなるようにと願いを込める。

「流花ったら。その言葉そのまま流花にもお返しするわ。流花も綺麗でいなくちゃね」
 流花はちょっと恥ずかしそうな顔をして、リフィアの顔を見つめ返した。

「私はいいのよ。別に。それよりリフィア、申し訳ないのだけれど、これを飛王に届けてもらえるかしら?」
「もう、なんで飛王のことになるとそんなに消極的なのよ。瑠月に言えばいつでも飛王のところに行かれるでしょ。どんどん行って慰めてあげればいいのよ」
「行けないわ。そんな心の隙間に入り込むようなことはできないわ」
「流花ったら」
「それに、兄は今、周辺調査に出かけているのよ」
「そうだったのね。瑠月も心配ね」
 リフィアは流花を見つめた。

「だったら、今から一緒に行きましょう」
「え! 今から」
 流花は大きく動揺している。

「これを私から渡すわけにはいかないわ。だって、効能も使い方もわからないもの。説明できないから」
「でも……」
 リフィアは流花の手を握ると、行こう! ともう一度声を掛けた。

 残念なことに飛王は会議中だった。
 やっとの思いで膨らませた流花の勇気は、あえなくここまでとなる。
 結局、部屋の机の上に、手紙を添えて置いて帰って来てしまった。

「残念だったわね」
「いいのよ。渡せただけで十分だから」
 王宮の門まで二人で歩いて、そこから流花は王宮外の家へと帰って行った。


 リフィアはもう一度、王宮の奥深くにある自分の家へと引き返す。
 すっかり日が落ちて暗くなってしまったことに気づいたリフィアは、足を速めた。

 お夕飯の支度! 遅くなっちゃった。

 慌てて扉を開けて入ると、ヤマウズラのシチューエストファードの良い香りが漂ってきた。

「パパ、ありがとう」
「お帰り、リフィア」
「ごめんね。お夕飯作るの遅くなっちゃって」
「いいんだよ。今日は研究が一段落したから、気分転換にヤマウズラのシチュー《エストファード》を作ってみたんだ。味の保証はないけれどね」

 グリフィスは皿を運びながら、リフィアに優しい笑顔を向けた。
 教え子でもある飛翔がいなくなってしまったことは、グリフィスにとっても悲しく寂しい出来事であった。
 けれど、親友である彰徳王の死から始まる一連の出来事は、十年前から予想されていたことでもあった。

 彰徳王よ……ついにあなたの心配していたことが現実になってしまいそうですね。
 聖杜の民の未来……『ティアル・ナ・エストレア』の未来。
 守るために戦うのか。
 それとも戦わずに消滅するのか。
 彼らが選ぶ未来はどうなるのだろうか……

「リフィア。飛翔殿は、大丈夫だよ。きっと自分の果たすべきことをやり終えて帰ってくるよ」
「パパ……私もそう思っているわ」

 父と娘は静かに頷き合うと、今日のお互いの出来事を話し始めた。
 いつも通りの食卓風景がここにもあった。


 リフィアの部屋の壁際には、縦糸を縦に張った大きな枠が設置されていて、作りかけの絨毯が三分の二ほど見えている。
 ピンと張られた縦糸に、一色一色結び付けながら、図案通りの模様を編み込んでいく方法は、一目ずつしか進まない果てしない作業の繰り返し。
 でも、リフィアにとっては寝る前のいつものこと。
 今夜も黙々と糸を結びつけていく。

 頬を流れる涙はそのままに……

 その手元から生まれ出る模様は、美しい緑溢れる風景。
 王宮の奥深くの小さな庭の花々と、遠景に見える議事堂の姿。
 リフィアが聖杜にやってきてから、ずっと眺めている風景。
 飛王と飛翔と一緒に遊んだ懐かしい情景。

 飛翔への想いを込めながら、絨毯に思い出を織り上げていくこと。
 今のリフィアにできることは、ただそれだけだった。
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