25 / 28
25
しおりを挟む
「……計算が合いませんわ。何度叩いても、一円足りませんの」
相談所のデスクで、私は頭を抱えていた。
普段なら一秒で解決するような単純な家計簿の集計が、三十分経っても終わらない。
原因は明白。
部屋の隅で、事務的に「騎士団の活動報告書」を書き続けているゼノの存在だ。
昨夜のバルコニーでの出来事以来、私の脳内メモリは常に「ゼノ」という名の巨大なデータに占有されている。
それなのに、当の本人は今朝から「仕事中だ」と素っ気ない態度。
私が「ゼノ、この書類の不備を……」と話しかけても、「後にしてくれ。今、予算の検分中だ」と視線すら合わせない。
「……無視。……無視ですわ。私の時給が、彼の沈黙によって一分ごとに削り取られていきますわ……」
「お姉様、お顔が死んでおりますわよ。まるで、特売の最終日に目の前で最後のキャベツを奪われた主婦のような、絶望に満ちた表情ですわ!」
リルが心配そうに(と見せかけて面白そうに)私の顔を覗き込んできた。
私はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「リルさん。……私、気づいてしまいましたの」
「何にですの!? 新種の節税対策ですか!? それとも、王子のマントの裏地を剥ぎ取って雑巾にする効率的な方法ですか!?」
「いいえ。……私、あのジュリアス殿下に『婚約破棄』を突きつけられた時、これっぽっちも怖くありませんでしたわ。むしろ『やった、残業代の出ない仕事が減ったわ!』と歓喜しましたの」
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、不規則なリズムを刻んでいる。
「ですが、今。……ゼノに、たった一時間無視されただけで。……私の世界が、まるで国家破産に追い込まれたかのような、言いようのない不安に包まれているのですわ」
「……あ。お姉様、それ。……完全なる『陥落』ですわね」
リルが、何やら尊いものを見るような目で私を見つめた。
私は、部屋の隅のゼノを睨みつけた。
彼はまだ、ペンを動かしている。
私のこの「精神的損失」に気づきもせずに!
「ゼノ・アルタイル!!」
私はデスクをバン! と叩き、彼の元へ歩み寄った。
ゼノがようやく顔を上げ、不思議そうに眉を寄せた。
「なんだ、アクア。……急に大声出して。今、一番ややこしい数字の計算を……」
「ややこしいのは私の心境ですわ! いいですか、ゼノ。あなたのその『沈黙』という名の無形資産。それを独占して、私を放置するのは不当な契約違反ですわ!」
「……契約? なんの話だ」
「昨夜、あなたは私の人生を運用するとおっしゃったではありませんか! それなのに、初日からクライアント(私)を無視して他の業務(報告書)に没頭するなんて、運用担当者として失格ですわ!」
私は、勢い余って彼の胸ぐらをつかんだ。
ゼノは目を見開き、やがて噴き出すように笑い出した。
「……はは! なんだ、お前。……寂しかったのか?」
「寂……!? ち、違いますわ! 資産価値の低下を懸念しただけ……」
「俺を無視されるのが、そんなに嫌か?」
ゼノが私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「……嫌、ですわ。……殿下に断罪されるより、あなたに一言も声をかけられない方が、私の人生にとっては最大級の『赤字』なんですの」
私は真っ赤になった顔を隠さず、真っ直ぐに彼を見据えた。
三白眼に、涙が滲む。
……あぁ、また無駄な水分を排出してしまいましたわ。
