「どんな本を読むべきか」と問う人の深刻な問題

実は私も「順位をつけるため」の勉強が嫌いで、そういうものに対しては子供の頃からすごく反発心がありました。「学ぶ」ということはこんなに楽しいのに、「勉強」というのはなぜこんなにつまらないのだろうかと。

ですから、例えば私は大学受験の社会の選択科目として日本史を取っていたのですが、当時の大学入試には明治維新以降の日本の近代史は出ないのがわかっていながら、好きな近代史ばかり勉強していました。

つまらない受験勉強の息抜きに、日本の近代史を勉強していたという感じでしょうか。学問という観点からは、何かとてもおかしな話ではありますが。

いずれにしても、そのような経緯で、私自身は勉強は好きではなかったのですが、読書は嫌いにはなりませんでした。

それではなぜ、「本を読まないともったいない」のでしょうか。

最近は売らんがために書かれた、本当に本人が書いているのかどうかも怪しい本がたくさん出ていますが、もし一度でも真剣に本を書いたことがある方なら、そこに費やされている膨大なエネルギーと時間について理解していただけると思います。

本ほど安価で価値の高いものはない

本1冊の文字数は大体10万字から15万字位です。それを半年から1年位かけて執筆します。『読書大全』の場合は40万字以上ありますので、新型コロナ禍の中で軽井沢の自宅にこもって10カ月かけて書き上げました。

学術論文などもそうですが、これが自分の名前で世に出て人目に触れるとなると、非常に精神エネルギーを消耗します。参考文献の引用などもきちんとやらないといけないので、かなり体力勝負の面もあります。

膨大な時間とエネルギーをかけて、自分の知識と体験を他人に理解できるようにきちんとまとめ上げたものが本なのです。

それが1冊1000円から2000円程度で手に入るというのですから、ある意味でそれは奇跡とでも呼べるようなことです。

1冊の本で自分が伝えたかったことを、物理的な会話の中で誰かに、しかも何千、何万という人に伝えようと思ったら、それこそ計り知れないほどの手間がかかると思います。

逆もまた然りです。自分から著者の話を聞きたいといくら願ったところで、それが実際にかなう可能性はほとんどないでしょう。

しかも、それが言語が違う異国の著者であれば、通訳を入れなければ会話が成立しないばかりか、面談をセットすることもままならないでしょう。

本を通してであれば、これが容易にかなうだけでなく、すでにこの世にはいない著者との会話も可能なのです。

あたかもその著者が目の前で自分に語りかけてくれるかのように会話することができます。しかも、いつでも好きな時に。

「歴史は繰り返さないが韻を踏む」というのは、作家のマーク・トウェインの言葉だと言われています。歴史上まったく同じことは起こらないが、歴史には一定のパターンがあるということです。

これは個々の人間についても言えることで、私たち人間は、古来から同じような喜びや悲しみや幸せや悩みを抱えて生きてきました。

人類誕生以来、累計で1000億人を超える人間が生きてきたと推計されていますが、そうしたたくさんの人生が、過去数千年の本の歴史の中に凝縮されています。

そうした本を読んでみると、自分が今抱えている悩みと古代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスの悩みが少しも違わないこともわかってきます。だからこそ、本を読む意味があるのです。

私たちには、その生き方が参考になる素晴らしい人生の先達がたくさんいるのです。

本は「どこでもドア」のようなもの

ただ、問題なのはあまりにも世の中に出回っている本が多過ぎて、いったいどれを読んだらいいかがわからないということです。