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5巻
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俺がもう少し情報を得ようと様子を窺っていると、隣にいたユーリが突然店の扉を開けた。
躊躇うことなく中に入ったユーリは、大きな声で叫ぶ。
「ちょっと待ったぁ!」
突然乱入してきたユーリに、ニコさんと女騎士は目を見開く。
「ゆ、ユーリ!? あれ? 今日、配達日だっけ?」
目をパチクリとさせて、ニコさんはユーリを見つめた。
見たところ、ニコさんは二十代後半くらいだろうか。優しそうな顔つきの青年だ。
「配達じゃないぜ。今日は客として来たんだ」
そう言って、ユーリはちょっと自慢げに胸を張る。
「え、あ、そうなの? いらっしゃいませ」
ニコさんがぺこりと丁寧に頭を下げる中、ユーリはつかつかと店内に入っていく。そして、カウンター前にいる女騎士を見上げた。
先ほどは窓越しだったためよくわからなかったが、女騎士は意外にも十代後半の若い女の子だった。
目鼻立ちの整った、涼やかな美人だ。身長は百七十センチくらいで、モデルのように足が長い。
腰まである長い金髪を、ひとつの三つ編みにして前に垂らしていた。
彼女が身につけている銀の脛当てや胸当ては、細かな装飾が施されていることから、かなり高価なものだとわかる。
騎士家か貴族家か……いずれにしても高い身分の家のお嬢様だろう。
そんな女騎士に、ユーリは腕組みをして言った。
「事情はよくわかんねーけど、無理強いは良くないぜ」
百七十センチの女騎士と、百二十センチもないユーリとではだいぶ身長差がある。
だが、女騎士の服装や身長を前にしても、ユーリは物怖じした様子を一切見せなかった。
女騎士はそんなユーリにため息をつくと、身を屈めて話しかける。
「無理は承知の上だ。だから、そこを何とかとお願いしているのだよ」
あれ? 揉めていたから、かなりの問題客なのかと思ったけど……。
この人、身分を笠に着るタイプってわけじゃないんだな。
身分制度のあるこの世界、貴族の中には自分より身分の低い者を無視したり無下にあしらう人もいる。
だが彼女は、年齢も身分も下であろうユーリに、身を屈めて丁寧に対応してくれた。
ちゃんと話をすれば、わかってくれる人なのかな?
ユーリはチラリと、ニコさんを見やる。
「でも、ニコが嫌がってたぜ。泣いてるし」
「な、泣いてないよ。……まだ」
ニコさんはもごもごと言い訳をしていたが、その目尻はうっすら濡れていた。
女騎士はユーリに向かって、再びため息をつく。
「とにかく、今交渉しているところなんだ。邪魔をしないで欲しい」
「でも、断られてんだろ? 諦めなよ」
「諦めきれないから、こうしてお願いしているんだろう」
すぐさま言い返したユーリに、再度女騎士は言葉を重ねる。
ユーリと女騎士は、相手が主張を譲らないと感じたらしく、お互い「むぅ」と唸った。
これは仲裁に入ったほうがいいかな……。
俺はそっと近づいていき、二人の間に割って入ると、女騎士に向かって微笑む。
「あのぉ、こうやって言い合っていても結論が出ないと思うんで、まずその事情っていうのを聞かせてもらえませんか?」
すると女騎士は、俺を見て目を見開いた。
「……聖なる髪」
髪? あぁ、俺の青みがかった銀髪のことか。
「あ、神子じゃないですよ。学生です。フィル・テイラと言います」
髪色に驚かれるのは、たまにあることなので、俺は別段気にすることなく名乗った。
すると、女騎士はさらに驚いた顔をする。
「君は、フィルというのか?」
ん? 何だ? 名前で驚かれたのは初めてだな。フィルなんて、どこにでもある名前だと思うけど。
頷く俺を庇ってカイルが前に立ち、訝しげに女騎士を見る。
「あの……彼の名前が何か?」
食い入るように俺を見つめていた女騎士は、ハッとして頭を振った。
「あ、いや、何でもない。皮肉ともいえる偶然に、驚いただけだ」
何だろう、皮肉ともいえる偶然て……。
俺が首を傾げていると、ユーリが俺とカイルの後ろから女騎士を覗き込む。
「で、事情を話してくれるのか? アンタの言い分が正しいなら、もう何も言わないからさ」
「……いいだろう」
女騎士はコックリと頷いた。
「私はコルトフィア国のルイーズ・テンペルと言う」
コルトフィア国は、グラント大陸の最も北にある国だ。ステア王国の北にある渓谷は、国境の役割を担っているが、その渓谷を隔てた向こう側にコルトフィア国がある。
ただ、そのような渓谷があるので、隣国とは言っても行き来するには、渓谷を大きく回り込んで他国を経由していかなければならなかった。
「ここには知人に会いに来たんだ。昨年ステア王立学校高等部を卒業したばかりなので、知人が多くてな」
ルイーズさんの言葉に、俺は頷く。
「ルイーズさんは、先輩でしたか。改めまして、僕はフィル・テイラ。彼はカイル・グラバー。ステア王立学校中等部の学生です。彼女は……」
