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3巻
3-3
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魔族といっても、姿形は様々です。
私たちが魔族と言われてすぐに思い浮かべるのは、獣の姿をした魔獣と呼ばれる存在。時々旅人や村を襲ったりするので、冒険者ギルドへの討伐依頼が絶えないのもこの魔獣です。魔獣は獣の姿をしているため、知能はあまり高くありません。言葉もしゃべりません。魔族の知能は、器となる生物の知能に準じているのです。
ならば、もっと知能がある生物の姿をとればいいと思うのですが、獣の姿をとるのはあまり魔力がないせいです。器の形成にはかなりの魔力を必要としますから、魔族はそれぞれの魔力に見合った姿しかとれないのです。
魔族の中でも魔力が高いものは、人間に近い姿をとり、知能も高いです。そして――どういうわけか、魔力が高ければ高いほど、魅惑的な容姿をもつのだとか。
ですから、歴代の魔王はそれはそれは美しい姿をしていたそうです。……この時代の魔王は別として。大切だから二度言います、マッチョ魔王は別です。でも、きっとあれが彼にとっては、もっとも美しい姿だったのでしょう(遠い目)。
要するに――目の前にいる美形の魔族は、それだけ強大な魔力を持っているということです。
おそらく魔王配下の幹部……もしくはそれに準ずる力を持っていると思われます。
そんな高位の魔族がなぜこのような場所にいて、しかもノーウェン君と戦っているのでしょうか。確かに、魔族は魔力を持つ人間を好んで襲う傾向があるらしいのですが……。とはいえ、相手は魔法使い見習いの少年ですよ? 偶然に出会ってしまったのでしょうか。
いずれにしろ、マズイ場面に飛び込んでしまったのは確かです。これなら記者にとっ捕まる方が、何倍も良かったと思います。……このまま何も見なかったことにして、回れ右をしてはいけませんかね?
などと思っていたら、その魔族のお兄さんに気づかれてしまいました。ええ、残念なことに。腕を組んで宙に浮いていた彼は、その血のように赤い瞳で私を捉え、眉を上げたのです。
「闖入者とは……。厄介だねぇ」
口調はノンビリとしているものの、表情は何となく不快そうです。ああ、嫌な予感がします!
だって私はレベル1のモブ。主役や準主役ならともかく、ただのモブが魔族を目撃してしまったら――あっさり殺られて不可解な死体を残すか、あっさり消されて何もなかったことにされるのが定番じゃないですか! ヤバイです、身の危険を感じます!
「アーリアさん、逃げてください!」
魔族の言葉で私に気づいたノーウェン君が、ハッとして言いました。
「は、はい!」
私は一も二もなくその言葉に従い、踵を返しました。
ここで物語のヒロインなら、「そんな、あなたを置いて一人で逃げるなんて!」くらいは言ったかもしれません。ですが、それって逃げずにどうにか出来る実力があるからですよね?
くどいようですが、私は魔力ゼロのその他大勢キャラなんです! 魔族に対抗できる力なんて、持ち合わせてません。どう考えても、足手まといにしかならないじゃないですか!
この場に留まれば、ノーウェン君はただでさえ不利な状況なのに、私まで庇わなくてはなりません。けれど、私がいなければ彼は自分を守ることだけに集中できるのです。
――そう、ここは逃げるのが最良の選択です。それに、逃げれば援軍を頼むこともできますから。
そう思って走り始めた私ですが、数歩しか進まないうちに、何かにつまずきました。あっと思う間もなく、上体が前に傾きます。
こ、こんな場面でコレ!? まさかの大失態ですか!? 両手に物を持ったまま城をちょこちょこ歩き回っても、ほとんどコケたことがない私が、この大事な場面で?
う、嘘でしょうーーーー!!
心の中で絶叫しつつ、私は倒れていきました。
「アーリアさん!」
地面に倒れ込むのと同時にノーウェン君の焦ったような声が響き、何かが私の頭上を通り過ぎていく気配が感じられました。――直後に響いたのは、ドゴォというすさまじい音。
「……え?」
顔を上げた私の目に映ったのは、路地を挟んだ向かいの壁にぽっかりと開いた穴でした。ここを曲がった時には、その白い壁に穴などなかったのに。
さっき頭上を通り過ぎたものの正体を悟り、私はゾッとしました。
……もし、転ばなかったから……今頃私は……
ですが、そんな想像をしている暇はありませんでした。
「おやおや、運の良いお嬢さんだ」
「アーリアさん、逃げて!」
悲鳴のようなノーウェン君の声にハッとして、慌てて身体を起こし、後ろを振り返りました。すると、さっきまで空中にいた魔族が、いつの間にやら私のすぐ後ろに立っていたのです。
「表の通りにいる人間に気づかれないよう術を施したのに、どうして飛び込んで来ちゃうんだろうね。困るんだよ、見られるのは。計画が台無しになるからね」
魔族が言っていることはよくわかりませんでした。けれど、裏通りとはいえ、すぐ近くに多くの人が行き交う大通りがあるのに、あんなにすごい音がしても誰も様子を見に来ない理由はわかりました。
それなのに、私は意図したことでないとはいえ、わざわざ自分から飛び込んでしまったのです。何たる引きのよさ……いや、運の悪さなのでしょうか。それもこれも、全部あの記者のせいです。
「だからね」
魔族の男がにっこり笑いました。それは残酷な愉悦を含んだ笑みで……
「可哀相だけど、生かしちゃおけないんだよね」
その唇から零れたのは――死刑宣告。
可哀相などと少しも思っていないのは明白でした。この人(人ではなくて魔族ですけど)にとっては人間の命など、塵にも等しいものなのでしょう。
ひゅうと喉の奥が鳴りました。……怖い、と思いました。
一応領主の娘として育ち、働き出してからも安全な城の中で守られていた私は、この時生まれて初めて命の危険を感じたのでした。
「アーリアさんっ!」
ノーウェン君が慌てて、何かの魔法を詠唱し始めたのが目の端に映ります。私は、彼の邪魔にならないように逃げなければなりません。そう思うのに、血のような赤い目に見据えられた私は――その場から動くことができませんでした。
「炎の蔓」
最後の単語を唱えたノーウェン君の目の前に、炎をまとった紐のようなものが浮かびました。
「行け!」
という彼の声と共に、それは鞭のようにしなり、魔族の男に背後から襲いかかります。ですが――
「子供だましの術だねぇ」
くすくす笑いながら、魔族の男は振り返りもせず、パチンと指を鳴らしました。すると、今にも男に巻きつかんとしていた炎の鞭が、一瞬にして形を失ったのです。まるで燃え尽きて灰になったかのように。
……子供だまし。魔族の男にとって、ノーウェン君の術はそれほどお粗末に感じられたのでしょう。
実力にそこまでの差があるというのに、なぜ周囲に知られないよう魔法をかけてまで、ノーウェン君を狙うのでしょう? ……やっぱり、おかしくないですか?
