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帰れない

何かを忘れている

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  鬱蒼と生い茂る木々にぽとりぽとりと落ちる雨の音。

  わたしは自然の中にいるんだなと思いながら少し小降りになった雨を眺めた。松木もわたしと同じように雨を見つめている。

  しばらく黙っていた松木が口を開いた。

「俺が覚えているのは屋台のたこ焼きに、口の周りにソースをべったりくっつけた亜沙美の笑える顔、佐和が着ていたアザミ柄の浴衣にそれから久野の馬鹿話だよ」

  と言って松木は笑った。

「……そっか、やっぱり特に変わったことなんてなかったよね。って亜沙美のソースのくっつけた笑える顔とは何よ!」

「あはは、だって、本当のことじゃん。あれは笑えたよ」

  松木は手を叩き笑った。

「ちょっと、松木、ふざけないでよ」

「あはは、ごめんよ。亜沙美のソースがべったりな顔を思い出すと笑ってしまったんだよ」

  わたしは、涙を流し笑う松木をキッと睨んだ。そして、「美奈ちゃんと多香子ちゃんがゆっくり思い出してねと言うんだから気になって」と言った。

松木は笑って流した涙を手の甲拭い「美奈も多香子も変な奴だよな」と言い首を捻った。

  松木も覚えていないと言うことは大したことではないのかなと思った。けれど、美奈と多香子の表情も気になるのだった。

  やっぱりわたしは何かを忘れているようなそんな気がする。

  でも、何を……。


「まあ、そんなに気にするなよ。どうしても気になるんだったら本人達に聞けばいいよ」

  松木はそう言ってペットボトルのミルクティーをゴクゴクと飲んだ。

「……うん、それもそうなんだけどね。なんだか簡単には教えてくれないそんな気がするんだよ」

「そうなのかな?」

「わたし、あの二人に何かしたのかな?」

  わたしは、ぽつりと呟き雨が降る外を眺めた。このコテージにわたしは閉じ込められているそんな感覚に陥る。

「何もしてないんじゃないの?  特に美奈とは仲が良かったよな。多香子とは知らないけどさ」

「……うん、美奈ちゃんとはよく遊んだな」

  美奈の高校生だった頃の笑顔が昨日のことのように甦る。キラキラ輝く笑顔と風に揺れるツインテール。亜沙美ちゃんとわたしを呼ぶちょっと高い声。

  無邪気な美奈の笑顔と声はこんなにも鮮やかに思い出すことができるのに夏祭りの日の何かだけを忘れているなんてあるのだろうか。

  そんなはずはないと思うのだけど……。『亜沙美ちゃんは思い出さないのかな?』と美奈は言う。その何かは一体……。

「ねえ、亜沙美」

「何かな?」

「亜沙美は美奈と仲が良かったからずっと友達でいるのかなと思っていたよ」

「……うん、わたしも美奈ちゃんとずっと友達でいられるかなと思っていたよ。でも、高校を卒業したら疎遠になってしまったよ」

  なんだか寂しいなと思いながらわたしは、雨で濡れたウッドデッキの足元をぼんやり眺めた。

「……まあ、そんなものかもしれないけどな」

  松木のちょっと寂しそうなその声を聞いていると、だから、わたしは、あの小説を書いたのかもしれないと思った。
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