俺の言葉にかぶせるように、ユーリは自分の胸をポンと叩く。
「アタシはユーリ・オルト。初等部の生徒で、ニコんとこに野菜を卸している農園の娘だ。今日は客として来たんだけどな。ついでに別の客も連れて来てやったんだぜ」
ユーリが俺たちを指して笑うと、ニコさんは嬉しそうに小さく手を叩いた。
「ありがとう、ユーリ! フィル君、カイル君もいらっしゃいませ。僕はニコ・ラウノと言います。この店では主に包丁を販売しています」
そう言って、深々と頭を下げる。その丁寧さに恐縮して、俺とカイルも深くお辞儀した。
ほんわかと微笑むニコさんの様子は、職人というより園芸でもやっていそうな柔和さだ。
ニコさんの自己紹介が終わって皆の視線が女騎士に向くと、彼女は小さく咳払いをした。
「まず、事の起こりから説明すると……。知人から、ここの噂を聞いたんだ。ニコ・ラウノという職人が、ドルガド国の名匠ゴードン・ベッカーから技を習得し店を出したのだと」
そう言って、ルイーズさんはニコさんに視線を向ける。
ニコさんはその視線にビビったのか、一瞬体をビクッと震わせて顔を背けた。
「ゴードン・ベッカー? 名匠ってことは、その人は有名なのか?」
ユーリの質問に、ニコさんは苦笑する。
「ユーリは知らないか。鍛冶屋の間では、有名な人だよ。鍋からナイフまで、金槌ひとつで何でも作っちゃうんだ」
「へぇ。じゃあ、ニコはその名匠の技を習得したのか? すげーなぁ」
ユーリが感嘆の息を吐いて、マジマジとニコさんを見つめる。
そんなユーリに、ニコさんは肩をすくめた。
「技を習得できたと言っても、師匠ほど何でも器用に作れるってわけじゃないんだけどね。まだまだ修業中みたいなものだよ」
その若さで習得できるのもすごいだろうに、随分謙虚な人なんだな。
「それで、ルイーズさんは何をニコさんにお願いしてたんですか?」
俺が首を傾げると、ルイーズさんは自分の腰に差している剣に手をやった。
「剣を打ってもらおうと思ったんだ。ゴードンの打つ剣は、名剣と名高い。細身であるのに、その切れ味の良さは類を見ないと聞く。彼もその技を継承したのであれば、そういった剣を作れるのではないかと」
「それで断られていたわけですね。では……そのゴードンという人に直接頼めば?」
カイルが聞くと、ルイーズさんはため息をついて首を振った。
「剣を打つことを辞めたのだそうだ。何度か頼みに行ったのだが、まったく相手にしてもらえなかった」
「師匠は家庭で使える物だけを、作るようになったんですよ。人に喜ばれる物や、人を生かす物を作りたいって言って」
そう言うニコさんを、ルイーズさんは恨めしげに見る。
「店主も同じ考えで断ったのか?」
ニコさんは大きく頷いて、微笑んだ。
「僕も師匠同様、武器は作りません。武器とするには、切れ味が良すぎるんですよ」
そう言うと、ニコさんはカウンターに形の悪いニンジンを載せ、包丁をトンと下ろした。ニンジンは真っ二つに割れる。
「包丁も植物や動物の命をいただくものではありますが、それは自分の糧とするためです。切れすぎる剣は、人を変えて魔剣ともなる。それでは多くの命が失われることになるでしょう。僕にその罪を背負う勇気はありません」
ニコさんは悲しげに呟いた。
カイルやルイーズさんは、その切れ味の良さを目の当たりにして呆然とする。
そんな中、俺は別の意味で衝撃を受けていた。
これは……和包丁?
背伸びをして、ニコさんの隙を見てカウンターの包丁を掴む。
「ああぁぁっ!! フィル君危ないよ! 触ったら切れちゃう! 切れちゃうから!!」
カウンターから身を乗り出して取り返そうとするニコさんを横目に、俺は包丁を観察した。
この刃の形状、鋭さ……間違いない。和包丁だ。
包丁は片刃で、その刃には美しい刃紋があった。
この芸術品かと思うくらい美しい波模様は、前世で見覚えがある。
俺が欲しくて買えなくて、店でじーっと見ていた本焼き和包丁そのものだ。
「こ、これって、どうやって作ったんです?」
俺が興奮気味にニコさんに聞くと、彼はあわあわしながら両手を差し出した。
「その前に危ないから、とりあえずその包丁を返して」
俺は名残惜しい気持ちで包丁を返すと、ニコさんはそれを受け取ってホッと息をついた。
「それで、その包丁の製法はゴードンさんが開発したんですか? それとも、ゴードンさんが誰かから聞いたんですか?」
俺から矢継ぎ早に質問され、ニコさんは困って眉を下げる。
「師匠が考案した製法だよ。師匠は今までにない製法を考えたり、変わった素材を使ったりするのが好きなんだ。でも申し訳ないが、詳しい製法については教えられない。門外不出でね」
「あ~……そうなんですかぁ」
和包丁と同じ製法かどうか確認したかったのだが、そう簡単には教えてもらえないか……。
落胆する俺を見て、ニコさんは苦笑した。
「まぁ、聞いても熟練の技が必要だから、同じものができるとは思えないけど。僕も技を身につけてはいても、師匠の作る包丁にまだまだ敵わないしね」
ゴードンさんに会ってみたいな。