人間が嫌いだから。魔法使いが憎いから。ただそれだけの理由で気まぐれにいたぶっていることも考えられますが……それにしても、見習い魔法使い相手にこんな手の込んだやり方をするでしょうか? それに、さっき「見られたら計画が台無しになる」って言って……
私の思考はそこで途切れました。なぜなら、ノーウェン君の魔法をあっさり粉砕した魔族の男がこう言ったからです。
「こんな魔法で俺を止めようだなんて、笑えるね。まぁ、君はそこで自分の力不足を嘆きながら、大人しく見ていればいい――このお嬢さんが死ぬところを、ね」
男の肩越しに、ノーウェン君がこちらに駆け寄ろうとして何かに邪魔され、もがいているのが見えました。でも、私にはそれを気にする余裕はありませんでした。
……男の目が、ぴたりと私に向けられていたから。
二度目の死刑宣告をされて、私は心の底から震え上がりました。
その時です。ヒュンという空気を切り裂くような音がしたかと思うと、男の頬に赤い線が現れ、ぱっくりと割れたのです。さらに、ズゥゥンという低い音と共に足元に振動が走り、轟音が響いて――男が立っている場所の地面が、いきなり陥没したのです。
「え?」
私は目の前で起きたことに、唖然としました。
「これは――」
地面が陥没するその瞬間、空に飛び上がって難を逃れた魔族の男は、驚愕の表情を浮かべました。
「魔力じゃない……?」
男は何かを確認するように、頬の傷口に指を滑らせました。
魔族の器は魔力で形成したものですから、血が出ることはありません。痛覚もないのか、男は痛がる素振りもありません。
さらに、男は陥没した地面を見て眉をひそめました。
「これは――精霊の力、か?」
その言葉に、私はハッとしました。
精霊――ああ、そうです。グリード様が私につけた精霊が、私を守ろうとしてやったに違いありません。あああ、ありがとうございます、精霊さんたち!
「魔力は感じられないが――お嬢さんは精霊使いなのかな?」
空に浮いた魔族の男が、私に視線を向けました。その表情からは、敵意のようなものが感じられます。さっきまで、男は私のことを「その辺に転がっている石ころのような、邪魔なモノ」という目で見ていました。しかし、今は「私」という個の存在を認識している、そんな感じなのです。
……少しも嬉しくないですけどね。
「――精霊使い?」
私はその聞き慣れない言葉に、首を傾げました。
「君たち人間が【精霊の加護】と呼ぶ能力を持つ者のことだよ」
【精霊の加護】――それはグリード様が持っているスキルのこと。
精霊に護られ、その力を使えるという稀有な能力。勇者には必須のスキルとされ、勇者候補に挙げられる人間は、必ず備えています。
……不意に、嫌な予感が胸をよぎりました。
もしかして魔族にとって【精霊の加護】を持つ人間は……
「い、いえ、違います。私は精霊使いとやらではありません!」
私は慌てて否定しました。
けれど、男は艶然と笑みを浮かべて言ったのです。
「精霊使いだろうが、そうでなかろうが――【精霊の加護】を受けている人間は生かしておけない」
……ですよね、やっぱりそう言うと思ってました! 【精霊の加護】は勇者に関わりの深いものですから、そりゃ気に入らないでしょうね!
現に男の持つ気配は、さっきまでとは違っていました。面倒くさいけれど片付けておくか、みたいな雰囲気だったのに、今は殺る気満々に感じられます。
「違いますって言ってるでしょうが!」
私自身が【精霊の加護】持ちなわけじゃないのに、殺されてはゴメンです。
男は私の言葉に再び眉を上げました。
「【精霊の加護】を受けているのにかい?」
「そ、それは――」
私は口ごもりました。守護を受けている理由を、口にするわけにはいかないからです。男は、私が「勇者に求婚された女性」であるとはまだ気づいていません。
もし知られたら――今よりもっと状況が悪化するのは目に見えていますから! いえ、この状況も十分悪いですけどね!
「どっちにしろ、見逃してやるわけにはいかないね。大丈夫、俺は女性には優しいから、苦しませずに一発で殺してあげるよ」
そう言って笑う男の掌に、鶏の卵くらいの大きさの黒い球体が出現しました。
何が大丈夫ですか! どこが女性に優しいって!? 優しさを履き違えているぞ、魔族!
