「チェアマン」川淵三郎の知られざる一面 サッカー、なでしこ、バスケットボール、変革を続けた日本の平成スポーツ史の裏側 『キャプテン!日本のスポーツ界を変えた男の全仕事』(川淵三郎著)

2024.03.01 Wedge ONLINE

 前半22分、日本はDF秋田豊のゴールで1点先制したが、後半のロスタイム寸前、同点に追いつかれた。これで1勝2分け1敗。勝ち点は「4」で、韓国の「12」はおろか、アラブ首長国連邦(UAE)の「7」にも差をつけられた。

 その晩、アルマトイのホテルに日本からの報道陣を呼び集め、日本サッカー協会会長の長沼健は加茂監督の更迭、コーチの岡田武史の監督就任を発表した。川淵は強化責任者として長沼に更迭を進言していた。

 <加茂を更迭し、クラブでの監督経験もない、まだ41歳の岡田コーチを監督に昇格させましたが、彼は「自分は加茂さんに呼んでもらったのだから監督なんて絶対にできません。一緒に辞めます」と譲らない。早大のサッカー部で、岡田を古川電工に引っ張った経緯もあったので、会社の上司みたいに、「できないじゃないんだ、やるんだ!」と無理に説得し続け、しぶしぶ受けてもらった。>(128頁)と、電撃的な加茂解任劇を振り返る。

 この荒療治が効いて、日本はアジア3チーム目のW杯切符を手にした。フランス大会は3戦全敗に終わったが、02年の日韓共催大会では初の勝ち点、初の勝利、さらに初の決勝トーナメント進出と、初物尽くしで実績を残し、その後のW杯連続出場へと道をつなげた。

交通費前借りで始まった「なでしこ」強化

 女子サッカーの躍進も川淵の功績の一つ言っていいだろう。川淵が日本サッカー協会のキャプテン(会長)に就任した翌03年、米国で開催された女子のW杯を視察した。日本選手団を宿舎で激励した際、選手たちに、「この際、問題や要望があれば聞かせてほしい」と話しかけた。

 <みな、遠慮してシーンとしている。そんな中、1人が勇気を出して、何を言ってもいいんですかと言ったので、何でもいいよと促すと、「合宿に行くとき、交通費の前借りができないでしょうか。やりくりがとても厳しいので、せめて前借りさせてもらえませんか?」と遠慮がちに発言してくれました。エーッ、そんなにお金に困っているの?と驚きました。女子代表であっても、選手それぞれ、家族や職場の方々の支援によってこれまで、踏ん張ってきたのだと胸が締め付けられる思いでした>(181頁)。交通費の前借りだけでなく、日当を出すことなど改善を約束した。

 「なでしこジャパン」の愛称がつけられたのは04年のことだ。アテネ五輪の出場を決めたら公募により愛称をつけると約束し、日本女子は見事に五輪切符を獲得した。

 「なでしこジャパン」が世界一に上り詰めたのは11年の女子W杯。その年、「なでしこジャパン」は流行語大賞に選ばれた。これ以来、サッカー以外の女子スポーツでも〇〇ジャパンが次々と誕生した。

バスケ改革も「選手ファースト」で

 サッカーのプロ化という大仕事を達成した川淵が、次に取り組んだのはバスケットボールの組織的な立て直しだった。日本国内の男子トップリーグは、05年に新興の「bjリーグ」が旗揚げして以来、二つの組織が並立した状態が続いていた。

 国際統括団体であるFIBAは、16年のリオ五輪を前に、①両団体の組織統合、②両リーグのチームの統合、③男女代表の強化体制の確立――の3点を求め、15年6月までに実現できなければ五輪を含む国際大会からの除外などの制裁を科すと通告していた。

 男子は1976年モントリオール五輪以降、五輪出場を逃しており、制裁があろうとなかろうと、五輪切符は遠い存在に思えたが、女子はそうはいかない。04年アテネ五輪以来の五輪出場を目指し、13年アジア選手権で中国を倒してアジア女王になり、五輪切符が目の前にあった。それだけに「制裁」が重くのしかかろうとしていた。