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Beautiful spirit

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ぼくは、自分の考えの甘さを恥ずかしく思った。
線引屋として活動するようになり、日常では体験できないような経験を積み、テレビで自分の描いたグラフィティが映されて、心のどこかで調子に乗っていたのかもしれない。だけど、大前提として、ぼくがやってきたことは、イリーガルなグラフィティ。そのことを忘れてはいけなかったんだ。
ストリートジャーナルで取り上げられてから、その反響と影響力は嫌というほど目の当たりにしてきたというのに。

向坂さんの家を出ても、江津は自分の家に戻らず、少しぼくの隣を一緒になって歩いた。
「なあ、間久辺。さっきしてた話って……いや、なんでもない。詮索はしない約束だったな。それより、この後どうするんだ?」
「うん。どうしてもやらないといけないことができたんだ。だから、行く場所がある」
ふーん、と鼻から抜けるような返事で答えた江津は、団地の入り口まで来た所で立ち止まった。振り返ったぼくに、彼は言う。
「お前がなにをするつもりか、俺は知らないし、口を出すつもりもない。俺は、あくまでもお前のクラスメイトだ。それ以上でも以下でもねえよ。だから、俺に言えるのは一つだけだ」
そこまで言うと、江津は親指を突きだし、

「必ず無事に戻って来い。教室で、待ってるからよ」

ぼくはその姿を呆然と眺めてから、込み上げてきた感情に、思わず笑いがこぼれた。
「なに笑ってんだよ。俺、なんか変なこと言ったか?」
「ううん、変じゃない。変じゃないけどさ」
こんな風に、ぼくに気を遣うようなこと、以前の江津なら絶対に言わなかっただろう。その変化がおかしくて……いや、違う。嬉しくてぼくは笑ったんだ。
込み上げてくる笑みをなんとか噛み殺して、一回頷き、ぼくは告げる。

「また、学校で会おう」


ーーーーーーーーーーーーーーー


江津に見送られながら、ぼくは団地を後にした。向かう先は、マッドシティの中心地。
そもそもの目的地であった与儀さんの店に到着したのは、夜九時を過ぎた頃だった。扉を見ると、『close』の看板がぶら下がっている。
夜型のこの街に合わせて、普段は深夜まで営業することもある『Master peace』が、九時で店を閉じているなんて珍しい。もしかしたら用事で出掛けているのかとも思ったが、扉の隙間からかすかに光が漏れているのを確認し、中に誰かいることを確信した。
ぼくは迷わず扉をノックし、三回ほどそれを繰り返すと、中で誰かが動く気配を感じ、一歩下がる。
そして、中から出てき人物を見て、思わず「あっ」と声が出た。
「御堂。どうしてここに?」
「ああ、ちょっと野暮用で………って、お前その顔どうしたんだよ」
甲津侭に殴られた箇所をさすりながら、「別に大したことないよ」と答える。「それより、与儀さんに話があるんだ。中にいる?」
「いることはいるけど、話に応じるか微妙だな。まあ、取り敢えず中に入ったらどうだ?」
我が物顔でそんなことを言ってくる御堂に、いつものぼくなら突っ込みの一つも入れているところだが、いまはそれどころではなかった。
それに、御堂の言動からしても、雰囲気がピリピリしているのを感じる。
中に入ると、カウンターに寄りかかりながら虚ろな目をした与儀さんの姿があり、いつもと明らかに違う様子から、なにかあったことは間違いなかった。
その手には小さなグラスが握られていて、酒のビンが置かれているカウンターの側に、見覚えのあるナップザックが無造作に置かれていた。
こっちを一瞥した与儀さんは、ぼくと目が合うとスッと視線を逸らし、逃げ場を求めるようにグラスを口元に持ってくる。
ぼくはその様子を見て、我慢できなくなって駆け寄った。
グラスを持つ彼女の手を強く握り、「……ふざけるな」と言い放つ。
ガタンという音と共に、ぼくと彼女の体がカウンターを挟んで対峙した。
「なにするのよ。腕、痛いんだけど。離してよ」
そう言って、手を振りほどこうとする与儀さんに、ぼくはさらに強い力をこめて体を引き寄せる。そして、彼女の目を真っ直ぐに睨んで、言った。
「ふざけるなっ! 与儀さん、あんたは、なにをやってるんだよ!」
「おい、間久辺。お前こそなにやってるんだよ。そんなに熱くなって、らしくないぜ。線引屋のマスクのことなら聞いてるけど、与儀さんだって悪気があってお前から取り上げてたわけじゃないんだ。許してやれよ」
そう言って宥めすかしてくる御堂に、そうではないのだと告げる。
「ぼくが言っているのは、そんなことじゃない! 与儀さん。あんたはこんな大事なときに、どうして酒なんて飲んでるんだっ。いつまで逃げているつもりだよ」
彼女が、甲津侭とかつてトラブルがあったことは想像できていた。
ぼくがあの集合写真ーーー甲津侭の写っている写真を見せたときの彼女の表情と、その後の反応からそれは確信していた。
だが、それに反して、商店街で会った甲津侭は、与儀さんの名前を聞いて嬉しそうだった。頑張って自分の店を持ったのだと知ったときの彼の顔を、与儀さんにも見せてやりたくなる。甲津侭は、少なくとも過去の出来事など気にしていない。
それなのに、彼女は酒をあおり、過去から逃げようとしている。
ぼくの手を乱暴に振りほどくと、持っていたグラスの中身がこぼれ、グラスも一緒に地面に転がる。その勢いのまま、彼女は吐き捨てるように言った。
「仕方ないじゃないっ、あんたになにがわかるのよ! 侭をこの街から追い出したのはあたしなのよ。あの人はあたしを恨んでいるのっ。だから、グラフィティを憎んでいるし、線引屋のことも恨んでいるのよ。あたしには侭のやっていることを止める資格はない。だから、あんたを侭の手から守るためには、ガスマスクを取り上げる以外に方法が思い付かなかったのよ!」
与儀さんは、ぼくを甲津侭の手から守るために、線引屋の道具を奪った。確かに、それならぼくは線引屋として行動できなくなり、狙われる危険も少なくなる、そう考えたのだろう。
だけど、その考えは表面的には正しいように感じられるが、根本的な解決にはなっていない。
「そもそも、与儀さんは勘違いしています。甲津侭がこの街に戻った本当の理由は、復讐のためなんかじゃなかったんです」