と心の中でツッコんでいる間に、男の掌の上の球体は、どんどん大きくなっていきます。すでにメロンくらいの大きさに育っています。その黒い何かを見ていると、背筋に冷たいものが走るのですが……
あれはヤバイです。何かわかりませんが、絶対にヤバイです。
「君一人だけ消したら、君を守護する精霊がうるさいんでね。シュワルゼの城にいる勇者とエルフに知らされても面倒だし。だから――その精霊ごと消えてもらうよ?」
スイカほどの大きさになった球体を手に、笑う魔族。
先ほどと同じ、ヒュンヒュンと空気を切り裂くような音がします。けれど、男はそのたびにヒョイッという感じで移動して、風の精霊の攻撃らしきものを避けるのでした。
……自然そのものである精霊ごと消す? そんなことが可能なのでしょうか。けれど、男はおそらく魔王配下の幹部。魔族の中では、魔王に次ぐ力を持つ存在。
その掌の黒い球体が放つ禍々しい雰囲気に圧倒され、私は魔族を見上げて、ぶるっと震えました。
……怖い。死にたくない。私は思わず小さくつぶやいていました。
「グリード様……助けて……!」
……左手の腕輪が、一瞬だけ熱くなった気がしました。
次の瞬間、目の前の地面が光を発して、そこに円をいくつも重ねたような形の魔法陣が描かれたのです。
その中から現れたのは――淡く光る金の髪を持つ美丈夫。
「何……だと?」
黒い球体を手にしたまま、魔族が驚愕して目を見開きました。
「まさか……勇者!?」
いつものラフな白いシャツ姿に、聖剣を佩いた勇者グリード様が、移動の魔法陣が放つ光をまといながら、私の前に立っていました。
「グリード様!」
見慣れた後ろ姿を認めた瞬間、私の全身にどっと安堵の波が押し寄せました。ああ、もう大丈夫だと、そう強く感じたのです。不覚にも、目にじわりと涙が浮かびました。
そんな私に、視線は空に浮く魔族に向けたまま、グリード様が言います。
「アーリア、下がっていてください」
「は、はい」
その言葉通り、私は数歩後ろに下がりました。
「勇者? なぜ勇者がここに……?」
黒い球体を手にした魔族が、赤い目を大きく見開きグリード様を見下ろします。次いで、その視線がグリード様の背に庇われた私に移り、そして再びグリード様へ――
すると突然、はじかれたように魔族は嗤い出しました。
「アハハハ! なるほど、なるほどね! 道理で精霊がそのお嬢さんを護ってるわけだ。そうか、君が勇者のお相手か」
私はうっ、となりました。どうやら、私が勇者の(不本意ながら)婚約者であることがバレてしまったようです。ああ、バレて欲しくなかった……!
「新聞を読んで、勇者が求婚したことは知っていたんだが……。相手が誰なのか、今までわからずにいたんだ。斥候を放っても、城には何百人と女がいるからね。これといった特徴のない『勇者の想い人』を見つけることはできなかったんだが……やっとわかったよ」
その言葉と、魔族の目に浮かんだ色に、私はぞっとして身を震わせました。これまでよりずっと強い殺意を感じたからです。
ピンチを抜けたと思ったとたん、別のピンチに陥ってしまったようです。魔王を倒された幹部が勇者に恨みを持たないわけがなく、復讐するなら婚約者である私に目を留めないはずはありませんから!
このモブ顔のおかげで、記者どころか魔族にすら認知されずに済んでいたようですが……今この瞬間から、私は彼らにとってその他大勢ではなくなったのです。
ああああ、でもそれよりどうしても気になって、言いたいことが……!
「『勇者タイムズ』を読んでいるんですか? それは魔族としてどうかと思うのですが!」
おっと、つい口に出してしまいました! だ、だってとても気になるじゃないですか! どこで買うんだとか、もしかして定期購読しているのかとか、あの号外をどこで手に入れたんだとか!
だけど、一番言いたいのは、これですよ、これ。
――魔族が『勇者タイムズ』読むなよ……!
これに尽きます。……ですが、私のツッコミはスルーされたようです。
「計画とは違うが、思わぬ収穫を得た」
魔族は目を細め、にやりと嫌な笑いを浮かべました。
その時、ずっと黙ったまま魔族を見上げていたグリード様が口を開きました。
「魔王グライディオスが配下、青ことジラルディエールか……」
淡々と告げた名は、今まで聞いたことがない響きのものでした。
――魔王グライディオス。おそらく、あのマッチョ魔王の名前――真名でしょう。
魔族にとって、名前は単に個を区別するためのものではなく、自身の存在に直結している大事なもの。それゆえ、滅多に名乗ったりはしません。だから、誰も魔王の名前は知りませんでした。
魔族の真名はそれ自体が魔力を帯びていて、その魔力に耐えられない者が口にすれば、死に至ることもあるのだとか。魔王の名なら、なおさらでしょう。
私たち人間は、魔王が生きている間は魔王とのみ呼びます。そして魔王が勇者によって倒されてから初めてその名を知り、口にすることが出来るようになるのです。魔族の幹部についても然りです。ただ、幹部は複数いるため、彼らの持つ色にちなんだ呼び名で呼んでいます。
グリード様が口にしたアズール――青を意味する言葉――がこの幹部の呼び名なのでしょう。髪の色が群青色だからかもしれません。そして、その後にグリード様が口にしたのはもしかして、この魔族の……?
