婚約破棄を快諾する。悪役令嬢の愛からは逃げられない。

ちゃっぴー

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「……ふぅ」


浴室から上がったギルバートは、脱衣所の鏡を見て呆然とした。


そこに映っていたのは、薄汚れた不審者ではない。


銀色の髪は艶やかに輝き、肌は蒸気でほんのりと色づき、紫のアメジストのような瞳が涼やかに光る、傾国の美青年だった。


「誰だ、これ……」


「貴方様です、旦那様」


背後から、待ち構えていたキャサリンがバスタオルを頭から被せる。


そのタオルは、事前の乾燥魔法によって絶妙な温かさと柔らかさに調整されていた。


「髪の水分量は完璧。キューティクルの損傷も軽微です。これなら、トリートメントを週三回施せば、王都の貴婦人たちが嫉妬でハンカチを噛みちぎるレベルの美髪になりますわ」


キャサリンは手際よく髪を拭きながら、うっとりと呟く。


「それにしても、素晴らしい素材(ボディ)です。肋骨が浮き出るほどの痩せすぎですが、骨格のバランスは黄金比。筋肉をつければ、彫刻のような肉体美になりますわね……じゅるり」


「最後、変な音が聞こえたんだけど」


「気のせいです。さあ、こちらへ。パジャマは肌触りの良いシルクを用意しました」


されるがままに着替えさせられ、ギルバートは居間へと連行された。


そこには既に、湯気の立つハーブティーと、山のような書類が広げられたテーブルが用意されている。


キャサリンはギルバートをソファに座らせると、自らは対面の椅子に背筋を伸ばして座った。


その表情は、先ほどまでの「お母さん」のような優しさから一変し、冷徹な面接官のそれになっていた。


「さて。お風呂でリフレッシュしたところで、本題に入りましょうか」


キャサリンは指を組んで眼鏡(どこから出した?)を押し上げた。


「面接のお時間です」


「……面接?」


ギルバートはハーブティーを一口啜る。


驚くほど美味い。


体の中に染み渡るような、優しい味がする。


「ええ。私が貴方様の家令……いえ、生涯のパートナーとして相応しいか。そして貴方様が、私の管理を受けるに値する『宿主』であるかを見極めるための面接です」


「君が雇われる側だよね? なんで上から目線なの?」


「些細な問題です。では第一問」


キャサリンは無視して手元の資料をめくった。


「ギルバート・アッシュフォード公爵。現在の資産総額を把握していますか?」


「資産? さあ……。地下の金庫に金貨が山積みになってた気がするけど、数えてない」


「でしょうね。先ほど確認したところ、金庫の扉が開けっ放しで、ネズミが金貨を巣の材料にしていました」


「えぇ……」


「概算で国家予算の三年分。魔導特許の印税だけで毎月莫大な収入がありますが、全く運用されていません。死に金です。私が全て運用し、倍に増やして差し上げます」


「倍? いや、そんなにいらないけど……」


「いります。貴方様の食費と研究費、そしてセキュリティ強化のための魔道具開発費を考えれば、予算は潤沢であるに越したことはありません。合格(クリア)です」


キャサリンは手元の紙に『合格』のハンコをバン! と押した。


「次、健康状態について。直近の食事はいつですか?」


「……三日前? クッキーを一枚食べたかな」


「論外です」


キャサリンの目が据わった。


「基礎代謝を下回るカロリー摂取は自殺行為です。今後、食事は私が作成した献立を、私が指定した時間に、私が監視する前で完食していただきます。嫌いな野菜を残した場合、口移しでねじ込みますのでご了承ください」