それからぼくは、さっき向坂家で聞かせてもらった話をすべて説明した。
甲津侭の幼少期の思い出が詰まった商店街のこと。そして、向坂家を出る間際、おじいさんから最後に聞かされた話、それこそが、甲津侭がこの街に戻ってきた最大の理由に違いなかった。

「ーーー嘘、でしょう?」

ぼくの話を聞き終えた与儀さんは、腕をだらりと下げ、力なく項垂れた。
「そうか。だから甲津侭は、鍛島に目をつけられてもお構い無しに振る舞っていたのか」
御堂の言葉に、ぼくは頷く。
すると、御堂は頭をがしがしと掻きながら、苦渋に満ちた顔になった。
「だけど、このままだとまずいことになる。間久辺の話が正しいなら、あの男はこれからも商店街の落書きをやめさせるために、ライターを襲い続けるだろう。そうなれば、鍛島が腰をあげるのも時間の問題だ。街を仕切る人間としては、これ以上好き勝手させておくわけにはいかないだろうからな」
「つまり、このままだといずれは藪から蛇を出しかねないってこと?」
「その通りだ。まあ、『蛇』は甲津侭の方だがな」
蛇。かつてそう呼ばれていた甲津侭は、いまでは裏切りの蛇と揶揄した通り名で呼ばれている。
一時期ハマっていた漫画の影響で、少し調べた創世記の内容に、アダムとイブをそそのかした蛇は、その罰として地面を這うことを義務付けられたと書かれていた。
皮肉な話だが、蛇と呼ばれていた甲津侭は、かつてチームを裏切ってしまった過去に苦しみ、いまも地を這いずり回るようにして一人で戦っている。
だが、それではあまりにも救いがない。
彼のやっている暴力行為は、決して誉められた行為ではないし、許されるものでもない。だけど、その心のあり方を、ぼくは尊いものだと思う。
本来なら、イリーガルに相対するのなら、正攻法で立ち向かうのが筋だ。法律だってなんだって、社会のルールを守る者の味方だ。
だが、必ずしも正攻法がいつも通用しないことを、ぼくは誰よりよく知っている。いくら願っても、神様は助けてくれないし、理不尽だと叫んでも、救われることなんて殆どない。ならば立ち向かうしかない。神様が蛇を罰したように、誰もが彼を裏切りの蛇と呼んで、責めるのならば、せめてぼくは彼の力になりたいと思う。だってーーー

