悪役令嬢、婚約破棄に「御意」と答えて即帰宅。

ちゃっぴー

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「――よし。いい艶だ」

王都から馬車で三時間ほど離れた、のどかな農村地帯。

その一角にある小さな畑で、麦わら帽子を被った青年が、泥だらけの手で大きなトマトを掲げていた。

日焼けした肌、タオルを巻いた首、そして土にまみれた作業着。

どこからどう見ても、ベテランの農夫見習いだ。

しかし、その顔立ちだけは無駄に整っており、かつて「王太子」と呼ばれていた面影が残っている。

クラーク・フォン・グランヴェル(元・殿下)である。

「すごいぞ、キャサリン(トマトの名前)。君は太陽の恵みを一身に浴びて、こんなに立派に育ったんだね」

彼はトマトに話しかけながら、愛おしそうに頬擦りをした。

「隣のエリザベス(ナス)も順調だ。……ああ、なんて素晴らしいんだ、土の世界は」

彼は深呼吸をした。

王城での生活は、息苦しかった。

書類の意味は分からないし、マナーは厳しいし、ヨーネリアは怖いし。

だが、ここは違う。

種を蒔けば芽が出る。水をやれば育つ。雑草を抜けば感謝される(気がする)。

全てがシンプルで、嘘がない。

「……僕、こっちの方が向いていたのかもしれないな」

クラークは独りごちた。

かつて「無能」と罵られた男は今、村一番の「野菜作りの名人」として、静かな称賛を浴びていたのである。



「……信じられませんわ」

その様子を、畑のあぜ道から呆然と見つめる影があった。

私、ヨーネリアと、夫のアレクセイ閣下である。

今日は公務のついでに、元王子の「更生プログラム」の進捗状況を視察に来たのだ。

「あれが……あの、靴紐も結べなかったクラーク殿下ですか?」

「ああ。報告には聞いていたが……まさかここまでとは」

閣下も目を丸くしている。

クラークは手際よくトマトを収穫し、籠に入れていく。その動きに無駄がない。

「おーい! クラーク君! こっちのキュウリも頼むよ!」

近所の農家のお爺さんが声をかけると、クラークは「はいよー!」と元気よく返事をして走り出した。

「はいよー、だと?」

私は耳を疑った。

「あのプライドの塊だった男が、平民の爺様に顎で使われています。しかも、楽しそうです」

「……行ってみよう」

私たちは畑に入っていった。

「あ、ヨーネリア! それにアレクセイ!」

私たちに気づいたクラークが、満面の笑みで駆け寄ってきた。

「久しぶりだね! 元気にしてたかい?」

「……ええ。貴方も、随分と健康そうですね」

私は彼の姿をまじまじと見た。

以前のような、贅肉のついた締まりのない体ではない。筋肉がつき、引き締まっている。顔つきも精悍だ。

「見てくれよ、これ! 僕が育てたトマトだ!」

クラークは自慢げに真っ赤なトマトを差し出した。

「糖度が凄く高いんだ。水やりを朝夕の二回に分けて、土壌の酸性度を調整した結果だよ」

「……へえ」

私はトマトを受け取り、一口かじった。

甘い。

果物のように甘く、それでいて酸味とのバランスが絶妙だ。

「……美味しいです。悔しいですが、プロの味です」

「だろう!? いやあ、農業って奥が深いよ。書類と違って、野菜は嘘をつかないからね!」

クラークは爽やかに笑った。

「僕、気づいたんだ。王様になって民を導くことはできなかったけど、野菜を導くことはできるって」

「……野菜を導く」

「そう! 彼らの声が聞こえるんだ。『水が欲しい』とか『虫がいるよ』とか。……王城では誰の声も聞こえなかったのに、不思議だよね」

彼は遠い目をした。

その横顔には、かつての悲壮感や卑屈さは微塵もない。

私は……猛烈な敗北感に襲われていた。

(な、なによこれ……)

私は拳を握りしめた。

(私が! 私がやりたかったのは、まさにこれよ!)

晴耕雨読。自然との対話。自給自足のスローライフ。

それを、よりによってこの元婚約者が、先に、しかも完璧に実現しているなんて!

「……ズルいですわ」

私がポツリと漏らすと、クラークはきょとんとした。

「え? 何が?」

「貴方は私の夢を奪いました! 私は今も、公爵邸の庭で必死にカボチャを育てていますが、ここまでのレベルには達していません! なのに貴方は……!」

「あはは。ヨーネリアは頭が良すぎるからね」

クラークは悪気なく笑った。

「農業には『計算できない部分』があるんだよ。理屈じゃなくて、感覚というか、土への愛というか。……君には少し、効率を求めすぎる癖があるからなぁ」

「なっ……!」

「肥料の量も、マニュアル通りじゃダメなんだ。その日の気温や湿度に合わせて、対話しながら微調整しないと」

元・無能王子に、農業論で説教された。

屈辱だ。しかし、目の前のトマトの旨さが、彼の言葉の正しさを証明している。

「……くっ、ぐうの音も出ません」

私が項垂れると、隣で閣下が肩を震わせて笑った。

「ははは。まさか君がクラークに言い負かされる日が来るとはな」

「笑い事ではありません! 悔しい……! 弟子入りしたいレベルで悔しいです!」

「いつでも教えてあげるよ、ヨーネリア師匠(・・)」

クラークはニカッと笑った。

「君には王城で色々教えてもらったからね。その恩返しだ。……今度、最高の土作りの秘訣を教えてやるよ」

「……お願いします」

私はプライドを捨てて頭を下げた。背に腹は代えられない。美味しい野菜のためなら、元婚約者にでも教えを乞う。それがヨーネリアだ。

「よし! じゃあ、持っていってくれ!」

クラークは大量の野菜を私たちに持たせた。

「ミーナにもよろしく伝えておくれ。……『僕は元気だ、君も達者でな』って」

「……ええ。伝えます」

少しだけ切ない表情を見せたクラークだったが、すぐにまた「おーい、キャサリン!」と野菜たちの方へ走っていった。

その背中は、王太子時代よりもずっと大きく、輝いて見えた。

「……適材適所、というやつだな」

帰りの馬車で、閣下が呟いた。

「彼は王にはなれなかったが、大地を耕す王にはなれたようだ」

「ええ。……皮肉な話ですわ」

私は膝の上のトマトを見つめた。

「私が彼に『王としての教育』を施していた時間は無駄でしたが……彼が『自分自身』を見つけるための遠回りだったと思えば、無駄ではなかったのかもしれません」

「君のおかげだ」

「いいえ。彼の『才能』ですわ」

私はトマトをもう一口かじった。

甘くて、少しだけ土の香りがするその味は、私の心を複雑な感情で満たした。

嫉妬と、安堵と、そしてほんの少しの祝福。

「……でも、負けませんよ」

私は燃えていた。

「帰ったら、庭の土壌改良をやり直します。クラークに負けない野菜を作って見せますわ!」

「ほどほどにな。……夜の『夫婦の時間』まで削られたら、私が枯れてしまう」

「善処します」

私たちは大量の野菜と共に、王都への帰路についた。

元王子クラーク。

彼が王都の歴史に名を残すことはなかったが、その野菜は「元王子の涙トマト」としてブランド化され、市場で高値で取引されることになる。

それは、彼なりのハッピーエンドだったのかもしれない。
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