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「お嬢様……。悲しいお知らせがございますわ。非常に、非常に悲しいお知らせです」
下町生活も一週間が過ぎた頃。侍女のアンナが、底の丸見えになった革の財布をテーブルに逆さに振った。
中から転がり出てきたのは、数枚の銅貨と、どこから紛れ込んだのかもわからない乾燥したパンの欠片だけだった。
「あら、アンナ。そんなところでパントマイムをして、私を笑わせようとしているの?」
「パントマイムではありませんわ! 我が家の全財産です! お嬢様が毎日、最高級のバターだのラードだの、お隣さんにまでコロッケを配ったりしているから……!」
私は、手に持っていた「特製・背徳のマヨネーズ和えパン」を食べる手を止めた。
「……お父様からいただいた支度金は、もっとあったはずよ?」
「お嬢様が『下町中のスパイスを買い占めるわ!』と言って、昨日市場で豪遊したのを忘れたのですか!?」
言われてみれば、心当たりしかない。私は、自分の食欲を優先するあまり、経済という概念をどこかの溝に捨ててきたようだった。
「困ったわね。お金がないと、明日の『厚切り豚バラ肉のブロック』が買えないわ……。それは死活問題よ」
「死ぬのはお嬢様の胃袋ではなく、私たちの生活ですわ!」
私は腕組みをして、ふむと頷いた。
アステリア公爵令嬢として育った私に、商売の経験などない。だが、私には「王宮レベルの味覚」と「下町レベルの図太さ」、そして何より「人を惹きつける暴力的な香りのレシピ」がある。
「アンナ、決めたわ。私たちは今日から、商売を始めるわよ!」
「……嫌な予感しかいたしません。一体何をなさるおつもりで?」
「決まっているじゃない。この世の全ての空腹な魂を救い、ついでに私の豚バラ代を稼ぐ……『背徳のお夜食屋台』よ!」
その日の夜。下町の路地裏には、古びた荷車を改造した急造の屋台が現れた。
屋台の看板には、私が達筆な文字で書き殴った一文がある。
『悪役令嬢特製:一口食べれば天国、二口食べれば罪の味。本日のメニュー:悪魔の揚げ串揚げ』
「お嬢様、その『悪役令嬢』っていう自称、そろそろやめませんか? 縁起が悪いですわ」
「いいのよ、アンナ。人間、少しばかり『悪いことをしている』という背徳感があるほうが、食べ物は美味しく感じるものなのよ。ほら、油が温まったわ。いくわよ!」
私は特製のタレに漬け込んだ鶏肉と、脂身たっぷりの豚バラ、さらにカマンベールチーズを丸ごと一欠片、衣に潜らせて高温の油に投入した。
——シュワァァァァァッ!!
夜の静寂を切り裂くような、激しい揚げ物の音。そして、ニンニク、醤油、蜂蜜、そして隠し味のスパイスが混ざり合った、殺人的な香りが路地裏に漂い出した。
「……おい。また貴様か」
最初に現れたのは、やはりお隣のサイラス様だった。彼は仕事帰りなのか、少し疲れた様子で屋台の前に立った。
「あら、サイラス様。本日開店ですわよ。お客様第一号なら、マヨネーズを二倍にして差し上げますわ!」
「……貴様、あんなに壁を叩いていたのに、まだ物足りずに街中で匂いを撒き散らしているのか」
「失礼ね。これはビジネスよ。さあ、食べてみて。新作の『チーズ爆弾・豚巻き串』よ!」
私は揚げたての一本を、サイラス様に差し出した。
彼は呆れながらも、差し出された串を手に取った。そして、一口。
——ザクッ。
中から溶け出した熱々のチーズが、豚肉の脂と一緒にサイラス様の口の中に溢れ出す。
「…………っ! 熱っ、だが……なんだこれは。このタレの甘辛い刺激は……!」
「ふふ。それは私が王宮の書庫で密かに見つけた、東方のスパイスの黄金比ですわ」
「……一本、いや、三本くれ。これがないと、今日の報告書が書けそうにない」
サイラス様が銅貨をテーブルに置く。それが、私の商売の最初の売り上げとなった。
一人が食べ始めると、その香りに誘われて、暗闇から次々と「腹を空かせた亡霊」のような下町の人々が現れ出した。