「……降参だよ。お前のその『経済用語を借りた告白』、本当に心臓に悪い」
ゼノは私を強く抱き寄せた。
鎧越しではない、彼の体温が直接伝わってくる。
「……悪かった。仕事に集中して、お前のことを考えないようにしてたんだ。……そうしないと、今すぐお前を連れ去って、どこかに閉じ込めておきたくなるからな」
「……閉じ込める? ……食費と家賃がかさみますけれど、よろしいかしら?」
「……お前、本当に台無しだな」
ゼノが私の頭を撫でる。
その心地よさに、私はようやく深い息を吐いた。
恋とは、論理的な思考を停止させるバグ。
ですが、そのバグによってもたらされる幸福という名の「特別利益」は、私の生涯賃金を遥かに上回るものになりそうです。
「お姉様ぁぁ!! 最高ですわ! 今、この瞬間を絵画にして、王都の広場で一枚銀貨十枚で売り出したいですわ!!」
「リルさん、肖像権の使用料は後で請求しますわよ」
幸せな静寂。
ですが、そんな甘い空気を切り裂くように、相談所の扉が再び勢いよく開かれた。
「アクア! やはり貴様は、その野蛮な男に毒されていたか! 今すぐその男から離れろ! 私という真の資産の元へ戻るのだ!」
……ジュリアス殿下。
またしても、私たちの「利益」を邪魔しにやってきたようです。
ですが、今の私は無敵ですわよ。
私はゼノの腕の中で、最高に「悪役らしい」微笑みを浮かべた。
「殿下。……残念ながら、私の心はすでに全株式を彼に譲渡済みですわ。……さあ、不法侵入の賠償金、昨日の三倍で精算していただきますわね!」
相談所のデスクで、私は頭を抱えていた。
普段なら一秒で解決するような単純な家計簿の集計が、三十分経っても終わらない。
原因は明白。
部屋の隅で、事務的に「騎士団の活動報告書」を書き続けているゼノの存在だ。
昨夜のバルコニーでの出来事以来、私の脳内メモリは常に「ゼノ」という名の巨大なデータに占有されている。
それなのに、当の本人は今朝から「仕事中だ」と素っ気ない態度。
私が「ゼノ、この書類の不備を……」と話しかけても、「後にしてくれ。今、予算の検分中だ」と視線すら合わせない。
「……無視。……無視ですわ。私の時給が、彼の沈黙によって一分ごとに削り取られていきますわ……」
「お姉様、お顔が死んでおりますわよ。まるで、特売の最終日に目の前で最後のキャベツを奪われた主婦のような、絶望に満ちた表情ですわ!」
リルが心配そうに(と見せかけて面白そうに)私の顔を覗き込んできた。
私はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「リルさん。……私、気づいてしまいましたの」
「何にですの!? 新種の節税対策ですか!? それとも、王子のマントの裏地を剥ぎ取って雑巾にする効率的な方法ですか!?」
「いいえ。……私、あのジュリアス殿下に『婚約破棄』を突きつけられた時、これっぽっちも怖くありませんでしたわ。むしろ『やった、残業代の出ない仕事が減ったわ!』と歓喜しましたの」
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、不規則なリズムを刻んでいる。
「ですが、今。……ゼノに、たった一時間無視されただけで。……私の世界が、まるで国家破産に追い込まれたかのような、言いようのない不安に包まれているのですわ」
「……あ。お姉様、それ。……完全なる『陥落』ですわね」
リルが、何やら尊いものを見るような目で私を見つめた。
私は、部屋の隅のゼノを睨みつけた。
彼はまだ、ペンを動かしている。
私のこの「精神的損失」に気づきもせずに!
