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しおりを挟む第一章 『楽園』に入学しました
国立魔導具研究開発局附属の全寮制魔術専門学校――通称『楽園』に通う生徒の朝は、問答無用で早い。
起床時間は朝の六時。寮の最高責任者である寮長は、毎朝その時間になるときっちり起床の鐘を打ち鳴らす。
生徒たちはそれから十五分以内に、コの字型になっている寮の中庭に整列しなければならない。そこで朝礼が行われるのだ。
ちなみに朝礼の点呼に遅れた場合の罰則は、翌日から一週間のトイレ掃除である。
たかがトイレ掃除とあなどってはいけない。
三つの棟からなる寮すべてのトイレが対象だ。数が多い上に、清掃業者のチェックは小姑レベルに厳しい。
このチェックをクリアするためには、自由時間がほとんど消えてしまう。
そのため、トイレ掃除の洗礼を受けた者は、二度と遅刻しなくなる。
そうささやかれる、伝統の罰則なのだが――
「……また、遅刻か。ヴィクトリア・コーザ」
「はいー……。申し訳ありません」
寮長の冷たい声に答えたのは、今年の春『楽園』に入学したヴィクトリア。
初夏の風が爽やかに薫る今朝、通算八度目の遅刻という新記録を達成した。
めでたくもなんともない話だ。
初回は無表情で、二度目は少々お怒り気味に、三度目はあきれ返った顔をしてトイレ掃除を命じた寮長、リージェス・メイア。
彼は今、非常に残念なものを見る目でヴィクトリアを眺めている。
リージェスはつややかな漆黒の髪に深い藍色の瞳、メタルフレームの眼鏡が実にお似合いのイケメンだ。
彼にそんな眼差しを向けられるのは、精神的ダメージがかなり大きい。ヴィクトリアは、彼の美しい顔が好きなのだ。
もともと早起きだったのに、『楽園』に入学してからというもの、なぜか少々――否、ものすごく寝起きが悪い。ゆえに寮がひとり部屋なのをいいことに、三個の特大音量の目覚まし時計をセットしていた。
そのどれもが、実に破壊的な音量を誇っている。
にもかかわらず、ヴィクトリアは起きられなくて、こうして遅刻してしまう。そして恐らく、今後も寝坊する日があるだろう。
ヴィクトリアは反省しつつ、この学校に入学した経緯をぼんやりと思い出した――
ヴィクトリアが『楽園』に入学したのには、わけがある。
そのきっかけは、去年の冬。
南方の田舎町で小さな家庭用生活魔導具店を営んでいた母が、事故で亡くなったのだ。
馬車の前に飛び出した子どもをかばい、母が大けがをしたと聞いて、ヴィクトリアは急いで病院に駆けつけた。
ベッドに横たわりヴィクトリアの顔を見上げた母は、瀕死の状態とは思えないほどニヒルな笑みを浮かべた。
そして、ぐっと親指を立てて、のたまったのである。
――ふ……っ、わたし……カッコ、いい。
自画自賛するなり潔く天に召された母は、確かにカッコいい女性だった。ヴィクトリアは心の底から誇りに思う。
そういうわけで、母と二人暮らしだったヴィクトリアはひとりになってしまった。母以外に身寄りもなければ、頼るあてもない。
ヴィクトリアは途方に暮れた。幼い頃からずっと母の店を手伝っていて、これからもそのつもりだったのだ。
そしてゆくゆくは、取引先かお客さんの誰かから「ちょっといいひとがいるんだけど、どうだい?」と持ちこまれた縁談に乗っかる計画を立てていた。仮に相手がお金持ちではなくとも、つましく幸せに暮らす人生を夢見ていたのだ。
日曜学校で読み書きと計算の基礎は身につけていたし、魔導具に関する知識も母からいろいろと教わった。
しかし、まだひとりで生活できる力はない。
そんな特技もコネもない十五歳の少女を雇おう、という心優しい人間はいないだろう。もちろん、嫁にもらおうという物好きも。