「おい、ネェちゃん。その美味そうな匂いはなんだ!」
「あっちの角まで匂ってきやがったぞ。俺にも一つくれ!」
「はいはい、並んでくださいませ! 一串五銅貨、マヨネーズのトッピングは追加で一銅貨よ! さあ、悪役令嬢の洗礼を受けなさい!」
私は、かつて舞踏会で扇子を振っていた時のような華麗な手つきで、次々と串を揚げていった。
「お、おいしい……! なんだこれ、明日から普通のパンが食べられなくなるぞ!」
「おい、このタレを舐めるだけで酒が三杯はいける!」
「お嬢様! 注文が止まりませんわ! 油が足りません、マヨネーズが底をつきますわよ!」
アンナが悲鳴を上げながら銅貨を数える。
夜の下町に、黄金色の油の匂いと、満足げな咀嚼音が満ちていく。
私は、煌々と燃えるコンロの火を前にして、勝利の確信を得ていた。
「ふふふ、いいわ、どんどん食べなさい! 皆さんの胃袋を、私が完璧に支配して差し上げますわ!」
結局、用意した食材は一時間も経たずに完売した。
手元に残ったのは、ずっしりと重い、小銭の入った袋だ。
「アンナ、見た? これが私の実力よ。これで明日は、豚バラどころか、牛のロースも夢じゃないわ!」
「お嬢様……。商売の才能があるのか、単に皆さんの食欲を煽る天才なのか……。とにかく、これで明日のご飯は安泰ですわね」
私は、満足げに屋台を片付けながら、夜空を見上げた。
王宮の冷え切った晩餐会では、決して味わえなかったこの熱気。
私は、悪役令嬢(自称)として、下町の胃袋を掌握する第一歩を、鮮やかに踏み出したのである。
下町生活も一週間が過ぎた頃。侍女のアンナが、底の丸見えになった革の財布をテーブルに逆さに振った。
中から転がり出てきたのは、数枚の銅貨と、どこから紛れ込んだのかもわからない乾燥したパンの欠片だけだった。
「あら、アンナ。そんなところでパントマイムをして、私を笑わせようとしているの?」
「パントマイムではありませんわ! 我が家の全財産です! お嬢様が毎日、最高級のバターだのラードだの、お隣さんにまでコロッケを配ったりしているから……!」
私は、手に持っていた「特製・背徳のマヨネーズ和えパン」を食べる手を止めた。
「……お父様からいただいた支度金は、もっとあったはずよ?」
「お嬢様が『下町中のスパイスを買い占めるわ!』と言って、昨日市場で豪遊したのを忘れたのですか!?」
言われてみれば、心当たりしかない。私は、自分の食欲を優先するあまり、経済という概念をどこかの溝に捨ててきたようだった。
「困ったわね。お金がないと、明日の『厚切り豚バラ肉のブロック』が買えないわ……。それは死活問題よ」
「死ぬのはお嬢様の胃袋ではなく、私たちの生活ですわ!」
私は腕組みをして、ふむと頷いた。
アステリア公爵令嬢として育った私に、商売の経験などない。だが、私には「王宮レベルの味覚」と「下町レベルの図太さ」、そして何より「人を惹きつける暴力的な香りのレシピ」がある。
「アンナ、決めたわ。私たちは今日から、商売を始めるわよ!」
「……嫌な予感しかいたしません。一体何をなさるおつもりで?」
「決まっているじゃない。この世の全ての空腹な魂を救い、ついでに私の豚バラ代を稼ぐ……『背徳のお夜食屋台』よ!」
その日の夜。下町の路地裏には、古びた荷車を改造した急造の屋台が現れた。
屋台の看板には、私が達筆な文字で書き殴った一文がある。
『悪役令嬢特製:一口食べれば天国、二口食べれば罪の味。本日のメニュー:悪魔の揚げ串揚げ』
「お嬢様、その『悪役令嬢』っていう自称、そろそろやめませんか? 縁起が悪いですわ」
「いいのよ、アンナ。人間、少しばかり『悪いことをしている』という背徳感があるほうが、食べ物は美味しく感じるものなのよ。ほら、油が温まったわ。いくわよ!」
私は特製のタレに漬け込んだ鶏肉と、脂身たっぷりの豚バラ、さらにカマンベールチーズを丸ごと一欠片、衣に潜らせて高温の油に投入した。
——シュワァァァァァッ!!
