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「……はぁ。深夜の炭水化物は、明日のパフォーマンスを三パーセント低下させるけれど、今の空腹感による集中力の欠如は五パーセントの損失だわ。差し引き二パーセントの得、ね」
深夜、静まり返った別荘のキッチン。
シェリルは寝巻き姿で、自分に言い訳をしながらパントリーから保存食のクラッカーを取り出していた。
昼間の「赤ペン添削」で脳のリソースを使いすぎたせいか、どうにも腹が減って眠れなかったのだ。
「……こんな時間に何をしている」
背後からかかった低い声に、シェリルは「ひゃいっ!?」と変な声を上げて飛び上がった。
「……心拍数が急上昇したわ。ウォルフ、不意打ちは心臓への過負荷よ。医療費を請求するわよ」
「悪かったな。……見回りだ。お前こそ、泥棒かと思ったぞ」
キッチンの入り口には、月明かりを浴びたウォルフが立っていた。
鎧は脱いでいるが、その隙のない立ち姿はやはり現役の騎士団長だ。
「……お前、それは例の『高栄養クッキー』か? 俺にも一枚くれ。夜番は腹が減る」
「いいわよ、一枚につき薪割り十回分の労働債権と引き換えね」
シェリルは毒づきながらも、隣の椅子を引いて彼を座らせた。
二人は暗いキッチンで、月光を頼りに並んでクラッカーを齧る。
いつもは騒がしい二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。
「……ねえ、ウォルフ。ずっと聞こうと思っていたのだけれど」
シェリルが、パサつくクラッカーを飲み込んでから切り出した。
「あなた、どうしてここに来たの? 騎士団長という地位があれば、王宮でふんぞり返って美味しい思いもできたでしょうに。私のような『お払い箱』を追ってきても、あなたのキャリアには何のプラスにもならないわよ」
ウォルフはクラッカーを噛み砕く手を止め、窓の外の森を見つめた。
「……キャリア、か。お前らしい言い草だな」
「当然でしょう。人生は有限の資産よ。それをどこに投資するかで、幸福の総量が決まるわ。今のあなたは、明らかに『不良債権』に投資している投資家と同じよ。非効率極まりないわ」
「……俺の実家は、北方の貧しい下級貴族だった」
唐突に始まった昔話に、シェリルは目を瞬かせた。
「……実力だけが頼りの家系でな。俺は子供の頃から、剣を振るうことだけを期待されて育った。魔物を倒せば褒められ、大会で優勝すれば家が潤う。……俺という人間ではなく、俺がもたらす『戦果』だけが、俺の価値だったんだ」
ウォルフの声は、いつになく淡々としていた。
「王宮へ行っても同じだった。殿下は俺の剣を『便利な道具』だと思っているし、他の貴族は俺を『猛犬』のように扱う。……俺自身がどう思っているか、疲れているかどうかなんて、誰も興味はなかった」
「……それは、まあ。組織というものは得てして構成員を歯車として扱うものよ」
シェリルが冷静に返すと、ウォルフはフッと自嘲気味に笑った。
「そうだな。……だが、そんな中で一人だけ、俺を『歯車』としてではなく、『壊れかけの精密機械』として扱う女がいた」
「……誰よ、その物好きな女は」
「お前だよ、シェリル」
「……は?」
シェリルは手に持っていたクラッカーを落としそうになった。
「忘れたか? 二年前、俺が隣国との国境紛争で三日三晩不眠不休で戦って戻った時だ。殿下は『さすが俺の騎士だ、明日も頼むぞ』と言ったが、お前だけは違った」
ウォルフがシェリルを真っ直ぐに見つめる。
「お前は俺の顔を見るなり、『あなたの心拍のリズムが乱れているわ。筋肉の疲労物質が脳に達して、判断力を十五パーセント低下させている。今すぐ寝なさい。これは王太子妃としての命令ではなく、公爵家の経営者としてのリスクヘッジよ』と言って、俺を無理やり医務室へ叩き込んだ」
