悪役令嬢、婚約破棄に「御意」と答えて即帰宅。

ちゃっぴー

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「ヨーネリア・フォン・エッセン! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」

王城の大広間。

きらびやかなシャンデリアの下、数百人の貴族たちが固唾を飲んで見守る中、王太子クラーク殿下の絶叫が響き渡った。

私の目の前で、殿下がビシッと人差し指を突きつけている。

その隣には、小動物のように震える男爵令嬢ミーナ様の姿。

典型的な「断罪イベント」というやつだ。

私は手に持っていた扇をパチリと閉じ、懐中時計をチラリと確認した。

時刻は二十一時十五分。

(……あーあ。二十一時までには帰って、ハーブティーを飲みながら寝る準備をする予定だったのに)

十五分のロスだ。

これは由々しき事態である。睡眠不足は美容と脳の働きにおける最大の敵なのだから。

私はゆっくりと顔を上げ、無表情のまま殿下を見据えた。

「……殿下。声が大きすぎますわ。鼓膜へのダメージを考慮してください」

「なっ……! 貴様、この期に及んでその態度はなんだ!」

クラーク殿下の顔が真っ赤になる。

彼は昔からこうだ。感情の抑制機能が未実装なのかと思うほど、すぐに沸騰する。

「貴様は、聖女のような心を持つミーナをいじめたそうだな! 彼女の教科書を隠したり、階段から突き落とそうとしたり……数々の悪行、もはや見過ごせん!」

周囲から「おお……」「なんて酷いことを」というさざめきが聞こえる。

私は小さく溜息をついた。

「殿下。事実確認のプロセスが欠如しています」

「なんだと!?」

「教科書が見当たらなかったのは、彼女がカバンに入れ忘れていただけです。私は予備の教科書を貸しました。階段から落ちそうになったのは、彼女が自分のドレスの裾を踏んだからです。私はそれを片手で支えて助けました」

淡々と事実を述べる。

しかし、興奮状態の殿下には届かないようだ。

「嘘をつくな! ミーナは『ヨーネリア様が怖かった』と泣いていたのだぞ!」

「それは私の顔面偏差値が高すぎて、直視した際に畏怖の念を抱いたからでしょう。私の美貌は罪作りですから」

「き、貴様ぁぁぁ……! そのふざけた減らず口を叩き潰してやる!」

殿下は地団駄を踏みそうな勢いだ。

隣のミーナ様が「ち、違います殿下! ヨーネリア様は本当に助けてくれて……!」と小声で訴えているが、殿下の耳は完全にシャットダウンしている。

やれやれ。

これ以上、この茶番に付き合うのは時間の無駄だ。

「……で、結論はなんですか?」

私は話を先に進めることにした。

殿下は勝ち誇ったような顔で、高らかに宣言する。

「貴様のような冷酷非道な女は、王太子の婚約者にふさわしくない! よって婚約を破棄し、国外追放を……」

「御意」

「……は?」

殿下の言葉が止まる。

私は間髪入れずに言葉を続けた。

「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。あ、国外追放の方は法的根拠が薄弱ですので却下で」

「え、あ、いや……待て」

「合意ですね? ありがとうございます。これで私も自由の身です」

私はドレスの隠しポケットから、あらかじめ用意しておいた書類を取り出した。

『婚約解消合意書』。

署名欄には、すでに私のサインと実印が押してある。

ついでに、ペンと朱肉も取り出した。

「さあ、こちらにサインをお願いします。一刻も早く」

私は殿下の目の前に書類を突きつけた。

「は……? な、なんだこれは」

「見ればわかりますでしょう。合意書です。これを交わさないと、後で『言った言わない』の水掛け論になり、裁判沙汰になると非常にコストパフォーマンスが悪いですから」

「お、お前……準備が良すぎないか?」

「殿下がいつかこう言い出すだろうと予測し、三年前から準備しておりました」

「三年!?」

殿下が目を白黒させる。

周囲の貴族たちも「えっ、三年前から?」「まさか今日のことを予知していたのか?」とざわつき始めた。

予知ではない。統計学だ。

殿下の知能指数と感情の起伏パターン、そして最近のミーナ様への執着ぶりをグラフ化すれば、今夜あたりに爆発するのは明白だった。

「さあ、サインを。ここです。ここに名前を書くだけで、貴方は私という『可愛げのない女』から解放され、愛するミーナ様とイチャイチャできる権利を得られるのです。素晴らしい取引でしょう?」