私が抱いた疑問に答えるかのように、魔族――アズールが言いました。
「ご明答。真名まで探るとは、さすが勇者。その上、真名の持つ魔力に晒されてもびくともしないのだな。だが――」
彼の顔から急に笑みが消え、氷のように冷たく静かな怒りが表れました。
「勇者とはいえ、人間ごときに魔王様の真名を口にしてもらいたくないね」
「すでに存在しない者の名だ」
アズールの怒りにまったく動じることなく、グリード様は言いました。それはもう淡々と。
「現に今、その名を口にしても魔力の残滓すら感じられない――魔王はすでにこの世に存在しないんです。それは、魔王と特殊な繋がりのあるお前たちが一番よくわかっているはず」
私は思わず「ひぃ」と悲鳴をあげました。
グ、グリード様、それはちょっと言いすぎですよ! もしかしてわざとですか? どう考えても挑発しているとしか思えませんが。
案の定、アズールの怒りの気配が濃くなりました。さっきまでの余裕は消え、端整な顔立ちを歪ませて、グリード様を睨みつけます。
「おのれ、勇者……。魔王様を愚弄するとは……!」
ああ、やっぱりそう思いますよね。
アズールのその怒りに呼応するように、掌の上の黒い球体が大きくなりました。それは一気に膨れ上がり――人一人を簡単に呑み込めるくらいのサイズになったそれを、アズールは私たちに向けて放ったのでした。
「!」
私が息を呑むと同時に、グリード様が動きました。
一歩前に出たかと思うと、目にも留まらぬ速さで聖剣に手を掛け、抜きざまにその球体を一刀両断したのです。
目にも留まらぬというのは、決して比喩ではありません。本当に見えなかったんです。私に見えたのは、聖剣が発する光の軌道――その残滓のみでした。
球体の黒色を背景に、光が弧を描いたかと思ったら、球体は真っ二つになって左右に分かれました。そして、ぶぉぉんと空気を震わすような音を出し、霧散してしまったのです。
そして、その消失が完了する間もなく、グリード様は再び動き出しました。
抜き身の聖剣を手にしたまま地面を蹴り、空に躍り上がって――次の瞬間には、アズールの目の前に迫っていたのです。
「なっ……!」
私もびっくりしましたが、アズールの方が驚いたでしょう。一瞬で間合いを詰められたのですから。その赤い目が大きく見開かれました。
そのまま剣を振り下ろすグリード様。アズールは斬り裂かれ、球体と同じ運命を辿るかのように思われました。
「くっ……!」
ザシュッという、肉を斬る嫌な音が聞こえました。そして、私に目に映ったのは切り離された――腕。
うっ、と怯む私の前でその腕は空を舞い、黒い球体と同じようにたちまち霧散しました。
アズールが人間だったら、間違いなくその身体は真っ二つに裂かれていたと思います。それほどすばやい一撃でした。
けれど、さすがは魔族の幹部。間一髪、後ろに飛び退いたのです。ですが完全には回避できず、左腕の肘から先を失うことになったのでした。
頬の傷と同じく血は出ていません。やはり痛みも感じていないようです。アズールは傷口を気にする様子もなく、眉をひそめて言いました。
「その速さと力……。まったく人間離れしているな、今代の勇者は。さすが歴代最強と謳われるだけはある」
ちょ、魔族にまで人外認定されてますよ、グリード様!
ですが、当のグリード様はその言葉を聞いていないようで、目を細めてつぶやきました。
「魔力の値がほとんど変わらない……。左腕に核はなかったということか。ルファーガがいれば面倒はないんですが」
二人ともおのおの勝手にしゃべっているだけで、会話が成り立っておりません。そのやり取りを下で聞いていた私は、なんだかなぁと思いました。
とりあえず、人の話はちゃんと聞きましょうね、グリード様。相手は人ではないけれども!
……という教育的指導は後に回し、私はグリード様の発言について考えました。
どうしてルファーガ様の名前が出たのかわかりませんが、それ以外は何となくわかります。
魔族とは、魔力の核が衣をまとっているようなもの。魔獣は核を一個しか持っていませんが、人型の魔族は核を複数持つのが当たり前だとか。しかし、身体のどこに核を持つかは個々で違うらしいのです。
グリード様は【分析】のスキルで敵のステータスを見ることができますから、左腕を失ってもアズールの魔力の値が変わらないので、左腕に核はなかったと判断したのでしょう。もし核を失ったら、魔力はがっつり減るはずですから。
アズールはちょっぴり存在を忘れられていたノーウェン君を、ちらりと見下ろして言いました。
「残念ながら、計画は中止かな。勇者が出てきちゃあねぇ。下手に警戒されても困るし。まぁ、思いがけない収穫があったから良しと……」
撤退の意思が感じられるアズールの言葉は、途中で切れました。
言い終わる前にグリード様が再び間合いを詰め、剣で薙いだからです。
「……っ!」
間一髪逃れて、大きく後ろに跳躍するアズール。
彼に切っ先を向け、グリード様は淡々と言いました。
「彼女の存在を知られたからには、生かしておくことはできません」
と妙に悪役くさい台詞を吐いた後、またすぐアズールに迫るグリード様。けれどその剣が届く前に、アズールはフッと消え、離れた場所に現れます。
それを移動の魔法を使って追いかけ、斬りかかるグリード様。今度は避けるのが間に合わず、アズールの左の太ももがザックリと切り裂かれました。
消えては現れるアズール、それを追うグリード様。その繰り返しです。
二人の動きを目で追う私は非常に大変です! 私の動体視力を試しているとしか思えません。
それでも、私にはグリード様が本気を出していないのがわかりました。
私たちが魔族と言われてすぐに思い浮かべるのは、獣の姿をした魔獣と呼ばれる存在。時々旅人や村を襲ったりするので、冒険者ギルドへの討伐依頼が絶えないのもこの魔獣です。魔獣は獣の姿をしているため、知能はあまり高くありません。言葉もしゃべりません。魔族の知能は、器となる生物の知能に準じているのです。
ならば、もっと知能がある生物の姿をとればいいと思うのですが、獣の姿をとるのはあまり魔力がないせいです。器の形成にはかなりの魔力を必要としますから、魔族はそれぞれの魔力に見合った姿しかとれないのです。
