悪役令嬢は婚約破棄がお好き。

ちゃっぴー

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「……ふむ。何度再計算しても、異常な数値が出ますわ」

プロポーズから一夜明けた、ミルク・シティ領主執務室。

私は左手の薬指に輝く『夜空の瞳』を見つめ、電卓を叩き続けていた。

「お嬢様。朝から何をブツブツ言っているのですか? 幸せボケですか?」

ベッキーが紅茶を淹れながら、生温かい視線を送ってくる。

「違うわよ! 『資産価値の再評価(バリュエーション)』よ!」

私は指輪を光にかざした。

「この指輪単体でも、小国が三つ買える値段よ。それに加えて、シリウス陛下が提示した『帝国の全権譲渡』……。これらを資産計上すると、私の総資産は一夜にして、大陸のGDPの40%を占めることになるの」

「あら、世界の半分を手に入れたようなものですね。魔王も裸足で逃げ出しますよ」

「問題はそこじゃないわ。……『対価』よ」

私は電卓を机に置き、頭を抱えた。

「これだけの資産をもらっておいて、私が支払う対価が『私一人の人生』? どう考えても釣り合わない! 等価交換の原則を無視した、異常な不平等条約だわ!」

私が商売人として、この「有利すぎる取引」に震えていると、執務室の扉がノックもなしに開かれた。

「朝から騒がしいな、我が婚約者は」

現れたのは、上機嫌なシリウスだ。
彼は私のデスクの前に立つと、愛おしそうに私の手を取り、薬指の指輪に口づけを落とした。

「よく似合っているぞ、ミルク」

「っ……! だ、だから! いきなりそういうことをするのは禁止です!」

私は慌てて手を引っ込める。
心臓が不規則に跳ねる。これは健康によくない。

「陛下。昨夜の口約束だけでは、ビジネスとして不健全です。きちんと書面に残しましょう」

私は徹夜で作成した、分厚い羊皮紙の束をドンと机に置いた。

タイトルは**『ガルガディア帝国およびラテ商会における、包括的資本業務提携(兼・婚姻)契約書』**。

「これが私たちの結婚契約書です」

「ほう。ずいぶんと分厚いな」

「当然です。財産分与、統治権の配分、子育てに関する費用負担、そして万が一の離婚時の違約金まで、全108条項にわたって明記してあります」

私はペンを差し出した。

「よく読んで、納得してからサインしてください。特に第5条の『皇帝のポケットマネーは月額金貨10枚までとし、残りは全てミルクが管理する』という項目は重要ですわよ」

シリウスは契約書を受け取ると、パラパラとページをめくった。
そして、ニヤリと笑った。

「……随分と細かいな。俺がカジノで遊ぶ権利まで制限されているとは」

「貴方は賭け事が下手ですからね(金運がないから)。管理が必要です」

「ククッ、違いない」

シリウスは楽しそうに笑うと、なんと中身をほとんど読まずに、最後の署名欄にサラサラとサインをした。

「えっ!?」

私は思わず声を上げた。

「ちょ、ちょっと! ちゃんと読みなさいよ! 貴方に不利な条件が山ほど書いてあるのよ!? 『喧嘩をした際は、いかなる理由があろうとシリウスが先に謝る』とか書いてあるのよ!?」

「構わん」

シリウスはペンを置き、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「俺は言ったはずだ。『俺の全てを貴様にやる』と。……金も、権力も、プライドもだ。貴様が管理したいなら、好きにすればいい」

「で、でも……!」

「それに、俺にとって重要なのは、この紙切れに書かれた条件ではない」

彼は机を回り込み、私の椅子に手をついて顔を近づけた。

「貴様が俺の隣にいて、俺と同じ墓に入るまで離れないこと。……その約束さえ守ってくれるなら、小遣いがゼロになろうが構わんよ」

「……っ」

私の思考回路がショートした。
計算できない。
損得勘定が通用しない。
この男は、本当に「愛」だけで、国家予算規模の損失を受け入れようとしているのだ。

「……馬鹿な人」

私は下を向いた。
顔が熱い。
耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。

「こんな……こんな好条件な契約、商売人として断れるわけがないじゃないですか」

「では、契約成立か?」

「……ええ。成立です」

私は小さな声で呟き、彼を見上げた。

「……悪くない取引です。……いえ、最高の取引ですわ」

「そうか」

シリウスが優しく微笑む。
その笑顔を見ていると、胸の奥がキュンと締め付けられるような、甘い痛みが走る。

(……ああ、これが)

私は認めるしかなかった。
これが「プライスレス」な価値というやつなのだと。

「……シリウス」

「ん?」

「契約成立の証として……その、印(ハンコ)が必要です」

「印?」

「……誓いのキス、です」

私は蚊の鳴くような声で言い、目を閉じた。
自分からこんなことをねだるなんて、一生の不覚だ。
でも、今日くらいはいいだろう。

「……承知した。喜んで捺印しよう」

シリウスの吐息がかかり、柔らかい唇が重なる。
昨夜よりも深く、長く、そして優しいキス。

頭の中の電卓が、完全に沈黙した。
今は数字なんてどうでもいい。
ただ、この温かさだけを感じていたい。

「……んっ」

唇が離れると、シリウスが意地悪そうに囁いた。

「顔が真っ赤だぞ、鉄の女」

「う、うるさいです! これは……血行が良くなっただけです!」

「そうか。なら、もっと血行を良くしてやろうか?」

「け、結構です! 仕事が残っていますから!」

私は彼を突き飛ばし(軽く)、真っ赤な顔で書類の山に顔を埋めた。

「……ふふっ」

背後でシリウスの笑い声が聞こえる。

「逃げるなよ、ミルク。……本番はこれからだ」

そう。
契約は締結された。
次は、この契約を世界中に知らしめるための、史上最大・最高額のイベント――『結婚式』が待っている。

「ベッキー! 招待状のリストアップを急いで! 各国の大使、商工会の代表、そして……ご祝儀をたくさん包んでくれそうな富豪たちを最優先で!」

「はいはい。お嬢様、照れ隠しに仕事をするのは可愛いですが、契約書が逆さまですよ」

私の春は、金貨の輝きと共に、ようやく訪れたようだった。
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