「う、うむ……まあ、確かにそうだが……」

殿下は私の勢いに押され、おずおずとペンを受け取った。

そして、流されるままにサラサラと署名をする。

「はい、頂きました!」

私は電光石火の早業で書類を回収し、インクが乾くのを確認してから、丁寧に折りたたんで懐にしまった。

これで契約成立だ。

私は清々しい気分で、満面の笑み(といっても口角が二ミリ上がった程度だが)を浮かべた。

「では、これにて失礼いたします。明日からは赤の他人ですので、道ですれ違っても話しかけないでくださいね。お互いの為に」

「え、ちょっ……待てヨーネリア!」

「あ、そうだ。慰謝料は請求しません。手切れ金だと思って結構です。その代わり、私が殿下の公務を代行していた分の残業代は、後日請求書を送りますので」

「公務? 代行? なんの話だ?」

「……お気づきでなかったと? まあいいでしょう。それも明日からは貴方ご自身でやっていただくことになりますから。頑張ってくださいね」

私はカーテシー(お辞儀)をした。

最上級の礼儀作法で、最上級の嫌味を込めて。

「それではごきげんよう、元・婚約者様」

私は踵を返した。

背後で殿下が「おい! 待て! 話はまだ終わってないぞ!」と叫んでいるが、完全に無視する。

終わったのだ。私の中では。

むしろ、ここからが私の人生の始まりである。

大広間の重厚な扉を開け、夜風を肌に感じる。

(涼しい……自由の風だわ)

時刻は二十一時三十分。

予定より遅れたが、まだ取り返せる。

「帰ったら、秘蔵のバスソルトを使って半身浴をしよう」

私は足取り軽く、待機していた馬車へと向かった。

明日から始まる優雅なニート生活、もとい、スローライフに思いを馳せて。

まさか翌日の朝、この国で最も恐ろしい男が家に乗り込んでくるとは、この時の私は知る由もなかったのである。



翌朝。

小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。

「……素晴らしい」

カーテンの隙間から差し込む朝日。

目覚まし時計に邪魔されることのない、自然な目覚め。

これぞ私が求めていた生活だ。

今日から私は公爵令嬢ではなく、ただの無職。

誰に気兼ねすることなく、一日中パジャマで過ごし、読書をし、お菓子を焼くのだ。

「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」

ノックの音と共に、メイド長が入ってきた。

「おはよう、マリア。朝食はベッドでいただくわ。今日の予定は『何もしない』だから」

「それが……その、お客様がお見えです」

「客? 追い返しなさい。私は今、人生の休暇中なの」

「それが……追い返せるような方ではなく……」

マリアの顔色が悪い。

まさか殿下が復縁を迫りに来たのだろうか?

だとしたら、昨日の合意書の写しを大量にばら撒いて撃退するまでだ。

「わかったわ。着替えてサロンに行く。五分で済ませるから」

私は適当な部屋着(といってもシルク製だが)の上にガウンを羽織り、髪を手櫛で整えて部屋を出た。

公爵家のサロン。

そこには、朝の爽やかな空気とは真逆の、絶対零度のオーラを纏った男が座っていた。

漆黒の髪に、氷のように冷たいブルーの瞳。

整った顔立ちは芸術品のようだが、その瞳に見つめられるだけで心臓が凍りつきそうになる。

この国の宰相、アレクセイ・フォン・ベルンシュタイン公爵。

通称『氷の宰相』。

そして、私の父の友人であり、私がもっとも苦手とする「超・仕事人間」である。

「……おはようございます、閣下。朝から奇襲とは、随分と優雅なご趣味ですね」

私は嫌味を言ってみた。

しかし、アレクセイ閣下は紅茶のカップを置くと、無表情のまま私を見据えた。

「おはよう、ヨーネリア嬢。昨夜、クラーク殿下との婚約を破棄したそうだな」

「ええ。おかげさまで自由の身です。お祝いなら現金で受け付けておりますが」

「自由の身、か。それは好都合だ」

閣下は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に置いた。

そこには、見慣れた王家の紋章と、恐ろしい文言が並んでいた。

『王宮筆頭事務官 任命書』。

「……なんですか、これは」

「君の新しい就職先だ」

「は?」

「クラーク殿下が提出していた書類、あれの九割は君が作成していたものだろう? 筆跡と論理構成を見ればわかる。あんな馬鹿にこれほど精緻な予算案が組めるはずがないからな」

バレていた。

私は無意識に一歩後ずさる。

「い、いえ、それはたまたま私が手伝っただけで……」

「謙遜は不要だ。君の事務処理能力は、我が国の事務官三十人分に相当する。それを野に放っておくのは、国家的な損失だ」

閣下は立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてくる。

その圧迫感たるや、巨大な肉食獣のようだ。

「拒否権は?」

「ない。すでに君の父親の了承は得ている」

「お父様ぁぁぁーーッ!!」

心の中で父を裏切り者リストの筆頭に加える。

アレクセイ閣下は私の目の前まで来ると、壁に手をついて私の逃げ場を塞いだ。

いわゆる『壁ドン』だが、ときめきは皆無だ。

あるのは、逃れられない労働へのプレッシャーのみ。

「君には今日から、私の補佐として働いてもらう。給与は弾む。福利厚生も完備だ。ただし……」

閣下の冷たい瞳が、怪しく光った。

「私が『良し』と言うまで、帰れると思うなよ?」

私の優雅なニート計画が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
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