「……そんなこともあったかしら。単に、あなたが戦死して、新しい騎士団長を育成するコストを惜しんだだけよ」
「ああ、そうだろうな。……だが、俺にとってはそれが救いだったんだ。誰もが俺に『もっと働け』と言う中で、お前だけが、理屈をこねて俺を『休ませよう』としてくれた」
ウォルフは、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「お前は、自分も同じくらいボロボロになりながら、他人の『非効率な無理』を許さなかった。……だから、お前が婚約破棄されたと聞いた時、俺は思ったんだ。今度は俺が、お前を『休ませる』番だってな」
「…………」
シェリルの胸の中で、今まで感じたことのないような、大きな「エラー」が発生した。
計算式が崩れ、論理回路が熱を持ち、処理が追いつかない。
「……馬鹿じゃないの。やっぱり、非効率だわ。そんな情緒的な理由で、人生を棒に振るなんて」
「……そうかもな。だが、お前と一緒に畑を耕して、文句を言い合いながら不味い麦粥を食っている今のほうが、俺にとってはよっぽど『投資価値』があるんだよ」
ウォルフが立ち上がり、シェリルの頭に無造作に手を置いた。
「……さっさと寝ろ。明日も朝から、あの貴族連中に農作業の『デバッグ』をさせるんだろう?」
「……言われなくても、そうするわよ。……おやすみなさい、ウォルフ」
ウォルフがキッチンを去った後、シェリルは一人、月の光の中で自分の胸に手を当てた。
「……おかしいわ。心拍数が平時より十パーセント高い……。……きっと、クラッカーに含まれていた塩分が、交感神経を刺激したせいね。そうよ、そうに決まっているわ」
彼女は、顔に上った熱を「室温の不適切な管理」のせいにして、逃げるように寝室へと戻った。
最強の騎士が抱えていた、不器用な情愛。
効率化の鬼である令嬢は、それを「バグ」と呼びながらも、消去(デリート)することはできなかった。
そして、その夜。
シェリルは不思議なことに、十五時間の爆睡ではなく、短くても深く温かい眠りについたのである。
深夜、静まり返った別荘のキッチン。
シェリルは寝巻き姿で、自分に言い訳をしながらパントリーから保存食のクラッカーを取り出していた。
昼間の「赤ペン添削」で脳のリソースを使いすぎたせいか、どうにも腹が減って眠れなかったのだ。
「……こんな時間に何をしている」
背後からかかった低い声に、シェリルは「ひゃいっ!?」と変な声を上げて飛び上がった。
「……心拍数が急上昇したわ。ウォルフ、不意打ちは心臓への過負荷よ。医療費を請求するわよ」
「悪かったな。……見回りだ。お前こそ、泥棒かと思ったぞ」
キッチンの入り口には、月明かりを浴びたウォルフが立っていた。
鎧は脱いでいるが、その隙のない立ち姿はやはり現役の騎士団長だ。
「……お前、それは例の『高栄養クッキー』か? 俺にも一枚くれ。夜番は腹が減る」
「いいわよ、一枚につき薪割り十回分の労働債権と引き換えね」
シェリルは毒づきながらも、隣の椅子を引いて彼を座らせた。
二人は暗いキッチンで、月光を頼りに並んでクラッカーを齧る。
いつもは騒がしい二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。
「……ねえ、ウォルフ。ずっと聞こうと思っていたのだけれど」
シェリルが、パサつくクラッカーを飲み込んでから切り出した。
「あなた、どうしてここに来たの? 騎士団長という地位があれば、王宮でふんぞり返って美味しい思いもできたでしょうに。私のような『お払い箱』を追ってきても、あなたのキャリアには何のプラスにもならないわよ」
ウォルフはクラッカーを噛み砕く手を止め、窓の外の森を見つめた。
「……キャリア、か。お前らしい言い草だな」