幸い、母は少々まとまったお金をヴィクトリアに遺してくれた。おかげで、すぐに借家から追い出されることはない。
とはいえ、どんなに切り詰めて生活したところで、無収入。
貯金はあっという間に消えてしまう。
店に残された生活魔導具を前に、ヴィクトリアは考えた。母の作ったこれらの品は、質がいいと町でも評判のものばかりだ。少し悩んだヴィクトリアだったが、在庫品で閉店セールをすることにした。
すると、「もう二度と手に入らない便利な魔導具」と噂になり、きれいさっぱり売り切れた。
……少々利益を上乗せしたものの、母の弔い費用に充てるということで許してもらいたい。
そうして当座の資金を増やしたヴィクトリアは、とりあえず職探しをはじめた。
生まれ育ったこの小さな町に、働き口は多くない。
農閑期に町のひとびとが皇都へ出稼ぎに行く話をよく聞いていたので、人口の多い都会に出ればどうにかなるだろうと考えた。
実に短絡的な思考である。
のんきなヴィクトリアは、町を出て、意気揚々と皇都に移り住むことにした。
けれど皇都へ入ろうとしたところで、門を守っていた衛兵に尋問された。
最初、自分のどこがあやしいのだ、とヴィクトリアはぷりぷり怒った。そんな彼女に、親切な衛兵はため息をつきながら理由を説明してくれる。いわく、皇都では銀髪はまずいのだとか。
ヴィクトリアの髪は一切クセのない、見事な銀髪だ。
早くに亡くなった父親譲りのこの髪が、母は何よりお気に入りだった。出会ったひとにも大抵褒めてもらえ、ヴィクトリアにとっても大切なものだ。
それに、いざというときには切って売ることができる。髪は腰まであり、どんなときも手入れを欠かしていない。
しかし衛兵によると、皇都では銀髪というのは歓迎されないらしい。それは、北の大国に住む者たちによく見られる色だからである。
ヴィクトリアはまったく知らなかったのだが、この国は二十年ほど前にその大国と戦争をしたのだそうだ。
今は条約を結んで不可侵の関係にあるものの、皇都では、北国の民に対する「なんかヤな感じー」という感情がいまだに根強く残っている。
よって、この国の皇族貴族に多い金髪は好印象だけれど、銀髪は――そういう扱いなのだとか。
その話を聞いたとき、ヴィクトリアはお嬢さまのように口を覆って「がーん!」と口に出してしまった。ちょっぴり黒歴史である。
ともかく、故郷では高値がつくこと間違いなしと言われていた自慢の髪は、完全に貨幣価値ゼロになってしまった。
こんなことなら、皇都に出る前に売ってくればよかった。しかし、そう嘆いたところで後の祭りだ。
打ちひしがれるヴィクトリアを哀れに思ったのか、衛兵たちは彼女を詰所に通し、事情を尋ねてきた。
問われるままに、ヴィクトリアはこれこれこういうわけで、と皇都に出てきた経緯を説明する。
聞き終わると、彼らは「く……っ」と目頭を押さえた。どうやら、揃って他人の不幸に同情しやすいタチらしい。
衛兵たちは口々に、「母親が魔導具を作る魔術師ならば、娘にも魔力があるかもしれない!」と言いだした。確かに、『魔力持ち』でなければ魔導具は作れない。
彼らは、詰所の奥から埃をかぶった魔力計測器を持ち出してきた。
後で聞いたのだが、魔力の有無は血筋によるところが大きいそうだ。魔術師になれるほどの魔力持ちは、平民にはそうそう生まれない。とはいえ、平民の母が魔力を持っていたように、例外がまったくないとはいえない。
魔力持ちの子どもは、幼い頃からその片鱗を見せるのだという。
たとえば、感情のまま無軌道に垂れ流された魔力によって、周囲のものが破壊されたりするのである。ヴィクトリアは今まで、そんな傍迷惑な現象を引き起こしたことがない。
そういった事実を知っていれば、計測器を出されたとき、自分には魔力がないと言い切ったかもしれない。しかし何も知らない彼女は、促されるまま計測器に手を当てた。結果、ヴィクトリアは魔力持ちだと判明した。
