悪役令嬢は婚約破棄を待っていた!

ちゃっぴー

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「グ……グググ……許さん……許さんぞユーミアァァァ……!!」

ローションの海に沈んだはずのギルバート殿下が、不気味な呻き声を上げながらゆらりと立ち上がった。

その手には、先ほどこぼれ落ちた「黒い魔石」が握られている。
魔石はドクンドクンと脈動し、戦場に漂う兵士たちの絶望(主に「ベタベタして気持ち悪い」という負の感情)を急速に吸収していた。

「殿下、様子が変です」

私は双眼鏡の倍率を上げた。
殿下の瞳から理性の光が消え、代わりに赤黒い狂気が宿っている。

『力が……力が溢れてくる……! これなら勝てる! あの生意気な女も、邪魔なアレクセイも、すべて消し去れる!!』

バキンッ!

殿下が魔石を握りつぶした。
その瞬間、黒い霧が噴き出し、殿下の黄金の鎧を侵食していく。

「ウオオオオオオ!!」

黒い霧は鎧の形状を変え、禍々しい棘のある『暗黒魔導鎧(ダーク・アーマー)』へと変貌させた。
背中からは蝙蝠のような黒い翼が生え、手には漆黒の剣が出現する。

「うわぁ、中二病全開のフォルムですね。デザインセンスが小学生です」

私が冷静に評価していると、隣でアレクセイ様が静かに剣を抜いた。

「……魔人化か。禁忌の魔石に手を出したな、ギルバート」

「アレクセイ様?」

「下がるな、ユーミア」

アレクセイ様は城壁の縁に立った。
風が彼の銀髪を揺らす。

「あいつの相手は俺がする。……元婚約者としてのケジメも、男としての決着も、ここでつけさせる」

「でも、今の殿下はドーピング状態ですよ? それに下はローション地獄です」

「関係ない」

彼はニヤリと不敵に笑った。

「俺が負けると思うか?」

その笑顔は、痺れるほど格好よかった。
悔しいけれど、私の心拍数がまた上がってしまうくらいに。

「……わかりました。援護はしません。行ってらっしゃいませ、私の騎士様(ヒーロー)」

「ああ、行ってくる」

ヒュンッ!

アレクセイ様は城壁を蹴り、十メートル下の戦場へと飛び降りた。

着地と同時に、足元のローションを凍らせて足場を作る。
さすが「氷の魔術師」、摩擦係数ゼロの地面も彼には関係ないようだ。

『アァァレェェクゥゥセェェイイイ!!』

闇落ちした殿下が、野太い声で咆哮した。

『貴様だ……貴様さえいなければ、ユーミアは私のものだった! 国一番の騎士という名声も、その美貌も、すべてが目障りなんだよぉぉぉ!!』

「嫉妬か。見苦しいな、殿下」

アレクセイ様は剣を構え、冷ややかに言い放った。

「彼女がお前を選ばなかったのは、俺のせいじゃない。……お前自身の器の小ささが原因だ」

『黙れぇぇぇ!!』

ドォォォン!!

殿下が地面を蹴る。
黒い翼で加速し、音速の突きを繰り出す。

「速い!」

私は思わず声を上げた。
魔石の力で身体能力が数倍に跳ね上がっている。

だが。

カィンッ!!

アレクセイ様は、その一撃を紙一重で受け流した。

「力任せな剣だ。……品がない」

『死ね! 死ね! 死ねぇぇぇ!』

殿下は獣のように剣を振り回す。
黒い衝撃波が飛び散り、周りで固まっていた重装兵(鉄団子状態)が吹き飛ばされる。

アレクセイ様はそれを、氷の盾で防ぎ、あるいは華麗なステップで躱していく。

しかし。
ここは「ローションの海」だ。

ザシュッ!

殿下が大きく踏み込んだ瞬間。

ツルッ!

『あべしっ!?』

殿下の足が滑った。
勢い余って、彼はトリプルアクセルのように空中で回転し、顔面から地面に激突した。

ベチャッ!

「……ぷっ」

城壁の上で、私は吹き出した。
魔王のような姿になっても、物理法則からは逃れられないらしい。

『お、おのれぇぇ! なぜ滑る! 私は魔王だぞ!?』

「魔王でも摩擦には勝てん」

アレクセイ様は冷徹に言い放ち、追撃の氷魔法を放つ。

「『氷槍(アイス・ランス)』!」

ドカカカカッ!

『ぐわぁぁぁ!?』

起き上がろうとした殿下に、無数の氷の槍が突き刺さる……ことはなく、ツルツル滑る地面のせいで殿下がスライド移動し、槍はすべて外れた。

「……チッ。滑りすぎて狙いが定まらん」

アレクセイ様も舌打ちをした。
どうやらこの戦場、真面目に戦うには不向きすぎるようだ。

『フフフ……見たか! このローションは私の味方だ!』

殿下はスライディングしながら起き上がり、そのままの勢いで滑走してアレクセイ様に突っ込んできた。
まるで人間カーリングだ。

『ダークネス・スライディング・スラッシュ!!』

「名前がダサい!」

アレクセイ様はジャンプして回避。
殿下はそのまま後方の壁に激突……した反動で、ピンボールのように跳ね返ってきた。

『まだだぁぁぁ!』

「しつこい!」

カキン! ガガガガッ! キィィィン!