魔族の中でも魔力が高いものは、人間に近い姿をとり、知能も高いです。そして――どういうわけか、魔力が高ければ高いほど、魅惑的な容姿をもつのだとか。
ですから、歴代の魔王はそれはそれは美しい姿をしていたそうです。……この時代の魔王は別として。大切だから二度言います、マッチョ魔王は別です。でも、きっとあれが彼にとっては、もっとも美しい姿だったのでしょう(遠い目)。
要するに――目の前にいる美形の魔族は、それだけ強大な魔力を持っているということです。
おそらく魔王配下の幹部……もしくはそれに準ずる力を持っていると思われます。
そんな高位の魔族がなぜこのような場所にいて、しかもノーウェン君と戦っているのでしょうか。確かに、魔族は魔力を持つ人間を好んで襲う傾向があるらしいのですが……。とはいえ、相手は魔法使い見習いの少年ですよ? 偶然に出会ってしまったのでしょうか。
いずれにしろ、マズイ場面に飛び込んでしまったのは確かです。これなら記者にとっ捕まる方が、何倍も良かったと思います。……このまま何も見なかったことにして、回れ右をしてはいけませんかね?
などと思っていたら、その魔族のお兄さんに気づかれてしまいました。ええ、残念なことに。腕を組んで宙に浮いていた彼は、その血のように赤い瞳で私を捉え、眉を上げたのです。
「闖入者とは……。厄介だねぇ」
口調はノンビリとしているものの、表情は何となく不快そうです。ああ、嫌な予感がします!
だって私はレベル1のモブ。主役や準主役ならともかく、ただのモブが魔族を目撃してしまったら――あっさり殺られて不可解な死体を残すか、あっさり消されて何もなかったことにされるのが定番じゃないですか! ヤバイです、身の危険を感じます!
「アーリアさん、逃げてください!」
魔族の言葉で私に気づいたノーウェン君が、ハッとして言いました。
「は、はい!」
私は一も二もなくその言葉に従い、踵を返しました。
ここで物語のヒロインなら、「そんな、あなたを置いて一人で逃げるなんて!」くらいは言ったかもしれません。ですが、それって逃げずにどうにか出来る実力があるからですよね?
くどいようですが、私は魔力ゼロのその他大勢キャラなんです! 魔族に対抗できる力なんて、持ち合わせてません。どう考えても、足手まといにしかならないじゃないですか!
この場に留まれば、ノーウェン君はただでさえ不利な状況なのに、私まで庇わなくてはなりません。けれど、私がいなければ彼は自分を守ることだけに集中できるのです。
――そう、ここは逃げるのが最良の選択です。それに、逃げれば援軍を頼むこともできますから。
そう思って走り始めた私ですが、数歩しか進まないうちに、何かにつまずきました。あっと思う間もなく、上体が前に傾きます。
こ、こんな場面でコレ!? まさかの大失態ですか!? 両手に物を持ったまま城をちょこちょこ歩き回っても、ほとんどコケたことがない私が、この大事な場面で?
う、嘘でしょうーーーー!!
心の中で絶叫しつつ、私は倒れていきました。
「アーリアさん!」
地面に倒れ込むのと同時にノーウェン君の焦ったような声が響き、何かが私の頭上を通り過ぎていく気配が感じられました。――直後に響いたのは、ドゴォというすさまじい音。
「……え?」
顔を上げた私の目に映ったのは、路地を挟んだ向かいの壁にぽっかりと開いた穴でした。ここを曲がった時には、その白い壁に穴などなかったのに。
さっき頭上を通り過ぎたものの正体を悟り、私はゾッとしました。
……もし、転ばなかったから……今頃私は……
ですが、そんな想像をしている暇はありませんでした。
「おやおや、運の良いお嬢さんだ」
「アーリアさん、逃げて!」
悲鳴のようなノーウェン君の声にハッとして、慌てて身体を起こし、後ろを振り返りました。すると、さっきまで空中にいた魔族が、いつの間にやら私のすぐ後ろに立っていたのです。
「表の通りにいる人間に気づかれないよう術を施したのに、どうして飛び込んで来ちゃうんだろうね。困るんだよ、見られるのは。計画が台無しになるからね」
魔族が言っていることはよくわかりませんでした。けれど、裏通りとはいえ、すぐ近くに多くの人が行き交う大通りがあるのに、あんなにすごい音がしても誰も様子を見に来ない理由はわかりました。
それなのに、私は意図したことでないとはいえ、わざわざ自分から飛び込んでしまったのです。何たる引きのよさ……いや、運の悪さなのでしょうか。それもこれも、全部あの記者のせいです。
「だからね」
魔族の男がにっこり笑いました。それは残酷な愉悦を含んだ笑みで……
「可哀相だけど、生かしちゃおけないんだよね」
その唇から零れたのは――死刑宣告。
可哀相などと少しも思っていないのは明白でした。この人(人ではなくて魔族ですけど)にとっては人間の命など、塵にも等しいものなのでしょう。
ひゅうと喉の奥が鳴りました。……怖い、と思いました。
一応領主の娘として育ち、働き出してからも安全な城の中で守られていた私は、この時生まれて初めて命の危険を感じたのでした。
「アーリアさんっ!」
ノーウェン君が慌てて、何かの魔法を詠唱し始めたのが目の端に映ります。私は、彼の邪魔にならないように逃げなければなりません。そう思うのに、血のような赤い目に見据えられた私は――その場から動くことができませんでした。
「炎の蔓」
最後の単語を唱えたノーウェン君の目の前に、炎をまとった紐のようなものが浮かびました。
「行け!」
という彼の声と共に、それは鞭のようにしなり、魔族の男に背後から襲いかかります。ですが――
「子供だましの術だねぇ」
くすくす笑いながら、魔族の男は振り返りもせず、パチンと指を鳴らしました。すると、今にも男に巻きつかんとしていた炎の鞭が、一瞬にして形を失ったのです。まるで燃え尽きて灰になったかのように。
……子供だまし。魔族の男にとって、ノーウェン君の術はそれほどお粗末に感じられたのでしょう。
実力にそこまでの差があるというのに、なぜ周囲に知られないよう魔法をかけてまで、ノーウェン君を狙うのでしょう? ……やっぱり、おかしくないですか?
