「チェアマン」川淵三郎の知られざる一面 サッカー、なでしこ、バスケットボール、変革を続けた日本の平成スポーツ史の裏側 『キャプテン!日本のスポーツ界を変えた男の全仕事』(川淵三郎著)

2024.03.01 Wedge ONLINE

計算づくの「開会宣言」

 93年5月15日、東京・国立競技場で記念すべきJリーグの開幕戦、ヴェルディ川崎対横浜マリノスの試合が午後7時30分キックオフのナイターで行われた。その前日、東京地方は終日、強い雨に襲われた。

 「明日、無事に開幕セレモニーが行われるだろうか」。何事にも強気の川淵だが、この時ばかりは不安になったという。当日、午前4時には目が覚めてしまい、祈る思いで外を見ると快晴。<あぁ、よかった、と本当にほっとして、いつもよりずっと早く、愛犬のゴローを連れて散歩に出かけた時の嬉しさったらありませんでした>(50~51頁)

 開幕試合をナイターにしたのは、青々と輝く芝を最高の舞台にし、そこにスポットライトを当てる“劇場効果”を狙った仕掛けだったという。「開会宣言」も川淵らしく、考え抜かれた言葉だった。

 「開会宣言。 スポーツを愛する多くのファンの皆さまに支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かって、その第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」

 <冒頭をサッカーではなく、スポーツを愛する皆さま、とした理由は言うまでもありません。サッカーのプロリーグの誕生は、サッカーのためだけではなく、スポーツ界全体を豊かにするためである、という強い理念を、皆さんに伝えたかったのです>(55頁)。宣言はわずか30秒に収められた。のちのち、資料映像として取り上げられる際、長すぎてカットされないよう、計算づくで短くしたという。

「0.0001%」からの逆転

 新たに発足したリーグには10チームが参加した。90年に日本サッカー協会がプロリーグへの参加の意思があるかを調査したところ、20団体が手を挙げたという。そこからヒアリングを通じて10チームに絞り込んでいったのだが、いまも語り草となっている「奇跡の滑り込み」が鹿島アントラーズだ。

 母体企業は住友金属(現日本製鉄)で、ホームタウンは茨城県鹿島町(現鹿嶋市)。チームはJSL(日本サッカーリーグ)の2部で天皇杯の優勝経験もない。町の人口も約4万5000人ほどで、他の候補地とは大きく見劣りしていた。

 ヒアリングの際、川淵は「99.9999%、(選ばれる)可能性はありません」と鹿島関係者に伝えた。だが、鹿島の関係者の一人は、こう言って食い下がった。「可能性は0ではないのですね。残る0.0001%は何ですか?」。

 川淵は苦し紛れに、こう答えた。「観客席に屋根をつけ、椅子も独立式で1万5000人を収容できる日本初のサッカー専用スタジアムでも造ってくれるんだったら考えますよ」。これで諦めてくれるだろうと思っていたら、数日後、鹿島関係者が川淵の元を訪ねてきた。「県知事の許可が下りました。屋根付きのサッカー専用スタジアムを作ります」

 鹿島アントラーズは10チームの中に滑り込み、日本初のサッカー専用スタジアム「茨城県立カシマサッカースタジアム」はJリーグ開幕の11日前に完成。5月16日の名古屋グランパスとの開幕戦ではジーコのハットトリックの活躍もあって快勝。町民一体となった応援もあり、見事にJリーグ初代王者になった。

「独裁者」VS「読売のドン」論争

 Jリーグ元年、93年には180試合が行われ、1試合平均の入場者数は1万7976人で、JSL時代の4.5倍になった。クラブの平均収入も予想をはるかに上回る25億円に達した。

 上々の好スタートを切ったJリーグは、それまで「独り勝ち」だったプロ野球を刺激する形にもなった。チーム名を地域名と愛称にして企業の名前を消し、テレビの放映権をリーグ管理としたのもプロ野球を「反面教師」として生まれた施策だ。入場者数を実数で発表したのも、概数でしか発表していなかった、当時のプロ野球への挑戦に映った。