彼女の魔力は、皇都トップの魔術学校、『楽園』にぎりぎりもぐりこめるレベルだったのだ。魔術学校では、魔術式を組み立てて魔導石から魔導具を作り、扱う技術――魔術を学べる。そして、魔術を習得すれば、魔術師になれるのだという。
親切な衛兵たちは、ほかにもいくつか魔力持ちの子どもが学べる施設を教えてくれた。だが、『楽園』ほど条件のいいところはなかった。
何しろ、魔力のレベルさえクリアすれば身分は不問、必要なのは健康な体だけ。おまけに全寮制で、学費食費そのほか経費は一切無料ときた。
『楽園』のシステムを知ったとき、ヴィクトリアは「四年間、三食宿代タダですかー!?」と歓喜した。そして生まれて初めて「神さま、ありがとう」と神に感謝した。
さっそく入学申請をするために、ヴィクトリアは国立魔導具研究開発局に突撃しようとして――親切な衛兵たちに、ちょっと待て、と引き止められた。
国の中枢に行けば行くほど、銀髪に対するひとびとの忌避感は強くなるらしい。
幸い皇都では、ファッションとして髪を染めることが珍しくない。染髪の薬剤もいろいろと売られているそうだ。
めんどうごとを回避するために、その銀の髪は目立たないようにした方がいい。
彼らの言葉に納得したヴィクトリアは、まずは潔く、さっぱりと髪を切った。
せっかくここまで、きれいに伸ばしてきたのだ。いずれ皇都から出たときに、どこかで買い取ってもらおう。
そう思い、ヴィクトリアは紐でまとめて袋に詰めたそれを、大事に鞄の底にしまった。
そして短くなった髪を、皇都でもっともポピュラーな栗色に染めて、長めの前髪をざんばらに垂らした。
染められない眉やまつげは、これで隠せる。
最後に、分厚いレンズの眼鏡を装着したヴィクトリアは――どこからどう見ても「ちびでガリガリに痩せた少年」になった。
母が亡くなって以来、ちょっと無理しすぎて痩せてしまったのかもしれない。
胸にはそれなりに脂肪が残っている。しかし、厚手のシャツを着てしまえば、傍目にはわからないだろう。
鏡に映る自分のあまりに貧相な少年具合に、ヴィクトリアはお年頃の乙女として落ちこんだ。
そんな彼女を見て、衛兵のひとりが思い出したように声を上げた。
「そういえば、『楽園』に入学するのは、ほとんど少年じゃなかったか?」
すると彼らは揃って、確かにそうだと言い出した。
彼らは魔力を持たない、ごく普通の一般市民のようで、魔力持ちの子どもたちが学ぶ学校について、さほど詳しい感じではなかった。
けれど、『楽園』がこの国で最高峰の魔術教育機関であることは、間違いないらしい。
どうせ学ぶなら、レベルが高い方がいい。
それに、他の学校に入るには、かなりの入学金が必要なのだという。
いずれにしろ、そんな金も仕事に就くスキルもないヴィクトリアに、選択の余地はない。
男だらけの学校に入れるだろうかと悩んだものの、ヴィクトリアは開き直ることにした。
幸い、この国では魔除けの意味をこめて男子に女性の名前をつけることがよくある。
今は一見少年だし、敢えて性別を明かす必要はない。入学条件に性別が関わらなければ、名前と外見で女だとばれることはないだろう。
女手ひとつで自分を育てるために働く母の背中を、ヴィクトリアはずっと見てきた。
男社会の中で女が生きる大変さは、よく知っている。それを思えば、少年として四年間勉強漬けの日々を送るくらい、どうということもない。
……若干、そんな寂しい青春を送る自分が可哀想な気はした。
けれど、天涯孤独の身には、上等だろう。
いつか魔術師になれたら、故郷に戻り、母と同じように小さな生活魔導具店を営みたい。
新たな人生の目標ができたヴィクトリアは、困ったなぁと首をひねる衛兵たちを大丈夫だと笑ってなだめた。