人間が嫌いだから。魔法使いが憎いから。ただそれだけの理由で気まぐれにいたぶっていることも考えられますが……それにしても、見習い魔法使い相手にこんな手の込んだやり方をするでしょうか? それに、さっき「見られたら計画が台無しになる」って言って……
私の思考はそこで途切れました。なぜなら、ノーウェン君の魔法をあっさり粉砕した魔族の男がこう言ったからです。
「こんな魔法で俺を止めようだなんて、笑えるね。まぁ、君はそこで自分の力不足を嘆きながら、大人しく見ていればいい――このお嬢さんが死ぬところを、ね」
男の肩越しに、ノーウェン君がこちらに駆け寄ろうとして何かに邪魔され、もがいているのが見えました。でも、私にはそれを気にする余裕はありませんでした。
……男の目が、ぴたりと私に向けられていたから。
二度目の死刑宣告をされて、私は心の底から震え上がりました。
その時です。ヒュンという空気を切り裂くような音がしたかと思うと、男の頬に赤い線が現れ、ぱっくりと割れたのです。さらに、ズゥゥンという低い音と共に足元に振動が走り、轟音が響いて――男が立っている場所の地面が、いきなり陥没したのです。
「え?」
私は目の前で起きたことに、唖然としました。
「これは――」
地面が陥没するその瞬間、空に飛び上がって難を逃れた魔族の男は、驚愕の表情を浮かべました。
「魔力じゃない……?」
男は何かを確認するように、頬の傷口に指を滑らせました。
魔族の器は魔力で形成したものですから、血が出ることはありません。痛覚もないのか、男は痛がる素振りもありません。
さらに、男は陥没した地面を見て眉をひそめました。
「これは――精霊の力、か?」
その言葉に、私はハッとしました。
精霊――ああ、そうです。グリード様が私につけた精霊が、私を守ろうとしてやったに違いありません。あああ、ありがとうございます、精霊さんたち!
「魔力は感じられないが――お嬢さんは精霊使いなのかな?」
空に浮いた魔族の男が、私に視線を向けました。その表情からは、敵意のようなものが感じられます。さっきまで、男は私のことを「その辺に転がっている石ころのような、邪魔なモノ」という目で見ていました。しかし、今は「私」という個の存在を認識している、そんな感じなのです。
……少しも嬉しくないですけどね。
「――精霊使い?」
私はその聞き慣れない言葉に、首を傾げました。
「君たち人間が【精霊の加護】と呼ぶ能力を持つ者のことだよ」
【精霊の加護】――それはグリード様が持っているスキルのこと。
精霊に護られ、その力を使えるという稀有な能力。勇者には必須のスキルとされ、勇者候補に挙げられる人間は、必ず備えています。
……不意に、嫌な予感が胸をよぎりました。
もしかして魔族にとって【精霊の加護】を持つ人間は……
「い、いえ、違います。私は精霊使いとやらではありません!」
私は慌てて否定しました。
けれど、男は艶然と笑みを浮かべて言ったのです。
「精霊使いだろうが、そうでなかろうが――【精霊の加護】を受けている人間は生かしておけない」
……ですよね、やっぱりそう言うと思ってました! 【精霊の加護】は勇者に関わりの深いものですから、そりゃ気に入らないでしょうね!
現に男の持つ気配は、さっきまでとは違っていました。面倒くさいけれど片付けておくか、みたいな雰囲気だったのに、今は殺る気満々に感じられます。
「違いますって言ってるでしょうが!」
私自身が【精霊の加護】持ちなわけじゃないのに、殺されてはゴメンです。
男は私の言葉に再び眉を上げました。
「【精霊の加護】を受けているのにかい?」
「そ、それは――」
私は口ごもりました。守護を受けている理由を、口にするわけにはいかないからです。男は、私が「勇者に求婚された女性」であるとはまだ気づいていません。
もし知られたら――今よりもっと状況が悪化するのは目に見えていますから! いえ、この状況も十分悪いですけどね!
「どっちにしろ、見逃してやるわけにはいかないね。大丈夫、俺は女性には優しいから、苦しませずに一発で殺してあげるよ」
そう言って笑う男の掌に、鶏の卵くらいの大きさの黒い球体が出現しました。
何が大丈夫ですか! どこが女性に優しいって!? 優しさを履き違えているぞ、魔族!