「ーーーイリーガルに対抗できるのは、イリーガルだけだ」

ぼくの言葉の意味をいち早く理解したのは、御堂だった。
頷き、次の言葉を待っているようだ。
そう言えば、ぼくが覚悟を決めるとき、いつも隣に御堂がいた。
この数ヶ月という短い間に、誰よりもぼくという人間を理解してくれたのは、恐らく彼だ。
それに比べて、与儀さんは、まだ動き出せずに下を向いていた。
彼女が心に抱えてきた、甲津侭への想いの重さがそうさせているのだろう。
顔をあげられないまま、嗚咽をもらすように、彼女は弱音を吐いた。
「あたしには、もう、どうしたらいいかわからないっ。あたしなんかが侭のために、なにができる? 過去に一度、失敗しているのよ! また、同じことを繰り返すなんて絶対に嫌っ。もう、どうやったら侭を助けることができるのか、わからないのよっ!」
与儀さんの叫び声が、店内に響く。
その頬を伝う涙を見て、ぼくは、彼女がどれほど甲津侭のことに負い目を感じ、同時に大切に思っているのかを垣間見た気がした。
与儀さんは、いつもの飄々とした様子からは想像できないほど、感情を剥き出しにした表情で、悲しみにくれている。
そして、消え入りそうな声で、けれど心の奥から絞り出すように、「……助けて」と口にする。
「ねえ、お願い、誰でもいいから助けて。侭を助けてあげて。お願いだから、助けてよ……」
壊れた機械のように、同じ言葉を繰り返す与儀さん。
涙に染まる彼女の瞳をまっすぐに見ながら、ぼくは頷いた。
「与儀さん、ぼくたちが初めて会った日のことを、覚えていますか?」
「なによ、急に?」
いきなりの問いに、彼女は困惑の表情を見せる。与儀さんにとっては、あの出来事は大したことではなかったのかもしれない。だけど、ぼくは、忘れたことなんてない。
「あの日、鍛島の怒りを買ったぼくと御堂は、一週間でストリートジャーナルに載るようなグラフィティを描くという、無理難題を吹っ掛けられました。味方なんて誰もいませんでした。クラスメイトからバカにされてるオタクと、仲間を売ったヘタレヤンキー、そんな二人を、誰が助けてくれますか?」
自嘲するみたいに、ぼくは笑う。そして、チラと背後に目をやると、御堂は肩をすくめて見せた。続けろ、という意味だろう。ぼくは頷き、言葉を続ける。
「だけど、与儀さんだけは違った。こんな駄目なぼくら二人の味方になってくれた。助けてくれた」
肩を叩かれ、横を見ると、御堂がぼくの隣に立っていた。彼も同じ思いなのか、一度深く頷いて与儀さんの方を見る。
ぼくもしっかりと頷き、与儀さんを視界に捉えると、『助けて』という問いに、今度ははっきりと答える。

あのときの恩返しを、ぼくらはまだなにも出来ていないーーー

「ーーーだから、今度はぼくらが与儀さんを助ける番だっ」

彼女はその答えを聞くと、瞳にためた涙をポロポロと流しながら、「……ありがとう」と一言呟いた。
ぼくはお礼の言葉を手で遮るように止めてから、「与儀さんにも手伝ってもらいますよ」と言う。そして、隣に目をやり、「もちろん、御堂にもね」と続ける。
「ああ、もちろんだ。俺たち三人が組めば最強。前も、そうだったもんな」
「その通り。一人の力なんてたかが知れているけど、三人集まれば話は別だ」
「あたしも、もちろん手伝うよ。だけど、具体的にはどうするの? もちろん策はあるんでしょう?」
与儀さんの問いに、ぼくは首肯する。
それを見た御堂は、「どうするつもりだ?」と答えを求めてくる。
「そんなの決まってる。ぼくは不良じゃないし、喧嘩屋でもない。ライターだ。ライターにできることなんて、初めから一つしかない」
「じゃあ、やるんだな?」
御堂のその言葉に、ぼくは決然と頷き、答えた。

「ああ、そうだ。やるよ、グラフィティを」

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