その後、彼らに礼を言い、『楽園』の門を叩いたのだ。
幸い男子しか入学できないということはなく、性別を問われることすらなかった。身体測定も健康診断もすんなり通り、拍子抜けするほど簡単に入学が認められた。
――そして、入学して一日で後悔した。
そこに集う生徒たちのほとんどが、貴族だったのである。そもそも魔力持ちは貴族に多いのだから、当然といえば当然だ。
ヴィクトリアと同じ平民の生徒も、皆無ではない。けれど、彼らはみんな貴族の後見を得ているようだ。「三食付きの全寮制。学費そのほかの経費が一切免除」という点に惹かれ、着の身着のままで入学した考えなしは、彼女のほかにはひとりもいなさそうだった。
そんな彼らになかなかなじめず、ヴィクトリアは入学してから、自分を叱る寮長以外の生徒とはまともに言葉を交わしていない。
入学時に『楽園』の魔力計測器で調べた魔力量により配属されたクラスは、最下級クラス。その中でも、身分をもとにしたヒエラルキーはきっちり存在していた。
貴族の後見を受けていないヴィクトリアは、当然ながら一番下――クラスの一員として認めるのも嘆かわしい、という扱いだ。
それでも、ヴィクトリアがどうにか学生生活を送れているのは、ひとえに母のおかげである。
母は幼い頃から、魔導具に関する知識を、ことあるごとに授けてくれた。今のところ『楽園』で教わった知識は、すべて母に聞いたことがあるものだった。ちなみに、ヴィクトリアはずっと母の魔導具から、魔力や組みこまれた術式を読み取ることができていたのだが、それらを読めるのは魔力持ちの人間だけなのだという。その事実を『楽園』に入って初めて知ったヴィクトリアは、術式は読めて当たり前だと思いこんでいた自分が、ちょっぴり恥ずかしくなった。
そういうわけで、実技はともかく、座学に関しては常に満点近い点数を取っているヴィクトリアは、かろうじて教室に存在することを許されている。
上級クラスの生徒たちからは「魔力の低い、頭でっかち」とばかにされているようだが、実害はないのでかまわない。表だってヴィクトリアをいじめれば、かえって彼らのプライドが傷つくのだろう。
ヴィクトリアは、暇さえあれば自室でせっせと勉強に励んだ。すべては、平穏無事な学園生活のためである。
四年の在学期間で、どの程度の知識を学ぶのかはわからない。けれど、母のおかげで得たアドバンテージは、すぐになくなってしまうだろう。周囲に追いつかれて席次が落ちたら、一体どんな恐ろしい目に遭うことやら――想像するだけで冷や汗がにじんでくる。
もちろん、余計な問題を起こさぬよう、本人なりに必死の努力をしている。起床するための爆音目覚まし時計も、そのひとつだ。
なのにどうして、これほど寝起きが悪いのか。そんなの、自分の方が知りたいくらいだ。
しょんぼりと肩を落とすヴィクトリアの頭上で、黒髪の寮長がため息をつく。
彼は入学時に測定した魔力量がトップ。さらに入学して以来、実技でも座学でもトップの成績を修めているらしい。
将来この国の中枢を担うことが決まっている、スーパーエリートのお坊ちゃんだ。その上、時折聞こえてくる噂によると、かなり身分の高い貴族の家の出なのだとか。
見た目、身分、実技に加え、学力も魔力保有量もトップクラス。
そんなふざけたイキモノが存在するとは、世の中は実に不公平だなぁ、とヴィクトリアは彼を見るたびしみじみ思う。
世の不公平を体現する寮長リージェスは、毎度おなじみのトイレ掃除をヴィクトリアに命じた。
そろそろ「トイレ掃除」というあだ名がつけられてしまいそうだ。
ヴィクトリアはどんよりしながら、整列する生徒たちの最後尾に並ぶ。そして、朝礼が終わるのをぼーっと待った。