と心の中でツッコんでいる間に、男の掌の上の球体は、どんどん大きくなっていきます。すでにメロンくらいの大きさに育っています。その黒い何かを見ていると、背筋に冷たいものが走るのですが……
あれはヤバイです。何かわかりませんが、絶対にヤバイです。
「君一人だけ消したら、君を守護する精霊がうるさいんでね。シュワルゼの城にいる勇者とエルフに知らされても面倒だし。だから――その精霊ごと消えてもらうよ?」
スイカほどの大きさになった球体を手に、笑う魔族。
先ほどと同じ、ヒュンヒュンと空気を切り裂くような音がします。けれど、男はそのたびにヒョイッという感じで移動して、風の精霊の攻撃らしきものを避けるのでした。
……自然そのものである精霊ごと消す? そんなことが可能なのでしょうか。けれど、男はおそらく魔王配下の幹部。魔族の中では、魔王に次ぐ力を持つ存在。
その掌の黒い球体が放つ禍々しい雰囲気に圧倒され、私は魔族を見上げて、ぶるっと震えました。
……怖い。死にたくない。私は思わず小さくつぶやいていました。
「グリード様……助けて……!」
……左手の腕輪が、一瞬だけ熱くなった気がしました。
次の瞬間、目の前の地面が光を発して、そこに円をいくつも重ねたような形の魔法陣が描かれたのです。
その中から現れたのは――淡く光る金の髪を持つ美丈夫。
「何……だと?」
黒い球体を手にしたまま、魔族が驚愕して目を見開きました。
「まさか……勇者!?」
いつものラフな白いシャツ姿に、聖剣を佩いた勇者グリード様が、移動の魔法陣が放つ光をまといながら、私の前に立っていました。
「グリード様!」
見慣れた後ろ姿を認めた瞬間、私の全身にどっと安堵の波が押し寄せました。ああ、もう大丈夫だと、そう強く感じたのです。不覚にも、目にじわりと涙が浮かびました。
そんな私に、視線は空に浮く魔族に向けたまま、グリード様が言います。
「アーリア、下がっていてください」
「は、はい」
その言葉通り、私は数歩後ろに下がりました。
「勇者? なぜ勇者がここに……?」
黒い球体を手にした魔族が、赤い目を大きく見開きグリード様を見下ろします。次いで、その視線がグリード様の背に庇われた私に移り、そして再びグリード様へ――
すると突然、はじかれたように魔族は嗤い出しました。
「アハハハ! なるほど、なるほどね! 道理で精霊がそのお嬢さんを護ってるわけだ。そうか、君が勇者のお相手か」
私はうっ、となりました。どうやら、私が勇者の(不本意ながら)婚約者であることがバレてしまったようです。ああ、バレて欲しくなかった……!
「新聞を読んで、勇者が求婚したことは知っていたんだが……。相手が誰なのか、今までわからずにいたんだ。斥候を放っても、城には何百人と女がいるからね。これといった特徴のない『勇者の想い人』を見つけることはできなかったんだが……やっとわかったよ」
その言葉と、魔族の目に浮かんだ色に、私はぞっとして身を震わせました。これまでよりずっと強い殺意を感じたからです。
ピンチを抜けたと思ったとたん、別のピンチに陥ってしまったようです。魔王を倒された幹部が勇者に恨みを持たないわけがなく、復讐するなら婚約者である私に目を留めないはずはありませんから!
このモブ顔のおかげで、記者どころか魔族にすら認知されずに済んでいたようですが……今この瞬間から、私は彼らにとってその他大勢ではなくなったのです。
ああああ、でもそれよりどうしても気になって、言いたいことが……!
「『勇者タイムズ』を読んでいるんですか? それは魔族としてどうかと思うのですが!」
おっと、つい口に出してしまいました! だ、だってとても気になるじゃないですか! どこで買うんだとか、もしかして定期購読しているのかとか、あの号外をどこで手に入れたんだとか!
だけど、一番言いたいのは、これですよ、これ。
――魔族が『勇者タイムズ』読むなよ……!
これに尽きます。……ですが、私のツッコミはスルーされたようです。
「計画とは違うが、思わぬ収穫を得た」
魔族は目を細め、にやりと嫌な笑いを浮かべました。
その時、ずっと黙ったまま魔族を見上げていたグリード様が口を開きました。
「魔王グライディオスが配下、青ことジラルディエールか……」
淡々と告げた名は、今まで聞いたことがない響きのものでした。
――魔王グライディオス。おそらく、あのマッチョ魔王の名前――真名でしょう。
魔族にとって、名前は単に個を区別するためのものではなく、自身の存在に直結している大事なもの。それゆえ、滅多に名乗ったりはしません。だから、誰も魔王の名前は知りませんでした。
魔族の真名はそれ自体が魔力を帯びていて、その魔力に耐えられない者が口にすれば、死に至ることもあるのだとか。魔王の名なら、なおさらでしょう。
私たち人間は、魔王が生きている間は魔王とのみ呼びます。そして魔王が勇者によって倒されてから初めてその名を知り、口にすることが出来るようになるのです。魔族の幹部についても然りです。ただ、幹部は複数いるため、彼らの持つ色にちなんだ呼び名で呼んでいます。
グリード様が口にしたアズール――青を意味する言葉――がこの幹部の呼び名なのでしょう。髪の色が群青色だからかもしれません。そして、その後にグリード様が口にしたのはもしかして、この魔族の……?