ニコさんの作ったものより素晴らしいという包丁を見てみたいし、可能ならば手に入れたい。
「それにしても、この切れ味、本当にすごいですね。こんな綺麗な断面は見たことがありません」
カイルは先ほど切ったニンジンを持って、断面の滑らかさに驚いている。
「だよな。アタシも初めて見た時は驚いたぜ。早く母さんに、美味しい料理を作ってもらいたいよ」
その料理を想像してか、ユーリの頬が緩む。あまりにも幸せそうだから、俺は思わず笑ってしまった。
「ユーリ、この包丁を買っていくなら、使い方に気をつけてね」
俺が言うと、ユーリはキョトンとした。
「え? 普通に切るだけだろ?」
「押して切るんじゃなくて、引いて切ったほうがいいんだよ。こういう感じ」
俺はエア包丁で切り方を説明した。扱う食材や個人の好みにもよるのかもしれないが、和包丁は引き切りのほうがいいと前世で聞いたことがある。
ユーリは訝しげに、ニコさんに尋ねる。
「ニコ、本当か?」
口をあんぐりと開けて俺を見ていたニコさんは、ハッとして頷く。
「う、うん、そう。買っていただく前に、お客様に切り方を説明しているんだ。その時に、ユーリのところの野菜くずが必要で……。でも……フィル君、何で知ってるの?」
ニコさんに凝視されて、俺はしまったと目を泳がせる。
「えっと……前、同じ包丁を持っている人が、そんなこと言ってたのを聞いたことがあって……」
「そうなんだ? 前に購入していただいたお客さんかな?」
ニコさんは、購入したお客さんの名前をブツブツと呟きながら首を捻る。
やばいやばい。うっかりしていた。
こっちの世界ではあまり和包丁は出回ってないみたいだから、変に知識があったらまずいよな。特に製法に関しては注意しないと。技術を盗んだとか漏洩したとかいう騒ぎになったら大変だ。
とはいえ、ゴードンさんがもし和包丁の製法で剣を作っていたとしたら、それは刀だということになる。この包丁の切れ味からすると、剣も相当なのではないだろうか。
ニコさんは俺からルイーズさんに視線を移すと、顔色を窺いながら言う。
「あ、あの……話は逸れましたが、師匠と同様、僕は剣を作るつもりはないんです。わかっていただけましたか?」
ニコさんの口調に気弱さがにじみ出ている。ルイーズさんに本気で諦めてもらいたいなら、もう少し強めに言えないかな。これじゃルイーズさん、食い下がってくるかもしれない。
そう思って俺がチラリと見ると、ルイーズさんは意外にも静かに頷いた。
「そうだな。正直、ここまでの切れ味だとは思わなかった。確かに名剣は手に入れたいが、私では扱いきれないかもしれない。他に方法を考えるしかないか……」
ルイーズさんは、ため息交じりに言う。
「あの……どうして剣を作ってもらいたかったのか、お伺いしても?」
ニコさんは躊躇いがちに、ルイーズさんに問いかけた。
俺もそれは気になるな。ニコさんが半泣きで断っていたのに、あんなに頼み込んでいたんだから。
女の人にしては鍛えているようだが、剣豪というほど筋肉質でもないし……。
剣を持つだろう手も、綺麗なものだ。十代の女の子が名剣を欲しがるって、どんな理由だろう。
するとルイーズさんは「う……」と言葉に詰まり、俺たちの顔を見回した。
「……た、大した理由ではない」
「でも必死だったじゃん」
ユーリがズバリと言うと、ルイーズさんは顔を赤らめた。
「だ、だから、何でお前は、そうズバズバとっ!」
「事実だろ」
悪びれないユーリに、ルイーズさんは諦めたのか大きく息を吐いた。
「わかった。理由を話す。……私は今年で十七になる。年の離れた三人の兄がいるのだが、私を溺愛していてな。まったく手放そうとしてくれないんだ。婚約者はもう二年も待ってくれているのに、あと数年は家から出さないと言っている。父上や母上が何を言っても、兄たちは聞いてくれなくて困っているんだ」
「……はぁ」
まさか、シスコンのお兄さんたちの話が出てくるとは思わなかったな。
予想外の話で、俺たちは目を丸くする。
しかし、そんな俺たちの表情は予測できていたのか、ルイーズさんは表情を曇らせる。
「わかってる。くだらないことだとな。だが私にとっては切実なんだ。もとはといえば、私が成人の儀を行えていないのが問題でな。それを終えていれば成人として認められ、本人の意思が尊重されるが、それまでは我が国では年齢に関係なく、保護対象のままなんだ」
「えっと、じゃあ、その成人の儀をやればいいのでは?」
俺がそう言うと、他の三人も同意見とばかりに頷く。
成人式みたいなお祝いなら、ちゃっちゃとやってしまえばいいのではないだろうか。
しかし、ルイーズさんは首を振った。
「私の国の成人の儀は、森の中の神殿で執り行う。だが、今その森にはボルケノの魔獣がいて、入ることができないのだ。聖教会にも依頼を出したが、森に結界は張ってもらえても、相手が相手だからか討伐はしてもらえなくてな。おかげでここ数年、我が国では成人の儀を執り行えていない」
確かボルケノって、体長四メートルくらいにもなるでっかい猪じゃなかったっけ?