「口移し!?」


ギルバートが紅茶を吹き出しそうになる。


「冗談です。……今のところは。次、睡眠時間。平均三時間未満ですね?」


「研究に集中すると、つい……」


「今後は最低七時間の睡眠を義務付けます。眠れない場合は、私が添い寝をして子守唄を歌います。必要なら睡眠導入魔法(物理的打撃含む)を使用します」


「物理!? 怖いよ!」


「怖くありません。愛です。ハイ、合格」


バン! と二つ目のハンコが押される。


ギルバートは背筋が寒くなった。


この女、ヤバい。


美しくて仕事ができるのは間違いないが、根本的な何かが狂っている。


「……ねえ、君。名前は?」


「キャサリン・ウォーレンと申します」


「ウォーレン公爵家の? なんでそんな令嬢が、僕みたいな『呪い公爵』のところに来たの?」


ギルバートは自嘲気味に笑った。


「知ってるだろ? 僕の魔力は制御できない。感情が高ぶると周囲のものを破壊するし、近づく人間を体調不良にさせる。だから使用人もみんな逃げ出した」


彼は自分の手をじっと見つめる。


「君も、今は平気そうだけど、そのうち僕の魔力に当てられて倒れるよ。だから、帰った方がいい」


それは、彼なりの精一杯の拒絶であり、優しさだった。


自分に関われば不幸になる。


そうやって彼は、ずっと一人で生きてきたのだ。


だが。


「あら、そんなこと?」


キャサリンは拍子抜けしたように言った。


「そんなこと、って……」


「貴方様の魔力漏出(リーク)については、入室した瞬間に解析済みです。原因は、魔力回路の目詰まりと、放出弁の閉鎖不全ですね。要するに、便秘と同じです」


「べ、便秘……」


天才魔導師の悩みを、排泄トラブルと一緒にされた。


「循環が悪いから漏れるのです。マッサージと適切な魔力吸収(ドレイン)を行えば、何の問題もありません。それに」


キャサリンは立ち上がり、テーブルを回り込んでギルバートの前に立った。


そして、彼の頬を両手で包み込む。


「ひっ……」


至近距離で覗き込まれた瞳は、狂気的なまでに澄んでいた。


「私は、普通の人間なら即死するような猛毒にも耐性がありますの。貴方様の魔力程度、心地よい微風のようなものですわ。……むしろ」


彼女は恍惚とした表情で、ギルバートから漏れ出る黒い魔力を深呼吸するように吸い込んだ。


「この濃厚で、重苦しくて、一般人を拒絶するような魔力……。最高です。私だけが、この毒の中で息ができる。私だけが、貴方様に触れられる。……ゾクゾクしますわ」


「……!!」


ギルバートは言葉を失った。


これまで、誰もが恐れた自分の力。


それを「最高」と言い、「私だけのもの」だと主張する女。


(なんだ、こいつ……)


恐怖と同時に、胸の奥で何かがドクンと跳ねた。


それは、生まれて初めて感じる「肯定」の感覚だったかもしれない。


「ギルバート様。私、決めました」


キャサリンは頬から手を離し、宣言する。


「貴方様は、私が管理するのに最高の物件です。面接は合格。採用決定です」


「え、僕が採用されたの?」


「はい。これより契約を結びます。雇用形態は『終身契約』。解雇は認めません。貴方様が死ぬまで、いえ、死んで骨になっても管理させていただきます」


キャサリンは一枚の羊皮紙を突き出した。


そこには既に、恐ろしいほど細かい条項がびっしりと書かれている。


『乙(ギルバート)は甲(キャサリン)の許可なく外出、飲食、異性との接触を行ってはならない』
『甲は乙の生命維持に対し、全責任と全権限を持つ』


まるで奴隷契約だ。


だが、ギルバートの思考回路は、天才ゆえに――そして極度の面倒くさがりゆえに、斜め上の結論へと達した。


(……待てよ?)


彼は考える。


この女は怖い。重い。ヤバい。


だが、彼女がいれば、部屋は綺麗になる。


ご飯は美味しい。


お風呂も用意してくれる。


魔力の暴走も止めてくれるらしい。


そして何より……。


(「全部管理する」ってことは、僕はもう、何もしなくていいってことか?)


生きるのが面倒くさい彼にとって、それは悪魔の契約であると同時に、至高の福音でもあった。


「……ねえ、キャサリン」


「はい、何でしょう?」


「僕、爪切るのも面倒なんだけど」


「私が切ります。ヤスリがけまで完璧に」


「服選ぶのも、ボタン留めるのも面倒だ」


「私がやります。毎朝コーディネートして着せ替えます」


「研究に行き詰まって、誰かに八つ当たりしたくなったら?」


「私がサンドバッグになります。その後、論理的な解決策を提示して解決します」


ギルバートは震えた。


完璧だ。


この女は、僕の怠惰を肯定し、支え、増長させてくれる、最強のシステムだ。


「……わかった」


ギルバートは羽ペンを取り、サラサラとサインをした。


「契約成立だ。僕のすべてを君にあげる。その代わり、僕を一生、楽させてくれ」


キャサリンはサインされた羊皮紙を受け取ると、この世の春が来たかのような満面の笑みを浮かべた。


「契約成立、ですね」


彼女は大切そうに契約書を胸に抱く。


「嬉しい……。これで貴方様は、法的にも実質的にも、私の『モノ』ですわ」


その笑顔は美しかったが、背景にどす黒い幻影が見えた気がした。


「では、早速ですが旦那様。就寝時間まであと一時間です。これより、就寝前のストレッチと、歯磨き指導を行います。まずは口を開けてください」


「え、あ、はい……」


「大きく。あーん」


「あーん」


こうして、呪い公爵ギルバートは、悪役令嬢キャサリンの管理下に落ちた。


それは彼にとって、堕落への入り口か、それとも人間らしい生活への第一歩か。


答えが出るのは、まだ少し先の話である。
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