
映画「鹿の国」はこちらをじっと見つめる鹿の瞳が長く心にとどまる作品だ。中世の儀式を再現した少年たちの映像も美しいのだが、どういうわけか、見終わって劇場を出ると、鹿とともに森をさまよい歩いたような爽快さ、残り香を感じる(以下、敬称略)。
監督、弘理子に話を聞くと、彼女自身、4年越しの撮影の中で、鹿へのこだわりが段々と強まっていったそうだ。
「最初は(長野県の)諏訪に伝わる(幾つもの)神事をただ撮っていて、個々に面白いものもあるんですけど、それをひたすら並べても作品にはならないと思ったんです。やっていることは供物を捧げて祝詞をあげてと、そんなに変わらなく見えたんですね」
それに、現代的なものがいろいろと映り込み、「神様」「見えないもの」の気配を薄めてしまう印象もある。
「初めのころは『諏訪信仰、精霊・神・仏』みたいな、固いタイトルで、やっていてもワクワクしないんです。やっぱり神事で、生首が神前に捧げられる鹿って何だろうって思うようになってきて」
撮影後半の2年は、8人もの撮影スタッフに、弘が過去に野生動物や山岳撮影でタッグを組んだカメラマン、毛利立夫を誘い、獣道をたどって鹿を探すようになる。
長年、諏訪信仰の研究を続けてきた北村皆雄は、監督の弘が<これほど鹿に固執して作るとは、プロデューサーの僕自身も思いもよらなかった>と振り返る(「鹿の国」公式ガイドブック、以下引用は同)。
中世諏訪神社の一年間の神事を記した「年内神事次第旧記」に「鹿なくてハ御神事ハすべからず」という言葉が残されている。実際、この地では毎年4月15日の「御頭祭(おんとうさい)」で何体もの鹿の生首を豊作のための供物として神に捧げてきた。
「でもその理由は書いてないんです。これまで民俗学の記録映画をつくってきた北村プロデューサーは、人間と儀礼、人間と祭りがテーマなんですが、私は毛利さんとNHKの『ワイルドライフ』を撮ってきたように、人よりも自然が先に立つんです。人や儀礼が入ることもあるんですが、やっぱり風土が関わらないと私自身が面白くないなっていうのがずっとあったんです」
諏訪信仰の研究者は多い。「神仏集合など歴史の話に詳しい人は本当に一杯いるんですけど、自然に視線を向ける人が意外にいなかったんです。なんでだろうと思っていたら違うものが見えてきて、自分は彼らのような学者ではないから、そっちからアプローチしようと」
<人里離れた山をひとりで歩いていると静かな緊張感に包まれ、感覚が鋭敏になっていく。頬をなでる風の冷たさ、何かがそっと歩く音、濃厚な獣の臭い。暗い森の中で一筋の光の中に立つ鹿に出会うと、私たちが持ち得ない“素の命”のようなものを憶えずにはいられない>。優れた書き手でもある弘の言葉だ。
「よく『自然が巡る』とか『命の循環』と言葉でわかっているつもりになっていたんですけど、“素の命”を感じる中で、人間を軸にしたドキュメンタリーにはしたくはないと思ったんです。じゃあ何にするかといったら、四季しかないと思って、その瞬間、季節の移り変わりを体感したんです。鹿の体も角も肌の斑点も毛も、季節とともに見事に変わっていく。そんな変化の中に私たちもいるんだと実感して」