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「……シェリル様、おはようございます。本日も実に『不生産的』な朝ですわね」
マーサが呆れた声で告げたのは、正午を知らせる鐘が遠くの村から響いた頃だった。
シェリルは寝巻きのまま、テラスの揺り椅子に深く沈み込み、目元に濡れタオルを乗せて微動だにしない。
「……いいのよマーサ。この『何もしない』という行為を完遂するために、私は昨日までにすべての雑務を終わらせたのだから。今の私は、風景の一部。光合成をする植物と同じよ。話しかけないで、二酸化炭素を吸ってしまうわ」
「植物はそんなに理屈っぽくありません。……それより、あちらの『熱血仕事人間』をどうにかしてください。朝からずっとあの調子ですわよ」
マーサが指差した先では、ウォルフが上半身裸で薪割りに励んでいた。
パコォォォン! と空気を切り裂くような快音が響き、丸太が面白いように両断されていく。
その筋肉美は彫刻のようだが、シェリルにとっては単なる「騒音源」でしかない。
「……暑苦しいわね。ウォルフ、薪割り一回につき騒音料として銅貨三枚を請求するわよ」
シェリルがタオルをずらして片目だけで睨むと、ウォルフは斧を置き、汗を拭いながら歩み寄ってきた。
「起きたか、怠慢令嬢。……騒音料を払うのは構わないが、その前にこの手紙を読め。王都から早馬で届いた、緊急の要請だ」
「却下。私は今、文字を読むという高コストな労働を自分に禁じているの。燃やして薪の足しにしなさい」
「そう言うな。……財務大臣が、新しい関税の計算式が分からずに泣きながら辞表を書いたそうだ。お前が以前、独自に組んだ『ノーザランド式・自動算出法』の解読ができないらしい」
ウォルフが差し出した手紙には、あちこちに涙の跡と思われる染みがついていた。
しかし、シェリルは冷酷に鼻で笑う。
「解読できない? 小学生でも分かるように図解しておいたはずよ。あのハゲた大臣、脳みそまで毛と一緒に抜け落ちたのかしら。放っておきなさい、国庫が空になれば嫌でも知恵を絞るわ」
「……お前、本当に情というものがないのか? このままでは罪のない民が、物価高騰で苦しむことになるんだぞ」
ウォルフが真剣な眼差しで詰め寄る。
騎士道精神の塊である彼にとって、シェリルの能力を眠らせておくことは「国益の損失」という名の罪悪に近いのだろう。
「……ウォルフ。あなた、勘違いしているわ」
シェリルは揺り椅子から起き上がり、指先で彼の胸板を軽く突いた。
「私が働いていたのは、殿下のためでも民のためでもないわ。『効率的に国を回さないと、私の自由時間が削られるから』よ。火事が起きる前に消火器を配っておけば、寝ている間に起こされなくて済むでしょう? それだけの話よ」
「……動機が不純すぎる。だが、結果としてお前は国を救っていた。なら、今も……」
「今はもう、守るべき『自分の時間』が手に入ったの。だから、他人がどうなろうと知ったことではないわ。……いい? 私が一分働けば、誰かが一分サボる。それは宇宙の均衡を崩す、極めて非効率な連鎖なのよ」
「屁理屈の天才だな、お前は……!」
ウォルフは頭を抱えた。
剣術では大陸に並ぶ者なしと言われる彼も、この令嬢の「超理論」には手も足も出ない。
「とにかく! 俺は騎士団長として、お前を正当な場所へ戻す義務がある。お前のような才能が、こんな埃っぽい別荘でパジャマのまま腐っていくのは許せん」
「腐ってないわよ、熟成しているの。……そんなに私に働いてほしいなら、まずはあなたが手本を見せなさい」
「……手本?」
「ええ。あなたが私の代わりに、今日一日の『だらだら』を完璧にこなせたら、手紙の返信くらいは考えてあげてもいいわ」
シェリルが不敵に微笑む。
ウォルフは「そんなもの、安い御用だ」とばかりに胸を張った。
「いいだろう。俺の忍耐力を舐めるな。椅子に座ってじっとしているくらい、騎士の修行に比べれば造作もない」
「……あら。じゃあ、スタートよ。条件は三つ。一、思考を停止すること。二、筋肉を一切緊張させないこと。三、五分に一度、盛大に欠伸をすること。……できるかしら?」