私が抱いた疑問に答えるかのように、魔族――アズールが言いました。
「ご明答。真名まで探るとは、さすが勇者。その上、真名の持つ魔力に晒されてもびくともしないのだな。だが――」
彼の顔から急に笑みが消え、氷のように冷たく静かな怒りが表れました。
「勇者とはいえ、人間ごときに魔王様の真名を口にしてもらいたくないね」
「すでに存在しない者の名だ」
アズールの怒りにまったく動じることなく、グリード様は言いました。それはもう淡々と。
「現に今、その名を口にしても魔力の残滓すら感じられない――魔王はすでにこの世に存在しないんです。それは、魔王と特殊な繋がりのあるお前たちが一番よくわかっているはず」
私は思わず「ひぃ」と悲鳴をあげました。
グ、グリード様、それはちょっと言いすぎですよ! もしかしてわざとですか? どう考えても挑発しているとしか思えませんが。
案の定、アズールの怒りの気配が濃くなりました。さっきまでの余裕は消え、端整な顔立ちを歪ませて、グリード様を睨みつけます。
「おのれ、勇者……。魔王様を愚弄するとは……!」
ああ、やっぱりそう思いますよね。
アズールのその怒りに呼応するように、掌の上の黒い球体が大きくなりました。それは一気に膨れ上がり――人一人を簡単に呑み込めるくらいのサイズになったそれを、アズールは私たちに向けて放ったのでした。
「!」
私が息を呑むと同時に、グリード様が動きました。
一歩前に出たかと思うと、目にも留まらぬ速さで聖剣に手を掛け、抜きざまにその球体を一刀両断したのです。
目にも留まらぬというのは、決して比喩ではありません。本当に見えなかったんです。私に見えたのは、聖剣が発する光の軌道――その残滓のみでした。
球体の黒色を背景に、光が弧を描いたかと思ったら、球体は真っ二つになって左右に分かれました。そして、ぶぉぉんと空気を震わすような音を出し、霧散してしまったのです。
そして、その消失が完了する間もなく、グリード様は再び動き出しました。
抜き身の聖剣を手にしたまま地面を蹴り、空に躍り上がって――次の瞬間には、アズールの目の前に迫っていたのです。
「なっ……!」
私もびっくりしましたが、アズールの方が驚いたでしょう。一瞬で間合いを詰められたのですから。その赤い目が大きく見開かれました。
そのまま剣を振り下ろすグリード様。アズールは斬り裂かれ、球体と同じ運命を辿るかのように思われました。
「くっ……!」
ザシュッという、肉を斬る嫌な音が聞こえました。そして、私に目に映ったのは切り離された――腕。
うっ、と怯む私の前でその腕は空を舞い、黒い球体と同じようにたちまち霧散しました。
アズールが人間だったら、間違いなくその身体は真っ二つに裂かれていたと思います。それほどすばやい一撃でした。
けれど、さすがは魔族の幹部。間一髪、後ろに飛び退いたのです。ですが完全には回避できず、左腕の肘から先を失うことになったのでした。
頬の傷と同じく血は出ていません。やはり痛みも感じていないようです。アズールは傷口を気にする様子もなく、眉をひそめて言いました。
「その速さと力……。まったく人間離れしているな、今代の勇者は。さすが歴代最強と謳われるだけはある」
ちょ、魔族にまで人外認定されてますよ、グリード様!
ですが、当のグリード様はその言葉を聞いていないようで、目を細めてつぶやきました。
「魔力の値がほとんど変わらない……。左腕に核はなかったということか。ルファーガがいれば面倒はないんですが」
二人ともおのおの勝手にしゃべっているだけで、会話が成り立っておりません。そのやり取りを下で聞いていた私は、なんだかなぁと思いました。
とりあえず、人の話はちゃんと聞きましょうね、グリード様。相手は人ではないけれども!
……という教育的指導は後に回し、私はグリード様の発言について考えました。
どうしてルファーガ様の名前が出たのかわかりませんが、それ以外は何となくわかります。
魔族とは、魔力の核が衣をまとっているようなもの。魔獣は核を一個しか持っていませんが、人型の魔族は核を複数持つのが当たり前だとか。しかし、身体のどこに核を持つかは個々で違うらしいのです。
グリード様は【分析】のスキルで敵のステータスを見ることができますから、左腕を失ってもアズールの魔力の値が変わらないので、左腕に核はなかったと判断したのでしょう。もし核を失ったら、魔力はがっつり減るはずですから。
アズールはちょっぴり存在を忘れられていたノーウェン君を、ちらりと見下ろして言いました。
「残念ながら、計画は中止かな。勇者が出てきちゃあねぇ。下手に警戒されても困るし。まぁ、思いがけない収穫があったから良しと……」
撤退の意思が感じられるアズールの言葉は、途中で切れました。
言い終わる前にグリード様が再び間合いを詰め、剣で薙いだからです。
「……っ!」
間一髪逃れて、大きく後ろに跳躍するアズール。
彼に切っ先を向け、グリード様は淡々と言いました。
「彼女の存在を知られたからには、生かしておくことはできません」
と妙に悪役くさい台詞を吐いた後、またすぐアズールに迫るグリード様。けれどその剣が届く前に、アズールはフッと消え、離れた場所に現れます。
それを移動の魔法を使って追いかけ、斬りかかるグリード様。今度は避けるのが間に合わず、アズールの左の太ももがザックリと切り裂かれました。
消えては現れるアズール、それを追うグリード様。その繰り返しです。
二人の動きを目で追う私は非常に大変です! 私の動体視力を試しているとしか思えません。
それでも、私にはグリード様が本気を出していないのがわかりました。
応援ありがとうございます!
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