動物は魔獣になると、大きくなったり、何かに特化した能力を得たりする。
ただでさえ大きいボルケノが、魔獣になっているとしたら……うわ、それってかなりやばいじゃないか。
コクヨウがこの場にいたら、すぐにでも飛んで行ってしまいそうな話だ。
ルイーズさんは沈んだ顔で、ため息をつく。
「成人の儀はただの儀礼的なものだから、それを行わなくても社交界に出さえすれば問題ないとされている。だが、あの兄たちはっ! それを理由にして私が嫁に行くのを阻んでくるんだ」
ルイーズさんはそう言って、ブルブルと握り拳を震わせる。
「あの……まさか……剣を手に入れようとしたのって、魔獣退治のためですか?」
ニコさんは顔を青くして、おずおずと尋ねた。
「ルイーズの姉ちゃん。同情はするけど、いくら何でもそりゃ無茶苦茶だぜ」
ユーリも呆れた様子で、首を大きく振る。
「……だから、言いたくなかったんだ」
ルイーズは顔を赤くして、口を尖らせる。その様子は、初めの印象と違って可愛く見えた。
俺は眉を少し下げて、困り顔で微笑む。
「ルイーズさんにとっては、それほど深刻な悩みなんですよね。でも、やはり少し無謀かと。魔獣は、剣の切れ味が良くても倒すことはできません。有効なのは、聖の力のみですから」
「へ~。フィル、詳しいんだな」
感心して言うユーリに、俺は咳払いで誤魔化す。
「ゴホゴホ……ま、まぁ、聖教会に知り合いがいるからね」
ユーリとニコさんが「そうなんだ」とますます感心するその横で、カイルは額ににじむ汗を拭っていた。
「と、とにかく、さっきのニコさん相手みたいに、お兄さんたちを説得したほうが良いんじゃないでしょうか?」
俺が提案すると、ルイーズさんは俯いて低く唸る。
「そうは言っても、兄たちの溺愛っぷりは尋常ではないのだぞ。私がステア王立学校に入ると決めた時も、入学直前まで阻止しようとしていたからな。私にとっては、魔獣を倒すのと同じくらいの難題なのだ……」
……それ、俺も身に覚えがある。うちにもいるからなぁ。ブラコンの人たち。
「僕のところもそうなので、気持ちはとてもわかります」
俺がこっくりと深く頷くと、ルイーズさんは意外そうな顔をした。
「そうなのか? よくあることなのだろうか?」
そう首を傾げかけて、彼女は突然噴き出して笑い始める。
「まさかこんなところで、子供たちに身の上相談するとは思わなかった。でも、何だか話したらスッキリしたよ。国に帰って、説得を続けてみる。それまで、私の婚約者が待っていてくれたらいいのだけれど……」
ルイーズさんは自嘲気味にそう言って、肩をすくめた。
「大丈夫、きっと待っていてくれますよ」
にっこりと笑みを浮かべた俺に、ルイーズさんが微笑み返す。
「ありがとう。……店主にも迷惑をかけたな。では、私はこれで失礼する」
「包丁は買わなくていいのか?」
ユーリが言うと、彼女は困った顔をした。
「私は料理があまり得意ではなくてな。腕が上がったら、改めて来ることにする」
そう言って颯爽と去っていく彼女の背中に、ニコさんが声をかけた。
「包丁を取りそろえてお待ちしてます!」
騒ぎが一段落して、ユーリが大きな声を上げた。
「まずいっ! そろそろ帰らないと! 遅いって、母さんに怒られる!」
普段はあまり動じないユーリが、珍しく顔を青くする。
メイサさんは優しそうに見えるけど、怒ると怖いのかな?
「あぁ、包丁が欲しいんだったね。ごめんね」
申し訳なさそうな顔をするニコさんに、俺も飛び上がるように手を挙げた。
「あの! 僕も包丁欲しいです!」
和包丁を手に入れて、美味しいものを作るんだ。
7
暖かな海風が、俺の髪を撫でつけていく。
気持ちいいなぁ。
学校のあるステア王国では、雪が積もっていたもんな。グレスハートに近づくにつれて、季節が春に移り変わっていくみたいだ。
母国を出て五ヶ月。家族とは毎日のように手紙のやり取りをしていたし、学校も賑やかだったのであまり寂しさを感じなかったが、久々の帰郷はやはり嬉しい。
「あ、港が見えてきたね!」
だんだん輪郭がはっきりとしてきた懐かしい港を見て、俺は船のへりに手をかけて身を乗り出した。
「フィル様! ほどほどにしないと落ちてしまいますよ」
カイルが慌てて俺の体を引き寄せ、船のへりから離す。
俺は照れ笑いをして頭を掻いた。
「ごめん、ごめん。グレスハートの港が見えてきたから、嬉しくなっちゃって」
ステア王国の四季は、春三ヶ月、夏二ヶ月、秋四ヶ月、冬三ヶ月ある。
冬に入り、初雪が降った時からさらに雪深くなった頃、学校は二ヶ月間の長期休みに突入した。
ユーリのようにステア王国内の子は、まるまる二ヶ月間休みになるが、帰郷に一、二週間かかる生徒は往復を考えると実質一ヶ月ほどの休みになる。
それでも冬の長期休みは、まだマシだ。夏期休暇は一ヶ月ちょっとしかないので、故郷が遠い生徒の中には寮に残る子もいた。
移動に二週間弱かかる俺も遠方組に入るのだが、行きに比べると帰りは格段の速さだった。
ステア王国からカレニア国まで馬車で十日かかるところ、ルリの飛行で二日。
カレニアの港ハレスからグレスハートまで行く船も、行き同様ヒスイが風を送って動かしてくれたので、二日くらいで済んだ。
つまり通常二週間の行程が、四日に短縮されたことになる。
皆も、ルリに乗れば良かったのになぁ。
アリスとライラには「他の友達と寄り道しながらゆっくり帰る」と言われ、レイとトーマは「怖い。命が惜しい」と断られてしまった。
女の子たちは仕方ないとして、レイたちは乗らずに損したよな。
加工の授業を受け持つボイド先生が、ウォルガー用の手綱と鞍を作ってくれたから安全に騎乗できるようになったし、ルリも召喚獣契約を結んだ今は、俺が主として頼めば自然と制御されるので、高速飛行やアクロバット飛行をすることはない。
まぁ、正直言えば冬の凍てつく中、空を飛ぶのは過酷だったが。それでも休憩を入れながら行けば、まったく問題なかった。
馬車で節々が痛くなるのに比べたら、俺は断然ルリがいいんだけどな。
いや、もしかすると、レイは荷物のせいもあるのかな?
ルリで飛行する場合、落ちないようにするために、乗せる荷物は最小限となる。
だが学校での別れ際、レイとトーマの乗る馬車には、またも大きな鞄がいくつも括りつけられていた。
トーマは手に鞄一つしかなかったから、他はすべてレイのものだろう。
鞄一つあれば充分なのに、何をそんなに運ぶんだ?
どうせまた学校に戻って来るんだから、必要な物だけ入れて、あとは置きっぱなしでいいと思うのだけど。
レイたちは今頃、まだ馬車で揺られてるのかな。
そんなことを考えているうちに、船はグレスハート港にゆっくりと横付けされた。
俺とカイルは鞄を持って船から降り、城へ向けて歩きだす。
躊躇うことなく中に入ったユーリは、大きな声で叫ぶ。
「ちょっと待ったぁ!」
突然乱入してきたユーリに、ニコさんと女騎士は目を見開く。
「ゆ、ユーリ!? あれ? 今日、配達日だっけ?」
目をパチクリとさせて、ニコさんはユーリを見つめた。
見たところ、ニコさんは二十代後半くらいだろうか。優しそうな顔つきの青年だ。
「配達じゃないぜ。今日は客として来たんだ」
そう言って、ユーリはちょっと自慢げに胸を張る。
「え、あ、そうなの? いらっしゃいませ」
ニコさんがぺこりと丁寧に頭を下げる中、ユーリはつかつかと店内に入っていく。そして、カウンター前にいる女騎士を見上げた。
先ほどは窓越しだったためよくわからなかったが、女騎士は意外にも十代後半の若い女の子だった。
目鼻立ちの整った、涼やかな美人だ。身長は百七十センチくらいで、モデルのように足が長い。
腰まである長い金髪を、ひとつの三つ編みにして前に垂らしていた。
彼女が身につけている銀の脛当てや胸当ては、細かな装飾が施されていることから、かなり高価なものだとわかる。
騎士家か貴族家か……いずれにしても高い身分の家のお嬢様だろう。
そんな女騎士に、ユーリは腕組みをして言った。
「事情はよくわかんねーけど、無理強いは良くないぜ」
百七十センチの女騎士と、百二十センチもないユーリとではだいぶ身長差がある。
だが、女騎士の服装や身長を前にしても、ユーリは物怖じした様子を一切見せなかった。
女騎士はそんなユーリにため息をつくと、身を屈めて話しかける。
「無理は承知の上だ。だから、そこを何とかとお願いしているのだよ」
あれ? 揉めていたから、かなりの問題客なのかと思ったけど……。
この人、身分を笠に着るタイプってわけじゃないんだな。
身分制度のあるこの世界、貴族の中には自分より身分の低い者を無視したり無下にあしらう人もいる。
だが彼女は、年齢も身分も下であろうユーリに、身を屈めて丁寧に対応してくれた。
ちゃんと話をすれば、わかってくれる人なのかな?
ユーリはチラリと、ニコさんを見やる。
「でも、ニコが嫌がってたぜ。泣いてるし」
「な、泣いてないよ。……まだ」
ニコさんはもごもごと言い訳をしていたが、その目尻はうっすら濡れていた。
女騎士はユーリに向かって、再びため息をつく。
「とにかく、今交渉しているところなんだ。邪魔をしないで欲しい」
「でも、断られてんだろ? 諦めなよ」
「諦めきれないから、こうしてお願いしているんだろう」
すぐさま言い返したユーリに、再度女騎士は言葉を重ねる。
ユーリと女騎士は、相手が主張を譲らないと感じたらしく、お互い「むぅ」と唸った。
これは仲裁に入ったほうがいいかな……。
俺はそっと近づいていき、二人の間に割って入ると、女騎士に向かって微笑む。
「あのぉ、こうやって言い合っていても結論が出ないと思うんで、まずその事情っていうのを聞かせてもらえませんか?」
すると女騎士は、俺を見て目を見開いた。
「……聖なる髪」
髪? あぁ、俺の青みがかった銀髪のことか。
「あ、神子じゃないですよ。学生です。フィル・テイラと言います」
髪色に驚かれるのは、たまにあることなので、俺は別段気にすることなく名乗った。
すると、女騎士はさらに驚いた顔をする。
「君は、フィルというのか?」
ん? 何だ? 名前で驚かれたのは初めてだな。フィルなんて、どこにでもある名前だと思うけど。
頷く俺を庇ってカイルが前に立ち、訝しげに女騎士を見る。
「あの……彼の名前が何か?」
食い入るように俺を見つめていた女騎士は、ハッとして頭を振った。
「あ、いや、何でもない。皮肉ともいえる偶然に、驚いただけだ」
何だろう、皮肉ともいえる偶然て……。
俺が首を傾げていると、ユーリが俺とカイルの後ろから女騎士を覗き込む。
「で、事情を話してくれるのか? アンタの言い分が正しいなら、もう何も言わないからさ」
「……いいだろう」
女騎士はコックリと頷いた。
「私はコルトフィア国のルイーズ・テンペルと言う」
コルトフィア国は、グラント大陸の最も北にある国だ。ステア王国の北にある渓谷は、国境の役割を担っているが、その渓谷を隔てた向こう側にコルトフィア国がある。
ただ、そのような渓谷があるので、隣国とは言っても行き来するには、渓谷を大きく回り込んで他国を経由していかなければならなかった。
「ここには知人に会いに来たんだ。昨年ステア王立学校高等部を卒業したばかりなので、知人が多くてな」
ルイーズさんの言葉に、俺は頷く。
「ルイーズさんは、先輩でしたか。改めまして、僕はフィル・テイラ。彼はカイル・グラバー。ステア王立学校中等部の学生です。彼女は……」
俺の言葉にかぶせるように、ユーリは自分の胸をポンと叩く。
「アタシはユーリ・オルト。初等部の生徒で、ニコんとこに野菜を卸している農園の娘だ。今日は客として来たんだけどな。ついでに別の客も連れて来てやったんだぜ」
ユーリが俺たちを指して笑うと、ニコさんは嬉しそうに小さく手を叩いた。
「ありがとう、ユーリ! フィル君、カイル君もいらっしゃいませ。僕はニコ・ラウノと言います。この店では主に包丁を販売しています」
そう言って、深々と頭を下げる。その丁寧さに恐縮して、俺とカイルも深くお辞儀した。
ほんわかと微笑むニコさんの様子は、職人というより園芸でもやっていそうな柔和さだ。
ニコさんの自己紹介が終わって皆の視線が女騎士に向くと、彼女は小さく咳払いをした。
「まず、事の起こりから説明すると……。知人から、ここの噂を聞いたんだ。ニコ・ラウノという職人が、ドルガド国の名匠ゴードン・ベッカーから技を習得し店を出したのだと」
そう言って、ルイーズさんはニコさんに視線を向ける。
ニコさんはその視線にビビったのか、一瞬体をビクッと震わせて顔を背けた。
「ゴードン・ベッカー? 名匠ってことは、その人は有名なのか?」
ユーリの質問に、ニコさんは苦笑する。
「ユーリは知らないか。鍛冶屋の間では、有名な人だよ。鍋からナイフまで、金槌ひとつで何でも作っちゃうんだ」
「へぇ。じゃあ、ニコはその名匠の技を習得したのか? すげーなぁ」
ユーリが感嘆の息を吐いて、マジマジとニコさんを見つめる。
そんなユーリに、ニコさんは肩をすくめた。
「技を習得できたと言っても、師匠ほど何でも器用に作れるってわけじゃないんだけどね。まだまだ修業中みたいなものだよ」
その若さで習得できるのもすごいだろうに、随分謙虚な人なんだな。
「それで、ルイーズさんは何をニコさんにお願いしてたんですか?」
俺が首を傾げると、ルイーズさんは自分の腰に差している剣に手をやった。
「剣を打ってもらおうと思ったんだ。ゴードンの打つ剣は、名剣と名高い。細身であるのに、その切れ味の良さは類を見ないと聞く。彼もその技を継承したのであれば、そういった剣を作れるのではないかと」
「それで断られていたわけですね。では……そのゴードンという人に直接頼めば?」
カイルが聞くと、ルイーズさんはため息をついて首を振った。
「剣を打つことを辞めたのだそうだ。何度か頼みに行ったのだが、まったく相手にしてもらえなかった」
「師匠は家庭で使える物だけを、作るようになったんですよ。人に喜ばれる物や、人を生かす物を作りたいって言って」
そう言うニコさんを、ルイーズさんは恨めしげに見る。
「店主も同じ考えで断ったのか?」
ニコさんは大きく頷いて、微笑んだ。
「僕も師匠同様、武器は作りません。武器とするには、切れ味が良すぎるんですよ」
そう言うと、ニコさんはカウンターに形の悪いニンジンを載せ、包丁をトンと下ろした。ニンジンは真っ二つに割れる。
「包丁も植物や動物の命をいただくものではありますが、それは自分の糧とするためです。切れすぎる剣は、人を変えて魔剣ともなる。それでは多くの命が失われることになるでしょう。僕にその罪を背負う勇気はありません」
ニコさんは悲しげに呟いた。
カイルやルイーズさんは、その切れ味の良さを目の当たりにして呆然とする。
そんな中、俺は別の意味で衝撃を受けていた。
これは……和包丁?
背伸びをして、ニコさんの隙を見てカウンターの包丁を掴む。
「ああぁぁっ!! フィル君危ないよ! 触ったら切れちゃう! 切れちゃうから!!」
カウンターから身を乗り出して取り返そうとするニコさんを横目に、俺は包丁を観察した。
この刃の形状、鋭さ……間違いない。和包丁だ。
包丁は片刃で、その刃には美しい刃紋があった。
この芸術品かと思うくらい美しい波模様は、前世で見覚えがある。
俺が欲しくて買えなくて、店でじーっと見ていた本焼き和包丁そのものだ。
「こ、これって、どうやって作ったんです?」
俺が興奮気味にニコさんに聞くと、彼はあわあわしながら両手を差し出した。
「その前に危ないから、とりあえずその包丁を返して」
俺は名残惜しい気持ちで包丁を返すと、ニコさんはそれを受け取ってホッと息をついた。
「それで、その包丁の製法はゴードンさんが開発したんですか? それとも、ゴードンさんが誰かから聞いたんですか?」
俺から矢継ぎ早に質問され、ニコさんは困って眉を下げる。
「師匠が考案した製法だよ。師匠は今までにない製法を考えたり、変わった素材を使ったりするのが好きなんだ。でも申し訳ないが、詳しい製法については教えられない。門外不出でね」
「あ~……そうなんですかぁ」
和包丁と同じ製法かどうか確認したかったのだが、そう簡単には教えてもらえないか……。
落胆する俺を見て、ニコさんは苦笑した。
「まぁ、聞いても熟練の技が必要だから、同じものができるとは思えないけど。僕も技を身につけてはいても、師匠の作る包丁にまだまだ敵わないしね」
ゴードンさんに会ってみたいな。