「…………」
五分後。
揺り椅子に座らされたウォルフは、直立不動の姿勢で、まるで戦場を監視するかのような鋭い眼光を四方に飛ばしていた。
指先は膝の上でピクリとも動かず、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐだ。
「……はい、失格。あなた、全然だらだらできていないわ。筋肉が『いつでも抜刀できます』って悲鳴を上げているわよ」
「……っ。難しいな、これは……。どうしても周囲の警戒を解くことができない」
「当然よ。あなたは『守るべきもの』があるから動いてしまう。でも私は違う。私は今、自分自身さえ放り出しているの。この境地に達して初めて、真の『無』が訪れるのよ」
シェリルは呆れたようにウォルフから椅子を奪い返すと、再びそこに沈み込んだ。
「……シェリル。お前、本当に戻る気はないんだな」
「一ミリもないわ。あ、でも……。さっきの薪割りの音、リズムが一定で少し心地よかったわ。……あれを『子守唄』代わりに、三十分だけ寝かせてちょうだい。それが終わったら、手紙の……」
「……手紙の、続きを書いてくれるのか?」
「いいえ。……夕食のメニューの最適化について相談に乗ってあげるわ。それ以上の労働は、過労死の危険があるから断固拒否よ」
「……夕食か。まあ、お前の料理が食えるなら、それで手を打とう」
ウォルフは苦笑し、再び斧を手に取った。
パコォォォン……。パコォォォン……。
規則正しい音が、森の静寂に溶け込んでいく。
シェリルはその音を聞きながら、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
有能すぎるがゆえに追い出された悪役令嬢と、生真面目すぎて彼女に振り回される騎士団長。
二人の奇妙な力関係は、この日、完全に定着したのである。
(……まあ、この男が盾になっている間くらいは、少しだけ『有能』な私を思い出してあげてもいいわね)
夢の中で、シェリルは自分専用の「完璧なタイムスケジュール」に、ウォルフという名の新しい項目を書き加えた。
マーサが呆れた声で告げたのは、正午を知らせる鐘が遠くの村から響いた頃だった。
シェリルは寝巻きのまま、テラスの揺り椅子に深く沈み込み、目元に濡れタオルを乗せて微動だにしない。
「……いいのよマーサ。この『何もしない』という行為を完遂するために、私は昨日までにすべての雑務を終わらせたのだから。今の私は、風景の一部。光合成をする植物と同じよ。話しかけないで、二酸化炭素を吸ってしまうわ」
「植物はそんなに理屈っぽくありません。……それより、あちらの『熱血仕事人間』をどうにかしてください。朝からずっとあの調子ですわよ」
マーサが指差した先では、ウォルフが上半身裸で薪割りに励んでいた。
パコォォォン! と空気を切り裂くような快音が響き、丸太が面白いように両断されていく。
その筋肉美は彫刻のようだが、シェリルにとっては単なる「騒音源」でしかない。
「……暑苦しいわね。ウォルフ、薪割り一回につき騒音料として銅貨三枚を請求するわよ」
シェリルがタオルをずらして片目だけで睨むと、ウォルフは斧を置き、汗を拭いながら歩み寄ってきた。
「起きたか、怠慢令嬢。……騒音料を払うのは構わないが、その前にこの手紙を読め。王都から早馬で届いた、緊急の要請だ」
「却下。私は今、文字を読むという高コストな労働を自分に禁じているの。燃やして薪の足しにしなさい」
「そう言うな。……財務大臣が、新しい関税の計算式が分からずに泣きながら辞表を書いたそうだ。お前が以前、独自に組んだ『ノーザランド式・自動算出法』の解読ができないらしい」
ウォルフが差し出した手紙には、あちこちに涙の跡と思われる染みがついていた。
しかし、シェリルは冷酷に鼻で笑う。
「解読できない? 小学生でも分かるように図解しておいたはずよ。あのハゲた大臣、脳みそまで毛と一緒に抜け落ちたのかしら。放っておきなさい、国庫が空になれば嫌でも知恵を絞るわ」