リージェスが『楽園』に入学したのは、十四歳だったらしい。『楽園』には十四歳から入学が可能で、二十歳を越えてからでも入学はできる。そのためリージェスは、最上級生となった今でも、生徒たちの最年長ではない。
ヴィクトリアの同級生も、十四歳から二十一歳までと幅広い。
リージェスの若さで、『楽園』の多種多様な生徒を束ねるのは、大変なことだろう。
とはいえ、『楽園』で上下関係の基盤となっているのは、あくまでも身分。年齢はさほど意味を持たないのかもしれない。
そして非常に残念なことに、名目上の入学資格は「男女問わず」なのだが、ここ十年、女子は入学していないのだという。
実質、男子校で、そもそも女子寮がないようだ。
過去の女子生徒に少し興味を持って、ヴィクトリアは図書館で記録を調べてみた。
十一年前に在学していた女子生徒は、貴族の中でも武門で名高い家のお嬢さまだった。跡継ぎの男子がいなかったことから、『楽園』に入学したらしい。彼女は特例措置で自宅から毎日通学していたという。
もし自分が女の格好のままだったら、入学を拒否されていたかもしれない。――やはり、男で通した方がよさそうだ。
そう思ったヴィクトリアは、ますます自室に引きこもるようになった。
幸いにも、寮はすべて個室。
万が一、生徒が寝ぼけたりけんかをしたりして魔力を暴走させても、被害を最小限にするためだ。
基本がお貴族さま仕様なので、シャワールームも完備されている。
実にありがたい。
おまけにこの『楽園』では、テストの成績優秀者にはご褒美が出る。
成績に応じて、かなりのお金が支給されるのだ。貴族のお坊ちゃん方にとっては、おこづかい程度の感覚なのだろうが。
とはいえ、将来に備えて少しでも店の開店資金を貯めておきたいヴィクトリアには、勉強に励む大きな理由のひとつとなった。
そういった諸々の事情が積み重なり、彼女は完全なる引きこもり少年と化している。
それはさておき、今は遅刻についてである。これほど回数を重ねれば、トイレ掃除も上達する。
ヴィクトリアは、そろそろエキスパートになりつつあった。もはや、『楽園』内の清掃業者に就職できそうな熟達ぶりだ。
実際、掃除用具を借りる際に彼らにさり気なく尋ねてみたところ、満更でもない答えが返ってきた。
もし卒業前に女だとばれて放校されたら、働かせてもらえないか聞いてみよう。
我ながら、前向きなんだか後ろ向きなんだかわからないことを考えていたら、朝礼が終わった。ヴィクトリアは、自室に戻るべく歩き出した。
しかし、建物に入ろうとしたところで、不本意ながら聞き慣れてしまったリージェスの声に呼び止められた。
「――ヴィクトリア・コーザ」
「ひゃいっ」
反射的に、背中を壁に貼りつける勢いで後ずさった。
しがない平民にとって、リージェスは完全なる雲の上のひとである。一部学生の間では、もはや崇拝の対象となっていると聞く。
彼とは、迂闊にお近づきになりたくない。
そう思って日々自分の寝汚さと勝負しては、しょっちゅう敗北しているヴィクトリアだ。
もしリージェスの崇拝者に「彼に近づこうとする不届き者」判定されてしまった場合、恐らくヴィクトリアに明日はない。
なんとしても、彼とは関わりたくないのである。
雲の上で生きるひとびとは、雲の上の世界で仲良しこよしをしていればいい。
こちとら、きらきらしい世界とは無縁の、最下層で生きているのだ。
生きる世界の隔たりを飛び越えられては、かろうじて保っている平穏無事な学生生活が崩壊しかねない。
ヴィクトリアは恐怖にぷるぷると震えた。こっち来るなオーラを全開にしつつ、どうにか口を開く。
「な……何か、ご用で、しょうか……?」
こんな風にひとに拒絶されたことなど、今までないのだろう。
お坊ちゃまは微妙に顔を引きつらせている。
そして眼鏡の奥の目が、すぅっと細められた。怖すぎる。
おびえるヴィクトリアに、リージェスはゆっくりと低く告げた。