「ゼノ・アルタイル!!」
私はデスクをバン! と叩き、彼の元へ歩み寄った。
ゼノがようやく顔を上げ、不思議そうに眉を寄せた。
「なんだ、アクア。……急に大声出して。今、一番ややこしい数字の計算を……」
「ややこしいのは私の心境ですわ! いいですか、ゼノ。あなたのその『沈黙』という名の無形資産。それを独占して、私を放置するのは不当な契約違反ですわ!」
「……契約? なんの話だ」
「昨夜、あなたは私の人生を運用するとおっしゃったではありませんか! それなのに、初日からクライアント(私)を無視して他の業務(報告書)に没頭するなんて、運用担当者として失格ですわ!」
私は、勢い余って彼の胸ぐらをつかんだ。
ゼノは目を見開き、やがて噴き出すように笑い出した。
「……はは! なんだ、お前。……寂しかったのか?」
「寂……!? ち、違いますわ! 資産価値の低下を懸念しただけ……」
「俺を無視されるのが、そんなに嫌か?」
ゼノが私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「……嫌、ですわ。……殿下に断罪されるより、あなたに一言も声をかけられない方が、私の人生にとっては最大級の『赤字』なんですの」
私は真っ赤になった顔を隠さず、真っ直ぐに彼を見据えた。
三白眼に、涙が滲む。
……あぁ、また無駄な水分を排出してしまいましたわ。
「……降参だよ。お前のその『経済用語を借りた告白』、本当に心臓に悪い」
ゼノは私を強く抱き寄せた。
鎧越しではない、彼の体温が直接伝わってくる。
「……悪かった。仕事に集中して、お前のことを考えないようにしてたんだ。……そうしないと、今すぐお前を連れ去って、どこかに閉じ込めておきたくなるからな」
「……閉じ込める? ……食費と家賃がかさみますけれど、よろしいかしら?」
「……お前、本当に台無しだな」
ゼノが私の頭を撫でる。
その心地よさに、私はようやく深い息を吐いた。
恋とは、論理的な思考を停止させるバグ。
ですが、そのバグによってもたらされる幸福という名の「特別利益」は、私の生涯賃金を遥かに上回るものになりそうです。
「お姉様ぁぁ!! 最高ですわ! 今、この瞬間を絵画にして、王都の広場で一枚銀貨十枚で売り出したいですわ!!」
「リルさん、肖像権の使用料は後で請求しますわよ」
幸せな静寂。
ですが、そんな甘い空気を切り裂くように、相談所の扉が再び勢いよく開かれた。
「アクア! やはり貴様は、その野蛮な男に毒されていたか! 今すぐその男から離れろ! 私という真の資産の元へ戻るのだ!」
……ジュリアス殿下。
またしても、私たちの「利益」を邪魔しにやってきたようです。
ですが、今の私は無敵ですわよ。
私はゼノの腕の中で、最高に「悪役らしい」微笑みを浮かべた。
「殿下。……残念ながら、私の心はすでに全株式を彼に譲渡済みですわ。……さあ、不法侵入の賠償金、昨日の三倍で精算していただきますわね!」
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
貴方が側妃を望んだのです
cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。
「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。
誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。
※2022年6月12日。一部書き足しました。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
史実などに基づいたものではない事をご理解ください。
※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。
表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。
※更新していくうえでタグは幾つか増えます。
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
逆行した悪女は婚約破棄を待ち望む~他の令嬢に夢中だったはずの婚約者の距離感がおかしいのですか!?
魚谷
恋愛
目が覚めると公爵令嬢オリヴィエは学生時代に逆行していた。
彼女は婚約者である王太子カリストに近づく伯爵令嬢ミリエルを妬み、毒殺を図るも失敗。
国外追放の系に処された。
そこで老商人に拾われ、世界中を見て回り、いかにそれまで自分の世界が狭かったのかを痛感する。
新しい人生がこのまま謳歌しようと思いきや、偶然滞在していた某国の動乱に巻き込まれて命を落としてしまう。
しかし次の瞬間、まるで夢から目覚めるように、オリヴィエは5年前──ミリエルの毒殺を図った学生時代まで時を遡っていた。
夢ではないことを確信したオリヴィエはやり直しを決意する。
ミリエルはもちろん、王太子カリストとも距離を取り、静かに生きる。
そして学校を卒業したら大陸中を巡る!
そう胸に誓ったのも束の間、次々と押し寄せる問題に回帰前に習得した知識で対応していたら、
鬼のように恐ろしかったはずの王妃に気に入られ、回帰前はオリヴィエを疎ましく思っていたはずのカリストが少しずつ距離をつめてきて……?
「君を愛している」
一体なにがどうなってるの!?
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす
青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。
幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。
スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。
ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族
物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。
村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる