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5巻
5-11
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「ようやく着いたぁ」
俺は息を吸い込んだついでに、大きく伸びをする。
「マティアス国王陛下や皆様は、来ていらっしゃらないようですね。てっきりご兄姉の方々がお出迎えにいらっしゃるものと思っていましたが……」
意外そうにカイルが辺りを見回すのに対し、俺は悪戯っぽく笑う。
「当然だよ。だってルリのことはまだ教えてないし。こんなに早く帰ってくるとは思ってないんじゃないかな」
「えっ!!」
カイルは足元に鞄を落とし、慌ててそれを拾う。
「ルリのこと、お伝えしてないんですか?」
俺はこっくりと頷いた。
「うん。ルリのことは直接話したいと思って、とりあえず内緒にしてあるんだ。ハレス港からグレスハート港に船で来たのは、ルリを休ませる意味もあったんだけど、ルリのことを知られるのを防ぐためでもあったんだ。飛んで来たら騒ぎになって、すぐ父さまの耳に入っちゃうからね」
ニコッと俺が笑うと、カイルは納得した顔をする。
「それでフィル様が、船で帰ると仰られた謎が解けました。ルリでしたら、もう一日は早く到着できたはずですから。確かに……ルリでグレスハートに帰ってきたら、騒ぎになるかもしれませんね。ハレス港でもすでに話題になっていましたし……」
港に入る前までは、街道を避けて飛行していたので何とか見つからずに済んだのだが、ハレス港近くでルリの姿を目撃されたらしい。
港町ハレスはグラント大陸の玄関口でいろんな人で溢れているから、街道以外にも人がいたんだな、きっと。
目立たないようにハレス港の手前の森に降り立ったのに、港に着いたら「大きなウォルガーが飛んでいた」と、ちょっとした騒ぎになっていた。
うーむ。幻の飛獣を召喚獣にすると、こういうことが起こるんだなぁ。まぁ、俺たちが騎乗していたと、気づかれなかっただけでもマシだったのかもしれないけど。
カイルはため息を漏らし、ポツリと呟いた。
「フィル様がウォルガーを召喚獣にしたと知ったら、国王陛下はどんな反応をなさるでしょうね……」
カイルの虚ろな表情を見て、俺は急に不安になった。
「え、内緒にしてたことを怒るかな? ウォルガーって直接見た人が少ないから、先に話したらかえって心配させちゃうかなって配慮したつもりだったんだけど……」
俺が眉を下げて見上げると、カイルは困った顔をした。
「怒るっていうか……何の心構えもなく見たら、心臓に悪いと思います」
言われてみれば、コクヨウの時も相当驚いてたもんなぁ。どっちにしても問題だったか……。
俺が唸りつつ、城へと通じる市場の通りを横切ったその時、ふと後ろから声をかけられた。
「……フィル王子様?」
「はい?」
振り返った途端、俺に声をかけたと思われるおばちゃんが笑顔になった。
それから市場全体に響く大きな声で叫ぶ。
「皆ぁっ! フィル王子様のご帰国だよーっ!!」
なーっ! そんな大声でっ!
「そ、そんなに大げさに広めなくてもいいから」
俺は慌てておばちゃんを止めたが、もう遅かった。市場の店や買い物をしていた人たちが、わらわらと集まりだす。
「フィル王子様がご帰国されたのか」
「ご帰国のお祝いしなきゃ」
俺を中心にどんどん人が増えてきて、これでは城に帰ろうにも帰れない。
国に到着して早々困った事態になったが、それでも皆の笑顔がとても嬉しかった。
「ただいま」
俺がニッコリ微笑むと、皆はほっこりと頬を緩ませる。
「おかえりなさいませ」
深々とお辞儀をされて、俺は少し照れくさくなって額を掻いた。
平民としての学生生活が居心地よすぎて、頭を下げられると落ち着かないなぁ。
「いやぁ、ご帰国されて嬉しいです。フィル王子様が留学なさって、しばらくこの国は沈んでおりましたからねぇ。ご兄姉の方々の落ち込みようは海よりも深く、見ているこちらも悲しい気持ちになりました……」
一人のおじさんが、鼻をスンと鳴らして目元を拭う。他の人も何人かもらい泣きして、鼻をすすっていた。
兄さんたちからの手紙にも、国を出てしばらくの間は俺との思い出に浸りながら涙に暮れているという内容ばかりだったが……。街の人たちにも影響するほどだとは思わなかった。
「ご、ご心配をおかけしまして……」
困り顔の俺に、おじさんの隣にいたおばさんが笑った。
「あら、フィル王子様が気に病む必要はありませんよ。……まったく、せっかくのご帰国なのに、しみったれた空気にするんじゃないよ、もう」
そう言って、未だ鼻をすすっているおじさんの背中を叩く。
「それよりも、学校にお戻りになられる前に、街にも遊びにいらしてくださいね」
微笑んだおばさんの言葉を皮切りに、周りの人たちからも次々と声が上がる。
「フィル様に以前アドバイスいただいた商品の出来を、ぜひ見ていただきたいです」
「とっておきの干物を、どうか味わっていただきたいです!」
「その愛らしい姿を見せていただけるだけでも、嬉しいです!」
俺はそれぞれに、微笑みながら頷く。
「うん。また来るよ。だから、もう皆仕事に戻って……」
俺がそうして会話を終わらせようとした時、人ごみの奥からひときわ大きな声が聞こえた。
「フィルッ!!」
聞き覚えのあるその声に、俺は目をパチクリさせる。
「え……アルフォンス兄さま? あれ? 今日帰国するってこと、内緒にしていたのに……」
何でアルフォンス兄さんが街にいるんだ?
俺が首を捻っていると、近くにいたおじさんが、その疑問に答えてくれた。
「恐れながら、日課でございますよ。フィル王子様の冬休みが始まった頃から、毎日港に様子を見にいらっしゃってますからねぇ。本日で四日目です」
その言葉に、他の街の人も微笑みながら頷く。
アルフォンス兄さん……。いくら休みが始まったからって、すぐ帰国できるわけではないのに……。
兄の愛の大きさに愕然とする。
感動の再会を邪魔しないようザッと左右に分かれた人の間を、アルフォンス兄さんが俺めがけて駆けてきた。そして、俺を抱き上げると、そのままくるくると回転する。
「やっぱりフィルだ!」
ひとしきり回り終えたアルフォンス兄さんは、俺をぬいぐるみみたいにぎゅっと抱きしめた。
「あ、あの、アルフォンス兄さま! 皆が見てるんですけど!」
あまりの熱烈歓迎っぷりに、恥ずかしくなって顔が真っ赤になる。
アルフォンス兄さんは、そんな俺の顔をマジマジと見てにっこりと微笑んだ。
「この照れた様子……。本当に、可愛いフィルが帰ってきたんだね」
あぁ……アルフォンス兄さんの目には、俺しか見えていない。
「た……ただいま帰りました」
諦めた俺が抱き上げられたままそう言うと、アルフォンス兄さんは嬉しそうに頷いた。
「うん。おかえり」
◇ ◇ ◇
家族団らんの場である城の広間。
アルフォンス兄さんと一緒に城に帰った俺は、今度はレイラ姉さんから熱烈な歓迎を受けていた。
「あぁ、フィル。本当に本当の本物なのね! 夢じゃないんだわ!!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息苦しさに限界を感じた俺は、レイラ姉さんの肩をペシペシ叩く。
「レイラ姉さま……く、苦しいです」
「そうだぞ。せっかく帰ってきたのに絞め殺す気か」
ヒューバート兄さんが呆れた顔で、レイラ姉さんと俺を引きはがす。
レイラ姉さんは残念そうな声を出したが、俺はホッと息を吐いた。
ヒューバート兄さんは、そんな俺の頭をクシャクシャと撫でる。
「おかえり、フィル。お! 少し大きくなったか?」
にっこり笑うヒューバート兄さんに、俺は嬉しくなって縋りついた。
「そ、そうですよね! 少し大きくなってますよね?」
俺の周りにいる同級生たちは背が高いから、あまり実感がないんだけど。留学してから五ヶ月は経ってるんだ。前より少しは身長が伸びてるはずだよな。そうじゃないと困る。
ヒューバート兄さんは快活に笑って、大きく頷く。
「ああ、剣術の授業を受けているだけあって、体つきも前よりしっかりしている。休みの間に一度手合わせしよう。どれくらい強くなったのか、ぜひ試してみたい」
そう言うと、俺の両肩に手をかけワクワクした顔でじっと見つめた。
ヒューバート兄さん……相変わらずだなぁ。
あまり気は進まないが、一回くらい付き合ったほうがいいんだろうか? でも、適当に相手してると、ヒューバート兄さんはすぐに気づくんだよな。
俺が困っていると、今度はレイラ姉さんが俺を背後から羽交い締めにする形で、ヒューバート兄さんから引きはがす。
「駄目よ。フィルは私とお買い物に行ったり、野原でピクニックしたりするんだから。ね、フィル?」
顔を覗き込みながら可愛らしく微笑まれ、俺は口元が引きつってしまった。
レイラ姉さんと一緒に出掛けると、連れ歩く護衛やメイドの数がすごいんだよなぁ。
しかも、買い物……。また着せ替え人形にされるに決まってる。
城には王族専属のデザイナーがいて、俺たちの普段着や礼服を作ってくれる。それらは各個人の好みを汲んで作られるので、俺の服にはフリルみたいなものはついていなかった。
レイラ姉さんはそれがご不満のようで、俺を街に連れて行っては、異国の民族衣装や、フリル満載の王子様服を着せて楽しむのだ。
アルフォンス兄さんは時々フリルつきの服を着ていることがあるが、俺は普段着としては不向きだと思うんだよね。それにいかにも王子様って服も、あんまり好きじゃないし。民族衣装も、コスプレしている気分になる。
とはいえ、もしヒューバート兄さんと手合わせするならば、レイラ姉さんにも一度くらいは付き合わないとまずいだろうか。
小さく唸っている俺に気がつかないのか、レイラ姉さんは「ふふふ」と嬉しそうに笑う。
「ステラ姉様のおかげか、うちの国にもティリア国から素晴らしい衣服が入ってくるようになったの。フィルに着せたいものも、いっぱいあるのよ。刺繍やフリルがついていて。全身ヒラヒラで、きっと可愛いわ!」
全身ヒラヒラ……? 何、その服……ダンス衣装?
そんなレイラ姉さんの様子を見て、母さんは微笑ましげにくすくすと笑う。
「レイラ、そろそろ私にもフィルを貸してくれないかしら」
「あ、ごめんなさい、お母様」
ハッとしたレイラ姉さんは、抱きしめていた俺を慌てて放す。
俺は母さんの前に立って、ぺこりとお辞儀をした。
「ただいま帰りました」
母さんは頷いて身を屈めると、フワリと優しく抱きしめてくれる。
「手紙で近況を聞いていたから、大事ないとわかっていたけれど。元気そうで本当に良かったわ」
安堵した様子の母さんは、嬉しそうに微笑んだ。その目には、うっすら涙が浮かんでいる。
それから母さんは、少し離れたところに立っていたカイルに目を向けた。
「カイルも、ご苦労でした。フィルの側で随分力になってくれていたようね。手紙に書いてあったわ」
「いえ、お……私は何も……。ただ、フィル様についていただけです」
カイルは恐縮するように頭を下げる。
その時、突然広間の扉が大きく開かれた。
「フィルが帰ってきたというのは本当かっ?」
父さんだ。珍しく少し息を切らしている。
父さんは俺の姿を発見すると、早歩きで近づいてきた。それから、力強く俺を抱きしめる。
「おかえり、フィル」
その力強さに、母さんや他の兄姉とは違った愛情を感じる。
「ただいま帰りました」
父さんは抱きしめていた腕を解くと、俺を見つめた。
「それにしても、フィル。なぜこんなに早く帰ってこられたのだ? 手紙には書いていなかったが、休みが早まりでもしたのか?」
「いえ、休みが始まったのは、確かに四日前です」
俺は首を振って、ニコリと微笑む。
すると、父さんの眉が訝しげに歪んだ。
その隣に立つアルフォンス兄さんは、俺の顔を覗き込んで言う。
「さっきそのことを聞いたら、皆の前で話すと言っていたけど……。いい加減教えてくれるかい?」
「ちょっと待ってください。紹介するので」
皆が「紹介?」と不思議そうな顔をしている中、俺はルリを召喚する。
「ルリ」
空間の歪みから出てきた小さなウォルガーは、俺の両手にポスリと収まった。
家族がマジマジと、その動物を見下ろす。
「可愛いっ! フィル、この動物なあに?」
顔を綻ばせるレイラ姉さんに、俺は悪戯っぽく笑う。
「ルリ、この部屋の中で遊んでおいで」
俺の言葉を聞き、ルリはパァッと目を輝かせて嬉しそうな顔をした。
【行ってきます!】
言うが早いか、俺の手から飛び立ち、広間を高速でぐるぐると飛行する。
【ヒャッホーゥ!! やっぱり速いってサイコー!】
俺を乗せて来る時に、速度制限したからだろうか。うっぷんを晴らすかのように飛び回っている。
父さんと母さんとアルフォンス兄さんは、飛び回るルリを唖然として見つめていた。
ヒューバート兄さんとレイラ姉さんは、ルリを目で追いすぎたせいか、若干目を回しかけている。
「こ、これは……まさか……」
父さんが呟き、アルフォンス兄さんが俺を振り返った。
「もしかして、ウォルガーかい?」
その名前を聞いて、ヒューバート兄さんが驚愕する。
「ウォルガー!? あの動物、本当に存在するのか? フィルが召喚獣にしたのか?」
飛行を終えたルリが肩にとまると、俺はルリを撫でながら頷く。
「召喚学の課外授業で行った湖に運良くいまして、召喚獣にすることができたんです。到着が早かったのは、ルリに乗ってステア王国からカレニア国までを飛び、時間を短縮できたからですよ」
「と……飛んで……乗って……?」
想像を遥かに超える内容についてこられないのか、レイラ姉さんはそう呟いたきり固まった。
「ルリも、コクヨウみたいに体の大きさを変えられるんです」
「太古から生きる種には、大きさを変化できる動物もいたとされているけれど……。本当に乗れるくらい大きくなれるのかい?」
アルフォンス兄さんはとても信じられないといった様子だ。
俺は家族から少し離れてカイルの脇に立ち、ルリに大きくなるようお願いした。
ルリがシングルベッドくらいまで大きくなると、皆は声を失う。
しばらくして、父さんが額を押さえながら深くため息をついた。
「フィルが帰って来る少し前に、カレニアから戻った者が、空を飛んでいるウォルガーを見たと言っていたが…………これか」
あれ? 父さん、がっくりと脱力してるな。やっぱり驚かせすぎたのかなぁ?
俺がキョトンとしていると、隣でカイルが父さんを見つめ呟いた。
「……心中お察しします」
え、なんで?
8
俺が里帰りしてから数日経った。今は家族そろっての夕食の時間である。
「本日のディナーは、フィル様考案の新作のお料理となっております」
そう。今日のディナーは、久々のグルメ改革だ。
帰国祝いにと街の皆から、グレスハートの海や畑でとれたものが届けられたため、ありがたく調理させてもらうことにした。
「フィル考案の料理か。久しぶりだな」
料理長の言葉に父さんが微笑むと、皆も嬉しそうに頷いた。
「楽しみ! フィルの考えるお料理は、プリンにしても干物にしても美味しいもの」
レイラ姉さんは、期待に満ちた眼差しで俺を見つめる。
「いつもの料理とは違う味付けなので、お口に合うといいのですけど……」
俺はそう言って、料理長に目配せした。
その合図で運ばれてきたのは、赤身魚のカルパッチョだ。
魚の表面だけを軽く炙って薄切りにし、葉物野菜と一緒に和えている。
味付けはシンプルに、オイルと塩、それからカルシュ酢だ。
カルシュは林檎に似た果物で、果肉がピンク色をしている以外は、味も食感もほぼ林檎と変わらない。
林檎酢の要領で果実酢が作れると思ったので、留学する前にカルシュ酢を仕込み、料理長に渡しておいたのだ。
上手にできていて良かったな。カルシュ酢の甘みと酸味が、意外に赤身魚に合う。
俺はシャクシャクと、野菜を咀嚼する。その美味しさに、思わず頷いた。
他の皆も、表情から察するに口に合ったらしい。
「ほぉ……美味しいな」
カルパッチョを食べた父さんの言葉に、母さんが微笑みながら頷く。
「本当にそうですわね。お魚ですのに臭みも感じないし、生野菜がこのように合うとは思いませんでしたわ」
不思議そうに皿を見つめる母さんに、アルフォンス兄さんが顔を向けた。
「母上、魚を炙っているのと、この酸味のあるソースが臭みを消しているんだと思います。違うかな? フィル」
そう問われて、俺はその通りだと頷く。
アルフォンス兄さんて、グルメ評論家みたいに分析するよな。しかも、それが結構当たっている。
「それにしても、この魚の切り口……とても美しい。普通なら、このように薄く切ったら身が崩れてしまうはずなのに。……料理長、包丁を変えたのかい?」
アルフォンス兄さんが、傍らに控えている料理長に顔を向ける。
料理長は一礼して、俺をチラリと見た。
「恐れ多いことでございますが、実はフィル様から厨房にと包丁をいただきました」
「フィルから?」
父さんが驚いた顔で料理長に尋ねる。料理長は恐縮するように、深く頷いた。
「はい。その包丁の切れ味がとても素晴らしく、このように薄く切ることができたのです。私どもが今まで使っていた包丁では、魚の身を潰さずに切ることは不可能でした」
料理長はその時の感動を思い出したのか、熱っぽく語る。
厨房にニコさんの包丁をいくつか買ってきたのだが、実際使ってみせた時の厨房の人たちの盛り上がりはすごいものだった。
今回大量に買ってくることはできなかったけど、またお土産に持ってくるべきだろうか?
厨房の人たちには、グルメ改革でよくお世話になってるしなぁ。
「フィル、それは手紙に書いてあった、ニコ・ラウノという職人の包丁のことか?」
父さんの質問に、俺はコックリと頷く。
「ええ。ニコさんの包丁がとても素晴らしかったので、お土産に買ってきたんです」
「素晴らしいとは書いてあったが、正直これほどのものとは思わなかった。若い職人だと言っていたからな」
父さんは魚の切り身を口に入れて、味わうように目を瞑る。
「フィル、その職人は剣を作ってはいないのか?」
俺の隣に座っていたヒューバート兄さんが、興味津々で尋ねてきた。
やはり剣を志す人は、皆その辺りが気になるんだな。
俺は苦笑して、小さく肩をすくめる。
「作らないそうですよ。ニコさんのお師匠様が、民の暮らしに寄り添った品を作りたいと考えている方らしく、ニコさんもそれを支持しているとのことです」
ヒューバート兄さんは、ひどく残念そうに眉を下げる。
「そうなのかぁ。残念だなぁ」
「そのお師匠様も、素晴らしい職人なのでしょうね」
微笑む母さんに、俺も笑みを返した。
「有名な方らしいです。ドルガド国のゴードン・ベッカーさんといって、名匠だそうですよ」
「ゴードン!? あのゴードン・ベッカーか?」
父さんが名前に反応して、目を大きく見開く。
「あ、ご存知でしたか?」
「王たるもの、他の大陸の情報にも気を配るべきだからな。しかし……そうか、ニコという者は、ゴードンの弟子か……」
顎に手をやり、父さんは少し考えるように俯いた。
「ゴードンは相当気難しい性格で、弟子をとらぬ主義だと聞いていた。ゆえに、彼がもう剣を作らぬと宣言した時、技術が失われることになるのだろうと思うたが……」
そうなのか……そんなに気難しいんだ? ってことは、やっぱりニコさんってすごい人なんだな。あの年齢で、その技を習得しちゃってるし。
「へぇ」と感心していると、父さんが顔を上げて俺を見た。
「まさか、そのゴードンとも知り合い……ということはなかろうな?」
「え! いえいえ、まさか、そんな」
ブンブンと頭を振る俺を、父さんは疑わしげに見つめる。
「お前の交友関係は、他の子と少し違うからな。世界の大商人と呼ばれるトリスタン家のライラ嬢は、同級生であるから仕方ないとして……。グラント大陸一の若手剣士と噂されるマクベアー家の子息や、ステア王国の第三王子ともかなり親しくしているようだしな?」
意味深なものの言い方に、俺は口元を引きつらせつつ笑う。
「た、確かにマクベアー先輩やデュラント先輩には、可愛がっていただいてますけど。同じ男子寮なのですから親しくもなります。でも、ゴードンさんには、お会いしたことはありませんよ」
「そうか。なら良いのだが……」
父さんは少し安堵した表情になり、皿に残った赤身魚を口に運ぶ。
…………実を言うと、春の終わりに行われる三校対抗戦の際に、中等部全体でドルガド国に一週間ほど滞在することになっている。その機会にゴードンさんと会えないか、ニコさんに頼むつもりだった。
だって、こちらの世界でおそらく初めて和包丁を作った人だよ? 興味がある。
ともあれ、まだ会っていないので、嘘はついてない。
俺は息を吸い込んだついでに、大きく伸びをする。
「マティアス国王陛下や皆様は、来ていらっしゃらないようですね。てっきりご兄姉の方々がお出迎えにいらっしゃるものと思っていましたが……」
意外そうにカイルが辺りを見回すのに対し、俺は悪戯っぽく笑う。
「当然だよ。だってルリのことはまだ教えてないし。こんなに早く帰ってくるとは思ってないんじゃないかな」
「えっ!!」
カイルは足元に鞄を落とし、慌ててそれを拾う。
「ルリのこと、お伝えしてないんですか?」
俺はこっくりと頷いた。
「うん。ルリのことは直接話したいと思って、とりあえず内緒にしてあるんだ。ハレス港からグレスハート港に船で来たのは、ルリを休ませる意味もあったんだけど、ルリのことを知られるのを防ぐためでもあったんだ。飛んで来たら騒ぎになって、すぐ父さまの耳に入っちゃうからね」
ニコッと俺が笑うと、カイルは納得した顔をする。
「それでフィル様が、船で帰ると仰られた謎が解けました。ルリでしたら、もう一日は早く到着できたはずですから。確かに……ルリでグレスハートに帰ってきたら、騒ぎになるかもしれませんね。ハレス港でもすでに話題になっていましたし……」
港に入る前までは、街道を避けて飛行していたので何とか見つからずに済んだのだが、ハレス港近くでルリの姿を目撃されたらしい。
港町ハレスはグラント大陸の玄関口でいろんな人で溢れているから、街道以外にも人がいたんだな、きっと。
目立たないようにハレス港の手前の森に降り立ったのに、港に着いたら「大きなウォルガーが飛んでいた」と、ちょっとした騒ぎになっていた。
うーむ。幻の飛獣を召喚獣にすると、こういうことが起こるんだなぁ。まぁ、俺たちが騎乗していたと、気づかれなかっただけでもマシだったのかもしれないけど。
カイルはため息を漏らし、ポツリと呟いた。
「フィル様がウォルガーを召喚獣にしたと知ったら、国王陛下はどんな反応をなさるでしょうね……」
カイルの虚ろな表情を見て、俺は急に不安になった。
「え、内緒にしてたことを怒るかな? ウォルガーって直接見た人が少ないから、先に話したらかえって心配させちゃうかなって配慮したつもりだったんだけど……」
俺が眉を下げて見上げると、カイルは困った顔をした。
「怒るっていうか……何の心構えもなく見たら、心臓に悪いと思います」
言われてみれば、コクヨウの時も相当驚いてたもんなぁ。どっちにしても問題だったか……。
俺が唸りつつ、城へと通じる市場の通りを横切ったその時、ふと後ろから声をかけられた。
「……フィル王子様?」
「はい?」
振り返った途端、俺に声をかけたと思われるおばちゃんが笑顔になった。
それから市場全体に響く大きな声で叫ぶ。
「皆ぁっ! フィル王子様のご帰国だよーっ!!」
なーっ! そんな大声でっ!
「そ、そんなに大げさに広めなくてもいいから」
俺は慌てておばちゃんを止めたが、もう遅かった。市場の店や買い物をしていた人たちが、わらわらと集まりだす。
「フィル王子様がご帰国されたのか」
「ご帰国のお祝いしなきゃ」
俺を中心にどんどん人が増えてきて、これでは城に帰ろうにも帰れない。
国に到着して早々困った事態になったが、それでも皆の笑顔がとても嬉しかった。
「ただいま」
俺がニッコリ微笑むと、皆はほっこりと頬を緩ませる。
「おかえりなさいませ」
深々とお辞儀をされて、俺は少し照れくさくなって額を掻いた。
平民としての学生生活が居心地よすぎて、頭を下げられると落ち着かないなぁ。
「いやぁ、ご帰国されて嬉しいです。フィル王子様が留学なさって、しばらくこの国は沈んでおりましたからねぇ。ご兄姉の方々の落ち込みようは海よりも深く、見ているこちらも悲しい気持ちになりました……」
一人のおじさんが、鼻をスンと鳴らして目元を拭う。他の人も何人かもらい泣きして、鼻をすすっていた。
兄さんたちからの手紙にも、国を出てしばらくの間は俺との思い出に浸りながら涙に暮れているという内容ばかりだったが……。街の人たちにも影響するほどだとは思わなかった。
「ご、ご心配をおかけしまして……」
困り顔の俺に、おじさんの隣にいたおばさんが笑った。
「あら、フィル王子様が気に病む必要はありませんよ。……まったく、せっかくのご帰国なのに、しみったれた空気にするんじゃないよ、もう」
そう言って、未だ鼻をすすっているおじさんの背中を叩く。
「それよりも、学校にお戻りになられる前に、街にも遊びにいらしてくださいね」
微笑んだおばさんの言葉を皮切りに、周りの人たちからも次々と声が上がる。
「フィル様に以前アドバイスいただいた商品の出来を、ぜひ見ていただきたいです」
「とっておきの干物を、どうか味わっていただきたいです!」
「その愛らしい姿を見せていただけるだけでも、嬉しいです!」
俺はそれぞれに、微笑みながら頷く。
「うん。また来るよ。だから、もう皆仕事に戻って……」
俺がそうして会話を終わらせようとした時、人ごみの奥からひときわ大きな声が聞こえた。
「フィルッ!!」
聞き覚えのあるその声に、俺は目をパチクリさせる。
「え……アルフォンス兄さま? あれ? 今日帰国するってこと、内緒にしていたのに……」
何でアルフォンス兄さんが街にいるんだ?
俺が首を捻っていると、近くにいたおじさんが、その疑問に答えてくれた。
「恐れながら、日課でございますよ。フィル王子様の冬休みが始まった頃から、毎日港に様子を見にいらっしゃってますからねぇ。本日で四日目です」
その言葉に、他の街の人も微笑みながら頷く。
アルフォンス兄さん……。いくら休みが始まったからって、すぐ帰国できるわけではないのに……。
兄の愛の大きさに愕然とする。
感動の再会を邪魔しないようザッと左右に分かれた人の間を、アルフォンス兄さんが俺めがけて駆けてきた。そして、俺を抱き上げると、そのままくるくると回転する。
「やっぱりフィルだ!」
ひとしきり回り終えたアルフォンス兄さんは、俺をぬいぐるみみたいにぎゅっと抱きしめた。
「あ、あの、アルフォンス兄さま! 皆が見てるんですけど!」
あまりの熱烈歓迎っぷりに、恥ずかしくなって顔が真っ赤になる。
アルフォンス兄さんは、そんな俺の顔をマジマジと見てにっこりと微笑んだ。
「この照れた様子……。本当に、可愛いフィルが帰ってきたんだね」
あぁ……アルフォンス兄さんの目には、俺しか見えていない。
「た……ただいま帰りました」
諦めた俺が抱き上げられたままそう言うと、アルフォンス兄さんは嬉しそうに頷いた。
「うん。おかえり」
◇ ◇ ◇
家族団らんの場である城の広間。
アルフォンス兄さんと一緒に城に帰った俺は、今度はレイラ姉さんから熱烈な歓迎を受けていた。
「あぁ、フィル。本当に本当の本物なのね! 夢じゃないんだわ!!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息苦しさに限界を感じた俺は、レイラ姉さんの肩をペシペシ叩く。
「レイラ姉さま……く、苦しいです」
「そうだぞ。せっかく帰ってきたのに絞め殺す気か」
ヒューバート兄さんが呆れた顔で、レイラ姉さんと俺を引きはがす。
レイラ姉さんは残念そうな声を出したが、俺はホッと息を吐いた。
ヒューバート兄さんは、そんな俺の頭をクシャクシャと撫でる。
「おかえり、フィル。お! 少し大きくなったか?」
にっこり笑うヒューバート兄さんに、俺は嬉しくなって縋りついた。
「そ、そうですよね! 少し大きくなってますよね?」
俺の周りにいる同級生たちは背が高いから、あまり実感がないんだけど。留学してから五ヶ月は経ってるんだ。前より少しは身長が伸びてるはずだよな。そうじゃないと困る。
ヒューバート兄さんは快活に笑って、大きく頷く。
「ああ、剣術の授業を受けているだけあって、体つきも前よりしっかりしている。休みの間に一度手合わせしよう。どれくらい強くなったのか、ぜひ試してみたい」
そう言うと、俺の両肩に手をかけワクワクした顔でじっと見つめた。
ヒューバート兄さん……相変わらずだなぁ。
あまり気は進まないが、一回くらい付き合ったほうがいいんだろうか? でも、適当に相手してると、ヒューバート兄さんはすぐに気づくんだよな。
俺が困っていると、今度はレイラ姉さんが俺を背後から羽交い締めにする形で、ヒューバート兄さんから引きはがす。
「駄目よ。フィルは私とお買い物に行ったり、野原でピクニックしたりするんだから。ね、フィル?」
顔を覗き込みながら可愛らしく微笑まれ、俺は口元が引きつってしまった。
レイラ姉さんと一緒に出掛けると、連れ歩く護衛やメイドの数がすごいんだよなぁ。
しかも、買い物……。また着せ替え人形にされるに決まってる。
城には王族専属のデザイナーがいて、俺たちの普段着や礼服を作ってくれる。それらは各個人の好みを汲んで作られるので、俺の服にはフリルみたいなものはついていなかった。
レイラ姉さんはそれがご不満のようで、俺を街に連れて行っては、異国の民族衣装や、フリル満載の王子様服を着せて楽しむのだ。
アルフォンス兄さんは時々フリルつきの服を着ていることがあるが、俺は普段着としては不向きだと思うんだよね。それにいかにも王子様って服も、あんまり好きじゃないし。民族衣装も、コスプレしている気分になる。
とはいえ、もしヒューバート兄さんと手合わせするならば、レイラ姉さんにも一度くらいは付き合わないとまずいだろうか。
小さく唸っている俺に気がつかないのか、レイラ姉さんは「ふふふ」と嬉しそうに笑う。
「ステラ姉様のおかげか、うちの国にもティリア国から素晴らしい衣服が入ってくるようになったの。フィルに着せたいものも、いっぱいあるのよ。刺繍やフリルがついていて。全身ヒラヒラで、きっと可愛いわ!」
全身ヒラヒラ……? 何、その服……ダンス衣装?
そんなレイラ姉さんの様子を見て、母さんは微笑ましげにくすくすと笑う。
「レイラ、そろそろ私にもフィルを貸してくれないかしら」
「あ、ごめんなさい、お母様」
ハッとしたレイラ姉さんは、抱きしめていた俺を慌てて放す。
俺は母さんの前に立って、ぺこりとお辞儀をした。
「ただいま帰りました」
母さんは頷いて身を屈めると、フワリと優しく抱きしめてくれる。
「手紙で近況を聞いていたから、大事ないとわかっていたけれど。元気そうで本当に良かったわ」
安堵した様子の母さんは、嬉しそうに微笑んだ。その目には、うっすら涙が浮かんでいる。
それから母さんは、少し離れたところに立っていたカイルに目を向けた。
「カイルも、ご苦労でした。フィルの側で随分力になってくれていたようね。手紙に書いてあったわ」
「いえ、お……私は何も……。ただ、フィル様についていただけです」
カイルは恐縮するように頭を下げる。
その時、突然広間の扉が大きく開かれた。
「フィルが帰ってきたというのは本当かっ?」
父さんだ。珍しく少し息を切らしている。
父さんは俺の姿を発見すると、早歩きで近づいてきた。それから、力強く俺を抱きしめる。
「おかえり、フィル」
その力強さに、母さんや他の兄姉とは違った愛情を感じる。
「ただいま帰りました」
父さんは抱きしめていた腕を解くと、俺を見つめた。
「それにしても、フィル。なぜこんなに早く帰ってこられたのだ? 手紙には書いていなかったが、休みが早まりでもしたのか?」
「いえ、休みが始まったのは、確かに四日前です」
俺は首を振って、ニコリと微笑む。
すると、父さんの眉が訝しげに歪んだ。
その隣に立つアルフォンス兄さんは、俺の顔を覗き込んで言う。
「さっきそのことを聞いたら、皆の前で話すと言っていたけど……。いい加減教えてくれるかい?」
「ちょっと待ってください。紹介するので」
皆が「紹介?」と不思議そうな顔をしている中、俺はルリを召喚する。
「ルリ」
空間の歪みから出てきた小さなウォルガーは、俺の両手にポスリと収まった。
家族がマジマジと、その動物を見下ろす。
「可愛いっ! フィル、この動物なあに?」
顔を綻ばせるレイラ姉さんに、俺は悪戯っぽく笑う。
「ルリ、この部屋の中で遊んでおいで」
俺の言葉を聞き、ルリはパァッと目を輝かせて嬉しそうな顔をした。
【行ってきます!】
言うが早いか、俺の手から飛び立ち、広間を高速でぐるぐると飛行する。
【ヒャッホーゥ!! やっぱり速いってサイコー!】
俺を乗せて来る時に、速度制限したからだろうか。うっぷんを晴らすかのように飛び回っている。
父さんと母さんとアルフォンス兄さんは、飛び回るルリを唖然として見つめていた。
ヒューバート兄さんとレイラ姉さんは、ルリを目で追いすぎたせいか、若干目を回しかけている。
「こ、これは……まさか……」
父さんが呟き、アルフォンス兄さんが俺を振り返った。
「もしかして、ウォルガーかい?」
その名前を聞いて、ヒューバート兄さんが驚愕する。
「ウォルガー!? あの動物、本当に存在するのか? フィルが召喚獣にしたのか?」
飛行を終えたルリが肩にとまると、俺はルリを撫でながら頷く。
「召喚学の課外授業で行った湖に運良くいまして、召喚獣にすることができたんです。到着が早かったのは、ルリに乗ってステア王国からカレニア国までを飛び、時間を短縮できたからですよ」
「と……飛んで……乗って……?」
想像を遥かに超える内容についてこられないのか、レイラ姉さんはそう呟いたきり固まった。
「ルリも、コクヨウみたいに体の大きさを変えられるんです」
「太古から生きる種には、大きさを変化できる動物もいたとされているけれど……。本当に乗れるくらい大きくなれるのかい?」
アルフォンス兄さんはとても信じられないといった様子だ。
俺は家族から少し離れてカイルの脇に立ち、ルリに大きくなるようお願いした。
ルリがシングルベッドくらいまで大きくなると、皆は声を失う。
しばらくして、父さんが額を押さえながら深くため息をついた。
「フィルが帰って来る少し前に、カレニアから戻った者が、空を飛んでいるウォルガーを見たと言っていたが…………これか」
あれ? 父さん、がっくりと脱力してるな。やっぱり驚かせすぎたのかなぁ?
俺がキョトンとしていると、隣でカイルが父さんを見つめ呟いた。
「……心中お察しします」
え、なんで?
8
俺が里帰りしてから数日経った。今は家族そろっての夕食の時間である。
「本日のディナーは、フィル様考案の新作のお料理となっております」
そう。今日のディナーは、久々のグルメ改革だ。
帰国祝いにと街の皆から、グレスハートの海や畑でとれたものが届けられたため、ありがたく調理させてもらうことにした。
「フィル考案の料理か。久しぶりだな」
料理長の言葉に父さんが微笑むと、皆も嬉しそうに頷いた。
「楽しみ! フィルの考えるお料理は、プリンにしても干物にしても美味しいもの」
レイラ姉さんは、期待に満ちた眼差しで俺を見つめる。
「いつもの料理とは違う味付けなので、お口に合うといいのですけど……」
俺はそう言って、料理長に目配せした。
その合図で運ばれてきたのは、赤身魚のカルパッチョだ。
魚の表面だけを軽く炙って薄切りにし、葉物野菜と一緒に和えている。
味付けはシンプルに、オイルと塩、それからカルシュ酢だ。
カルシュは林檎に似た果物で、果肉がピンク色をしている以外は、味も食感もほぼ林檎と変わらない。
林檎酢の要領で果実酢が作れると思ったので、留学する前にカルシュ酢を仕込み、料理長に渡しておいたのだ。
上手にできていて良かったな。カルシュ酢の甘みと酸味が、意外に赤身魚に合う。
俺はシャクシャクと、野菜を咀嚼する。その美味しさに、思わず頷いた。
他の皆も、表情から察するに口に合ったらしい。
「ほぉ……美味しいな」
カルパッチョを食べた父さんの言葉に、母さんが微笑みながら頷く。
「本当にそうですわね。お魚ですのに臭みも感じないし、生野菜がこのように合うとは思いませんでしたわ」
不思議そうに皿を見つめる母さんに、アルフォンス兄さんが顔を向けた。
「母上、魚を炙っているのと、この酸味のあるソースが臭みを消しているんだと思います。違うかな? フィル」
そう問われて、俺はその通りだと頷く。
アルフォンス兄さんて、グルメ評論家みたいに分析するよな。しかも、それが結構当たっている。
「それにしても、この魚の切り口……とても美しい。普通なら、このように薄く切ったら身が崩れてしまうはずなのに。……料理長、包丁を変えたのかい?」
アルフォンス兄さんが、傍らに控えている料理長に顔を向ける。
料理長は一礼して、俺をチラリと見た。
「恐れ多いことでございますが、実はフィル様から厨房にと包丁をいただきました」
「フィルから?」
父さんが驚いた顔で料理長に尋ねる。料理長は恐縮するように、深く頷いた。
「はい。その包丁の切れ味がとても素晴らしく、このように薄く切ることができたのです。私どもが今まで使っていた包丁では、魚の身を潰さずに切ることは不可能でした」
料理長はその時の感動を思い出したのか、熱っぽく語る。
厨房にニコさんの包丁をいくつか買ってきたのだが、実際使ってみせた時の厨房の人たちの盛り上がりはすごいものだった。
今回大量に買ってくることはできなかったけど、またお土産に持ってくるべきだろうか?
厨房の人たちには、グルメ改革でよくお世話になってるしなぁ。
「フィル、それは手紙に書いてあった、ニコ・ラウノという職人の包丁のことか?」
父さんの質問に、俺はコックリと頷く。
「ええ。ニコさんの包丁がとても素晴らしかったので、お土産に買ってきたんです」
「素晴らしいとは書いてあったが、正直これほどのものとは思わなかった。若い職人だと言っていたからな」
父さんは魚の切り身を口に入れて、味わうように目を瞑る。
「フィル、その職人は剣を作ってはいないのか?」
俺の隣に座っていたヒューバート兄さんが、興味津々で尋ねてきた。
やはり剣を志す人は、皆その辺りが気になるんだな。
俺は苦笑して、小さく肩をすくめる。
「作らないそうですよ。ニコさんのお師匠様が、民の暮らしに寄り添った品を作りたいと考えている方らしく、ニコさんもそれを支持しているとのことです」
ヒューバート兄さんは、ひどく残念そうに眉を下げる。
「そうなのかぁ。残念だなぁ」
「そのお師匠様も、素晴らしい職人なのでしょうね」
微笑む母さんに、俺も笑みを返した。
「有名な方らしいです。ドルガド国のゴードン・ベッカーさんといって、名匠だそうですよ」
「ゴードン!? あのゴードン・ベッカーか?」
父さんが名前に反応して、目を大きく見開く。
「あ、ご存知でしたか?」
「王たるもの、他の大陸の情報にも気を配るべきだからな。しかし……そうか、ニコという者は、ゴードンの弟子か……」
顎に手をやり、父さんは少し考えるように俯いた。
「ゴードンは相当気難しい性格で、弟子をとらぬ主義だと聞いていた。ゆえに、彼がもう剣を作らぬと宣言した時、技術が失われることになるのだろうと思うたが……」
そうなのか……そんなに気難しいんだ? ってことは、やっぱりニコさんってすごい人なんだな。あの年齢で、その技を習得しちゃってるし。
「へぇ」と感心していると、父さんが顔を上げて俺を見た。
「まさか、そのゴードンとも知り合い……ということはなかろうな?」
「え! いえいえ、まさか、そんな」
ブンブンと頭を振る俺を、父さんは疑わしげに見つめる。
「お前の交友関係は、他の子と少し違うからな。世界の大商人と呼ばれるトリスタン家のライラ嬢は、同級生であるから仕方ないとして……。グラント大陸一の若手剣士と噂されるマクベアー家の子息や、ステア王国の第三王子ともかなり親しくしているようだしな?」
意味深なものの言い方に、俺は口元を引きつらせつつ笑う。
「た、確かにマクベアー先輩やデュラント先輩には、可愛がっていただいてますけど。同じ男子寮なのですから親しくもなります。でも、ゴードンさんには、お会いしたことはありませんよ」
「そうか。なら良いのだが……」
父さんは少し安堵した表情になり、皿に残った赤身魚を口に運ぶ。
…………実を言うと、春の終わりに行われる三校対抗戦の際に、中等部全体でドルガド国に一週間ほど滞在することになっている。その機会にゴードンさんと会えないか、ニコさんに頼むつもりだった。
だって、こちらの世界でおそらく初めて和包丁を作った人だよ? 興味がある。
ともあれ、まだ会っていないので、嘘はついてない。
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