「――今日の放課後、オレの部屋に来い」
「え、いやです」
反射的に答えてから、ヴィクトリアは思ったことをそのまま口に出す自分の脳を、きゅっとシメたくなった。
一層冷ややかになったリージェスの視線と、周囲の空気が痛すぎる。
上級生の要請を即答で拒絶するなんて、少々礼儀知らずだったかもしれない。
けれど、いきなりそんなことを言われても、困るのだ。こちらの事情をまるで斟酌しないのは、いずれひとの上に立つ人間としてはいかがなものかと思う。
ヴィクトリアはだらだらと冷や汗を垂らしながら、内心で懸命に自分を正当化した。
その間も、寮長さまが立ち去る気配はまるでない。
仕方なく、ヴィクトリアはぼそぼそと自己弁護をはじめた。
「あの……です、ね。わたしは、勉強がしたくてこの『楽園』に入学したんです」
嘘である。
三食宿付に惹かれて入学しました。そう正直に言うのは、さすがにちょっぴり恥ずかしかったのだ。
しかし今は、きちんと勉強して将来小さな生活魔導具店を開業したいと思っている。だからまったくの嘘ではない。ヴィクトリアは自分に言い訳しつつ、先を続けた。
授業中に指名されて教師の問いに答える以外、ほとんど話さない日々だ。
こうして長い文章を話すのは久しぶりなせいか、どうにも話しにくい。
「なので、寮長さまのように、周囲のみなさまから大変人気のある方とは、極力お近づきになりたくないのです。身のほど知らずな振る舞いをした平民は、いつ、どんな理由をつけて追い出されるかわかりかねます。どういった理由で、わたしをお招きくださるのかは存じません。けれども、これからもつつがなく勉強を続けるために、ご遠慮申し上げたい次第です」
できるだけ、切々と訴えてみる。お坊ちゃまは、迂闊に平民に近づいてはいけないのだ。
すると、なぜかリージェスは頭痛でもこらえるように眉間を押さえた。
「……なるほど」
少しして彼がつぶやいた言葉を聞き、ヴィクトリアはとっても嬉しくなった。
彼がこちらの主張を受け入れてくれたのなら、今後こういった恐ろしいことは起こらないだろう。
保身第一。
臭いものにふた――と言っては、さすがにリージェスに対して失礼かもしれない。けれど、気分はまさにそんな感じなのである。
「はい。それでは、失礼いたしま――」
「待て。誰が行っていいと言った」
藍色の瞳にじろりとにらみつけられて、ヴィクトリアはその場でぴょっと跳び上がった。
蛇ににらまれたカエルとは、もしかしたら跳ねるものなのかもしれない。
錯乱しかけたヴィクトリアに、リージェスは苦々しげに眉を寄せた。
「わかっているのか? おまえ、なんの後見もなかったら、卒業したところでろくな職に就けないだろう」
ヴィクトリアは、きょとんと目を丸くした。
「いえ? わたしは『楽園』を卒業したら、故郷に戻って小さな生活魔導具店を営むつもりです。なので、就職先の心配はしておりません」
ここの卒業生たちのほとんどは、皇都で職を得ている。
それは知っていたものの、ヴィクトリアはこんな家賃が高い土地で店を構えるほどの大志を抱いていない。
まずは、自分が食べていけるだけの稼ぎを得ることが大事。そして、いつか付き合いのできた業者あたりに縁を頼んで、旦那さまをゲットできればいい。
ヴィクトリアのささやかな未来図を聞いたリージェスは、わずかに目を見開いた。
そしてふたたび、眉間を押さえる。
「……コーザ」
「は、はい?」
まるで地の底から響くような、おどろおどろしく低い声で呼ばれた。
ヴィクトリアは、また跳び上がりそうになるのを、どうにかこらえる。
リージェスの目は、完全に据わっていた。
応援ありがとうございます!
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