ニコさんの作ったものより素晴らしいという包丁を見てみたいし、可能ならば手に入れたい。
「それにしても、この切れ味、本当にすごいですね。こんな綺麗な断面は見たことがありません」
カイルは先ほど切ったニンジンを持って、断面の滑らかさに驚いている。
「だよな。アタシも初めて見た時は驚いたぜ。早く母さんに、美味しい料理を作ってもらいたいよ」
その料理を想像してか、ユーリの頬が緩む。あまりにも幸せそうだから、俺は思わず笑ってしまった。
「ユーリ、この包丁を買っていくなら、使い方に気をつけてね」
俺が言うと、ユーリはキョトンとした。
「え? 普通に切るだけだろ?」
「押して切るんじゃなくて、引いて切ったほうがいいんだよ。こういう感じ」
俺はエア包丁で切り方を説明した。扱う食材や個人の好みにもよるのかもしれないが、和包丁は引き切りのほうがいいと前世で聞いたことがある。
ユーリは訝しげに、ニコさんに尋ねる。
「ニコ、本当か?」
口をあんぐりと開けて俺を見ていたニコさんは、ハッとして頷く。
「う、うん、そう。買っていただく前に、お客様に切り方を説明しているんだ。その時に、ユーリのところの野菜くずが必要で……。でも……フィル君、何で知ってるの?」
ニコさんに凝視されて、俺はしまったと目を泳がせる。
「えっと……前、同じ包丁を持っている人が、そんなこと言ってたのを聞いたことがあって……」
「そうなんだ? 前に購入していただいたお客さんかな?」
ニコさんは、購入したお客さんの名前をブツブツと呟きながら首を捻る。
やばいやばい。うっかりしていた。
こっちの世界ではあまり和包丁は出回ってないみたいだから、変に知識があったらまずいよな。特に製法に関しては注意しないと。技術を盗んだとか漏洩したとかいう騒ぎになったら大変だ。
とはいえ、ゴードンさんがもし和包丁の製法で剣を作っていたとしたら、それは刀だということになる。この包丁の切れ味からすると、剣も相当なのではないだろうか。
ニコさんは俺からルイーズさんに視線を移すと、顔色を窺いながら言う。
「あ、あの……話は逸れましたが、師匠と同様、僕は剣を作るつもりはないんです。わかっていただけましたか?」
ニコさんの口調に気弱さがにじみ出ている。ルイーズさんに本気で諦めてもらいたいなら、もう少し強めに言えないかな。これじゃルイーズさん、食い下がってくるかもしれない。
そう思って俺がチラリと見ると、ルイーズさんは意外にも静かに頷いた。
「そうだな。正直、ここまでの切れ味だとは思わなかった。確かに名剣は手に入れたいが、私では扱いきれないかもしれない。他に方法を考えるしかないか……」
ルイーズさんは、ため息交じりに言う。
「あの……どうして剣を作ってもらいたかったのか、お伺いしても?」
ニコさんは躊躇いがちに、ルイーズさんに問いかけた。
俺もそれは気になるな。ニコさんが半泣きで断っていたのに、あんなに頼み込んでいたんだから。
女の人にしては鍛えているようだが、剣豪というほど筋肉質でもないし……。
剣を持つだろう手も、綺麗なものだ。十代の女の子が名剣を欲しがるって、どんな理由だろう。
するとルイーズさんは「う……」と言葉に詰まり、俺たちの顔を見回した。
「……た、大した理由ではない」
「でも必死だったじゃん」
ユーリがズバリと言うと、ルイーズさんは顔を赤らめた。
「だ、だから、何でお前は、そうズバズバとっ!」
「事実だろ」
悪びれないユーリに、ルイーズさんは諦めたのか大きく息を吐いた。
「わかった。理由を話す。……私は今年で十七になる。年の離れた三人の兄がいるのだが、私を溺愛していてな。まったく手放そうとしてくれないんだ。婚約者はもう二年も待ってくれているのに、あと数年は家から出さないと言っている。父上や母上が何を言っても、兄たちは聞いてくれなくて困っているんだ」
「……はぁ」
まさか、シスコンのお兄さんたちの話が出てくるとは思わなかったな。
予想外の話で、俺たちは目を丸くする。
しかし、そんな俺たちの表情は予測できていたのか、ルイーズさんは表情を曇らせる。
「わかってる。くだらないことだとな。だが私にとっては切実なんだ。もとはといえば、私が成人の儀を行えていないのが問題でな。それを終えていれば成人として認められ、本人の意思が尊重されるが、それまでは我が国では年齢に関係なく、保護対象のままなんだ」
「えっと、じゃあ、その成人の儀をやればいいのでは?」
俺がそう言うと、他の三人も同意見とばかりに頷く。
成人式みたいなお祝いなら、ちゃっちゃとやってしまえばいいのではないだろうか。
しかし、ルイーズさんは首を振った。
「私の国の成人の儀は、森の中の神殿で執り行う。だが、今その森にはボルケノの魔獣がいて、入ることができないのだ。聖教会にも依頼を出したが、森に結界は張ってもらえても、相手が相手だからか討伐はしてもらえなくてな。おかげでここ数年、我が国では成人の儀を執り行えていない」
確かボルケノって、体長四メートルくらいにもなるでっかい猪じゃなかったっけ?