「……お前、本当に情というものがないのか? このままでは罪のない民が、物価高騰で苦しむことになるんだぞ」
ウォルフが真剣な眼差しで詰め寄る。
騎士道精神の塊である彼にとって、シェリルの能力を眠らせておくことは「国益の損失」という名の罪悪に近いのだろう。
「……ウォルフ。あなた、勘違いしているわ」
シェリルは揺り椅子から起き上がり、指先で彼の胸板を軽く突いた。
「私が働いていたのは、殿下のためでも民のためでもないわ。『効率的に国を回さないと、私の自由時間が削られるから』よ。火事が起きる前に消火器を配っておけば、寝ている間に起こされなくて済むでしょう? それだけの話よ」
「……動機が不純すぎる。だが、結果としてお前は国を救っていた。なら、今も……」
「今はもう、守るべき『自分の時間』が手に入ったの。だから、他人がどうなろうと知ったことではないわ。……いい? 私が一分働けば、誰かが一分サボる。それは宇宙の均衡を崩す、極めて非効率な連鎖なのよ」
「屁理屈の天才だな、お前は……!」
ウォルフは頭を抱えた。
剣術では大陸に並ぶ者なしと言われる彼も、この令嬢の「超理論」には手も足も出ない。
「とにかく! 俺は騎士団長として、お前を正当な場所へ戻す義務がある。お前のような才能が、こんな埃っぽい別荘でパジャマのまま腐っていくのは許せん」
「腐ってないわよ、熟成しているの。……そんなに私に働いてほしいなら、まずはあなたが手本を見せなさい」
「……手本?」
「ええ。あなたが私の代わりに、今日一日の『だらだら』を完璧にこなせたら、手紙の返信くらいは考えてあげてもいいわ」
シェリルが不敵に微笑む。
ウォルフは「そんなもの、安い御用だ」とばかりに胸を張った。
「いいだろう。俺の忍耐力を舐めるな。椅子に座ってじっとしているくらい、騎士の修行に比べれば造作もない」
「……あら。じゃあ、スタートよ。条件は三つ。一、思考を停止すること。二、筋肉を一切緊張させないこと。三、五分に一度、盛大に欠伸をすること。……できるかしら?」
「…………」
五分後。
揺り椅子に座らされたウォルフは、直立不動の姿勢で、まるで戦場を監視するかのような鋭い眼光を四方に飛ばしていた。
指先は膝の上でピクリとも動かず、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐだ。
「……はい、失格。あなた、全然だらだらできていないわ。筋肉が『いつでも抜刀できます』って悲鳴を上げているわよ」
「……っ。難しいな、これは……。どうしても周囲の警戒を解くことができない」
「当然よ。あなたは『守るべきもの』があるから動いてしまう。でも私は違う。私は今、自分自身さえ放り出しているの。この境地に達して初めて、真の『無』が訪れるのよ」
シェリルは呆れたようにウォルフから椅子を奪い返すと、再びそこに沈み込んだ。
「……シェリル。お前、本当に戻る気はないんだな」
「一ミリもないわ。あ、でも……。さっきの薪割りの音、リズムが一定で少し心地よかったわ。……あれを『子守唄』代わりに、三十分だけ寝かせてちょうだい。それが終わったら、手紙の……」
「……手紙の、続きを書いてくれるのか?」
「いいえ。……夕食のメニューの最適化について相談に乗ってあげるわ。それ以上の労働は、過労死の危険があるから断固拒否よ」
「……夕食か。まあ、お前の料理が食えるなら、それで手を打とう」
ウォルフは苦笑し、再び斧を手に取った。
パコォォォン……。パコォォォン……。
規則正しい音が、森の静寂に溶け込んでいく。
シェリルはその音を聞きながら、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
有能すぎるがゆえに追い出された悪役令嬢と、生真面目すぎて彼女に振り回される騎士団長。
二人の奇妙な力関係は、この日、完全に定着したのである。
(……まあ、この男が盾になっている間くらいは、少しだけ『有能』な私を思い出してあげてもいいわね)
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