夜の静寂を切り裂くような、激しい揚げ物の音。そして、ニンニク、醤油、蜂蜜、そして隠し味のスパイスが混ざり合った、殺人的な香りが路地裏に漂い出した。
「……おい。また貴様か」
最初に現れたのは、やはりお隣のサイラス様だった。彼は仕事帰りなのか、少し疲れた様子で屋台の前に立った。
「あら、サイラス様。本日開店ですわよ。お客様第一号なら、マヨネーズを二倍にして差し上げますわ!」
「……貴様、あんなに壁を叩いていたのに、まだ物足りずに街中で匂いを撒き散らしているのか」
「失礼ね。これはビジネスよ。さあ、食べてみて。新作の『チーズ爆弾・豚巻き串』よ!」
私は揚げたての一本を、サイラス様に差し出した。
彼は呆れながらも、差し出された串を手に取った。そして、一口。
——ザクッ。
中から溶け出した熱々のチーズが、豚肉の脂と一緒にサイラス様の口の中に溢れ出す。
「…………っ! 熱っ、だが……なんだこれは。このタレの甘辛い刺激は……!」
「ふふ。それは私が王宮の書庫で密かに見つけた、東方のスパイスの黄金比ですわ」
「……一本、いや、三本くれ。これがないと、今日の報告書が書けそうにない」
サイラス様が銅貨をテーブルに置く。それが、私の商売の最初の売り上げとなった。
一人が食べ始めると、その香りに誘われて、暗闇から次々と「腹を空かせた亡霊」のような下町の人々が現れ出した。
「おい、ネェちゃん。その美味そうな匂いはなんだ!」
「あっちの角まで匂ってきやがったぞ。俺にも一つくれ!」
「はいはい、並んでくださいませ! 一串五銅貨、マヨネーズのトッピングは追加で一銅貨よ! さあ、悪役令嬢の洗礼を受けなさい!」
私は、かつて舞踏会で扇子を振っていた時のような華麗な手つきで、次々と串を揚げていった。
「お、おいしい……! なんだこれ、明日から普通のパンが食べられなくなるぞ!」
「おい、このタレを舐めるだけで酒が三杯はいける!」
「お嬢様! 注文が止まりませんわ! 油が足りません、マヨネーズが底をつきますわよ!」
アンナが悲鳴を上げながら銅貨を数える。
夜の下町に、黄金色の油の匂いと、満足げな咀嚼音が満ちていく。
私は、煌々と燃えるコンロの火を前にして、勝利の確信を得ていた。
「ふふふ、いいわ、どんどん食べなさい! 皆さんの胃袋を、私が完璧に支配して差し上げますわ!」
結局、用意した食材は一時間も経たずに完売した。
手元に残ったのは、ずっしりと重い、小銭の入った袋だ。
「アンナ、見た? これが私の実力よ。これで明日は、豚バラどころか、牛のロースも夢じゃないわ!」
「お嬢様……。商売の才能があるのか、単に皆さんの食欲を煽る天才なのか……。とにかく、これで明日のご飯は安泰ですわね」
私は、満足げに屋台を片付けながら、夜空を見上げた。
王宮の冷え切った晩餐会では、決して味わえなかったこの熱気。
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