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Beautiful spirit

8裏

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具体的に俺の役割を聞かされ、思わず「……マジかよ」と言葉がもれる。
間久辺の中では、すでに作戦が頭の中に浮かんでいるのか、俺に作戦の概要だけ説明すると、テキパキと動き始める。
与儀さんはと言うと、奥のアトリエにこもって一人作業を行っている。
間久辺の言葉を借りるなら、「与儀さんにしかできない仕事」とのこと。
まあ、専門的なことは俺にはわからねえから、詳しいことは聞いていないけど、彼女の得意分野は、『ステンシルアート』だ。それに取りかかっているのだろう。
『間に合うかわからないわよ』
と弱気な発言をした与儀さんに対し、間久辺は、『なんとしても間に合わせて下さい』と釘を刺した。普段は見せない間久辺の迫力に、与儀さんは唾を飲み込み、深く頷いた。
そんな感じで二人は作業を始めたが、どうだろう。さっきは実際問題として、自分の役割について不本意な思いもあったが、俺には二人みたいに絵を描く才能がない。そもそも役に立つことなんて、できるのか?
そうやって斜に構える俺に、間久辺は意外な言葉を口にした。
「今回の作戦は、御堂がいないと始まらない。次に甲津侭が街で暴れたら、鍛島が動き出してしまうんだろう? だったら、時間はもうほとんど残されていない。今晩で仕上げるためには、御堂のフットワークの軽さが重要なんだ」
そう言われても、俺にだって緊張する心くらいあるんだ。
『初対面の相手に接触して、協力を呼び掛ける』っていう一つ目の役割だって本当なら厳しいところだが、さらに二つ目、『甲津侭を商店街に呼び出す』というのが、かなり難しい。
俺にできるだろうか。
もしも、俺が失敗したら、甲津侭を救おうと必死に動いている間久辺と与儀さんの努力がまるきり無駄になってしまう。
不安にかられていると、間久辺は作業する手を止めて、俺を見た。そして、こう言った。
「御堂ならやれるさ」
「なんで、そんなことが言えるんだよ」
「だって、ぼくが一番頼りにしているのは、御堂だから」
当たり前のようにそう言った間久辺は、またすぐに手を動かし始めた。
まるでなんでもないことのように言われたその言葉が、なぜかとても勇気をくれる。
本人にはぜってえ言わねえけど、俺は間久辺のライターとしてのスキルだけじゃなく、根底にある人間性も認めているつもりだ。誰か他人のために自分を危険に晒して、本気で動ける人間なんてそうはいねえ。だから、そんな間久辺に信頼されているってわかっただけで、こんなにも勇気がわいてくるんだ。
「さて、そろそろ行こうか」
準備を終えたのか、間久辺はそう言って立ち上がった。線引屋のマスクなんかが入っているナップザックを肩にかけ、もう片方の肩に、大量のスプレーインクをまとめたカバンを担ぐ。
アトリエにこもっている与儀さんに、「先に行って待ってます」と言った間久辺は、彼女が背中を向けたまま作業に没頭する姿を見て、満足したのか店を出る。
俺もそれに倣って店を出た。
歩みを進めること三十分ほどで、話に聞いていた商店街が見えてくる。
「良かった。誰もいないみたいだ」
そう言て周囲を見渡した間久辺に倣うように、俺も辺りを見回す。
間久辺の話を聞いて、想像はしていたが、それ以上に落書きで埋め尽くされているな。これらすべてを上書きすることが、今回、間久辺が自分に課した役割か。
本当にそんなことが可能なのだろうか? という疑問は、これまで間久辺に対して、何度も抱いてきた疑問だ。そのすべてに、やつは俺の期待に応えてきた。

ナップザックから取り出された、ガスマスク。それを顔に装着し、パーカーのフードを目深に被ると、間久辺は目の前のシャッターに真正面から対峙した。
その後ろ姿を見て、俺は、背筋に冷たいものを感じ、全身総毛立つのがわかった。
さっきまでと、纏う雰囲気がガラリと変わった。
目の前の男は、誰だ?
本当に俺の知る間久辺なのか?
直前にガスマスクを被る姿を目の当たりにしていても、信じられなかった。
これまで、線引屋としてグラフィティを描くところに、俺も何度も立ちあった。すべての始まりとも言えるライズビルでのグラフィティのときも、その姿を見ていたが、あのときといまではまるで別人だ。
例えるならそれは、裏社会きっての喧嘩屋アカサビを前にしたときのような風格すら感じられる。それだけの場数を踏んできた、ということだろう。
線引屋の姿でシャッターの前に立つ間久辺を見て、さっきまで抱いていた不安は一気に消え去っていた。こいつなら、きっと心配いらない。だから俺は、俺のやるべきことをする。
まずはこの団地に住むという、向坂という老人に協力を頼むこと。
それが片付いたら、今度は甲津侭の所か。
俺は、事前に渡されていた甲津侭の居場所の書かれた紙を見て、思わず「……ここって」と声をもらしてしまう。話では聞いていたが、やはり、そうなのか。
俺は顔をあげ、間久辺の背中を見ると、思わずゾッとした。
ヤツが両手に持つスプレーインクは二色。右手に黒色と、左手に茶色。
だが、その二本のスプレーから噴霧されるインクの太さは、まるで違う。先端のノズルを付け替えたカスタム仕様なのだろう。
右手に持つ黒色のスプレーからは、細い輪郭線が描かれ、同時進行で左手のスプレーインクから茶色の太い線が紡がれる。
その線は、さながら蛇のようだ。
閉ざされたシャッターに描かれた落書き、次々と蛇が飲み込んでいく様は、恐怖すら呼び起こす。どんどん伸びていく線が、一つ、また一つと落書きを飲み込んでいく度に、間久辺ならやれるという希望が、現実になっていく。

だが、どうするつもりなんだ。こんな風に線で落書きを消していったとしても、それは単なる落書きの上塗りでしかない。すぐにまた別のライターの手によって上書きされるだけではないのか。そんな風に考え込んでいる内に、みるみる間に、シャッターの一枚をくねくねと這う、蛇のような線がそこに現れた。
気になる。
気になるが、俺は好奇心を捨て、間久辺に背中を向ける。
あいつは俺を信じて、グラフィティに集中している。だったら俺は、その信頼に応えないといけない。
さっき、間久辺が言ってくれた言葉を、俺は思い出していた。

『だって、ぼくが一番頼りにしているのは、御堂だから』

深く息を吸い込み、肺に冷たい空気を溜め込むと、俺は一足飛びに走り出す。

俺も同じだ、間久辺。お前を一番、信頼しているんだ。だから心配なんてしていない。お前なら必ず、甲津侭を救ってみせるって、そう、信じてる。
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