「当然でしょう。人生は有限の資産よ。それをどこに投資するかで、幸福の総量が決まるわ。今のあなたは、明らかに『不良債権』に投資している投資家と同じよ。非効率極まりないわ」
「……俺の実家は、北方の貧しい下級貴族だった」
唐突に始まった昔話に、シェリルは目を瞬かせた。
「……実力だけが頼りの家系でな。俺は子供の頃から、剣を振るうことだけを期待されて育った。魔物を倒せば褒められ、大会で優勝すれば家が潤う。……俺という人間ではなく、俺がもたらす『戦果』だけが、俺の価値だったんだ」
ウォルフの声は、いつになく淡々としていた。
「王宮へ行っても同じだった。殿下は俺の剣を『便利な道具』だと思っているし、他の貴族は俺を『猛犬』のように扱う。……俺自身がどう思っているか、疲れているかどうかなんて、誰も興味はなかった」
「……それは、まあ。組織というものは得てして構成員を歯車として扱うものよ」
シェリルが冷静に返すと、ウォルフはフッと自嘲気味に笑った。
「そうだな。……だが、そんな中で一人だけ、俺を『歯車』としてではなく、『壊れかけの精密機械』として扱う女がいた」
「……誰よ、その物好きな女は」
「お前だよ、シェリル」
「……は?」
シェリルは手に持っていたクラッカーを落としそうになった。
「忘れたか? 二年前、俺が隣国との国境紛争で三日三晩不眠不休で戦って戻った時だ。殿下は『さすが俺の騎士だ、明日も頼むぞ』と言ったが、お前だけは違った」
ウォルフがシェリルを真っ直ぐに見つめる。
「お前は俺の顔を見るなり、『あなたの心拍のリズムが乱れているわ。筋肉の疲労物質が脳に達して、判断力を十五パーセント低下させている。今すぐ寝なさい。これは王太子妃としての命令ではなく、公爵家の経営者としてのリスクヘッジよ』と言って、俺を無理やり医務室へ叩き込んだ」
「……そんなこともあったかしら。単に、あなたが戦死して、新しい騎士団長を育成するコストを惜しんだだけよ」
「ああ、そうだろうな。……だが、俺にとってはそれが救いだったんだ。誰もが俺に『もっと働け』と言う中で、お前だけが、理屈をこねて俺を『休ませよう』としてくれた」
ウォルフは、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「お前は、自分も同じくらいボロボロになりながら、他人の『非効率な無理』を許さなかった。……だから、お前が婚約破棄されたと聞いた時、俺は思ったんだ。今度は俺が、お前を『休ませる』番だってな」
「…………」
シェリルの胸の中で、今まで感じたことのないような、大きな「エラー」が発生した。
計算式が崩れ、論理回路が熱を持ち、処理が追いつかない。
「……馬鹿じゃないの。やっぱり、非効率だわ。そんな情緒的な理由で、人生を棒に振るなんて」
「……そうかもな。だが、お前と一緒に畑を耕して、文句を言い合いながら不味い麦粥を食っている今のほうが、俺にとってはよっぽど『投資価値』があるんだよ」
ウォルフが立ち上がり、シェリルの頭に無造作に手を置いた。
「……さっさと寝ろ。明日も朝から、あの貴族連中に農作業の『デバッグ』をさせるんだろう?」
「……言われなくても、そうするわよ。……おやすみなさい、ウォルフ」
ウォルフがキッチンを去った後、シェリルは一人、月の光の中で自分の胸に手を当てた。
「……おかしいわ。心拍数が平時より十パーセント高い……。……きっと、クラッカーに含まれていた塩分が、交感神経を刺激したせいね。そうよ、そうに決まっているわ」
彼女は、顔に上った熱を「室温の不適切な管理」のせいにして、逃げるように寝室へと戻った。
最強の騎士が抱えていた、不器用な情愛。
効率化の鬼である令嬢は、それを「バグ」と呼びながらも、消去(デリート)することはできなかった。
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