動物は魔獣になると、大きくなったり、何かに特化した能力を得たりする。
ただでさえ大きいボルケノが、魔獣になっているとしたら……うわ、それってかなりやばいじゃないか。
コクヨウがこの場にいたら、すぐにでも飛んで行ってしまいそうな話だ。
ルイーズさんは沈んだ顔で、ため息をつく。
「成人の儀はただの儀礼的なものだから、それを行わなくても社交界に出さえすれば問題ないとされている。だが、あの兄たちはっ! それを理由にして私が嫁に行くのを阻んでくるんだ」
ルイーズさんはそう言って、ブルブルと握り拳を震わせる。
「あの……まさか……剣を手に入れようとしたのって、魔獣退治のためですか?」
ニコさんは顔を青くして、おずおずと尋ねた。
「ルイーズの姉ちゃん。同情はするけど、いくら何でもそりゃ無茶苦茶だぜ」
ユーリも呆れた様子で、首を大きく振る。
「……だから、言いたくなかったんだ」
ルイーズは顔を赤くして、口を尖らせる。その様子は、初めの印象と違って可愛く見えた。
俺は眉を少し下げて、困り顔で微笑む。
「ルイーズさんにとっては、それほど深刻な悩みなんですよね。でも、やはり少し無謀かと。魔獣は、剣の切れ味が良くても倒すことはできません。有効なのは、聖の力のみですから」
「へ~。フィル、詳しいんだな」
感心して言うユーリに、俺は咳払いで誤魔化す。
「ゴホゴホ……ま、まぁ、聖教会に知り合いがいるからね」
ユーリとニコさんが「そうなんだ」とますます感心するその横で、カイルは額ににじむ汗を拭っていた。
「と、とにかく、さっきのニコさん相手みたいに、お兄さんたちを説得したほうが良いんじゃないでしょうか?」
俺が提案すると、ルイーズさんは俯いて低く唸る。
「そうは言っても、兄たちの溺愛っぷりは尋常ではないのだぞ。私がステア王立学校に入ると決めた時も、入学直前まで阻止しようとしていたからな。私にとっては、魔獣を倒すのと同じくらいの難題なのだ……」
……それ、俺も身に覚えがある。うちにもいるからなぁ。ブラコンの人たち。
「僕のところもそうなので、気持ちはとてもわかります」
俺がこっくりと深く頷くと、ルイーズさんは意外そうな顔をした。
「そうなのか? よくあることなのだろうか?」
そう首を傾げかけて、彼女は突然噴き出して笑い始める。
「まさかこんなところで、子供たちに身の上相談するとは思わなかった。でも、何だか話したらスッキリしたよ。国に帰って、説得を続けてみる。それまで、私の婚約者が待っていてくれたらいいのだけれど……」
ルイーズさんは自嘲気味にそう言って、肩をすくめた。
「大丈夫、きっと待っていてくれますよ」
にっこりと笑みを浮かべた俺に、ルイーズさんが微笑み返す。
「ありがとう。……店主にも迷惑をかけたな。では、私はこれで失礼する」
「包丁は買わなくていいのか?」
ユーリが言うと、彼女は困った顔をした。
「私は料理があまり得意ではなくてな。腕が上がったら、改めて来ることにする」
そう言って颯爽と去っていく彼女の背中に、ニコさんが声をかけた。
「包丁を取りそろえてお待ちしてます!」
騒ぎが一段落して、ユーリが大きな声を上げた。
「まずいっ! そろそろ帰らないと! 遅いって、母さんに怒られる!」
普段はあまり動じないユーリが、珍しく顔を青くする。
メイサさんは優しそうに見えるけど、怒ると怖いのかな?
「あぁ、包丁が欲しいんだったね。ごめんね」
申し訳なさそうな顔をするニコさんに、俺も飛び上がるように手を挙げた。
「あの! 僕も包丁欲しいです!」
和包丁を手に入れて、美味しいものを作るんだ。
7
暖かな海風が、俺の髪を撫でつけていく。
気持ちいいなぁ。
学校のあるステア王国では、雪が積もっていたもんな。グレスハートに近づくにつれて、季節が春に移り変わっていくみたいだ。
母国を出て五ヶ月。家族とは毎日のように手紙のやり取りをしていたし、学校も賑やかだったのであまり寂しさを感じなかったが、久々の帰郷はやはり嬉しい。
「あ、港が見えてきたね!」
だんだん輪郭がはっきりとしてきた懐かしい港を見て、俺は船のへりに手をかけて身を乗り出した。
「フィル様! ほどほどにしないと落ちてしまいますよ」
カイルが慌てて俺の体を引き寄せ、船のへりから離す。
俺は照れ笑いをして頭を掻いた。
「ごめん、ごめん。グレスハートの港が見えてきたから、嬉しくなっちゃって」
ステア王国の四季は、春三ヶ月、夏二ヶ月、秋四ヶ月、冬三ヶ月ある。
冬に入り、初雪が降った時からさらに雪深くなった頃、学校は二ヶ月間の長期休みに突入した。
ユーリのようにステア王国内の子は、まるまる二ヶ月間休みになるが、帰郷に一、二週間かかる生徒は往復を考えると実質一ヶ月ほどの休みになる。
それでも冬の長期休みは、まだマシだ。夏期休暇は一ヶ月ちょっとしかないので、故郷が遠い生徒の中には寮に残る子もいた。
移動に二週間弱かかる俺も遠方組に入るのだが、行きに比べると帰りは格段の速さだった。
ステア王国からカレニア国まで馬車で十日かかるところ、ルリの飛行で二日。
カレニアの港ハレスからグレスハートまで行く船も、行き同様ヒスイが風を送って動かしてくれたので、二日くらいで済んだ。
つまり通常二週間の行程が、四日に短縮されたことになる。
皆も、ルリに乗れば良かったのになぁ。
アリスとライラには「他の友達と寄り道しながらゆっくり帰る」と言われ、レイとトーマは「怖い。命が惜しい」と断られてしまった。
女の子たちは仕方ないとして、レイたちは乗らずに損したよな。
加工の授業を受け持つボイド先生が、ウォルガー用の手綱と鞍を作ってくれたから安全に騎乗できるようになったし、ルリも召喚獣契約を結んだ今は、俺が主として頼めば自然と制御されるので、高速飛行やアクロバット飛行をすることはない。
まぁ、正直言えば冬の凍てつく中、空を飛ぶのは過酷だったが。それでも休憩を入れながら行けば、まったく問題なかった。
馬車で節々が痛くなるのに比べたら、俺は断然ルリがいいんだけどな。
いや、もしかすると、レイは荷物のせいもあるのかな?
ルリで飛行する場合、落ちないようにするために、乗せる荷物は最小限となる。
だが学校での別れ際、レイとトーマの乗る馬車には、またも大きな鞄がいくつも括りつけられていた。
トーマは手に鞄一つしかなかったから、他はすべてレイのものだろう。
鞄一つあれば充分なのに、何をそんなに運ぶんだ?
どうせまた学校に戻って来るんだから、必要な物だけ入れて、あとは置きっぱなしでいいと思うのだけど。
レイたちは今頃、まだ馬車で揺られてるのかな。
そんなことを考えているうちに、船はグレスハート港にゆっくりと横付けされた。
俺とカイルは鞄を持って船から降り、城へ向けて歩きだす。
応援ありがとうございます!
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