二人は高速で滑り回りながら、剣を交え始めた。
傍目には、フィギュアスケートのペアダンスが殺し合いをしているようにしか見えない。

「高度な戦いですね……。バランス感覚と体幹の強さが勝敗を分けます」

私は冷静に分析しながら、ポップコーンを食べ始めた。
これは録画して後で売り出せば、いい資金源になるかもしれない。

『ハァ……ハァ……! なぜだ! なぜ当たらない!』

数分後。
殿下は息を切らしていた。
無駄な動き(スピンや転倒)が多すぎて、スタミナを消耗しているのだ。

対するアレクセイ様は、呼吸一つ乱していない。
彼は常に足元を瞬間的に凍らせ、スパイクのようにしてグリップを確保していたのだ。
技術の差は歴然だった。

「終わりだ、ギルバート」

アレクセイ様が剣を上段に構える。
その刀身に、凄まじい冷気が収束していく。

「お前のその歪んだ心ごと、凍らせてやる」

『ふざけるな! 私は負けん! この魔石の全ての力を使ってでもぉぉぉ!』

殿下の鎧が、ドクンと大きく脈動した。
最後の悪あがきだ。
彼は全身の魔力を剣に注ぎ込み、特大の闇の波動を放とうとした。

『消えろォォォ! 究極暗黒剣(アルティメット・ダーク・ソード)……!!』

その時だった。

「――お待ちなさい!!」

戦場に、凛とした女性の声が響き渡った。

「え?」

私も、アレクセイ様も、そして殿下も動きを止めた。

空から、一台の白い飛竜(ワイバーン)が舞い降りてくる。
その背に乗っているのは、豪奢なドレスを纏った、初老だが威厳のある女性。

「あ、あれは……!」

私が目を見開く。
見間違えるはずがない。

「お母様!?」

『ゲェーッ!? 王妃陛下!?』

殿下が素っ頓狂な声を上げた。

現れたのは、この国の王妃であり、ギルバート殿下の実母である、エレオノーラ王妃陛下だった。

王妃様は、着地した飛竜から優雅に降り立つと、扇子を開いて殿下を一喝した。

「ギルバート! お前は何をしているのですか!」

『ひっ、は、母上……!? なぜここに!?』

「王城のトイレが爆発したと聞いて戻ってみれば……城は汚水まみれ、お前は軍を率いて失踪。呆れてものが言えません!」

王妃様は、ツルツル滑る地面を、魔法で浮遊しながら進んでいく。
そして、闇の鎧を纏った殿下の前で仁王立ちした。

「しかも、その姿は何ですか! 禁忌の魔石に手を染め、あまつさえ国一番の功労者であるアレクセイとユーミア嬢に刃を向けるなど……!」

『う、うるさい! 私は王太子だ! 私のやることはすべて正義……』

「お黙りなさい!!」

バチィィィン!!

乾いた音が響いた。
王妃様の強烈な平手打ちが、殿下の(鎧で覆われた)頬に炸裂したのだ。

「ぐべっ!?」

物理防御が高いはずの闇の鎧が、母の愛の鞭の前には無力だったらしい。
殿下はきりもみ回転して吹き飛んだ。

「王太子の前に、人として恥を知りなさい!」

王妃様の怒号。
戦場が静まり返る。
あの凶暴な傭兵たちすら、王妃様の迫力に縮み上がっていた。

「……アレクセイ」

王妃様が、今度はアレクセイ様に向いた。
表情がふっと和らぐ。

「迷惑をかけましたね。この馬鹿息子が」

「いえ、陛下。……教育的指導をしていたところです」

アレクセイ様は剣を収め、恭しく礼をした。
足元は凍らせたままで。

「ユーミア嬢も、降りてらっしゃい」

「は、はい!」

私は慌てて城壁を駆け下りた。

「お久しぶりです、王妃陛下」

「ええ、久しぶりね。……随分と活発になったようで」

王妃様は、私の白衣と、背後にそびえ立つ巨大クマ型ゴーレムを見て、苦笑した。

「手紙は読みましたよ。『紙飛行機』で届いたやつをね」

「あ、届いてましたか。よかったです」

「ええ。窓ガラスを突き破って、私の部屋の壁に刺さっていましたけどね」

「……あはは」

王妃様はため息をつき、そして倒れている殿下を見下ろした。

「さて、この馬鹿息子の処分ですが……」

その時。
殿下の体から、黒い霧がプシューと音を立てて抜けていった。
魔石の力が切れ、元の情けない姿に戻る。

『う……うう……』

殿下は力なく涙を流していた。

『母上……私は……ただ……ユーミアに……認められたくて……』

「認められたいなら、仕事をなさい。トイレ掃除からね」

王妃様は冷たく切り捨てた。

「ギルバート。お前を廃嫡とし、王位継承権を剥奪します」

『な、なんだってーーー!?』

「そして、ユーミア嬢への謝罪と賠償として、ベルンシュタイン家とヴォルフ辺境伯家には、今後百年の免税特権を与えます」

「えっ、やった! 研究費浮いた!」

私がガッツポーズをすると、アレクセイ様が呆れたように頭を小突いた。

「お前な……」

こうして。
泥沼……もといローション沼の決戦は、最強のオカン(王妃様)の乱入により、あっけなく幕を閉じたのだった。

だが、物語はまだ終わらない。
王都へ凱旋することになった私には、まだ最後の仕事が残っていた。
そう、壊れた王城の修理と……アレクセイ様との「本物の結婚式」である。
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